破壊

 この数か月で、僕の生活は嵐のように変わってしまった。あんなに付き合いの長かった智とは口も聞かなくなり、恋仲だった純香とは事実上破局、家族とは目も合わせない。それぞれ理由となる出来事はあったにせよ、そのどれもが、自分の過失だったと認めざるを得まい。
 しかし、今更何ができるだろうか。後には引けなくなっていたし、戻る気も無い。
 僕は、世間一般的に「不良」と言われる人間になってしまったらしい。
 最近になって、初めて「不良」という言葉について考えてみた、すると、どうにも難解なのだ。気づかないだろうか。この「不良」というのは、良い事をしないという意味だが、それでは良い事、すなわち善行とは、どこに定められているのだろうか。
 まず僕が思いついたのは、この国の法律に則っているか、そうでないか、ということだ。しかしこれだとおかしい。僕は、自分の事を「不良」だと噂する声も耳にしたことがある。そうすると僕は犯罪者ということになるはずなのだが、法は犯した覚えが無い。
 ならば、「常識」だろうか。善の常識、ということはつまり、「道徳」ということだろうか。
 みなさんの中にも「道徳」という言葉から、善を想像する人も多いだろう。しかし、考えてみてほしい。例えば、家の収入だとか、人間関係といった周りの環境など、自分に関わる様々な要因で、常識は人それぞれ変わるのではないだろうか。つまり、道徳なんて概念は、十人十色で、定まった決まりは無い。
 人によって変わる道徳が規準となっているのでは、比べようも無いではないかと、つまらん概念に反抗しながら、僕は僕自身をどう正当化しようか考えていた。
 しかし、良い考えなんて浮かぶはずも無く、僕はそのうち言い訳を考えるのを辞めた。

 冬になり、客が少なくなってもなお、僕はミヨサカに通い続けた。そのうち、僕がここを心地よいと感じるのは何故か、少し分かってきた気がする。
 そして学校では、孤独をより極めていった。元々智くらいとしか話していなかったので、一日何も言葉を発さないという日も珍しくなくなった。つまらない時間であったが、行かないと余計に家族と話さなければならなくなるから、仕方なく学校へは休まず通っていた。
「あいつ、ここ最近様子変だよな」
「なんか、やくざと関わっているとか、夜遊びが激しいとか、色んな噂が流れているな」
 こんな陰口も、聞きなれたものだ。
 しかし、懐かしい声が、その会話に入った。
「おいそこ、何言ってんだ?」
 上から見下ろすようにそう言う智は、過去最高に機嫌が悪いように見えた。
「俺にも聞かせろよ。あいつがどうしたって?」
「いや、なんでも……」
 そう言って、二人の男子生徒は尻尾を巻いて逃げていった。
 智は、こちらをちらりと見た後、何も言わずに教室へ戻って行ってしまった。見てみると、純香となにやらこそこそと話をしていた。
 学校が終わり、放課後、そそくさと玄関へ行こうとすると、智に呼び止められた。
「おい、明信。またミヨサカに行く気か? いい加減辞めろよ、あそこのどこがいいんだよ。もっと前みたいに、近所でふらついて遊ぼうぜ」
 久しぶりに向かい合って話す智の顔は、心の底から心配しているのが見て取れた。笑顔を纏って話す姿には、悲しそうな目があった。本当は僕自身、自分が何をしたいのか、分からなくなってきていた。だが、智も分かっているだろうが、こんなに壊しておいて、今更穏便に元通りには、なれるはずが無かった。
「僕がどうしようと勝手だろ。退いてくれ」
 言葉にするのがとてもつらかった。うつむくと涙が出てきそうだったので、無理やり智を睨みつけた。改めて自分に失望した。
「待って、明信」
 打ち合わせでもしていたように、タイミングよく純香が来た。二人で話していたのは、僕を止めるためだったか。
「私、あなたの気も知らないで、色々付き合わせちゃってごめんなさい。明信が私をそんなに好きじゃないのは、気づいていたけど、毎日の楽しみが減ってしまうのが嫌で、関係を壊すのが怖くて、黙っていたの」
「違う、二人は何も……」
 本当に、二人は何も悪くないんだ。二人が僕を心配しているのは、十分知っている。しかしそれが、僕は耐えられない。僕を心配するなんて、二人は時間の無駄だと気づかないのだろうか。
 いや、違う。そんなことを言いたいわけではない。僕は、ただ、放っておいてほしいだけだ。二人の気持ちが、僕にとっては重荷で、悲しくて、申し訳なくて、いっそ、唾を吐いて貶してくれればどれほど楽だろう。
 純香の言う事には共鳴した。関係が崩れるのは、確かに、とても怖い事だろう。でも、その心配をするくらいならば、いっそ、自分から壊してしまえばいいんだよ。純香には、僕以外に興味を持ってほしい。僕がいるから、新しい出会いを無下にしてしまうことだってあったろうに、変わらず僕には笑いかけてくれるのだ。
「ごめん、二人とも、心配かけて。でもこれは、僕の望みなんだ。本当に、ごめん」
 そう言って二人を押しのけ、逃げるようにミヨサカへ向かった。

 僕は、ミヨサカにいると、心地よさを感じる。ここの空気は、とても濁っている。智には合わないだろうし、ああは言ったものの、実際慣れる事さえ難しいだろう。智には、そして純香には、澄みきった透明の空気が合う。
 僕がここにすぐに慣れたのは、きっと意味なんて無くて、なんとなく、その空間を体が気に入った、と言うのが良いかもしれない。

 ――――ガシャン
 横に痰が吐かれた、とても綺麗とは言い難い自動販売機で、お気に入りのジュースを買う。
 直後、後方から声が聞こえた。
「おい、坊主。その釣銭、俺にくれよ」
 ほんのりと顔が赤い、五十代と見える男が、みすぼらしい風貌を恥じることなく、真剣な表情でそこに立っていた。鈍い僕は、一瞬何を言われたか分からなくて、頭でリピートし、三度目くらいでようやく、これがカツアゲというやつなのではないか、と理解した。
「……はい、わかりました」
 面倒くさいのに巻き込まれたものだ、と男性を見下すような気持ちで釣銭を渡すと、それが伝わってしまったのか、男は僕の胸倉を掴み、唾を飛ばしながら、興奮した様子で、「馬鹿にしてんのか!」と叫んだ。いう通りにしても殴られるのなら、早々に逃げたら良かったかもしれない。
 僕が一瞬怯んだのをいいことに、その男は軽く僕を投げ飛ばし、一発腹に蹴りを入れ、僕の鞄をあさり始めた。一方僕は驚くほど冷静で、ポケットにあった携帯電話で、少しせき込みながら警察に連絡をした。男性は財布は鞄をあさるのに必死で、こちらの様子にはお構いなしだ。
「ミヨサカの駅です。三番出口の辺りで、五十代男性が少年に恐喝しています」
 警察から何か聞かれたが、答える前に切ってしまった。面倒なのだ。この後男性がどうなろうと、僕の財布がどうなろうと、僕には関係ない。家に戻れば貯金はある。近頃はゲームセンターでお金を使うことが少なくなっていたのだ。必死に探しても、男性が見つけるのはせいぜい二千円といったところだろう。
 気づかれる前に退散だ。まだ腹が痛む。やはり子供の喧嘩とは違って、大人の力は、威力がとてつもなく大きい。痛いと言うより、苦しかった。どこか折れていないか心配だったが、病院には行けないだろう。ボクサーは気合で血を止めると言うから、僕もそれに倣うことにしよう。目立った外傷が無いのが、不幸中の幸いだった。
 しばらくすると、男性は財布以外の金目のものは無いことに気づき、舌打ちをしてどこかへ走り去っていった。
 平凡な高校生なんかが、何か高価なものを持っているとでも思っていたのだろうか。だとしたら、とんだ思い違いだ。こんなところには、今では堕ちた人間しか来ないと言うのに、カツアゲなんて無駄な行為、何のためにするのだろう。
 腹痛が収まった後、比較的綺麗なベンチで横になった。恐らく足の遅い警察が、迷惑なほどにうるさいサイレンを響かせながら来ると思うから、それまで休憩だ。
 しかし疲れの所為か、眠ることができず、結局は思索にふけることになった。最近自分で気づいたのだが、どうやら自分には自殺願望があるらしいのだ。
 こんな暇なときには、よりよい自殺法を考案するのに限る。
 僕は、なにも生きるのが辛いだとか、病んで他人に心配をかけたいだとか、そんなことが目的ではない。死ぬこと、それ自体が目的に思えた。
 常人には理解しかねるだろうが、確かに今、ここにいる僕は、そうだと思った。しかし、心理を証明する技は持ち合わせていない。だから、こんな僕を笑ってくれても、馬鹿にしてくれても構わない。どうせ、誰にも言うことが無いだろうから、そんなことは端からどうでもいいのだ。
 最近考えた自殺法は、練炭と睡眠薬を使う、一般的に知られているものだ。浅い知識しか持たぬ僕は、やはり平凡な方法しか分からない。きっとこれからいくら考えても、それは変わらないだろう。
 そして今日は、新しい方法をまた思いついた。老人が多種の薬を飲んで事故死、というニュースと、オーバードーズを知り、それを応用させたものだ。単純に言うと、睡眠薬より手短にできる自殺だ。僕は未成年で、持病も無いため、睡眠薬などの強い薬を手に入れるのは容易いことではない。だから睡眠薬自殺は諦めていたのだが、これなら、多少苦しくても、睡眠薬自殺と同じようにできるのではないかと思ったのだ。
 様々な種類――精神安定剤、整腸剤、睡眠導入剤、頭痛薬など、できる限り異なる作用の薬を集める。
 それぞれ薬には致死量が定められているそうだが、数を調べて愕然とした。市販の薬では、何百錠も飲まなければそれに達しないものが多い。だが、多種を組み合わせると、それらが曖昧になるのか、思わぬ副作用が働くのか、事故で亡くなってしまう人がいるのだ。
 少量でも亡くなってしまうのなら、それを例えば百錠、二百錠と飲めば、確実とは言えないものの、自殺できるのではないだろうか。
 そこまで考えたところで、ようやくパトカーが来た音がした。ここら辺は治安が悪いと言うのに、警察署が遠いのだ。自治体にも見放されたということだろうか。
 事情聴取は面倒だと思い、警察があの男性を見つけるか、デマだと思って引き返すか、そのどちらかの展開を、物陰でじっと待つことにした。
「先輩、絶対もうやっこさん逃げてますって。……はあ、警察が治安を守るのは当然ですが、僕はこの町だけは、どうもきらいです。この町はほとんど無法地帯じゃないですか。警察が言ってはいけないとは分かってるんですが、この町の治安なんて、何をしても絶対良くなりませんよ」
 つまらなそうに道端の煙草のごみを蹴りながら、若い警察官は言った。
 続いて少し太った警察官が彼に言う。
「そうだなあ、ここはとても荒れていて、犯罪もほとんど野放しだ。俺がガキの頃は、やっと栄えてきたころで、活気にあふれていたのになあ。……なんだか、少し寂しいよ」
 若い警察官はあまり聞いていなかったようだった。
 数十分後、早くも警察は静かに去っていった。とかのパトカーで後から来た数人は、この辺りの悪臭に鼻を塞いでいたが、だらだら文句を垂れるばかりで、環境を変えようとはみじんも思っていないようだった。
 警察といえども、やはり町の安全の維持、或いは人が安心して住める町なんて、口先でしか求めていないものなのだろう。
 僕はそれをとがめるつもりは無い。実際不可能なのだ。誰もが安心して暮らせる町なんて存在しない。学校が良い例だ。学校には規則がある。しかし、やはり破るひとは破る。先生がいくら注意していても、それは変わらない。そして、罰があったとしても、女子はスカート丈を短くするし、男子は髪を染める。これは法律でも同じことがいえるだろう。
 規則でなくてもそうだ。例えばいじめ。これはやはり道徳的に良くないと言われるし、大多数はそれを理解している。それでもこれは止まない。多分、みんながみんな心が無いわけではなくて、
 静けさの戻ったミヨサカは、どこか元気が無いように見えた。唾を吐かれ、暴言が飛び交い、挙句人々から見放され、独りになってしまったのだ。いくら人が行き交っていても、ミヨサカの心には、二度と、温もりという名の付く何かが届くことは無いだろう。
 今日はもう帰ろう。暗くなってしまった。

 家の扉を開けた途端、罵声が飛んできた。
「何時だと思ってるんだ! いつも遅くまで、一体どこで何をしているんだ」
 父がとうとう堪忍袋の緒を切らしてしまったらしい。家に着いたのは、丁度十時だった。いつもよりは少し遅かったかもしれないが、今日は特別な用事があったのだ。疲れているし、できれば違う日にしてほしかった。まあそんなことを言った時には、僕はこの家に入れてもらうことすら難しくなるだろう。
「今日は少しトラブルに巻き込まれて、仕方が無かったんだ。ごめんなさい。もう、寝かせてほしいんだ」
「おい、そんなこと言って、どうせどこかで寄り道でもしていたんだろう。智君はどうしたんだ。最近見ないが、もしかして智君も一緒になって不良行為に現を抜かしているんじゃあないだろうな? 全く、近頃の高校生は――――」
 途中で、意識が遠くなるのを感じた。いつもは、夕飯はコンビニで済ませるのだが、今日は財布が無くて何も食べていない。最近は特に、家では何も食べず、昼と夜で、どちらもまともに食べていなかったから、一食無いだけで、結構体にはこたえるらしい。
 父が気づくのが一歩遅れ、僕は頭から床に倒れた。記憶はそこから無い。

   堕ちる

 目が覚めた時、僕は自分のベッドに横になって、隣には母と父がいた。僕を心配そうにのぞき込む両親に、どうしても、恐怖を感じずにはいられなかった。仮面だ。
「大丈夫か、明信。今日はもう休め。いつもしっかり食べていないからこんなことになるんだ」
 僕はそっぽを向いて答えた。
「もう大丈夫だよ。学校に行くから、退いてくれる」
 父の顔には、一瞬怒りが見えたが、母がそれを制止する。
「明信、今日は土曜日よ。学校も休みだから、今日くらい、家でゆっくりしたらどう?」
 家でくつろぐ、という奇妙な言葉、僕には良く分からなかった。家なんて、生き地獄だ。僕にとってくつろげる場所は、ミヨサカ以外には思いつかなかった。

 結局、僕は家を抜け出してきた。空気が重くて、耐えられなかった。
 でも、ミヨサカまで行く気には、どうしてもなれなかった。
 僕は前に智と言った、あの神社を思い出していた。あの時はそこまでで上るのを辞めたが、確か、山頂はもっと良い眺めだったはずだ。
 ――はあ、はあ……もう少し……。
 体力の限界が近づいてきたと思われる頃、やっと、目的地へたどり着いた。神社はなんだか近寄りがたくて、遠回りしてきたのが裏目に出たらしい。予想の二倍は時間が掛かった。
 けれど、後悔は無い。疲れ切っているからこそ、いつも以上に良く見えることだってある。
「こんな場所、あるなんて、知らなかった……」
 そこは、頃合いも良く、夕日が沈み、黄昏時であった。
 夕日の余韻に浸る空色は、少し寂しそうで、それでいてどこか希望もあって、その儚さがまた、僕の心に残る。
 橙と青の混ざり合った空を眺めて、僕は対照的に、絶望の中にいた。いや、良く言えば、明日への絶望、という名の勇気が、僕の中に芽生えた。
 こういう時、通俗的な者は皆、限りない高揚に包まれ、絶望とは程遠い楽園にいるかのような気分になるのだろう。少なくとも僕にとってその空は、広がる光景は、僕にそのような事を思わせるくらいには、素晴らしいものであった。
 けれども僕は、そのことを頭では理解しながらも、どうしてか心までは、世間と同期することができなかった。
 先に述べた絶望というのは、短絡的に表すのなら、自分の無力感、または、生命の意義の消失である。
 ――僕ができここにいるには、きっと何かの間違いなのだろう。いや、そうに違いないんだ。
 そこから僕が起こした行動は、傍から見れば、愚にもつかないものであっただろう。
 僕とて、それに何一つ気づかなかった訳では無いのだ。しかし、今まで家族が演じてきたものを思い返し、こうするのもまた一興であると思った。もちろん理解する者など期待していない。
 僕はいかにも知性人であるかのように、薬屋へ入った。
「母が精神を病んでしまい、自力で来られないので、代わりに僕が走ってきたのです」
 少し急いでいるように、早口に言う。そうして、事情を聞く隙を与えない。きっと僕は、とい詰められればすぐにぼろが出る。
 薬屋のお婆さんは、僕の慌て具合に、急いで薬の準備をしだした。いつもなら医者の処方箋などを確認するはずなのだが、今日は一杯一杯といった様子だ。
 ちなみに買う薬というのは、精神病に良く効くとされている、致死量の少ない、とても強い錠剤だ。
「はい、これね。お母さん、お大事にね」
「ありがとうございます。では、急ぎますので」
 お婆さんに礼を言い、家に急いで帰る素振りを見せ、速足で薬屋を後にする。
 しばらく歩き、薬屋から見える心配がなくなった時、とうとう足を止める。
 袋を覗く。トランキライザーが十二錠ほど入っているのを確認すると、途端に奇妙な達成感が僕を襲う。
 しかし、準備はこれだけで終わりではない。もっと必要なのだ。質ももちろん重要なのだが、量が圧倒的に足りない。
 たまに、老人が薬を飲んで死亡という痛ましい事故を見たことがあるだろう。あれは、七種類以上の薬を一度に飲むことで起こりやすい事故らしい。
 さらに、少年、少女の痛ましい自殺事件で、よく大量服薬を目にする。
 僕が何を言いたいか分かるだろうか。つまり、多種多量の薬を同時に服薬すれば、自殺の成功率が上がるのではないか、ということだ。
 けれども、根拠も予想も、科学的確証は一切ない。少なくとも、僕はそんなに熱心にこの事例を調べているとは言えない。
 ――せめて、もう三件ほど回らなければ。

 汗水流して歩き回り、ついに準備は整った。
 最終的に、あの土曜に最初に手に入れたトランキライザーを含め、種類は合計九つ、数は約百錠となった。
 さて、物はそろった。最後に必要なのは、やはり勇気。
 僕はこの勇気ってやつが、どうしても苦手だ。こいつは、土壇場によく裏切る。
 今回ばかりはちゃんとしてもらねば。こちらは命までかけているのだから。
 けれども反対に、もしかしたらその裏切りこそが僕の本心なのでは無いかと、思うことがある。僕は純香とこれ以上親しくなりたくないし、智とはもっと離れたいし、それに……死にたくない。
 いや、虚言だ。少なくとも最初の二つは、見苦しい言い訳だ。
 しかし最後の一つばかりは、僕は否定も肯定も出来ない。単純に経験が無いからだ。
 けれども今、僕は自身に、この最後の勇気を求めている。この勇気が出ないのは、人間の生存本能か、僕の深層心理か……。
 いずれにせよ、僕にはこの目の前にある錠剤を飲む義務がある。これは誰が何と言おうと、変わらぬ〝意志〟なのだ。
 今、僕はいつものように机に腰かけ、部屋の静けさと同期している。
 いつもと異なるのは、机の上の物がノートではなく、錠剤と水だということだ。
 ――大丈夫。これを飲んでしまえば、楽になる。
 これは僕の理性の声だ。本能は、恐らく僕の見えないところで、必死に抵抗しているのだろう。あたりまえだが。
 結局僕は、聞こえた理性の声に従って、目の前の錠剤を、数回に分けて飲み干した。

 数時間後、僕は珍しく昼食を食べる気になって、食卓に座っていた。居合わせたのは、母ただ一人。
 昼食は、母の手作りのハンバーグであった。聞くところによると、僕は昔、ずっと昔、好物はハンバーグだと豪語していたらしい。
「おいしい?」
「うん、とても」
 本心だった。久しく家族の手料理というものを食べていなかった僕にとって、それは通常以上のうまみを含んでいた。
 けれども僕の体は、少しずつ、そして着実に、死にゆこうとしていた。
 ――気持ちが悪い。
「ご馳走様」
「もういらないの? あと少し残ってるわよ」
「うん、本当に美味しかった。だけど、おなかいっぱいなんだ」
 適当な理由を言って、そそくさと部屋に戻る。

 気分が本格的に悪くなり、僕はベッドにもぐりこんでいた。
 自分の目の焦点が、だんだんと合わなくなってくる。そのうち手の硬直を感じてきた。
 そしてついに、呼吸まで苦しくなってきた。
 ――もうだめだろうな。
 完全に諦めた。何もかも。
 本当は、最期を家で過ごすのは嫌だと思い、色々考えていたのだ。神社、空き地、さらにはミヨサカまで。
 それなのに、結局僕は、最後の最後でここを選んでしまった。愛着がわいているのだろうか。実感は無いが、きっとそういうことなのだろう。

 何分、もしくは何時間経ったのか分からないが、既に自分の体は、意識していなければ呼吸ができないほどに衰弱していた。
 ――今寝てしまえば、確実に……。寂しい。
 とはいえ、体は衰弱し、もうこの意識も長く続かないであろうと思っていた。
 ――はあ……はあ……は……――――。

   記憶

 ――ここはどこだ。僕は今、どこに立っている?
 そこは、何もない、本当に、概念すら存在しえないようなところだ。不思議と、寂しさも、幸福も感じられないところだ。
 視覚も、聴覚も無いようで、僕は途方に暮れてしまった。
 ――僕は死んだんじゃないのか?
 死んだ先は、普通、意識すら無くなるか、もしくは地獄や天国なんて呼ばれるところに行くものだと思っていた。
 ――体は……ある。
 不思議なことに、地面なんて見えもしないが、どうやら僕は立っているらしい。
 僕はしゃがんで地面を触ろうとした。そう、〝触ろうとした〟のだ。
 地面には触れられなかった。というより、やはり地面というのは存在しないらしい。
 可笑しな話だ。存在しない地面の上に立つなんて経験、なかなかできるものではない。
 もう、半ばなげやりに、自分に納得させた。ここはそういうところなのだ、と。
 地面が無いから、見えない段差に躓くということは無く、反対に落ちることも無かった。地面を歩くと言うより、水中で足を動かしているような、妙な違和感があった。
 僕はいったん、ここがどこか、という問いはおいておくことにした。そうしなければ話が前に進まないだろう。
 冷静になって考える。僕は今どんな状態にあるのか?
 しかし、考えただけで分かるなんて、事がそううまく進むはずも無く、結局何も分からないままだ。

 実感で数時間が経った頃、妙な音をきいた。いや、ここは何も無い。それに先刻、自分の聴覚と呼べるものが無いと分かったばかりなのだ。
 けれどもその〝音〟は止まない。
 唐突に思いついた。これは〝音〟なんかじゃあない。僕の記憶、そうだな……この状況からして〝走馬灯〟と呼ばれるものなのだろう。
 だんだんとそれは、僕にも分かるほどの、はっきりと輪郭のあるものとなった。
 ――何故、僕はこれが見えるのだろう?〝走馬灯〟とは皆こんなものなのか……。
 視覚が無いのに、今、自分の記憶が見えているのが不思議だった。けれど、ここはもう、僕の知っている、物理法則の世界では無いのだろう。考えるだけ無駄なのかもしれない。これが終わったら、今度こそ僕は堕ちるんだろうなあ。
 目を開けている訳でもないのに見えるその記憶は、生きている間、あまり意識していなかった些末なものばかりだった。それゆえに、何だか他人の記憶を盗み見ているようで、少し楽しかった。
 新幹線が通るのが見える公園での記憶。砂利道での鬼ごっこの記憶。幼稚園の運動会で転んだ記憶……。
 小さい頃の記憶は、なんともほほえましい、成長の記録のように思い出された。
 ――ああ、あの時徒競走で最下位とって、泣いていたっけなあ。でも、そのあとの弁当の時間で、卵焼き食べてすぐ機嫌直したんだよな。
 思い出せば出すほど、その断片的な記憶が、鮮やかに色づいていく。それは、ほんの一瞬の記憶でさえも、隅から隅まで、ムラなく。
 やがて記憶の僕は小学生、中学生と大人になっていき、記憶も細かくなってきた。
 担任の先生が冗談を言って、皆が笑う記憶。掃除時間、バケツの水をこぼして智と一緒に片付ける記憶。中学校の入学式の帰り、満開の桜の木の下で智と昼寝をした記憶。冬の学校帰り、珍しく雪が降ってはしゃいでいる智と雪合戦をした記憶。ソフトボールの授業で、どんくさい僕がボールを取り逃してチームが負けてしまった記憶。智の家族と僕の家族でバーベキューに行った時、近くの小川で父と釣りをした記憶。晴樹と本気のゲーム対戦をして、運悪く負けてしまった記憶……。
 一々挙げていたらきりがないほど、多くの記憶を見た。
 この記憶を見ながら、僕は、最初は楽しく見ていたのに、今は胸が痛むのに気づいていた。決して悲しい記憶ばかりだった訳では無いのに。
 この感情は、後悔か、悲しみか……。いずれにせよ、負の感情であった。
 僕は耐えられなくなり、記憶の流れを止めようと努めた。だが、これは自分の意志で止められるほど、単純なものでは無いらしい。
 僕がいくら、止まれ、辞めてくれと心で叫んでも、記憶は止まらない。
 それから、記憶の僕は高校生になっていった。
 ここからの記憶は、なんとも、見るに堪えないものであった。
 今までの記憶では常に笑っていた母が、僕を不安そうな目で見つめる記憶。今までの記憶では間抜け面でゲームばかりやっていた晴樹が、僕を見て逃げるように部屋にゲーム機を持って行って閉じこもる記憶。今までの記憶では僕ら家族を温かい目で遠くから見守ってくれていた父が、僕を見るとすぐに怒鳴り散らす記憶。智も、純香も、僕から遠ざかる記憶……。
 懐かしむなんて到底できない記憶ばかりで、気分が悪くなった。
 唐突に、先刻の胸の痛みの原因が分かった。
 ――どうか、もとに戻してください! 僕を、家族の、友人のもとへ、一度でいいから、行かせてください!
 声の限り叫んだ。誰もいないなんてことは承知している。神様なんてやつも信じていない。
 ただ、それでも、どうしても戻りたくなった。
 失って初めてその大切さに気付くと言うが、死んで初めて分かることもあるのだ。
 いやもしかしたら、この〝走馬灯〟は、何者かが僕に犯した罪の重みを自覚させるための物だったのかもしれない。
 声にならない叫びを上げ、ただひたすらに祈る。たった一度でいいから、僕に機会をくれ、と。
 僕はなんてことをしてしまったのだろう。取り返しがつかないという言葉の意味を、死んではじめて実感した。
 家族は仮面なんて付けていなかったのだ。色眼鏡を付けていたのは、周りの人間ではなく、僕一人だったのだ。
 後悔の渦に飲み込まれ、おぼれてしまいそうになりながらも、僕は叫び続けた。
 ――このまま終わってしまう訳にはいかないんだ。僕はまだ、やり残したことがたくさんある!
 自業自得だと分かっているし、この願いもとても図々しいと思う。けれど、どれだけ恥をかいたとしても、僕は――――。

   帰還

 気が付くと僕は、家ではなく、病院のベッドに寝かされていた。僕の腕には、点滴の針が刺さっている。
 横には母が椅子に座りながら眠っていた。二、三日眠り続けていた僕の看病をしてくれていたのだろう。とても疲れた様子で、目の下にくっきりと隈ができていた。
 僕の気配に気づき、母が勢いよく起きた。
 母は大きなあくびの後、僕の姿を認めると、隈のある目から、大粒の涙を流しだした。僕の存在を確かめるように手を握り、何度も、何度も、お帰り、と声を絞り出す。
 そんな母に、僕は今、何ができるだろう。伝えたいことは山ほどあるのだ。
 けれども、両者とも混乱している中、あれこれ言葉を交わすのは難しい。
「ただいま。遅くなってごめんなさい」
 結局僕は、念願の帰還だと言うのに、このたった一言しかすぐに出てこなかった。

 母が父に連絡し、すぐに病院へ駆けつけた。
 怒られるか、もしかしたら殴られるかもしれないと思い、身構えていた僕は拍子抜けした。父は僕を見るなり、涙を流した。
 ここで僕は、家族の仮面が無くなっているのに気づいた。いや、無くなっている、というのは語弊がある。僕には〝感じられなく〟なっていた。色眼鏡が外れたらしい
 僕を見て、親不孝な僕を見て、それでもおかえりと言って泣いてくれる両親を見ていて、初めて僕は、「家族」というものが何なのか、そこにあるのがどんなものなのか、理解した。気づくのがもっと早ければ良かったのに
「そうだ、明信、お前の部屋を掃除していて見つけたんだが――勝手に部屋に入ったのは悪かった――このとんぼ玉のキーホルダー、本棚の下に入り込んでいたぞ」
 それは、僕があの温泉街で買った、朝顔のとんぼ玉だ。少し埃が付いているようだが、やはりそこにある神秘的な輝きは失われていなかった。
「明信、朝顔の花言葉は知っているか?」
「知らない」
「そうか……。朝顔の花言葉はな、『愛』だ」
 それを聞いて、改めて僕はそのキーホルダーを見た。カラフルに色が付けられたそのとんぼ玉は、自ら光を放っているかのように、煌々しい雰囲気を纏っているように見えた。

 それからしばらくして、学校が終わった、晴樹や、智、純香が、お菓子を持って見舞いに来てくれた。
「心配したぞ、明信。俺に相談してくれたって良かったじゃないか」
 必死に笑顔で話してくれる智に、僕は心から感謝した。
 ――僕を見放さないでいてくれて、ありがとう。
「本当に心配したんだよ。休んでいた間の勉強なら私が教えてあげるからね」
「うん、ありがとう、二人とも」
 それから二人と他愛もない話をした後、僕を無理させるといけないと言って、帰っていった。
 僕は、なぜだか無性に、恥ずかしくなった。
 なぜもっと、周りを良く見なかったのだろう。僕の周りには、こんなにも、僕を見てくれている人がいたのに。
 ――僕は、幸せ者だ。
 家族が仮面をつけているのなら、僕も同じようにつけてしまえばいいのさ。この仮面だって着け心地はそう悪くないだろう――――。