日曜日、私は、弾む足取りで駅前の書店に向かった。
 店に着き、店内に入ると、すぐ目の前に霧島悠の新刊が山積みされていた。
 さっそく一冊手に取り、レジで会計をする。書店員が「催事コーナーでサイン会が行われています」と言って、整理券を渡してくれた。
 購入したての本を持って催事コーナーへと行くと、もうすでに十人ほどの列ができていた。書店員が列のそばに立っていたので「これがサイン会の列ですか?」と聞くと、「そうです。どうぞお並び下さい」と案内をされた。
 列の先には長テーブルが置いてあり、男の人が座っている。サインを書いてもらっているお客さんと姿がかぶっていて、どんな人なのかはよく見えない。
(あの人が霧島悠なのかな? 若そうな雰囲気……)
 とりあえず、大人しく列に並んでおこうと、私は最後尾についた。
 順番を待っているうちに、後ろにどんどん人が増えて行く。途中で、書店員が「申し訳ありませんが、サイン会は定員になりました」と断っている声が聞こえて来た。
(早く来て良かった!)
 ほっと胸を撫で下ろしているうち、いつの間にか、私は、前から三人目になっていた。列から顔を出せば、霧島悠の顔が見える距離だ。
 前の人の後ろから少し斜めにずれて正面に目を向ける。霧島悠の姿を見て、私は息を飲んだ。
(わ、イケメン! しかも若い!)
 ファンにサインをして微笑んでいるのは、私と同い年ぐらいの少年だった。
 髪は全体的に、きっちりしすぎない程度にセットされていて、前髪は横に流している。目元は涼やかで、理知的な雰囲気が漂っていた。白いシャツにネイビーのジャケットを羽織り、緑色のニットタイを結んでいる。
 私は彼の姿になぜか既視感を覚え、首を傾げた。
 霧島悠に会うのは初めてなのに、どこかで会ったことがあるような気がする。
(うーん……?)
 考え込んでいるうちに、私の順番が来た。
 出版社の人だろうか。スーツを着た男性に「お次の方、どうぞ」と促され、私は霧島悠の前に立った。
「あ、あの、こんにちは。大ファンです! これ、お願いします!」
 緊張で、カチコチになりながら、先程買ったばかりの本を差し出し、深々と頭を下げる。すると、霧島悠は、そんな私の姿が面白かったのか、ふっと小さく笑った。
「……応援、ありがとうございます」
 静かな声でお礼を言われ「んんっ?」と思った。顔を見ずに声だけを聞くと――。
 私は、ぱっと頭を上げると、霧島悠の顔をまじまじと見つめた。涼やかな瞳は見覚えがある。普段は黒ぶちのメガネの奥に隠されているけれど、この瞳は確かに彼のものだ。よく見れば、輪郭だって唇だってそっくりだ。
「梶君……?」
 私はおずおずとその名前を口にした。
 本の中表紙にすらすらとペンを走らせていた霧島悠の手が止まる。
「梶君、だよね?」
 そっと問いかけたら、霧島悠はゆっくりと顔を上げて私を見た。少し困った表情をしている。
 書きかけのサインを素早く仕上げると、霧島悠は私に本を差し出した。人差し指を自分の唇にあてる。どうやら、霧島悠は本当に梶君で、この場ではこれ以上聞かないでくれ、ということのようだ。
 私は無言で軽く頷いた後、「ありがとうございます」と言って、その場を離れた。
 梶君にサインを書いてもらった本を胸に抱きながら、書店を出る。憧れの霧島悠が梶君だったという事実に呆然としながら、道を歩く。
(私が霧島悠の話をした時、少し嫌そうにしてたのって、自分のことだったからなんだ。サイン会に行くのを止めようとしたのも、自分が霧島悠だって、バレたくなかったからなのかな……)
 以前交わした梶君との会話が、頭の中をぐるぐると回る。そして、
(梶君、自分がプロ作家だってこと、学校では隠してるんだ)
 と気が付いた。
(どうしてなのかな。騒がれたくないから? 恥ずかしいから?)
 けれど梶君は「小説を書くのって、大変なことだよ。自分の心の中をさらけ出していくんだから。それでも、伝えたいことがあるから、書くんだ。書きたいという衝動が起こるから、やめられないんだ」と言っていた。
(私は、梶君のことをあんまり知らなかったんだな……)
 彼の過去も、現在も、私はよく知らない。
 足を止めて、私は空を見上げた。空の中に、一筋の飛行機雲が浮いている。それを眺めながら「もっと梶君のことを知りたいな」と思った。