2-2 成熟
皆からはよく、三尾雫は移り気であると揶揄される。
それまで興味を持って熱心に取り組んでいた事柄に対して、或る日突然、興味を無くしてしまう。そうしてすぐ別のものに熱中し、のめり込む。それの繰り返しだった。それは、彼女の生活習慣や勉強スタイルに影響している。他人からはそう見えるらしい。
けれど雫本人からすれば、そんなことはない。それまで対象に持っていた興味の度合いはそのままに、新たな『好き』が増えていく。それが、雫の行動理念であり、価値観だ。
だから異性と接している時も、友好という愛情が蓄積するし、新しく仲良くなりたいと思った相手には自分から積極的に関わっていく。何故かクラスメイトは男女を問わず、それを不誠実だと捉えるのだが、雫から言わせれば、その価値観こそが理解出来なかった。雫が異性と仲良くしているということは、他人から見て友人以上の関係であるように見えるらしい。故に男子は勝手に勝手に、そしていつの間にか自分を好きになり、特に何もしていないのに勝手に向こうから傷付き、離れていく。
好きなものを増やしていくという、ポジティブな生き方を徹底する雫には、そんな周囲の感覚が理解出来なかった。
そういう意味で、真理亜や播磨、亮と過ごす時間というのは、とても心地よい。
四人には、キッカという共通の認識対象がある。それを四人の中核に据えるだけで、雫は余計な感情や他意に、自分の行動を制限される牢獄の様な拘束意識から解放された。
きっと亮の次に、自分はあのシーラカンスを大切に思っている。その思いは今でも変わらない。
なのに何故、自分はキッカの姿も声も、感じ取れなくなってしまったのだろう。
亮の部屋にあったあの石は、今よりもっと輝いて見えていたはずなのに。
気の合う女友達数人とカラオケに行き、夕飯前に帰宅する。娯楽の少ないこの町でも、遊ぶこと自体は楽しい。いつの間にやら時間は過ぎ、今日も雫は課題を済ませる時間を無くす。
それでも、本を読む時間はある。
「雫、また本届いてるよ」
「わ、ありがとう」
祖母の声に礼を言って、雫は足早に、リビングの机に置かれた宅配の小包を手に取る。宇宙に関する書籍を取り寄せていたのが、到着したのだ。母親の夕飯に呼ぶ声に慌てて応じながらも、雫は早く包むを開けて中を見たくて仕方がなかった。
雫の部屋は、図鑑や書籍で溢れている。その多くは宇宙やオカルト、科学を解説する内容で、漫画や小説は殆ど無い。二竿もある本棚は、そろそろ新しい本を入れる場所が少なくなっていた。
電子書籍が欲しいな、とは最近よく思うのだが、親にねだってタブレット端末を買うことも出来ず、バイトをして貯金をしてみてはいるが、つい本の購入に浪費してしまい、目標金額までは今一つ届いていない。
セーラー服から部屋着に着替え、長い茶髪を後ろにまとめる。そうしてからようやく、包みの封を開けた。中身は、宇宙に関する科学的を考察を交えた上で、遥か彼方の異星人の実在性についてを問う内容……と言えば大層な話に聞こえるかも知れないが、実際は都市伝説系の類に近い。しかし、そんな眉唾な題材を専門家が大真面目に考察し、様々な研究アプローチを試みている、というのがウリだった。
夕飯の前に、と本を少し開き、目次だけでも眺めて楽しもうと思った。
だが、目次に添えられた或る文句が、雫の目を惹いた。
『海 その神秘と宇宙的邂逅』
各章は殆ど独立していて、基本的に何処から読んでも読み進められる形式になっている。雫は立ったまま、その章から少し中身を読み進めた。読みながら、化粧品や脱ぎ散らかした服でごっちゃになった部屋の中をつまづきもせず歩き、やはり文章から目を離さず、雫は本棚に手を伸ばし、彼女の部屋で数少ない小説の一冊を引き抜く。床と異なり整理整頓されたその本棚の中身は、雫には文字通り手に取る様に把握出来ているのだ。
引き抜いた本は、ラヴクラフトの作品集の一冊である。
作家として独自の神話体系を築き上げた、彼の頭の中で広がるコズミックホラーの世界の一端を垣間見れる、その作品集。小説で唯一、雫が集めている作品集だった。
海。
現代の地球に於いて生物が、重力という制約を無視して巨大化出来る唯一と言っても過言ではないその空間は、地球の表面積の七割を占める。人類はまだ、この半分さえも解明と踏破を完了出来ていない。海は宇宙と同等に、未開という神秘に満ち溢れている。ラヴクラフトを始めとした当時の人類が、海に対して大きな関心と、そして畏怖を覚えるのは当然のことだと思えた。解明出来ない存在だからこそ、当時の人々は、そして現代人も等しく、宇宙と海に惹かれるのだ。
必然、雫も宇宙と海、とりわけ深海に興味を示していた。
昔の水族館で聞いた、大学教授のプレゼンテーションによるシーラカンスの解説。その時には既にキッカへの興味を失い始めていた雫であったが、シーラカンスが深海魚の一種であるという内容は何となく覚えていた。
海の生き物。太古より変わらぬ姿。
それは、広義には神と同義にも近い。いや、寧ろそうであって欲しい。雫は、願っていた。故に、購入した宇宙に関する書籍の中に海という単語が出たことは、雫にとって晴天の霹靂である。
夕飯に呼ばれても雫は、しばし本を読み耽り、時折ラヴクラフトとの読み比べをして、その日はそれで終わった。
課題は、やらなかった。
*
『数学など、四則演算の組み合わせに過ぎないではないか。亮は何故、そうも苦しむのだ。キッカには理解出来ない』
夜、数学の課題をやっていないことに気付き、亮は自室で机に向かっていた。ペンを指先でクルクルと回すが、代わりに頭は一向に回転をしない。コーヒーを口にしてみるが、美味くもなければ眠気が覚める気配もなかった。単に、寝不足なのだ。そう理由をつけて何度か問題集を放り出して全てを諦めようとしたが、その度に頭の中で、キッカが茶々を入れてくる。いや、キッカとしては茶化すつもりなど毛頭無いのだろうが、無機質な声音と理路整然とした口振りが、いちいち癪に障る。
見返してやるつもりでノートに式を書き連ねるが、眠気で鈍化した頭には少々難易度の高い作業である。
それでも尚、キッカは亮の頭の中に割り込んでくる。いい加減でうるさくなって、言い返した。
「じゃあお前がやってみろよ」
『大問一の三番で止まっているのか。ならばそれの証明は……』
と、キッカは微分積分の数式を口にした。疑問に思う暇も無く、亮は言われるがままに数式を書き写し、証明の文句を書いていく。それを見直し、計算してみると、確かに証明はこれで問題は無い。
亮はノートから顔を上げ、三十センチも離れていない位置にある石を見つめた。いつもの様に、きっかは優雅にヒレを動かし、泳いでいる。普段と何も変わらない態度であったが、亮はその『何でもない』姿に緊張した。
『どうやった』
『どうやったも何も。キッカは証明の答えを言っただけだ』
『俺はまだ、自分が理解してもいない数式や解法なんて教えてないぞ』
それどころか、亮自信が数学について理解しきれていないのだ。それを誰かに教え、そして正解に導くように教えられることなど、出来るはずが無い。『どうやった?』
キッカは答えない。ただ、曖昧な言葉だけを羅列させる。
『答えのある問いの答えを見付けることは、この上無く簡単だ。ゴールのある答えにはいつか辿り付ける。けれどキッカはキッカの体で、答えの無い問いを知り、導き、求めなければならない。知ることに限界は無い』
『ハッキリと物を言え』
苛立ちと、そして一握の恐怖が亮の心の中に芽生える。それを気取られぬように、亮は威勢を張った。それが張子の虎であることを自覚出来てしまうのが口惜しかった。
そしてその威勢の真の姿については、きっとキッカにバレている。
キッカは少し泳ぐ速度を早め、球形の石の中でぐるぐると回る。言葉を続けることを逡巡しているらしかった。今まで亮は、彼がそうした動きや態度を取る時、それならば、と追求を避けていた。十年近くの歳月を共に過ごしている間に、そうした目に見えない信頼関係の様なものが築かれていると、そう信じていた。
けれど今、亮がキッカに抱いているのは、疑念である。
正確には、信じたい、と願う信頼。
それがゆっくりと、崩れようとしているのだ。
やがて、キッカはゆっくりと答える。机のスタンドライトの明かりに照らされる石の中で、キッカはゆっくりと口を開いた。
『キッカは今までキッカとして、亮達に色々教えてもらってきたな』
『? ああ』
疑問に思いながらも、亮は言葉を待つ。キッカは答えた。
『知るということ、学ぶということに終わりは無い。キッカは亮達の目を通して来て、それを学び、知った。けれどキッカはもっと知りたい。けれど、亮達の知覚と経験だけでそれを限界に近く、永遠に近く学び続けることは不可能だ。だからキッカは考え続けた。永遠に近く、限界を越えて学び続ける方法について。そして、知る為に、学ぶ為に、キッカにはもっと「目」が必要なのだとキッカは考える。……だから、目を作った』
言っていることが分からなかった。
いつも、キッカはこれだ。自分が石の中に居る理由、この世のあらゆる全てを知ろうとする好奇心。それらの原因や答えを聞き出そうとしても、キッカは都合よく沈黙を続けるだけだったのだ。
『そこまでして、何を知りたい?』
今までと少し違う問い方。指し示すものは、当たらずも遠からずというところだと思いたい。
そして。
キッカはその秘密を秘匿するそのスタンスを崩し、答えたのだ。
『人の未来を、観測する為だ』
『人の未来……?』
『明日、完成した目を見せてあげるよ。亮』
*
選択授業で音楽を選んだ生徒は、暇そうだった。臨時の非常勤の方は粗野で、ユニークな人柄であったので、生徒から親しまれてはいたが、授業が面白いかどうかはまた別だ。だがそれは、真理亜の選択した美術でも似たことが言える。
版画の製作をした中間までの授業内容は終わり、デッサンが後期の課題となっている。鉛筆の動かし方から何から講師は丁寧に説明するが、実施する際は大抵皆、雑談をしながら思い思いに静物画を描くのに勤しむ。その時間は、絵が苦手な人間には退屈な時間だろう。
「上手いじゃん」
友達が一人、真理亜の絵を覗き込んで言った。真理亜は謙遜し、「昔よりずっと下手になった」と答えた。石膏のダビデ像は何か言いたそうに、三次元から、そして紙面から、真理亜を見つめているようだった。
絵を描くのが、昔は好きだった。キッカを拾ってきてから、何度も彼をスケッチした。繰り返し描いて、徐々に自分の腕が上達するのを実感出来たけれど、それも中学生までだ。
別の高校へ進学したかつての同級生は、美術部でもない真理亜の絵を見て、そしてそれで顔をひっそり輝かせている彼女を見て、嫉妬の炎という怒りを爆発させた。美術の授業中にやはり絵を描いていた時、クラスメイトの何人かと教師が真理亜の絵を見て、それを褒めた時だ。彼女は、鉛筆を逆さに握り締め、真理亜の右手の甲を思い切り、突き刺したのだ。
騒ぎになった後は、真理亜は当時のことを覚えていない。仲はいいと思っていた相手だったから、ショックだった。そしてその事件以来、彼女の利き腕である右手は、人差し指と中指が上手く曲がらない。
長時間、物を握れなくなった。漢字や英単語の書き取りには致命的な影響が出た為、文字や言葉を書いて体で覚えることは殆どなくなり、じっくり読みながら発音することで、音と視覚に頼り暗記する勉強法を身につけた。
時々、こうして絵を描く時はあるが、その度にかつての友達の、怒りと嫉妬に歪んだ顔が浮かぶ。
他方、あのシーラカンスは静かなものだ。常に冷徹で、落ち着いていて、理知的である。それが、自分がまだ付き合いを続けている理由の一つかも知れないと、真理亜はぼんやりと考える。
「どうしたの、亮」
真理亜は、校舎中庭のベンチで呆けている亮に、背後から尋ねる。ん、と気の無い返事をして首だけ器用に動かし、彼は真理亜を見る。その顔色は悪かった。
電子端末のグループメッセージで、亮は真理亜を呼び出していた。放課後、旧校舎中庭が集合の場所である。
旧校舎は、新校舎と外廊下で結ばれている。嘗ては在校生の教室も入っていたが、新校舎が十年ほど前に完成してからは徐々に学年教室は新校舎へと移り、今では技術室や美術室など、特別教室用の校舎として機能していた。
故に、空いてる教室や空き空間を利用して生徒が集まったり、新設される部活動や同好会の取り敢えずの部室として使用されることも珍しくない。
こうして、タイミングに問題が無ければ、秘密の会議場所や密会の場所としても使用される。人目が皆目無い訳ではないが、それほど大声で話さなければ、柱の影から盗み聞きされる心配も無い。
「どう話したらいいものやら」
「呼んでおいて、何だよ。まさか私への告白でもないでしょうに」
「そりゃ、そうだが」
ハッキリと言いやがるな、と少し腹を立てながら、真理亜はベンチに座ろうとして、悩んだ。中庭中央には、二人がけのベンチが向かい合って二脚ある。奥は空席、手前右側には亮が居る。
どちらでもいい。そう思おうとしたが、真理亜の脚は逡巡した後、亮と向かい合うもう一つのベンチへと向かい、そして座る。
どっちでもいいんだけどな。
言い訳の様に自分に言い聞かせてから、それを自分で誤魔化す様にして、改めて促した。
「何かまた、面白いこと見付けたの?」
違うことは分かっていた。面白いこと、楽しいことを見付けたら、簡単にそれを相手に打ち明け、そして喜びを共有したいと願うタイプなのが亮だ。それが分からないほど、付き合いは短くない。
亮は、まだ夏服に衣替えをしていない、長袖のワイシャツの袖を肘までまくり上げ、ベンチの手すりに頬杖をついて脚を組んでいる。その目は呆けている様でいて、何処か、或いは何かを鋭く睨んでいる様な、物思いに耽っている様な、ミステリアスな表情を浮かべている。
問い掛けた真理亜がそんな亮の顔をボーッと見つめていると、突然、彼は口を開いた。
「昨日の夜、キッカが妙なことを言ったんだ。目を作った、って」
半ば予想していたキッカの話題ではあった。が、その言葉の意味が理解出来なかった。目を作った、とは何だろう。
「シーラカンスの目は、緑だよね?」
訊くと、亮は頷いた。
「光を反射する輝板が目の中にあるから、夜のネコの目が光って見えるのと仕組みは同じだな。網膜層へ二重に光を反射させるから、光源の少ない深海でも物を見ることが出来るようになってる。特に魚の水晶体は、より球形に近い形をしてるから、陸上生物よりも海中でハッキリ物を見られる。……でも、そういうことを言いたい雰囲気じゃなかった」
「どういうこと?」
「人の未来を観測する為の目だと言っていた」
人の未来。
未来、というその言葉に、真理亜はドキリとする。
普通という自分、他人から見た優等生の自分、変わろうとして変われない自分。平易に平凡な展開しか予測出来ない、代わり映えのしない自分という存在が辿りつく未来がいかなるものか。
恐怖、期待、好奇心。キッカの言葉の意味や真実味について議論するよりも先に、それらの感情が真理亜の心を強く揺り動かす。
「どうした?」
ボーッとした顔をしている真理亜に、亮が尋ねた。我に返り、何でもない、と短く返した。「で、どういう意味なの」
「分からない」
「それで、議論してみたいと」
考えて答えが出るものでもないだろうに、と思って呆れた風に言ってみるが、その必要は無い、と即答した。
「キッカは今日、俺にその『目』を見せるって言った」
益々、訳が分からなかった。
「じゃあ、どうしてわざわざ私を呼んだの」
「家に来て、一緒に確認して欲しい」
また、ドキリとした。先程の、未来という言葉とは違う種類の驚き。だがすぐに、そういうことね、と平静を装った返答をする。
亮がこうした提案をするのは、不思議ではない。播磨と雫は、既にキッカのことが認知出来なくなっている。今更亮の家に行っても、ただ亮や真理亜が見たものをそのまま口にする報告を聞き、想像を膨らませるだけだ。それならば、真理亜と亮が自分達の目で確認し、後日報告するのと変わらない。九年前のあの日の様に四人で集まって、集団ヒステリーか妄想癖と家族や友人に誤解を招かれかねない行動は慎みたい。
カメラや動画を撮り、何処かの専門家(何の専門家だろう、と今になって馬鹿げたことだと笑いがこみ上げる)に相談することも、一度考えた。けれど、キッカの姿は、光を使って映写するあらゆる機械類やカメラの撮影が出来ない。全て真っ黒の写真にしかならないのだ。肝心の魚の姿は、全く映らない。だから証拠能力の高い画像や映像媒体として、キッカの姿を保存することは不可能だった。故に直接キッカの姿を見られない人間にとって、それはパラノイアが見せる幻覚に近い。
「確認の必要は、あるかもね」
言いながら内心、久し振りに亮の家へ行くということに、胸を少しだけざわつかせている。その胸の内を気取られぬように、真理亜はベンチに置いた鞄を再び持ち、先に立ち上がる。
「そんなに急ぐか」
亮が訊きながら、自分も足元の鞄を手に取り、立ち上がった。
「だって亮の家、遠いでしょ。私のクラス、今日課題が多いから早く帰らないと駄目なの」
「ああそうか、お前の家学校から近いから、歩きだったな」
近いとは言うが、歩いて片道二十分弱の距離だ。そして彼女の家は、学校からより遠い亮の家よりも古く、老朽化が激しい。立地も、まあまあ近所にまばらに民家が建っている亮の家とは違う。
真理亜の家は、孤独に建っている。
孤独な自分は、今日もあの家に帰らなければならない。一人、夕暮れの道を歩きながら。
だが、そんな真理亜に亮は言う。
「自転車のケツ、乗ってけ」
「……あんたの自転車、座るトコ無いじゃん」
「足掛ける場所あるから、立ってればいい」
こともなげに、平然と言った。駐輪場に歩いていく先には、もう亮の自転車の他には、数台しか残っていない。大きめの亮の自転車は、後輪の車軸に足置き場の様なものが取り付けられ、改造されていた。
真理亜は、亮の物と一緒に自分の鞄を、自転車カゴに放り込む。そうして足場に足を乗せて、亮の肩に手を置いた。
「行くぞ」
ペダルを漕ぐ。動きに備えていなかった体が後ろに倒れそうになって、慌てて両手に力を込めた。
その姿を、生徒指導の安西に見られた。「こらお前ら!」とまるで安っぽい漫画かドラマでしか聞きそうにない怒声を吐いたジャージ姿の教師から顔を隠す様に、やべっ、と呟いて真理亜はセーラー服の襟を立て、顔を隠す。しかし亮は「うるせー!」と怒鳴り返し、そのまま思い切り自転車を発進させた。
最初は鈍足だった自転車も、校門口の短い坂を下ってからは安定した速度で走り出す。
「喧嘩、売るねぇ」
茶化して言うと、亮は機嫌悪く答えた。
「不倫してる教員に指図されたくねえ」
「え、そうなの」
「E組の山田」
「えー、相手未成年かよ」
「最近、生徒の間でバレ始めてる。強請ろうとネタ集め始めてる奴も陰で出始めてるぞ」
「どいつもこいつも最低だな」
呆れ、それきりしばらく、二人とも口を噤んだ。ややあって、真理亜はぽつりと口にする。
「久し振りだね、亮の家に行くの」
そうだなあ、と風を切る音よりも少し大きな声で、亮は返した。
「いつからだっけ、みんなで集まらなくなったの」
「覚えてない」
遠くに視線を泳がせて答えた。徐々に建物は消え、等間隔で並ぶ電柱と、遠くにそびえる高圧電流の鉄塔が印象に残る。それでも、あと十分も自転車を走らせれば、学校の近辺に近い密集率でまた家が立ち並ぶ光景に、それらは飲み込まれてしまう。
あの鉄塔の近くまで、みんなで探検しに行った。柵の中まで入って、通りかかった大人にこっぴどく叱られたことをまだ覚えている。道の反対側に広がる水田で、ザリガニやトンボを捕まえて、亮と播磨が派手に側溝に落ちていた。
全て、遠く。
まだ十七年の人生の中で、まるで前世の記憶の様に、それらは遠い記憶になっていた。
卒業して、大人になって、仕事をしたら、十八年というサイクルを四回以上繰り返し、ようやく自分達は定年を迎える。
自分はそれまで、孤独でないまま生きられるだろうか。
漠然とした『未来』の不安ばかりが胸に響く。
いつの間にか、亮の肩に触れていたことから来る心臓の鼓動の高鳴りは、初夏の光景に飲み込まれ、落ち着いたものになっていた。
「また遊びたいな」
ぽつり、と言った。亮が訊き返す。
「いつも遊んでるだろ」
「そうじゃなくてさ。また、新しいことを探しに、馬鹿みたいなこととか、楽しいことを探して、狂ってみたいじゃん」
「狂ってたのかよ、俺達」
あはは、と笑う亮だったが、真理亜は笑わなかった。
狂っている。今でも。自分達は、まともに見えていても、おかしいんだ。
だって、少数派だから。
だって、石の中を泳ぐシーラカンスが見えているから。
お邪魔します、と声を掛けて亮の家に上がる。リビングドアのガラス越しに、ラップトップを持ち込んでテーブルで仕事をしていたらしい伽耶が顔を上げ、微笑みながら控えめに手を振った。仕事中のようだ。
俺が飲み物持ってくからと、亮は真理亜に、先に自分の部屋へ入って待つよう言った。真理亜は階段を上がり、久し振りに彼の部屋のドアを開ける。
六畳程度の部屋。ここに昔、小学生四人がよくも入っていたものだと感心する。昔よりも漫画本は増えている印象を受けたが、控え目な大きさのゲーム用テレビは、最後に来た時のまま変わらない。そのテレビとゲームで遊んだ記憶が呼び戻されて思い出したが、そう言えば、最後に亮の部屋を訪れたのは、雫と三人、中学生の頃だ。
『おかえり』
そしてその時も変わらず、キッカは石の中で泳いでいた。
『驚かないんだね。突然私が来ても』
『突然じゃない。キッカには分かっていた』
『あっそ。じゃあついでに、今度の実力テストで出る範囲も教えてね』
適当に嫌味を言って、真理亜は鞄を適当に置いて、ベッドに腰を下ろす。
……最近は特に、キッカのことが気に入らなかった。普段意識するわけではないが、彼が亮の部屋でこの九年間を、彼と共に過ごしているのだという事実が、気に入らなかった。真理亜はしばらく、亮が戻るまでキッカを控えめに睨み続ける。
便宜上、真理亜達はキッカのことを『彼』と呼んでいる。だが、人間でいうところの大人か子供か老人か、そもそも男か女かさえもよく分からないその『声』の性質では、そのシーラカンスの性別を確定させることは困難を極める。
他の三人は、キッカを『彼』と呼称することに躊躇いを感じていないようだが、真理亜は違う。
何故だろう、自分はキッカに対し、女性的な何かを直感的に感じ取っている。
そんな些細な違和感はいつも、亮の部屋に来る時に増幅する。恐らく、キッカの真理亜に対する言葉尻や些末な口調に、何処かトゲを感じるのだろう。真理亜はそう考えていた。
やがて麦茶に入ったグラスを持ってきた亮が戻ってくる。上手く動かない手で溢さないようにと注意して受け取り、渇いた喉を潤した。
「さて」
グラスの半分を一気に飲み干して、亮は本題に入った。手製の台座に乗せたキッカの泳ぐ石を持ち上げ、いつかそうしたように、それを床に置く。真理亜もグラスをデスクの上に置き、同じように床に正座し、石を軽く覗き込む姿勢で注視する。「話してくれ」
『何をだい』
「昨日言っていた、目について」
『そのことなら、もうすぐ戻ってくる』
戻ってくる、という言葉に疑問符が浮かぶ。目が、戻る?
真理亜は顔を上げて亮に目配せをするが、彼もまた、疑問を払拭出来ないという表情をしていた。それを無視して、キッカは続ける。
『これまで、キッカは知識を集めてきた。亮達が高校に入るくらいまでは、知識を得る為のソースは進化があった。図鑑や本、漫画、映画から始まり、それは人からの伝聞、テレビ、そしてネットへと拡大し、些末な電子情報はネットの海の中に永遠に漂い続ける。情報それ自体も同じだ。誰か・何かから発せられた言葉の羅列は人々の意識と記憶の底に沈殿するか、記憶の海という広大な情報埋没空間の中で、誰かに見付かり、拾われ、食われるのを待ち続けている。人にもキッカにも、それを回収する手段は存在しなかった』
饒舌な魚。見た目にはいつも通り、石の中を泳いでいるだけの古代魚に見える。けれどその肉鰭はいつもよりも忙しなく動き、体をくねらせながら泳ぐ姿は、何処か興奮気味に思える。
『サルベージが必要だ。キッカは知識を求める。この世界を観測する為の手掛かりを、この世界の住人達を理解する為の情報を、少しでも多く広い集め、収集し、獲得し、知覚しなければならない。キッカには亮達以外に世界を知る、もっと広い世界を探索する存在が必要だった』
「それがお前の言う『目』か?」
亮は問う。言葉では答えなかったが、キッカは否定もせずに話を続ける。
『目はキッカの全て。世界であり、腕であり、足であり、耳であり、鼻である。キッカはキッカとしての責務を果たす為に、それを必要とした。真理亜』
突然名前を呼ばれ、驚いて石から顔を離す。彼女の心の中に、一握の恐怖心が芽生えた。
そしてその恐怖は、次のキッカの言葉から、徐々に膨らみ始める。
『次の実力試験の範囲だが、日本史は室町時代を中心に予習するといい』
「……え?」
突然の言葉に、真理亜は体を硬直させた。徐々に冷や汗が流れ始める。先刻までのキッカとのやり取りを知らない亮は、真理亜とは別の意味で出現した突然の言葉に戸惑い、真理亜とキッカを交互に見ていた。
『古文は、枕草子の三巻本八十八段を読み、口語訳を暗記すること。現代文の大問二、問節三の選択肢イは引っ掛けだから、気を付けること。英語の長文の一つは、ナイチンゲールの伝記だ。今の内にネットでもいいから、彼女の大体の人生を頭に入れておけば、君の頭なら九割は固いだろう。君の苦手な前置詞の問題もあるから、自動詞や他動詞も含めて熟語を覚えることに集中するといい』
汗が止まらない。初夏に入ろうとしているだけの今の季節、まだそんな汗を掻く時期ではないというのに。
分かっている。これは、恐怖から来る汗だ。真理亜は自分の腕で額の汗を拭った。
異常な事態に気付いたのだろう、亮は険しい顔をして語気を荒くして言う。
「キッカ、何の話だ!」
『真理亜はキッカに先程求めた。実力テストの答えでも教えろと。だからキッカであるところのキッカはここから外に出られないが、キッカの目は、来週にも実施される実力テストの中身を知っている者達を見付けた。彼ら彼女らは知っているから、キッカはそれを覗いただけだ』
緑の目を持つ古代の魚は、雄弁に現在の全てを語ろうとする。或いは、これから真理亜達が出会うはずの未来についてを。
だから彼女は、真理亜の突然の来訪に一切驚きを見せなかったのだ。
遠く離れた存在と、その動きを知っていたから。
……この魚は一体、何者なのだ。
『亮。キッカは君に約束した。今日、キッカの手にした新しい「目」を見せると』
それがこれだ。
キッカは言って、素早く体をくねらせ、一度石の中に広がる暗闇へと消える。真理亜と亮は顔を近付け、砕けた石の表面から覗く、コバルトブルーの鉱石を覗き込む。
一つ、二つ、三つ。
キッカの目の光ではない、別の光源を持つ丸い何かが、闇の中から真理亜達を見つめ返した。ギョッとした亮が体を引くのに対し、真理亜はその光の正体を探ろうと、一層体を前のめりにする。
ふわっ、と光は跳ねる様に動く。それがまるで、発光するクラゲが水を掻いて泳ぐ仕草に似ていることに思い至るのに、そう時間は掛からなかった。
そして、その光は厳密には光ではなく、光を反射して輝く球体であることにも気付く。
まるで、キッカの目の様に。
そうしてそれは、闇の中から姿を現した。
「イカ……?」
ヤリイカだ。何の変哲も無い(いや、この石の中に存在している時点で普通ではないのだが)、その姿には何も変わったところは無い。しかし、何故。
今まで、石の中にはキッカ以外の動くものは存在していなかった。そして真理亜達も当然の様に、それがキッカという不可思議な『何か』を存在させる為だけにある特別なものであると疑わなかった。
けれど石の中には今、三匹のヤリイカが居る。キッカの体長よりもずっと小さく、しかし捕食される危険を感じている訳でもなさそうで、のんびりと泳いでいた。
当たり前だと思っていた常識が次々と、真理亜の目の前で砕かれていく。困惑と恐怖がない混ぜになったやり場の無い感情が、彼女の心を掻き乱していた。
『これが、キッカの「目」だ』
「このイカが、か?」
信じられないという風に、亮は訊き返す。けれど真理亜も、そして口にした本人も気付いている。理解出来なくとも、受け入れなければならない何かがあると。
『イカはイカだが、世界の海の何処にでも住む。こんな石の海に住むキッカが居るのだから、こんな石の海に住むイカも居るだろう。石の記憶に飲まれる前に、キッカは記憶を救い出す。イカはキッカの目になって、記憶の海へと泳ぎ出し、キッカに全てを伝えてくれる』
沈黙。何と返答して良いやら分からずに、真理亜達は呆然としていた。
外は薄暗くなり始めていたが、部屋の電気を点けることも忘れて、二人は石を見ていた。
キッカは石の中でクルリ、と一度泳ぐ。同時にイカ達は再び、闇の中へと消えていった。
『亮。キッカが世界に触れる為の世界の窓は、君達四人を介して触れる世界だけではなくなった。四人の集めてくれた知識と知恵と言葉は、キッカという個を構築し、新たな世界を観測する手段を作る発想を与えてくれた。キッカという個は、これから加速度的に巨大になるとキッカは考える』
「何を、する気なの」
真理亜は震える声で訊いた。怖い。何がとは説明し難いが、とにかく、目の前のシーラカンスに対して、未知なる恐怖心を覚えたのだ。
しかしキッカは、相変わらずの無機質な声で答えるだけだった。
『キッカがキッカである為に必要な、あらゆる全てだ』
夕飯を食べていけばいい、と招待しようとする伽耶の親切は有り難かったが、丁重に断った。何も、厄介になりたくないわけではないのだが、部活動のある翔は夕飯を作れない。簡単な料理でもいいから作らなければ、夜遅くに帰宅する父は激昂する。三年前に一度作り忘れた時は、翔共々強く頭を何度もぶたれた。真理亜の不完全な指が原因で家事が遅くなることもままあったが、勿論、そんなことはあの男に関係無かった。自分の瞬間的な欲求が満たされないということの怒りは、あらゆる現象や理由、事情を凌駕するのだ。
幾ら体が大きくなって、力が強くなっても、子供の頃からの精神的な恐怖心が潜在的に、真理亜と翔に植え付けられている。夜中にも関わらず大声を出せる無神経さを持つ父に、二人は恐怖するしかない。
だから真理亜は往路と同じ様に、亮の漕ぐ自転車の後ろに立って、夕日を眺めながら何も無い平坦な道を走る。
この道は、再び自分が進まなければいけない、孤独の道へと通じているのだ。そう思うと、悪寒がした。そんな真理亜の心情など露知らず、前を向いたままペダルを漕ぐ亮は訊いた。
「本当に、あれはあいつの目なのかね」
「さあ。ああ言ってるんだから、そうじゃない?」
「何だ、随分適当だな」
実際、真剣に何かを考える余裕がある程、今の真理亜は平静ではなかった。あのシーラカンスは、自分に呪いを掛けたのだ。次の実力テストが行われるまでの間、キッカの言ったことが真実であれ虚偽であれ、彼女の心はずっと乱され続けるだろう。そしてきっと、キッカには本当に千里遠くの何かを見付けることが出来るに違いない。テスト当日、百発百中の答えを目の前にして、自分の頭はパニックになるのだ。
「嫌になる」
ぽつり、と言葉が口を突いて出た。何が、と亮は訊くので、正直に答える。
「きっと私、ずっと変われないままこの町で一生を終えるんだと思う」
「どうして? 何があるか分からんだろ」
「そうやってポジティブに未来に期待出来る程、私、馬鹿じゃないの」
「失敬な。……でも確かに、俺よりは勉強出来るし、間違ってはないな」
何故だろう。こんなに近い距離を、こんなに長い時間を一緒に過ごしているのに、亮は自分のことを理解していない。そんな暗い感情が、水に落ちる一滴の墨汁の様に、心の中で広がっていく。「真理亜は、大学何処か決めたのか」
ほら。自分が恵まれていることを理解していないから、同じ目線で言葉を選ぶ。
「私、就職する」
「え」
「家に色々、余裕が無いんだよ」
今まで、家族以外の誰にも話したことの無い話題。本音を言えば真理亜としても、それを話したくはなかった。けれどそれ以上に、亮に秘密にしたままでいることが、もっと嫌だなと思った。
本当は、今すぐ学校なんて辞めてもいいと思っていた。
けれど、亮や雫、播磨達と過ごす時間が楽し過ぎて。
ずっと、皆の傍に居たいのだと、心に決めていた。
「二年後からも、よろしくね」
来た時と同じ様に遠くの鉄塔を見ながら、真理亜は静かに零した。夕陽を受けて毒々しい光を帯びるそれは、真理亜の網膜を刺激する。
うん、と気の無い返事をして、それきり亮は、真理亜の家の近くまで無言でペダルを漕ぎ続けた。
ガタガタと、籠の中で揺れる自分の鞄の音を聴きながら、往路で考えたことを思い出して、それに関連して、真理亜はふと考えた。
キッカの姿は、肉眼でのみ捉えることが出来る。しかしその姿は写真や動画に収めることは出来ない。それは何も、最近のデジカメやスマートフォンなどの電子機器を媒体とした話に限らない。小学六年生の頃に試した使い捨てカメラなど、比較的単純な構造をした道具を以ってしても、キッカの姿は映らなかった。
カメラと人間の目の基本構造は同じだ。レンズや水晶体に差し込む光量を調整し、合わせたピントが定まった状態を網膜に映写し、一方は神経を、一方はフィルムを通してその姿を切り取る。レタッチをして生まれる写真の陰影や彩度も、元々のデータに存在している色彩情報・光源情報から構成される。だからこそカメラは、人が見た通りの光景を写し取るのだし、そうでなければカメラの意味は無い。
人の目には問題なく映るのに機械では映らない、という条件を持つものが何かを考えてみる。そして、具体的な存在は頭に浮かばなかったが、似たものは一つ、思い出した。
キッカに与える新しい情報を探し、適当にネットの科学記事を流し読みしていたことがある。その中で、ハリウッド俳優などのセレブがパパラッチの盗撮防止をする為、撮影を妨害する布についての記事を読んだことを思い出した。
球体のナノクリスタルを散りばめた特殊な布をスカーフの様に首に巻いたりすることで、フラッシュ撮影を完全に無効化させるのだ。写真や動画のフレーム内にスカーフが入ることで、スカーフ以外の全てが真っ黒になる、そんなアイテムが発明されたというニュース。
赤外線カメラを用いることで人の目に見えないものを見られる様に、道具では見ることの出来ないものを肉眼でこそ見ることが出来る。そんな手段が、この世界に存在する。
そんなことが、あのシーラカンスには可能なのだ。
*
皆からはよく、三尾雫は移り気であると揶揄される。
それまで興味を持って熱心に取り組んでいた事柄に対して、或る日突然、興味を無くしてしまう。そうしてすぐ別のものに熱中し、のめり込む。それの繰り返しだった。それは、彼女の生活習慣や勉強スタイルに影響している。他人からはそう見えるらしい。
けれど雫本人からすれば、そんなことはない。それまで対象に持っていた興味の度合いはそのままに、新たな『好き』が増えていく。それが、雫の行動理念であり、価値観だ。
だから異性と接している時も、友好という愛情が蓄積するし、新しく仲良くなりたいと思った相手には自分から積極的に関わっていく。何故かクラスメイトは男女を問わず、それを不誠実だと捉えるのだが、雫から言わせれば、その価値観こそが理解出来なかった。雫が異性と仲良くしているということは、他人から見て友人以上の関係であるように見えるらしい。故に男子は勝手に勝手に、そしていつの間にか自分を好きになり、特に何もしていないのに勝手に向こうから傷付き、離れていく。
好きなものを増やしていくという、ポジティブな生き方を徹底する雫には、そんな周囲の感覚が理解出来なかった。
そういう意味で、真理亜や播磨、亮と過ごす時間というのは、とても心地よい。
四人には、キッカという共通の認識対象がある。それを四人の中核に据えるだけで、雫は余計な感情や他意に、自分の行動を制限される牢獄の様な拘束意識から解放された。
きっと亮の次に、自分はあのシーラカンスを大切に思っている。その思いは今でも変わらない。
なのに何故、自分はキッカの姿も声も、感じ取れなくなってしまったのだろう。
亮の部屋にあったあの石は、今よりもっと輝いて見えていたはずなのに。
気の合う女友達数人とカラオケに行き、夕飯前に帰宅する。娯楽の少ないこの町でも、遊ぶこと自体は楽しい。いつの間にやら時間は過ぎ、今日も雫は課題を済ませる時間を無くす。
それでも、本を読む時間はある。
「雫、また本届いてるよ」
「わ、ありがとう」
祖母の声に礼を言って、雫は足早に、リビングの机に置かれた宅配の小包を手に取る。宇宙に関する書籍を取り寄せていたのが、到着したのだ。母親の夕飯に呼ぶ声に慌てて応じながらも、雫は早く包むを開けて中を見たくて仕方がなかった。
雫の部屋は、図鑑や書籍で溢れている。その多くは宇宙やオカルト、科学を解説する内容で、漫画や小説は殆ど無い。二竿もある本棚は、そろそろ新しい本を入れる場所が少なくなっていた。
電子書籍が欲しいな、とは最近よく思うのだが、親にねだってタブレット端末を買うことも出来ず、バイトをして貯金をしてみてはいるが、つい本の購入に浪費してしまい、目標金額までは今一つ届いていない。
セーラー服から部屋着に着替え、長い茶髪を後ろにまとめる。そうしてからようやく、包みの封を開けた。中身は、宇宙に関する科学的を考察を交えた上で、遥か彼方の異星人の実在性についてを問う内容……と言えば大層な話に聞こえるかも知れないが、実際は都市伝説系の類に近い。しかし、そんな眉唾な題材を専門家が大真面目に考察し、様々な研究アプローチを試みている、というのがウリだった。
夕飯の前に、と本を少し開き、目次だけでも眺めて楽しもうと思った。
だが、目次に添えられた或る文句が、雫の目を惹いた。
『海 その神秘と宇宙的邂逅』
各章は殆ど独立していて、基本的に何処から読んでも読み進められる形式になっている。雫は立ったまま、その章から少し中身を読み進めた。読みながら、化粧品や脱ぎ散らかした服でごっちゃになった部屋の中をつまづきもせず歩き、やはり文章から目を離さず、雫は本棚に手を伸ばし、彼女の部屋で数少ない小説の一冊を引き抜く。床と異なり整理整頓されたその本棚の中身は、雫には文字通り手に取る様に把握出来ているのだ。
引き抜いた本は、ラヴクラフトの作品集の一冊である。
作家として独自の神話体系を築き上げた、彼の頭の中で広がるコズミックホラーの世界の一端を垣間見れる、その作品集。小説で唯一、雫が集めている作品集だった。
海。
現代の地球に於いて生物が、重力という制約を無視して巨大化出来る唯一と言っても過言ではないその空間は、地球の表面積の七割を占める。人類はまだ、この半分さえも解明と踏破を完了出来ていない。海は宇宙と同等に、未開という神秘に満ち溢れている。ラヴクラフトを始めとした当時の人類が、海に対して大きな関心と、そして畏怖を覚えるのは当然のことだと思えた。解明出来ない存在だからこそ、当時の人々は、そして現代人も等しく、宇宙と海に惹かれるのだ。
必然、雫も宇宙と海、とりわけ深海に興味を示していた。
昔の水族館で聞いた、大学教授のプレゼンテーションによるシーラカンスの解説。その時には既にキッカへの興味を失い始めていた雫であったが、シーラカンスが深海魚の一種であるという内容は何となく覚えていた。
海の生き物。太古より変わらぬ姿。
それは、広義には神と同義にも近い。いや、寧ろそうであって欲しい。雫は、願っていた。故に、購入した宇宙に関する書籍の中に海という単語が出たことは、雫にとって晴天の霹靂である。
夕飯に呼ばれても雫は、しばし本を読み耽り、時折ラヴクラフトとの読み比べをして、その日はそれで終わった。
課題は、やらなかった。
*
『数学など、四則演算の組み合わせに過ぎないではないか。亮は何故、そうも苦しむのだ。キッカには理解出来ない』
夜、数学の課題をやっていないことに気付き、亮は自室で机に向かっていた。ペンを指先でクルクルと回すが、代わりに頭は一向に回転をしない。コーヒーを口にしてみるが、美味くもなければ眠気が覚める気配もなかった。単に、寝不足なのだ。そう理由をつけて何度か問題集を放り出して全てを諦めようとしたが、その度に頭の中で、キッカが茶々を入れてくる。いや、キッカとしては茶化すつもりなど毛頭無いのだろうが、無機質な声音と理路整然とした口振りが、いちいち癪に障る。
見返してやるつもりでノートに式を書き連ねるが、眠気で鈍化した頭には少々難易度の高い作業である。
それでも尚、キッカは亮の頭の中に割り込んでくる。いい加減でうるさくなって、言い返した。
「じゃあお前がやってみろよ」
『大問一の三番で止まっているのか。ならばそれの証明は……』
と、キッカは微分積分の数式を口にした。疑問に思う暇も無く、亮は言われるがままに数式を書き写し、証明の文句を書いていく。それを見直し、計算してみると、確かに証明はこれで問題は無い。
亮はノートから顔を上げ、三十センチも離れていない位置にある石を見つめた。いつもの様に、きっかは優雅にヒレを動かし、泳いでいる。普段と何も変わらない態度であったが、亮はその『何でもない』姿に緊張した。
『どうやった』
『どうやったも何も。キッカは証明の答えを言っただけだ』
『俺はまだ、自分が理解してもいない数式や解法なんて教えてないぞ』
それどころか、亮自信が数学について理解しきれていないのだ。それを誰かに教え、そして正解に導くように教えられることなど、出来るはずが無い。『どうやった?』
キッカは答えない。ただ、曖昧な言葉だけを羅列させる。
『答えのある問いの答えを見付けることは、この上無く簡単だ。ゴールのある答えにはいつか辿り付ける。けれどキッカはキッカの体で、答えの無い問いを知り、導き、求めなければならない。知ることに限界は無い』
『ハッキリと物を言え』
苛立ちと、そして一握の恐怖が亮の心の中に芽生える。それを気取られぬように、亮は威勢を張った。それが張子の虎であることを自覚出来てしまうのが口惜しかった。
そしてその威勢の真の姿については、きっとキッカにバレている。
キッカは少し泳ぐ速度を早め、球形の石の中でぐるぐると回る。言葉を続けることを逡巡しているらしかった。今まで亮は、彼がそうした動きや態度を取る時、それならば、と追求を避けていた。十年近くの歳月を共に過ごしている間に、そうした目に見えない信頼関係の様なものが築かれていると、そう信じていた。
けれど今、亮がキッカに抱いているのは、疑念である。
正確には、信じたい、と願う信頼。
それがゆっくりと、崩れようとしているのだ。
やがて、キッカはゆっくりと答える。机のスタンドライトの明かりに照らされる石の中で、キッカはゆっくりと口を開いた。
『キッカは今までキッカとして、亮達に色々教えてもらってきたな』
『? ああ』
疑問に思いながらも、亮は言葉を待つ。キッカは答えた。
『知るということ、学ぶということに終わりは無い。キッカは亮達の目を通して来て、それを学び、知った。けれどキッカはもっと知りたい。けれど、亮達の知覚と経験だけでそれを限界に近く、永遠に近く学び続けることは不可能だ。だからキッカは考え続けた。永遠に近く、限界を越えて学び続ける方法について。そして、知る為に、学ぶ為に、キッカにはもっと「目」が必要なのだとキッカは考える。……だから、目を作った』
言っていることが分からなかった。
いつも、キッカはこれだ。自分が石の中に居る理由、この世のあらゆる全てを知ろうとする好奇心。それらの原因や答えを聞き出そうとしても、キッカは都合よく沈黙を続けるだけだったのだ。
『そこまでして、何を知りたい?』
今までと少し違う問い方。指し示すものは、当たらずも遠からずというところだと思いたい。
そして。
キッカはその秘密を秘匿するそのスタンスを崩し、答えたのだ。
『人の未来を、観測する為だ』
『人の未来……?』
『明日、完成した目を見せてあげるよ。亮』
*
選択授業で音楽を選んだ生徒は、暇そうだった。臨時の非常勤の方は粗野で、ユニークな人柄であったので、生徒から親しまれてはいたが、授業が面白いかどうかはまた別だ。だがそれは、真理亜の選択した美術でも似たことが言える。
版画の製作をした中間までの授業内容は終わり、デッサンが後期の課題となっている。鉛筆の動かし方から何から講師は丁寧に説明するが、実施する際は大抵皆、雑談をしながら思い思いに静物画を描くのに勤しむ。その時間は、絵が苦手な人間には退屈な時間だろう。
「上手いじゃん」
友達が一人、真理亜の絵を覗き込んで言った。真理亜は謙遜し、「昔よりずっと下手になった」と答えた。石膏のダビデ像は何か言いたそうに、三次元から、そして紙面から、真理亜を見つめているようだった。
絵を描くのが、昔は好きだった。キッカを拾ってきてから、何度も彼をスケッチした。繰り返し描いて、徐々に自分の腕が上達するのを実感出来たけれど、それも中学生までだ。
別の高校へ進学したかつての同級生は、美術部でもない真理亜の絵を見て、そしてそれで顔をひっそり輝かせている彼女を見て、嫉妬の炎という怒りを爆発させた。美術の授業中にやはり絵を描いていた時、クラスメイトの何人かと教師が真理亜の絵を見て、それを褒めた時だ。彼女は、鉛筆を逆さに握り締め、真理亜の右手の甲を思い切り、突き刺したのだ。
騒ぎになった後は、真理亜は当時のことを覚えていない。仲はいいと思っていた相手だったから、ショックだった。そしてその事件以来、彼女の利き腕である右手は、人差し指と中指が上手く曲がらない。
長時間、物を握れなくなった。漢字や英単語の書き取りには致命的な影響が出た為、文字や言葉を書いて体で覚えることは殆どなくなり、じっくり読みながら発音することで、音と視覚に頼り暗記する勉強法を身につけた。
時々、こうして絵を描く時はあるが、その度にかつての友達の、怒りと嫉妬に歪んだ顔が浮かぶ。
他方、あのシーラカンスは静かなものだ。常に冷徹で、落ち着いていて、理知的である。それが、自分がまだ付き合いを続けている理由の一つかも知れないと、真理亜はぼんやりと考える。
「どうしたの、亮」
真理亜は、校舎中庭のベンチで呆けている亮に、背後から尋ねる。ん、と気の無い返事をして首だけ器用に動かし、彼は真理亜を見る。その顔色は悪かった。
電子端末のグループメッセージで、亮は真理亜を呼び出していた。放課後、旧校舎中庭が集合の場所である。
旧校舎は、新校舎と外廊下で結ばれている。嘗ては在校生の教室も入っていたが、新校舎が十年ほど前に完成してからは徐々に学年教室は新校舎へと移り、今では技術室や美術室など、特別教室用の校舎として機能していた。
故に、空いてる教室や空き空間を利用して生徒が集まったり、新設される部活動や同好会の取り敢えずの部室として使用されることも珍しくない。
こうして、タイミングに問題が無ければ、秘密の会議場所や密会の場所としても使用される。人目が皆目無い訳ではないが、それほど大声で話さなければ、柱の影から盗み聞きされる心配も無い。
「どう話したらいいものやら」
「呼んでおいて、何だよ。まさか私への告白でもないでしょうに」
「そりゃ、そうだが」
ハッキリと言いやがるな、と少し腹を立てながら、真理亜はベンチに座ろうとして、悩んだ。中庭中央には、二人がけのベンチが向かい合って二脚ある。奥は空席、手前右側には亮が居る。
どちらでもいい。そう思おうとしたが、真理亜の脚は逡巡した後、亮と向かい合うもう一つのベンチへと向かい、そして座る。
どっちでもいいんだけどな。
言い訳の様に自分に言い聞かせてから、それを自分で誤魔化す様にして、改めて促した。
「何かまた、面白いこと見付けたの?」
違うことは分かっていた。面白いこと、楽しいことを見付けたら、簡単にそれを相手に打ち明け、そして喜びを共有したいと願うタイプなのが亮だ。それが分からないほど、付き合いは短くない。
亮は、まだ夏服に衣替えをしていない、長袖のワイシャツの袖を肘までまくり上げ、ベンチの手すりに頬杖をついて脚を組んでいる。その目は呆けている様でいて、何処か、或いは何かを鋭く睨んでいる様な、物思いに耽っている様な、ミステリアスな表情を浮かべている。
問い掛けた真理亜がそんな亮の顔をボーッと見つめていると、突然、彼は口を開いた。
「昨日の夜、キッカが妙なことを言ったんだ。目を作った、って」
半ば予想していたキッカの話題ではあった。が、その言葉の意味が理解出来なかった。目を作った、とは何だろう。
「シーラカンスの目は、緑だよね?」
訊くと、亮は頷いた。
「光を反射する輝板が目の中にあるから、夜のネコの目が光って見えるのと仕組みは同じだな。網膜層へ二重に光を反射させるから、光源の少ない深海でも物を見ることが出来るようになってる。特に魚の水晶体は、より球形に近い形をしてるから、陸上生物よりも海中でハッキリ物を見られる。……でも、そういうことを言いたい雰囲気じゃなかった」
「どういうこと?」
「人の未来を観測する為の目だと言っていた」
人の未来。
未来、というその言葉に、真理亜はドキリとする。
普通という自分、他人から見た優等生の自分、変わろうとして変われない自分。平易に平凡な展開しか予測出来ない、代わり映えのしない自分という存在が辿りつく未来がいかなるものか。
恐怖、期待、好奇心。キッカの言葉の意味や真実味について議論するよりも先に、それらの感情が真理亜の心を強く揺り動かす。
「どうした?」
ボーッとした顔をしている真理亜に、亮が尋ねた。我に返り、何でもない、と短く返した。「で、どういう意味なの」
「分からない」
「それで、議論してみたいと」
考えて答えが出るものでもないだろうに、と思って呆れた風に言ってみるが、その必要は無い、と即答した。
「キッカは今日、俺にその『目』を見せるって言った」
益々、訳が分からなかった。
「じゃあ、どうしてわざわざ私を呼んだの」
「家に来て、一緒に確認して欲しい」
また、ドキリとした。先程の、未来という言葉とは違う種類の驚き。だがすぐに、そういうことね、と平静を装った返答をする。
亮がこうした提案をするのは、不思議ではない。播磨と雫は、既にキッカのことが認知出来なくなっている。今更亮の家に行っても、ただ亮や真理亜が見たものをそのまま口にする報告を聞き、想像を膨らませるだけだ。それならば、真理亜と亮が自分達の目で確認し、後日報告するのと変わらない。九年前のあの日の様に四人で集まって、集団ヒステリーか妄想癖と家族や友人に誤解を招かれかねない行動は慎みたい。
カメラや動画を撮り、何処かの専門家(何の専門家だろう、と今になって馬鹿げたことだと笑いがこみ上げる)に相談することも、一度考えた。けれど、キッカの姿は、光を使って映写するあらゆる機械類やカメラの撮影が出来ない。全て真っ黒の写真にしかならないのだ。肝心の魚の姿は、全く映らない。だから証拠能力の高い画像や映像媒体として、キッカの姿を保存することは不可能だった。故に直接キッカの姿を見られない人間にとって、それはパラノイアが見せる幻覚に近い。
「確認の必要は、あるかもね」
言いながら内心、久し振りに亮の家へ行くということに、胸を少しだけざわつかせている。その胸の内を気取られぬように、真理亜はベンチに置いた鞄を再び持ち、先に立ち上がる。
「そんなに急ぐか」
亮が訊きながら、自分も足元の鞄を手に取り、立ち上がった。
「だって亮の家、遠いでしょ。私のクラス、今日課題が多いから早く帰らないと駄目なの」
「ああそうか、お前の家学校から近いから、歩きだったな」
近いとは言うが、歩いて片道二十分弱の距離だ。そして彼女の家は、学校からより遠い亮の家よりも古く、老朽化が激しい。立地も、まあまあ近所にまばらに民家が建っている亮の家とは違う。
真理亜の家は、孤独に建っている。
孤独な自分は、今日もあの家に帰らなければならない。一人、夕暮れの道を歩きながら。
だが、そんな真理亜に亮は言う。
「自転車のケツ、乗ってけ」
「……あんたの自転車、座るトコ無いじゃん」
「足掛ける場所あるから、立ってればいい」
こともなげに、平然と言った。駐輪場に歩いていく先には、もう亮の自転車の他には、数台しか残っていない。大きめの亮の自転車は、後輪の車軸に足置き場の様なものが取り付けられ、改造されていた。
真理亜は、亮の物と一緒に自分の鞄を、自転車カゴに放り込む。そうして足場に足を乗せて、亮の肩に手を置いた。
「行くぞ」
ペダルを漕ぐ。動きに備えていなかった体が後ろに倒れそうになって、慌てて両手に力を込めた。
その姿を、生徒指導の安西に見られた。「こらお前ら!」とまるで安っぽい漫画かドラマでしか聞きそうにない怒声を吐いたジャージ姿の教師から顔を隠す様に、やべっ、と呟いて真理亜はセーラー服の襟を立て、顔を隠す。しかし亮は「うるせー!」と怒鳴り返し、そのまま思い切り自転車を発進させた。
最初は鈍足だった自転車も、校門口の短い坂を下ってからは安定した速度で走り出す。
「喧嘩、売るねぇ」
茶化して言うと、亮は機嫌悪く答えた。
「不倫してる教員に指図されたくねえ」
「え、そうなの」
「E組の山田」
「えー、相手未成年かよ」
「最近、生徒の間でバレ始めてる。強請ろうとネタ集め始めてる奴も陰で出始めてるぞ」
「どいつもこいつも最低だな」
呆れ、それきりしばらく、二人とも口を噤んだ。ややあって、真理亜はぽつりと口にする。
「久し振りだね、亮の家に行くの」
そうだなあ、と風を切る音よりも少し大きな声で、亮は返した。
「いつからだっけ、みんなで集まらなくなったの」
「覚えてない」
遠くに視線を泳がせて答えた。徐々に建物は消え、等間隔で並ぶ電柱と、遠くにそびえる高圧電流の鉄塔が印象に残る。それでも、あと十分も自転車を走らせれば、学校の近辺に近い密集率でまた家が立ち並ぶ光景に、それらは飲み込まれてしまう。
あの鉄塔の近くまで、みんなで探検しに行った。柵の中まで入って、通りかかった大人にこっぴどく叱られたことをまだ覚えている。道の反対側に広がる水田で、ザリガニやトンボを捕まえて、亮と播磨が派手に側溝に落ちていた。
全て、遠く。
まだ十七年の人生の中で、まるで前世の記憶の様に、それらは遠い記憶になっていた。
卒業して、大人になって、仕事をしたら、十八年というサイクルを四回以上繰り返し、ようやく自分達は定年を迎える。
自分はそれまで、孤独でないまま生きられるだろうか。
漠然とした『未来』の不安ばかりが胸に響く。
いつの間にか、亮の肩に触れていたことから来る心臓の鼓動の高鳴りは、初夏の光景に飲み込まれ、落ち着いたものになっていた。
「また遊びたいな」
ぽつり、と言った。亮が訊き返す。
「いつも遊んでるだろ」
「そうじゃなくてさ。また、新しいことを探しに、馬鹿みたいなこととか、楽しいことを探して、狂ってみたいじゃん」
「狂ってたのかよ、俺達」
あはは、と笑う亮だったが、真理亜は笑わなかった。
狂っている。今でも。自分達は、まともに見えていても、おかしいんだ。
だって、少数派だから。
だって、石の中を泳ぐシーラカンスが見えているから。
お邪魔します、と声を掛けて亮の家に上がる。リビングドアのガラス越しに、ラップトップを持ち込んでテーブルで仕事をしていたらしい伽耶が顔を上げ、微笑みながら控えめに手を振った。仕事中のようだ。
俺が飲み物持ってくからと、亮は真理亜に、先に自分の部屋へ入って待つよう言った。真理亜は階段を上がり、久し振りに彼の部屋のドアを開ける。
六畳程度の部屋。ここに昔、小学生四人がよくも入っていたものだと感心する。昔よりも漫画本は増えている印象を受けたが、控え目な大きさのゲーム用テレビは、最後に来た時のまま変わらない。そのテレビとゲームで遊んだ記憶が呼び戻されて思い出したが、そう言えば、最後に亮の部屋を訪れたのは、雫と三人、中学生の頃だ。
『おかえり』
そしてその時も変わらず、キッカは石の中で泳いでいた。
『驚かないんだね。突然私が来ても』
『突然じゃない。キッカには分かっていた』
『あっそ。じゃあついでに、今度の実力テストで出る範囲も教えてね』
適当に嫌味を言って、真理亜は鞄を適当に置いて、ベッドに腰を下ろす。
……最近は特に、キッカのことが気に入らなかった。普段意識するわけではないが、彼が亮の部屋でこの九年間を、彼と共に過ごしているのだという事実が、気に入らなかった。真理亜はしばらく、亮が戻るまでキッカを控えめに睨み続ける。
便宜上、真理亜達はキッカのことを『彼』と呼んでいる。だが、人間でいうところの大人か子供か老人か、そもそも男か女かさえもよく分からないその『声』の性質では、そのシーラカンスの性別を確定させることは困難を極める。
他の三人は、キッカを『彼』と呼称することに躊躇いを感じていないようだが、真理亜は違う。
何故だろう、自分はキッカに対し、女性的な何かを直感的に感じ取っている。
そんな些細な違和感はいつも、亮の部屋に来る時に増幅する。恐らく、キッカの真理亜に対する言葉尻や些末な口調に、何処かトゲを感じるのだろう。真理亜はそう考えていた。
やがて麦茶に入ったグラスを持ってきた亮が戻ってくる。上手く動かない手で溢さないようにと注意して受け取り、渇いた喉を潤した。
「さて」
グラスの半分を一気に飲み干して、亮は本題に入った。手製の台座に乗せたキッカの泳ぐ石を持ち上げ、いつかそうしたように、それを床に置く。真理亜もグラスをデスクの上に置き、同じように床に正座し、石を軽く覗き込む姿勢で注視する。「話してくれ」
『何をだい』
「昨日言っていた、目について」
『そのことなら、もうすぐ戻ってくる』
戻ってくる、という言葉に疑問符が浮かぶ。目が、戻る?
真理亜は顔を上げて亮に目配せをするが、彼もまた、疑問を払拭出来ないという表情をしていた。それを無視して、キッカは続ける。
『これまで、キッカは知識を集めてきた。亮達が高校に入るくらいまでは、知識を得る為のソースは進化があった。図鑑や本、漫画、映画から始まり、それは人からの伝聞、テレビ、そしてネットへと拡大し、些末な電子情報はネットの海の中に永遠に漂い続ける。情報それ自体も同じだ。誰か・何かから発せられた言葉の羅列は人々の意識と記憶の底に沈殿するか、記憶の海という広大な情報埋没空間の中で、誰かに見付かり、拾われ、食われるのを待ち続けている。人にもキッカにも、それを回収する手段は存在しなかった』
饒舌な魚。見た目にはいつも通り、石の中を泳いでいるだけの古代魚に見える。けれどその肉鰭はいつもよりも忙しなく動き、体をくねらせながら泳ぐ姿は、何処か興奮気味に思える。
『サルベージが必要だ。キッカは知識を求める。この世界を観測する為の手掛かりを、この世界の住人達を理解する為の情報を、少しでも多く広い集め、収集し、獲得し、知覚しなければならない。キッカには亮達以外に世界を知る、もっと広い世界を探索する存在が必要だった』
「それがお前の言う『目』か?」
亮は問う。言葉では答えなかったが、キッカは否定もせずに話を続ける。
『目はキッカの全て。世界であり、腕であり、足であり、耳であり、鼻である。キッカはキッカとしての責務を果たす為に、それを必要とした。真理亜』
突然名前を呼ばれ、驚いて石から顔を離す。彼女の心の中に、一握の恐怖心が芽生えた。
そしてその恐怖は、次のキッカの言葉から、徐々に膨らみ始める。
『次の実力試験の範囲だが、日本史は室町時代を中心に予習するといい』
「……え?」
突然の言葉に、真理亜は体を硬直させた。徐々に冷や汗が流れ始める。先刻までのキッカとのやり取りを知らない亮は、真理亜とは別の意味で出現した突然の言葉に戸惑い、真理亜とキッカを交互に見ていた。
『古文は、枕草子の三巻本八十八段を読み、口語訳を暗記すること。現代文の大問二、問節三の選択肢イは引っ掛けだから、気を付けること。英語の長文の一つは、ナイチンゲールの伝記だ。今の内にネットでもいいから、彼女の大体の人生を頭に入れておけば、君の頭なら九割は固いだろう。君の苦手な前置詞の問題もあるから、自動詞や他動詞も含めて熟語を覚えることに集中するといい』
汗が止まらない。初夏に入ろうとしているだけの今の季節、まだそんな汗を掻く時期ではないというのに。
分かっている。これは、恐怖から来る汗だ。真理亜は自分の腕で額の汗を拭った。
異常な事態に気付いたのだろう、亮は険しい顔をして語気を荒くして言う。
「キッカ、何の話だ!」
『真理亜はキッカに先程求めた。実力テストの答えでも教えろと。だからキッカであるところのキッカはここから外に出られないが、キッカの目は、来週にも実施される実力テストの中身を知っている者達を見付けた。彼ら彼女らは知っているから、キッカはそれを覗いただけだ』
緑の目を持つ古代の魚は、雄弁に現在の全てを語ろうとする。或いは、これから真理亜達が出会うはずの未来についてを。
だから彼女は、真理亜の突然の来訪に一切驚きを見せなかったのだ。
遠く離れた存在と、その動きを知っていたから。
……この魚は一体、何者なのだ。
『亮。キッカは君に約束した。今日、キッカの手にした新しい「目」を見せると』
それがこれだ。
キッカは言って、素早く体をくねらせ、一度石の中に広がる暗闇へと消える。真理亜と亮は顔を近付け、砕けた石の表面から覗く、コバルトブルーの鉱石を覗き込む。
一つ、二つ、三つ。
キッカの目の光ではない、別の光源を持つ丸い何かが、闇の中から真理亜達を見つめ返した。ギョッとした亮が体を引くのに対し、真理亜はその光の正体を探ろうと、一層体を前のめりにする。
ふわっ、と光は跳ねる様に動く。それがまるで、発光するクラゲが水を掻いて泳ぐ仕草に似ていることに思い至るのに、そう時間は掛からなかった。
そして、その光は厳密には光ではなく、光を反射して輝く球体であることにも気付く。
まるで、キッカの目の様に。
そうしてそれは、闇の中から姿を現した。
「イカ……?」
ヤリイカだ。何の変哲も無い(いや、この石の中に存在している時点で普通ではないのだが)、その姿には何も変わったところは無い。しかし、何故。
今まで、石の中にはキッカ以外の動くものは存在していなかった。そして真理亜達も当然の様に、それがキッカという不可思議な『何か』を存在させる為だけにある特別なものであると疑わなかった。
けれど石の中には今、三匹のヤリイカが居る。キッカの体長よりもずっと小さく、しかし捕食される危険を感じている訳でもなさそうで、のんびりと泳いでいた。
当たり前だと思っていた常識が次々と、真理亜の目の前で砕かれていく。困惑と恐怖がない混ぜになったやり場の無い感情が、彼女の心を掻き乱していた。
『これが、キッカの「目」だ』
「このイカが、か?」
信じられないという風に、亮は訊き返す。けれど真理亜も、そして口にした本人も気付いている。理解出来なくとも、受け入れなければならない何かがあると。
『イカはイカだが、世界の海の何処にでも住む。こんな石の海に住むキッカが居るのだから、こんな石の海に住むイカも居るだろう。石の記憶に飲まれる前に、キッカは記憶を救い出す。イカはキッカの目になって、記憶の海へと泳ぎ出し、キッカに全てを伝えてくれる』
沈黙。何と返答して良いやら分からずに、真理亜達は呆然としていた。
外は薄暗くなり始めていたが、部屋の電気を点けることも忘れて、二人は石を見ていた。
キッカは石の中でクルリ、と一度泳ぐ。同時にイカ達は再び、闇の中へと消えていった。
『亮。キッカが世界に触れる為の世界の窓は、君達四人を介して触れる世界だけではなくなった。四人の集めてくれた知識と知恵と言葉は、キッカという個を構築し、新たな世界を観測する手段を作る発想を与えてくれた。キッカという個は、これから加速度的に巨大になるとキッカは考える』
「何を、する気なの」
真理亜は震える声で訊いた。怖い。何がとは説明し難いが、とにかく、目の前のシーラカンスに対して、未知なる恐怖心を覚えたのだ。
しかしキッカは、相変わらずの無機質な声で答えるだけだった。
『キッカがキッカである為に必要な、あらゆる全てだ』
夕飯を食べていけばいい、と招待しようとする伽耶の親切は有り難かったが、丁重に断った。何も、厄介になりたくないわけではないのだが、部活動のある翔は夕飯を作れない。簡単な料理でもいいから作らなければ、夜遅くに帰宅する父は激昂する。三年前に一度作り忘れた時は、翔共々強く頭を何度もぶたれた。真理亜の不完全な指が原因で家事が遅くなることもままあったが、勿論、そんなことはあの男に関係無かった。自分の瞬間的な欲求が満たされないということの怒りは、あらゆる現象や理由、事情を凌駕するのだ。
幾ら体が大きくなって、力が強くなっても、子供の頃からの精神的な恐怖心が潜在的に、真理亜と翔に植え付けられている。夜中にも関わらず大声を出せる無神経さを持つ父に、二人は恐怖するしかない。
だから真理亜は往路と同じ様に、亮の漕ぐ自転車の後ろに立って、夕日を眺めながら何も無い平坦な道を走る。
この道は、再び自分が進まなければいけない、孤独の道へと通じているのだ。そう思うと、悪寒がした。そんな真理亜の心情など露知らず、前を向いたままペダルを漕ぐ亮は訊いた。
「本当に、あれはあいつの目なのかね」
「さあ。ああ言ってるんだから、そうじゃない?」
「何だ、随分適当だな」
実際、真剣に何かを考える余裕がある程、今の真理亜は平静ではなかった。あのシーラカンスは、自分に呪いを掛けたのだ。次の実力テストが行われるまでの間、キッカの言ったことが真実であれ虚偽であれ、彼女の心はずっと乱され続けるだろう。そしてきっと、キッカには本当に千里遠くの何かを見付けることが出来るに違いない。テスト当日、百発百中の答えを目の前にして、自分の頭はパニックになるのだ。
「嫌になる」
ぽつり、と言葉が口を突いて出た。何が、と亮は訊くので、正直に答える。
「きっと私、ずっと変われないままこの町で一生を終えるんだと思う」
「どうして? 何があるか分からんだろ」
「そうやってポジティブに未来に期待出来る程、私、馬鹿じゃないの」
「失敬な。……でも確かに、俺よりは勉強出来るし、間違ってはないな」
何故だろう。こんなに近い距離を、こんなに長い時間を一緒に過ごしているのに、亮は自分のことを理解していない。そんな暗い感情が、水に落ちる一滴の墨汁の様に、心の中で広がっていく。「真理亜は、大学何処か決めたのか」
ほら。自分が恵まれていることを理解していないから、同じ目線で言葉を選ぶ。
「私、就職する」
「え」
「家に色々、余裕が無いんだよ」
今まで、家族以外の誰にも話したことの無い話題。本音を言えば真理亜としても、それを話したくはなかった。けれどそれ以上に、亮に秘密にしたままでいることが、もっと嫌だなと思った。
本当は、今すぐ学校なんて辞めてもいいと思っていた。
けれど、亮や雫、播磨達と過ごす時間が楽し過ぎて。
ずっと、皆の傍に居たいのだと、心に決めていた。
「二年後からも、よろしくね」
来た時と同じ様に遠くの鉄塔を見ながら、真理亜は静かに零した。夕陽を受けて毒々しい光を帯びるそれは、真理亜の網膜を刺激する。
うん、と気の無い返事をして、それきり亮は、真理亜の家の近くまで無言でペダルを漕ぎ続けた。
ガタガタと、籠の中で揺れる自分の鞄の音を聴きながら、往路で考えたことを思い出して、それに関連して、真理亜はふと考えた。
キッカの姿は、肉眼でのみ捉えることが出来る。しかしその姿は写真や動画に収めることは出来ない。それは何も、最近のデジカメやスマートフォンなどの電子機器を媒体とした話に限らない。小学六年生の頃に試した使い捨てカメラなど、比較的単純な構造をした道具を以ってしても、キッカの姿は映らなかった。
カメラと人間の目の基本構造は同じだ。レンズや水晶体に差し込む光量を調整し、合わせたピントが定まった状態を網膜に映写し、一方は神経を、一方はフィルムを通してその姿を切り取る。レタッチをして生まれる写真の陰影や彩度も、元々のデータに存在している色彩情報・光源情報から構成される。だからこそカメラは、人が見た通りの光景を写し取るのだし、そうでなければカメラの意味は無い。
人の目には問題なく映るのに機械では映らない、という条件を持つものが何かを考えてみる。そして、具体的な存在は頭に浮かばなかったが、似たものは一つ、思い出した。
キッカに与える新しい情報を探し、適当にネットの科学記事を流し読みしていたことがある。その中で、ハリウッド俳優などのセレブがパパラッチの盗撮防止をする為、撮影を妨害する布についての記事を読んだことを思い出した。
球体のナノクリスタルを散りばめた特殊な布をスカーフの様に首に巻いたりすることで、フラッシュ撮影を完全に無効化させるのだ。写真や動画のフレーム内にスカーフが入ることで、スカーフ以外の全てが真っ黒になる、そんなアイテムが発明されたというニュース。
赤外線カメラを用いることで人の目に見えないものを見られる様に、道具では見ることの出来ないものを肉眼でこそ見ることが出来る。そんな手段が、この世界に存在する。
そんなことが、あのシーラカンスには可能なのだ。
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