2-1 成熟
「現在シーラカンスの分布域として知られているのは、世界で二箇所。化石で確認されている種類は百二十に及びますが、現在はアフリカとインドネシアで二種類ずつのみです。特に最初にアフリカで発見されたラティメリア・カルムナエは体長が大きいのが特徴で、最大の個体で二メートル、体重は百キロを超えます。僕ら成人男性の倍近くと考えると、何となく想像しやすいですかね? さて……」
偶然にも一度だけ、中学生の頃に訪れた水族館で、シーラカンスの解説をする場に立ち会ったことがある。学校行事の一環で遠路遥々やってきた自由行動の初日、亮達はそこが、日本でも有数の、シーラカンスの研究に重きを寄せる水族館であると知り、揃って足を運んだのだ。
巨大水槽を背後にしてホールの壇上に立つ五十近いらしい男は、水族館の職員ではない。何でも、近くの大学で古代生物の研究をしており、時折こうしてシーラカンスの解説に訪れ、古代生物に子供達が興味を持ってもらうよう努めているのだと言う。
だが少なくとも亮には、早見坂と名乗ったその教授の生い立ちや理想に興味は無い。ただ、ネットの情報だけでは分からないシーラカンスに関することを知りたかった。
早見坂は続けた。
「シーラカンスは、いわゆる深海魚に近い生活をします。でも厳密には深海魚じゃないんです。深海というのは、水深二百メートルからのことを指しますが、シーラカンスは百五十メートルを主な住処にしてるんですね。しかし水揚げされたシーラカンスの胃の内容物を確認すると、もう少し深い所に棲んでいる深海魚が出てくることがあります。特にリュウキュウホラアナゴが見付かったことから、最低でも水深六百メートルまで潜ることが出来ると考えられてます。で、みなさん、こんな深い海って真っ暗闇だと思いますか? 実はですね……」
海中に差し込む光は、水深が深くなるにつれ徐々に暗くなっていき、二百メートルにもなると真っ暗だと言う。けれど計測器で確認すると、実は千メートルまでは太陽の光が僅かながら届いているらしい。だから深い海に棲むシーラカンスでも、その世界はぼんやりと見えているのだ。
そんな話を、隣に座る播磨は熱心に聞いていた。だが、左隣に居る真理亜と雫はそうでもない。特に雫は、一層退屈そうにしている。
「私も前、インドネシアでシーラカンスの研究の為に調査に加わりましたが、ROVというロボットカメラで、そんなぼんやりとした海中に泳ぐシーラカンスを発見出来ました。これがね、面白くてね。シーラカンスって、巣を作るんですよ。ウサギの穴みたいに」
言いながらリモコンを操作する早見坂の背後、水槽にプロジェクタの光が投影される。あまり強い光は魚に悪影響なんじゃないかと思ったが、そういう演出用に使う水槽なのだろうか。
プロジェクタの投影した写真画像は、海中の斜面の光景だった。撮影ロボットが照射しているらしいスポットライトの真ん中に、斜面に空いた黒い穴が写っている。
「岩の亀裂の中や、こうした洞穴の中に潜んで、主に夜、活動するようです」
その写真を見た時、亮はハッとした。恐らくは播磨と真理亜も、そして多分、雫も。
それは、キッカの泳ぐあの石の空間と、よく似ていたのだ。
高校生になってからも、亮はキッカの泳ぐ石に心を奪われたままだった。それまでやたらと外に出かけては素敵な物を集めていた彼が、あの石を手にした日を境に、そうした収集癖を無くしてしまう程に。
中学生になって、利用出来る図書室の蔵書や種類が圧倒的に増えたこと、そしてインターネットを使える環境とその使い方について理解するようになったことも、彼の知的好奇心や知識を増やす助けになった。
全ては、キッカに知識を与える為。
『今日は学校、どうだった』
家に帰った亮に、石の中の魚は尋ねる。鞄を床に放り投げて、亮は同じく声を出さず、頭の中で答えとなる言葉を思い浮かべた。
『刺激が無くて、退屈だ』
『亮は、刺激が欲しいのか。いつも愚痴を言っているな』
『新しいことや知らないことを知りたいんだ。進歩が無ければ、その日は退屈だ』
『キッカはまだ、知らないことが多い。キッカはその分、亮よりも幸福と言える』
石の中のシーラカンスは、無機質な声でそう言った。男とも女とも、子供とも大人とも老人ともつかない声で。
亮が少し困るのは、キッカのこの一人称についてだ。理由はいくら聞いても答えてくれないのだが、キッカは自分のことを、『私』や『僕』や『俺』ではなく、『キッカ』と呼ぶのである。そしてこれは、自分のことを指すあらゆる一人称にも適応される。例えば、
「私の名前はキッカで、シーラカンスである」と彼が言葉を発する時、「キッカの名前はキッカで、キッカである」という言葉を使う。別個体のシーラカンスを指す時はその通りに言うのだが、時々、その言葉遣いに混乱した。
これは、キッカが流暢に言葉を話すようになってからも唯一、一向に変わらないルールだった。このことに案外、この不可思議な魚に関する答えがあるのかも知れないと考えた時もあるが、どうしてもその理由を考えられなかった。
亮は椅子に座って、机の上に置かれた石を見つめる。彼が勉強するスペースは確保されているが、石の為に割いている為、十分とは言えない。それでもこの九年間、亮はキッカのその位置を定位置をして、変えることはしなかった。亮にしか見えない小さなシーラカンスは、石の中でゆったりと回遊している。
『その中で抜け出せない生活より、俺の方が楽しいと思うけど』
『キッカはそうは思わない。あらゆる知識と情報は、キッカの中に入ってくる』
『俺が教えてるお陰だろ』
『半分は、そうだ』
亮は首を傾げる。どういうことだろう。自分の他に、誰かを介して情報を得ているのだろうか。いや、それは有り得ない。有り得るとしても、播磨か真理亜以外にはない。だが今キッカの言った言葉の真意は、彼ら二人を指すものではないと思った。
『何が言いたいんだ』
問う。キッカは、ハイギョ特有の肉鰭を器用に動かして、フイ、と石の向こう……海の向こうの暗闇へと逃げていく。物理的に何処かへ行くわけではないが、或る程度の空間が存在するらしい石の向こうの世界で、キッカは時々、こうして亮達の質問から逃げるのである。
だがこの時のキッカは、意外にも答えた。
『キッカには、亮の考えるよりも仲間が居る。そして多分亮には、亮が思ってるよりも友達が少ない。それは、この石の中に居ることも外に居ることも大きな問題ではないのだと、キッカは考える』
馬鹿にしているのか、こいつは。亮は少し腹を立て、石の向きをちょっとだけズラし、勉強道具を広げる。
一学期の中間試験は終わったばかりだが、宿題は多く出されていた。
*
真理亜の自室の窓は、通りに面していない。とは言え、周りにはポツリポツリと民家が建っているので、彼女が窓を開けて外を見ていれば、誰かがふと、その姿を見ないとも限らない。
だから彼女が煙草を吸う時は、ベッドに座り、窓は半開きにし、そこに煙を吐き出すようにする。顔が家の外から見える位置へと来ないように。
うなじが見える程度の長さで切り揃えられた黒髪と、気怠そうな目。スカートも既定の長さ。
傍目には、普通の女子高生だ。そして事実、そう言われ続けてきた。けれどだからこそ、自分の未来が決定されているようで、恐ろしく、そして怖かった。きっと自分は、世間が定める普通という既定路線を正しく歩き、当たり前に当たり前のことをし続ける人生を歩むのだと言われている様で。
煙草を吸ったからと言って、何かが変わるわけではないだろう。それが分からない程、真理亜は愚鈍ではない。けれど、真面目なままの自分が将来幸福になれると根拠の無い自覚と共に未来を進めるわけではないことが理解出来る程に、頭は良かった。
誰か、こんなことをしている自分に気付いて、失望して欲しい。努力をしても、きっとそれは真理亜に取って『普通』のことだと、誰もが考えるだろう。
近くの田んぼで、カエルが鳴き始める。本格的な夏も近い。
この時期になると真理亜は、いつも九年前の夏を思い出す。
海の無いこの町にやってきたあのシーラカンスは、孤独の石の中で、一体何を考えるのだろう。
冷蔵庫にある食材を使って、適当に夕飯を作る頃になって、弟の翔が部活から帰ってきた。同じ高校に通ってはいるが、帰宅部の真理亜と違い、吹奏楽部に入っている彼の帰りは遅い方だ。だか、今日は早い。まだ七時になっていない。
「早いじゃん」
言うと、顧問が急に休みを取ったと言う。
「ありえねぇ」
「お疲れ。パスタにするよ」
「うぃ。……お母さんは」
「もう出掛けた」
部活から早く帰ってきたところで、翔は母親に顔を合わせられない。町中の場末の水商売とは言え、開店前の準備などは必要なのだ。精々、六限が終わると同時に自転車に乗って家に真っ直ぐ帰った時、家を出る母と鉢合わせるかどうか、というところだ。加えて彼女が帰宅するのは、真理亜と翔、父が家を出た朝八時や九時頃。だから真理亜達は、休日以外で母親の顔を見ないことが多かった。
居ても、父親と喧嘩をするばかりだ。そして父親は、母親のスナック経営が浅ましい、下賤な商売だと考えていることを喧嘩の際、いつも言葉の裏に滲ませる。直接言い切らないところが男らしくないし、卑怯だと思う。そして彼は、自分が何故妻から責められるのかを知らない。彼が不倫していることは、ずっと前からバレている。真理亜にも、翔にもだ。母がそれを言わないのは彼女の甘さであり、優しさだと思いたい。
一度、翔と二人で母親に、自分達は承知しているから離婚していい、とハッキリ伝えたことがあった。けれど母は、翔が高校を出た後にね、とそれを拒んだ。
「色々、あるの」
疲れた顔で笑いながら、母はそう言って話を切り上げた。二年前のことだ。
当時は、母が耐える理由が分からなかった。けれど、今では何となく分かる。
「お母さん、まだアイツのこと好きなのかな」
翔が、久し振りの料理の手伝いをしながら、真理亜に訊く。真理亜は苦笑した。
「んな訳、ないじゃん。好きだったらお母さん、離婚する計画なんて立てないよ」
「じゃあ、何でよ」
眉を顰める翔を目の端で捉え、堪え切れずにアハハ、と真理亜は笑った。
「お父さんもアンタも、やっぱり男だね。ロマンチストだ」
「アイツと一緒にするな」
不貞腐れる弟の横顔が可愛くて、タオルで拭いた手でゴシゴシ、と彼の頭を撫でてやる。固めた髪の毛のワックスが手に付いたので、もう一度手を洗った。
今の時代にまだ、女は家に入るもの、という古い価値観が染み付いて離れないこの町で、家族仲が円満な家庭に生きる人達には、決して理解出来ないことが一つある。それは、夫婦とは互いが互いを所有し合う関係であることを自覚しなければならない、ということだ。
だから多くの場合、夫は妻の、妻は夫の浮気を許さない。それぞれの立場と肩書という、そのプライドを汚されることになるからだから。
特に男は、こうした打算的な考えや冷静な感情的感覚を欠いているように思える。
よく女は感情で動くと言われるが、真理亜に言わせれば、男こそ感情で動いている生き物だった。幾つになっても、ロマンだ何だと言っては自分のやりたいことを優先させる。それに男らしさを感じ惹かれる者も居れば、そうでない者も居る。
シーラカンスの住む石に惹かれる亮も、そんな馬鹿者の一人だ。そう思った。
*
「お前、大学どうすんの」
播磨は亮に訊いた。んー、と生返事をしながら、亮はバッティングマシーンにコインを入れる。その隣のボックスで、播磨は九十キロの球をヒットさせた。
「考えてねえな。近場かな」
「真面目に考えろよ」
「就職組もまあまあ居るわけだし、申し訳ねえなーって」
「何だ、その謎の遠慮は」
昔からこうだった。亮は、自分の興味のあることに関しては他の追随を許さないとでも言わんばかりにまっしぐらに突っ走るのに、興味の無いことに関してはまるで競争心を抱かない。大学受験の悩みなどとはおよそ無縁に思えるが、これでも播磨と同じ進学組だ。しかし、今の時期から既に準備に入っている播磨と違い、亮はまだブラブラと遊んでいる風にしか見えない。
「ムカつく奴だ」
「褒めたって何も出ねえぞ」
「馬鹿にしてんだよ」
語気を荒げ、播磨はバットを降った。思い切り空振りだった。一方で、亮はホームランこそ無いものの、そこそこにヒットを出している。体格も体力も播磨より下だが、運動も勉強も、やる気さえ出せばそれなりにこなせるポテンシャルがある。それが亮だった。そして播磨は、それが時々嫌になる。
恵まれている人間というのは居るもので、今の内から就職後の生活やら老後の心配をしなければならなくなり始めたご時世、まだこの片田舎の町では、そうした危機感を希薄なものとして捉えている同級生を多く見る。同年代や、もしかしたら働き始めの大人達よりも深く、その辺りを考えている。何となく、そんな自覚はあった。
それもこれも、キッカに原因があると言える。
あの石に閉じ込められたシーラカンスのことを知り、そして彼自身に関する秘密を聞き出す為に、言葉や知識を教えていた。しかしキッカは自身のことに対して、その秘密と存在について話すことはしない。
『生まれた時から、キッカはキッカだ』
その『キッカ』が本当のところ何を指すものかは、分からない。けれど、キッカの原始的思考や生存の理由について尋ねたところで、簡単に答えられるものでないことは、あの九年前の秋頃には既に察していたものだ。
人間に、『君達は何処から生まれ、何処へ何をしにいくのか?』と問われ、答えられる者は稀有だろう。そのことに気付いてから、そして努力が実らないということに気付いてからは、徐々にキッカ自身への興味は薄らいだ。
けれど亮にその気配は無い。彼の心は九年前の夏以来、ずっとあの不気味な魚に囚われているのだ。
ようやく一本ホームランを出して、播磨は訊いた。
「キッカはどうしてる?」
「分かんねえ。いつも通りっちゃいつも通りだけど、二年になった頃から、ちょっと変わった気もする」
「どんな風に?」
「説明出来ん」
言って、またヒットを打った。播磨は、ファウルだ。足元に溜まっていく野球ボールを見ながら、播磨はそれが魚のフンみたいだな、と思った。
けれど、キッカはフンをしない。食べ物を食べる様子も無い。当然だ。深海魚に潜る魚が、あんな小さな石の中で九年間も一切の成長をせず、生存出来るはずがないのだ。そもそも、石の中である。
けれど、観察すればする程、それは実在するシーラカンスそのものだ。
古代魚であるシーラカンスには、一般的な現代を生きる殆どの魚類には見られない特徴が幾つかある。その最たるものがヒレで、第三背鰭と第二臀鰭、尾鰭を除く七枚のヒレは肉鰭と呼ばれる構造をしており、普通の魚のヒレと違い、筋肉と骨格で動く。これは四足歩行動物の起源種と同じであり、広義にはアザラシと同じだ。硬い鱗と強い筋膜により堅牢な体を確立させ、エナメロイド層の表面を持つ。
そして、シーラカンスには背骨が無い。脊柱と呼ばれる一本の管状組織がその代替部分となっており、そこから生まれる体組織もある。が、この脊柱は軟骨で出来ている為、化石に骨として残らず、化石で発見されていた生存個体発見以前のシーラカンスには、まるで背骨が空洞になっている様に見えるのだ。
断言してもいい。確かにあれは、シーラカンスだ。だが、もしも本物のシーラカンス、若しくはそれを模した近親種であったとしても、それが話すことは出来ない。声帯云々という話ではなく、シーラカンスの脳の容積量は脊椎動物として最低の、体積の一・五パーセントしかないのだ。どんな奇跡が起ころうと、シーラカンスが学習し、その知識を蓄積することなど不可能だ。
キッカとは一体、何なのか。
シーラカンスの形を取った、生物とは別の何かである、ということまでは断言出来る。だが、それ以上は不可能だった。
興味はある。だが、播磨にそれを確認する術はもう無い。彼にはもう、石の中のキッカの姿を見ることが出来ないのである。
バットを片付ける播磨に向かって亮が、そんな播磨の思考を見透かしたかの様に訊く。
「もうお前、声も聞こえないんだっけ」
「うん」
「それでもシーラカンスに興味を持ち続けてるって凄いな」
「褒めてんのか?」
「勿論」
ラスト三球に構えを取りながら、真面目な顔付きで亮はピッチャーマシンを見据えながらそう肯定する。
……播磨には、もうキッカの姿も見えないし、声も聞こえない。
最初にその現象が始まったのは、雫だった。中学三年の頃、播磨達他の三人には聞こえているキッカの声が、彼女にだけ聞こえにくくなっていき、やがて頭の中に響く声は完全に消失した。それから二週間と経たず、今度はキッカの姿が徐々に石の中の闇へと溶ける様に消えていき、最終的には消滅したのである。今あの石は雫にとって、ただの鉱石らしき物が入った直径二十センチある球体の石以外の何物でもない。
「つまんない! 何で!」
文句を言う雫ではあったが、元々四人の中では一番、キッカに対して興味の薄かった彼女のことだ。それから一ヶ月もしない内に、彼女は別の興味の対象を見出した。それが、キッカという常識外の存在に触れた影響なのか、SFやオカルトなどのスピリチュアルな妄想だったというのは、どうにも皮肉に思える。占いやら運勢やらを楽しむならばともかく、宇宙人やら超能力について真剣に考えたりしている雫は、女の子らしくないなぁと思ったものだ。
男らしい、女らしいという思考や感覚はもう時代遅れの差別主義だ、と一度播磨は文句を言われたことがある。それ以来、彼女を揶揄する言葉は一度も使っていないが、未だにそのことを思い出して煩悶とした。
次にキッカを知覚出来なくなり始めたのが、播磨だった。
頭に響くその声が遠いものに感じられ始め、二週間後には完全に聞こえなくなった。そして泳ぐシーラカンスのその姿も、まるで朝日の中へ消えていく霧の様に、日を追う毎に影を薄くし、やがて消えたのだ。
冬の亮の部屋で見た、暗闇の中へと泳ぎ去っていく青いエナメロイドの鱗が鈍い光を反射させたそれが、播磨の見たキッカの最後の姿である。
「何で聞こえなくなるんだろうな」
「それについては三尾が熱く語ってただろ」
言うと亮は、眉唾だなぁ、と言いたげな渋面を作り、自転車の鍵を外す。陽が傾き始めていた。
今日の様なたまの息抜きが終わった後は、ずっと勉強だ。もう昔みたいにみんなで集まってゲームをすることも外を遊んで走り回ることも、少なくなっていく。きっと、そんな時間が減っていくことはあっても、これ以上増えることなんて無いだろう。
寂寥感を覚え、そしてそれが亮との距離を離していってしまう気がして、それを引き止める様に播磨は言葉をすぐに繋げる。
「俺だって、超能力なんて信じてない。でも実際、キッカの使っていたあれは、そうと言えるだろ」
「成長すると共に能力が使えなくなっていく、ってのはよく見る設定だけどさ。結局、根拠なんて無いだろ」
意固地になって反論しようとする亮に、意地悪く笑って答える。
「脳機能は、加齢と共に衰えるんだ。成長してピークを迎えるなんてことは無い。そういう意味では、三尾の話の筋は通ってる」
言いながら播磨は、亮よりも先に自転車のペダルを漕いで道に飛び出す。おい待てよ、と言いながら同じく自転車で追い掛ける亮を待たず、播磨は自転車を走らせた。
思考と記憶は、去年の同時期頃に飛躍する。
雫が、自分がキッカの姿を見られなくなって半年程が経過した時。彼女は、自分がキッカという或る意味奇跡的な存在と相対する関係になった経験を通し、オカルトやSFを、科学的・論理的に解明し、理解しようとした。そんな境遇で、高校に入学してしばらく経過した頃の話だ。
丁度今の様な初夏の近付く時期、土曜日午前授業の終わった人の少ないグラウンドで、播磨達四人はやることも無く、鍵の壊れた体育倉庫の裏窓からグローブとボールを拝借し、キャッチボールをしていた。
雫はそんなだらけた空気の中、熱弁したのである。
「キッカの話し方って、やっぱりテレパシーだよね? 私絶対そうだって信じてるんだけどさ、フィクションだとたったその一言で説明されるその原理、全く理解出来なくてイライラしてね」
「前置きが長い。さっさと言え」
亮が山なりのボールを投げる。真理亜はヒョイ、と手を伸ばし、簡単にキャッチした。雫がグラウンドの真ん中で、大きな声を出しながら続ける。
「実験記録のレポート読んだんだよ。この前」
「何の?」
真理亜がボールを高く頭上に投げながら訊く。誰が取るか、ボールの行方次第だ。四人が天空を見上げながら、雫は答える。
「勿論、超能力の」
ボールは、播磨の方へ曲がって落ちた。少しバランスを崩しながらも、彼は捕球する。「アメリカで年に一度開催される、バーニング・マンってイベントがあるらしいんだけどさ。一週間、何も無い砂漠のど真ん中で参加者が集まって、各々が自己表現とか、アートなパフォーマンスをするらしいんだけど」
雫は、その奇妙な祭典の内容をよく覚えていた。会場には仮設トイレと食品保存の為の氷以外に生活の道具や食料は無く、参加者が全て自分で賄う必要がある。そうした過酷な環境下で、やがて集結した表現者達は互いを支え合い、助け合い、見返りを求めないそうした巨大なコミュニティを形成する。その中で、彼らはアートを作るのだという。
「アート?」
「彫刻とか絵画じゃなくて、例えば会場一つを巨大なアート空間に変えることで、観覧者を作家の世界にインタラクトさせる、とか何とか。そういう近代芸術らしいよ」
演劇、サーカス、パントマイム、大道芸、パーティー、ヨガ、ヒーリング等。非日常の中で体感する表現活動を通じ、そして時にはマリファナの力も手伝い、このイベントに参加する表現者達はトランスしていく。
そして、一週間の祭りが佳境に差し掛かるその夜。
会場に設置された巨大な人型の造形物に、火を放つのだ。
参加者達は燃え上がる巨大人形に意識を集中させ、陶酔し、騒ぎ、共鳴していく。
「実験ってのは、バーニング・マン最大イベントのその時に行われたって」
ノエティック科学研究所の或る博士が、その会場に乱数発生装置を持ち込んだ。〇と一をランダムに、同じ頻度で発生するように作られた装置である。様々な研究に用いられるこの機械は、奇妙なことに、放置しておくとこの出力に一定の偏りが現れる時があるという。
乱数発生装置の仕組みを簡潔に言えば、素粒子の仕組みを用いているらしい。素粒子を壁に衝突させると、壁に跳ね返る素粒子と壁を通過する素粒子が同じ頻度で発生する。乱数発生装置はこの性質を利用しているが、或る特別な環境下で使用した場合、この一定頻度の乱数の偏りを発生させる装置は、極度の偏りを起こすことが判明したのだ。
つまり、砂漠の真ん中で数千人、数万人が一点に意識を集中させ、互いの感覚や空間、状況を共有することで、『人々の感情が大きく揺り動かされる環境下』で使用した場合。
「確率の偏りって、どれくらいだ?」
播磨は訊いた。雫は、貧弱な肩で精一杯ボールを投げる。なんとか、近い真理亜へとボールは渡る。雫は言った。
「マンが燃えた時に発生した偏りが起きる確率は、二百数十万分の一らしいよ」
言って、彼女はニヤリと笑って亮を見る。「これってさ。精神的な影響が素粒子に働いた、って考えたくない? それってさ、素粒子が精神と相互の関係を持ってるってことにならない? 超能力の由来が科学的に解明されつつあるって、ワクワクしない?」
ワクワク、という表情を隠し切れずに顔に滲ませる雫に向かって、亮にボールを投げる真理亜は冷たく言った。
「雫さ、素粒子って何か説明出来んの?」
「出来ねー」
「ダメじゃん」
「解散」
「えー」
亮も真理亜も馬鹿にしたその話が、しかし播磨の頭の中にはいまだに残っている。
もしも播磨達の見ていたシーラカンスの姿が、キッカが意図的に見せている幻で、その声もテレパシーで伝えている彼自身の意思の声だとしたら。あの石は、脳味噌を持つ生命体ということになる。だが、現在この地球上で生命を定義する範疇に、あのシーラカンスは含まれない。
キッカの姿も声も見聞き出来なくなった今でも、播磨の中でシーラカンスに関する疑問は尽きない。シーラカンスと言うべきか、生命体に対して、と言うべきか、それは不明瞭であったが。
「まだ諦めてねぇのか?」
ハッと我に返ると、亮が自転車で播磨と並走していた。
「何を」
ぼんやりとしながら、播磨は訊き返した。だからさ、と亮は続ける。
「シーラカンスの研究者になるって話」
何だそのことか、と播磨は苦笑し、再びペダルを漕ぐ速度を上げた。
「勿論」
もう、キッカのことを知り、観察し、その謎を解き明かすことは、自分には出来ない。けれど実物のシーラカンスに関する研究はきっと、新たな発見へと導いてくれるだろう。根拠の無い自信と確信は危ういものだったが、しかしそれは、播磨を確かに前へ進ませてくれる原動力となっている。
そういう意味では、自分は雫と同じ存在かも知れない。
そう言えば、と分かれ道の交差点で自転車を一度止め、亮が訊いてきた。
「音楽のトンちゃん、学校来てないんだっけ。音楽、非常勤の方が来てるぜ」
吹奏楽部の顧問も務める音楽教諭が、ここ数日休んでいるらしい。そう言えば先日の選択授業の時、音楽選択の生徒が授業中に授業と関係無い音楽をプレイヤーから流し、注意されていたと聞く。自習中だったのだろうか。
「マジ? そう言えば最近見ないな」
「他の先生に訊いても、何か変だった」
「変って」
「何人かに訊いたんだけどさ。間違えた、って言ってすぐに訂正したけど、何人か最初、違う理由を言ってたんだ。風邪だったり、職員教習の都合だったり。最終的にはみんな風邪だって言ってたけど、口裏を合わせてる感じだった」
「ふーん? ま、音楽選択組は大変だな」
「うるせー、美術組め」
嫌味を言い合いながら、亮とはその日別れた。
*
「現在シーラカンスの分布域として知られているのは、世界で二箇所。化石で確認されている種類は百二十に及びますが、現在はアフリカとインドネシアで二種類ずつのみです。特に最初にアフリカで発見されたラティメリア・カルムナエは体長が大きいのが特徴で、最大の個体で二メートル、体重は百キロを超えます。僕ら成人男性の倍近くと考えると、何となく想像しやすいですかね? さて……」
偶然にも一度だけ、中学生の頃に訪れた水族館で、シーラカンスの解説をする場に立ち会ったことがある。学校行事の一環で遠路遥々やってきた自由行動の初日、亮達はそこが、日本でも有数の、シーラカンスの研究に重きを寄せる水族館であると知り、揃って足を運んだのだ。
巨大水槽を背後にしてホールの壇上に立つ五十近いらしい男は、水族館の職員ではない。何でも、近くの大学で古代生物の研究をしており、時折こうしてシーラカンスの解説に訪れ、古代生物に子供達が興味を持ってもらうよう努めているのだと言う。
だが少なくとも亮には、早見坂と名乗ったその教授の生い立ちや理想に興味は無い。ただ、ネットの情報だけでは分からないシーラカンスに関することを知りたかった。
早見坂は続けた。
「シーラカンスは、いわゆる深海魚に近い生活をします。でも厳密には深海魚じゃないんです。深海というのは、水深二百メートルからのことを指しますが、シーラカンスは百五十メートルを主な住処にしてるんですね。しかし水揚げされたシーラカンスの胃の内容物を確認すると、もう少し深い所に棲んでいる深海魚が出てくることがあります。特にリュウキュウホラアナゴが見付かったことから、最低でも水深六百メートルまで潜ることが出来ると考えられてます。で、みなさん、こんな深い海って真っ暗闇だと思いますか? 実はですね……」
海中に差し込む光は、水深が深くなるにつれ徐々に暗くなっていき、二百メートルにもなると真っ暗だと言う。けれど計測器で確認すると、実は千メートルまでは太陽の光が僅かながら届いているらしい。だから深い海に棲むシーラカンスでも、その世界はぼんやりと見えているのだ。
そんな話を、隣に座る播磨は熱心に聞いていた。だが、左隣に居る真理亜と雫はそうでもない。特に雫は、一層退屈そうにしている。
「私も前、インドネシアでシーラカンスの研究の為に調査に加わりましたが、ROVというロボットカメラで、そんなぼんやりとした海中に泳ぐシーラカンスを発見出来ました。これがね、面白くてね。シーラカンスって、巣を作るんですよ。ウサギの穴みたいに」
言いながらリモコンを操作する早見坂の背後、水槽にプロジェクタの光が投影される。あまり強い光は魚に悪影響なんじゃないかと思ったが、そういう演出用に使う水槽なのだろうか。
プロジェクタの投影した写真画像は、海中の斜面の光景だった。撮影ロボットが照射しているらしいスポットライトの真ん中に、斜面に空いた黒い穴が写っている。
「岩の亀裂の中や、こうした洞穴の中に潜んで、主に夜、活動するようです」
その写真を見た時、亮はハッとした。恐らくは播磨と真理亜も、そして多分、雫も。
それは、キッカの泳ぐあの石の空間と、よく似ていたのだ。
高校生になってからも、亮はキッカの泳ぐ石に心を奪われたままだった。それまでやたらと外に出かけては素敵な物を集めていた彼が、あの石を手にした日を境に、そうした収集癖を無くしてしまう程に。
中学生になって、利用出来る図書室の蔵書や種類が圧倒的に増えたこと、そしてインターネットを使える環境とその使い方について理解するようになったことも、彼の知的好奇心や知識を増やす助けになった。
全ては、キッカに知識を与える為。
『今日は学校、どうだった』
家に帰った亮に、石の中の魚は尋ねる。鞄を床に放り投げて、亮は同じく声を出さず、頭の中で答えとなる言葉を思い浮かべた。
『刺激が無くて、退屈だ』
『亮は、刺激が欲しいのか。いつも愚痴を言っているな』
『新しいことや知らないことを知りたいんだ。進歩が無ければ、その日は退屈だ』
『キッカはまだ、知らないことが多い。キッカはその分、亮よりも幸福と言える』
石の中のシーラカンスは、無機質な声でそう言った。男とも女とも、子供とも大人とも老人ともつかない声で。
亮が少し困るのは、キッカのこの一人称についてだ。理由はいくら聞いても答えてくれないのだが、キッカは自分のことを、『私』や『僕』や『俺』ではなく、『キッカ』と呼ぶのである。そしてこれは、自分のことを指すあらゆる一人称にも適応される。例えば、
「私の名前はキッカで、シーラカンスである」と彼が言葉を発する時、「キッカの名前はキッカで、キッカである」という言葉を使う。別個体のシーラカンスを指す時はその通りに言うのだが、時々、その言葉遣いに混乱した。
これは、キッカが流暢に言葉を話すようになってからも唯一、一向に変わらないルールだった。このことに案外、この不可思議な魚に関する答えがあるのかも知れないと考えた時もあるが、どうしてもその理由を考えられなかった。
亮は椅子に座って、机の上に置かれた石を見つめる。彼が勉強するスペースは確保されているが、石の為に割いている為、十分とは言えない。それでもこの九年間、亮はキッカのその位置を定位置をして、変えることはしなかった。亮にしか見えない小さなシーラカンスは、石の中でゆったりと回遊している。
『その中で抜け出せない生活より、俺の方が楽しいと思うけど』
『キッカはそうは思わない。あらゆる知識と情報は、キッカの中に入ってくる』
『俺が教えてるお陰だろ』
『半分は、そうだ』
亮は首を傾げる。どういうことだろう。自分の他に、誰かを介して情報を得ているのだろうか。いや、それは有り得ない。有り得るとしても、播磨か真理亜以外にはない。だが今キッカの言った言葉の真意は、彼ら二人を指すものではないと思った。
『何が言いたいんだ』
問う。キッカは、ハイギョ特有の肉鰭を器用に動かして、フイ、と石の向こう……海の向こうの暗闇へと逃げていく。物理的に何処かへ行くわけではないが、或る程度の空間が存在するらしい石の向こうの世界で、キッカは時々、こうして亮達の質問から逃げるのである。
だがこの時のキッカは、意外にも答えた。
『キッカには、亮の考えるよりも仲間が居る。そして多分亮には、亮が思ってるよりも友達が少ない。それは、この石の中に居ることも外に居ることも大きな問題ではないのだと、キッカは考える』
馬鹿にしているのか、こいつは。亮は少し腹を立て、石の向きをちょっとだけズラし、勉強道具を広げる。
一学期の中間試験は終わったばかりだが、宿題は多く出されていた。
*
真理亜の自室の窓は、通りに面していない。とは言え、周りにはポツリポツリと民家が建っているので、彼女が窓を開けて外を見ていれば、誰かがふと、その姿を見ないとも限らない。
だから彼女が煙草を吸う時は、ベッドに座り、窓は半開きにし、そこに煙を吐き出すようにする。顔が家の外から見える位置へと来ないように。
うなじが見える程度の長さで切り揃えられた黒髪と、気怠そうな目。スカートも既定の長さ。
傍目には、普通の女子高生だ。そして事実、そう言われ続けてきた。けれどだからこそ、自分の未来が決定されているようで、恐ろしく、そして怖かった。きっと自分は、世間が定める普通という既定路線を正しく歩き、当たり前に当たり前のことをし続ける人生を歩むのだと言われている様で。
煙草を吸ったからと言って、何かが変わるわけではないだろう。それが分からない程、真理亜は愚鈍ではない。けれど、真面目なままの自分が将来幸福になれると根拠の無い自覚と共に未来を進めるわけではないことが理解出来る程に、頭は良かった。
誰か、こんなことをしている自分に気付いて、失望して欲しい。努力をしても、きっとそれは真理亜に取って『普通』のことだと、誰もが考えるだろう。
近くの田んぼで、カエルが鳴き始める。本格的な夏も近い。
この時期になると真理亜は、いつも九年前の夏を思い出す。
海の無いこの町にやってきたあのシーラカンスは、孤独の石の中で、一体何を考えるのだろう。
冷蔵庫にある食材を使って、適当に夕飯を作る頃になって、弟の翔が部活から帰ってきた。同じ高校に通ってはいるが、帰宅部の真理亜と違い、吹奏楽部に入っている彼の帰りは遅い方だ。だか、今日は早い。まだ七時になっていない。
「早いじゃん」
言うと、顧問が急に休みを取ったと言う。
「ありえねぇ」
「お疲れ。パスタにするよ」
「うぃ。……お母さんは」
「もう出掛けた」
部活から早く帰ってきたところで、翔は母親に顔を合わせられない。町中の場末の水商売とは言え、開店前の準備などは必要なのだ。精々、六限が終わると同時に自転車に乗って家に真っ直ぐ帰った時、家を出る母と鉢合わせるかどうか、というところだ。加えて彼女が帰宅するのは、真理亜と翔、父が家を出た朝八時や九時頃。だから真理亜達は、休日以外で母親の顔を見ないことが多かった。
居ても、父親と喧嘩をするばかりだ。そして父親は、母親のスナック経営が浅ましい、下賤な商売だと考えていることを喧嘩の際、いつも言葉の裏に滲ませる。直接言い切らないところが男らしくないし、卑怯だと思う。そして彼は、自分が何故妻から責められるのかを知らない。彼が不倫していることは、ずっと前からバレている。真理亜にも、翔にもだ。母がそれを言わないのは彼女の甘さであり、優しさだと思いたい。
一度、翔と二人で母親に、自分達は承知しているから離婚していい、とハッキリ伝えたことがあった。けれど母は、翔が高校を出た後にね、とそれを拒んだ。
「色々、あるの」
疲れた顔で笑いながら、母はそう言って話を切り上げた。二年前のことだ。
当時は、母が耐える理由が分からなかった。けれど、今では何となく分かる。
「お母さん、まだアイツのこと好きなのかな」
翔が、久し振りの料理の手伝いをしながら、真理亜に訊く。真理亜は苦笑した。
「んな訳、ないじゃん。好きだったらお母さん、離婚する計画なんて立てないよ」
「じゃあ、何でよ」
眉を顰める翔を目の端で捉え、堪え切れずにアハハ、と真理亜は笑った。
「お父さんもアンタも、やっぱり男だね。ロマンチストだ」
「アイツと一緒にするな」
不貞腐れる弟の横顔が可愛くて、タオルで拭いた手でゴシゴシ、と彼の頭を撫でてやる。固めた髪の毛のワックスが手に付いたので、もう一度手を洗った。
今の時代にまだ、女は家に入るもの、という古い価値観が染み付いて離れないこの町で、家族仲が円満な家庭に生きる人達には、決して理解出来ないことが一つある。それは、夫婦とは互いが互いを所有し合う関係であることを自覚しなければならない、ということだ。
だから多くの場合、夫は妻の、妻は夫の浮気を許さない。それぞれの立場と肩書という、そのプライドを汚されることになるからだから。
特に男は、こうした打算的な考えや冷静な感情的感覚を欠いているように思える。
よく女は感情で動くと言われるが、真理亜に言わせれば、男こそ感情で動いている生き物だった。幾つになっても、ロマンだ何だと言っては自分のやりたいことを優先させる。それに男らしさを感じ惹かれる者も居れば、そうでない者も居る。
シーラカンスの住む石に惹かれる亮も、そんな馬鹿者の一人だ。そう思った。
*
「お前、大学どうすんの」
播磨は亮に訊いた。んー、と生返事をしながら、亮はバッティングマシーンにコインを入れる。その隣のボックスで、播磨は九十キロの球をヒットさせた。
「考えてねえな。近場かな」
「真面目に考えろよ」
「就職組もまあまあ居るわけだし、申し訳ねえなーって」
「何だ、その謎の遠慮は」
昔からこうだった。亮は、自分の興味のあることに関しては他の追随を許さないとでも言わんばかりにまっしぐらに突っ走るのに、興味の無いことに関してはまるで競争心を抱かない。大学受験の悩みなどとはおよそ無縁に思えるが、これでも播磨と同じ進学組だ。しかし、今の時期から既に準備に入っている播磨と違い、亮はまだブラブラと遊んでいる風にしか見えない。
「ムカつく奴だ」
「褒めたって何も出ねえぞ」
「馬鹿にしてんだよ」
語気を荒げ、播磨はバットを降った。思い切り空振りだった。一方で、亮はホームランこそ無いものの、そこそこにヒットを出している。体格も体力も播磨より下だが、運動も勉強も、やる気さえ出せばそれなりにこなせるポテンシャルがある。それが亮だった。そして播磨は、それが時々嫌になる。
恵まれている人間というのは居るもので、今の内から就職後の生活やら老後の心配をしなければならなくなり始めたご時世、まだこの片田舎の町では、そうした危機感を希薄なものとして捉えている同級生を多く見る。同年代や、もしかしたら働き始めの大人達よりも深く、その辺りを考えている。何となく、そんな自覚はあった。
それもこれも、キッカに原因があると言える。
あの石に閉じ込められたシーラカンスのことを知り、そして彼自身に関する秘密を聞き出す為に、言葉や知識を教えていた。しかしキッカは自身のことに対して、その秘密と存在について話すことはしない。
『生まれた時から、キッカはキッカだ』
その『キッカ』が本当のところ何を指すものかは、分からない。けれど、キッカの原始的思考や生存の理由について尋ねたところで、簡単に答えられるものでないことは、あの九年前の秋頃には既に察していたものだ。
人間に、『君達は何処から生まれ、何処へ何をしにいくのか?』と問われ、答えられる者は稀有だろう。そのことに気付いてから、そして努力が実らないということに気付いてからは、徐々にキッカ自身への興味は薄らいだ。
けれど亮にその気配は無い。彼の心は九年前の夏以来、ずっとあの不気味な魚に囚われているのだ。
ようやく一本ホームランを出して、播磨は訊いた。
「キッカはどうしてる?」
「分かんねえ。いつも通りっちゃいつも通りだけど、二年になった頃から、ちょっと変わった気もする」
「どんな風に?」
「説明出来ん」
言って、またヒットを打った。播磨は、ファウルだ。足元に溜まっていく野球ボールを見ながら、播磨はそれが魚のフンみたいだな、と思った。
けれど、キッカはフンをしない。食べ物を食べる様子も無い。当然だ。深海魚に潜る魚が、あんな小さな石の中で九年間も一切の成長をせず、生存出来るはずがないのだ。そもそも、石の中である。
けれど、観察すればする程、それは実在するシーラカンスそのものだ。
古代魚であるシーラカンスには、一般的な現代を生きる殆どの魚類には見られない特徴が幾つかある。その最たるものがヒレで、第三背鰭と第二臀鰭、尾鰭を除く七枚のヒレは肉鰭と呼ばれる構造をしており、普通の魚のヒレと違い、筋肉と骨格で動く。これは四足歩行動物の起源種と同じであり、広義にはアザラシと同じだ。硬い鱗と強い筋膜により堅牢な体を確立させ、エナメロイド層の表面を持つ。
そして、シーラカンスには背骨が無い。脊柱と呼ばれる一本の管状組織がその代替部分となっており、そこから生まれる体組織もある。が、この脊柱は軟骨で出来ている為、化石に骨として残らず、化石で発見されていた生存個体発見以前のシーラカンスには、まるで背骨が空洞になっている様に見えるのだ。
断言してもいい。確かにあれは、シーラカンスだ。だが、もしも本物のシーラカンス、若しくはそれを模した近親種であったとしても、それが話すことは出来ない。声帯云々という話ではなく、シーラカンスの脳の容積量は脊椎動物として最低の、体積の一・五パーセントしかないのだ。どんな奇跡が起ころうと、シーラカンスが学習し、その知識を蓄積することなど不可能だ。
キッカとは一体、何なのか。
シーラカンスの形を取った、生物とは別の何かである、ということまでは断言出来る。だが、それ以上は不可能だった。
興味はある。だが、播磨にそれを確認する術はもう無い。彼にはもう、石の中のキッカの姿を見ることが出来ないのである。
バットを片付ける播磨に向かって亮が、そんな播磨の思考を見透かしたかの様に訊く。
「もうお前、声も聞こえないんだっけ」
「うん」
「それでもシーラカンスに興味を持ち続けてるって凄いな」
「褒めてんのか?」
「勿論」
ラスト三球に構えを取りながら、真面目な顔付きで亮はピッチャーマシンを見据えながらそう肯定する。
……播磨には、もうキッカの姿も見えないし、声も聞こえない。
最初にその現象が始まったのは、雫だった。中学三年の頃、播磨達他の三人には聞こえているキッカの声が、彼女にだけ聞こえにくくなっていき、やがて頭の中に響く声は完全に消失した。それから二週間と経たず、今度はキッカの姿が徐々に石の中の闇へと溶ける様に消えていき、最終的には消滅したのである。今あの石は雫にとって、ただの鉱石らしき物が入った直径二十センチある球体の石以外の何物でもない。
「つまんない! 何で!」
文句を言う雫ではあったが、元々四人の中では一番、キッカに対して興味の薄かった彼女のことだ。それから一ヶ月もしない内に、彼女は別の興味の対象を見出した。それが、キッカという常識外の存在に触れた影響なのか、SFやオカルトなどのスピリチュアルな妄想だったというのは、どうにも皮肉に思える。占いやら運勢やらを楽しむならばともかく、宇宙人やら超能力について真剣に考えたりしている雫は、女の子らしくないなぁと思ったものだ。
男らしい、女らしいという思考や感覚はもう時代遅れの差別主義だ、と一度播磨は文句を言われたことがある。それ以来、彼女を揶揄する言葉は一度も使っていないが、未だにそのことを思い出して煩悶とした。
次にキッカを知覚出来なくなり始めたのが、播磨だった。
頭に響くその声が遠いものに感じられ始め、二週間後には完全に聞こえなくなった。そして泳ぐシーラカンスのその姿も、まるで朝日の中へ消えていく霧の様に、日を追う毎に影を薄くし、やがて消えたのだ。
冬の亮の部屋で見た、暗闇の中へと泳ぎ去っていく青いエナメロイドの鱗が鈍い光を反射させたそれが、播磨の見たキッカの最後の姿である。
「何で聞こえなくなるんだろうな」
「それについては三尾が熱く語ってただろ」
言うと亮は、眉唾だなぁ、と言いたげな渋面を作り、自転車の鍵を外す。陽が傾き始めていた。
今日の様なたまの息抜きが終わった後は、ずっと勉強だ。もう昔みたいにみんなで集まってゲームをすることも外を遊んで走り回ることも、少なくなっていく。きっと、そんな時間が減っていくことはあっても、これ以上増えることなんて無いだろう。
寂寥感を覚え、そしてそれが亮との距離を離していってしまう気がして、それを引き止める様に播磨は言葉をすぐに繋げる。
「俺だって、超能力なんて信じてない。でも実際、キッカの使っていたあれは、そうと言えるだろ」
「成長すると共に能力が使えなくなっていく、ってのはよく見る設定だけどさ。結局、根拠なんて無いだろ」
意固地になって反論しようとする亮に、意地悪く笑って答える。
「脳機能は、加齢と共に衰えるんだ。成長してピークを迎えるなんてことは無い。そういう意味では、三尾の話の筋は通ってる」
言いながら播磨は、亮よりも先に自転車のペダルを漕いで道に飛び出す。おい待てよ、と言いながら同じく自転車で追い掛ける亮を待たず、播磨は自転車を走らせた。
思考と記憶は、去年の同時期頃に飛躍する。
雫が、自分がキッカの姿を見られなくなって半年程が経過した時。彼女は、自分がキッカという或る意味奇跡的な存在と相対する関係になった経験を通し、オカルトやSFを、科学的・論理的に解明し、理解しようとした。そんな境遇で、高校に入学してしばらく経過した頃の話だ。
丁度今の様な初夏の近付く時期、土曜日午前授業の終わった人の少ないグラウンドで、播磨達四人はやることも無く、鍵の壊れた体育倉庫の裏窓からグローブとボールを拝借し、キャッチボールをしていた。
雫はそんなだらけた空気の中、熱弁したのである。
「キッカの話し方って、やっぱりテレパシーだよね? 私絶対そうだって信じてるんだけどさ、フィクションだとたったその一言で説明されるその原理、全く理解出来なくてイライラしてね」
「前置きが長い。さっさと言え」
亮が山なりのボールを投げる。真理亜はヒョイ、と手を伸ばし、簡単にキャッチした。雫がグラウンドの真ん中で、大きな声を出しながら続ける。
「実験記録のレポート読んだんだよ。この前」
「何の?」
真理亜がボールを高く頭上に投げながら訊く。誰が取るか、ボールの行方次第だ。四人が天空を見上げながら、雫は答える。
「勿論、超能力の」
ボールは、播磨の方へ曲がって落ちた。少しバランスを崩しながらも、彼は捕球する。「アメリカで年に一度開催される、バーニング・マンってイベントがあるらしいんだけどさ。一週間、何も無い砂漠のど真ん中で参加者が集まって、各々が自己表現とか、アートなパフォーマンスをするらしいんだけど」
雫は、その奇妙な祭典の内容をよく覚えていた。会場には仮設トイレと食品保存の為の氷以外に生活の道具や食料は無く、参加者が全て自分で賄う必要がある。そうした過酷な環境下で、やがて集結した表現者達は互いを支え合い、助け合い、見返りを求めないそうした巨大なコミュニティを形成する。その中で、彼らはアートを作るのだという。
「アート?」
「彫刻とか絵画じゃなくて、例えば会場一つを巨大なアート空間に変えることで、観覧者を作家の世界にインタラクトさせる、とか何とか。そういう近代芸術らしいよ」
演劇、サーカス、パントマイム、大道芸、パーティー、ヨガ、ヒーリング等。非日常の中で体感する表現活動を通じ、そして時にはマリファナの力も手伝い、このイベントに参加する表現者達はトランスしていく。
そして、一週間の祭りが佳境に差し掛かるその夜。
会場に設置された巨大な人型の造形物に、火を放つのだ。
参加者達は燃え上がる巨大人形に意識を集中させ、陶酔し、騒ぎ、共鳴していく。
「実験ってのは、バーニング・マン最大イベントのその時に行われたって」
ノエティック科学研究所の或る博士が、その会場に乱数発生装置を持ち込んだ。〇と一をランダムに、同じ頻度で発生するように作られた装置である。様々な研究に用いられるこの機械は、奇妙なことに、放置しておくとこの出力に一定の偏りが現れる時があるという。
乱数発生装置の仕組みを簡潔に言えば、素粒子の仕組みを用いているらしい。素粒子を壁に衝突させると、壁に跳ね返る素粒子と壁を通過する素粒子が同じ頻度で発生する。乱数発生装置はこの性質を利用しているが、或る特別な環境下で使用した場合、この一定頻度の乱数の偏りを発生させる装置は、極度の偏りを起こすことが判明したのだ。
つまり、砂漠の真ん中で数千人、数万人が一点に意識を集中させ、互いの感覚や空間、状況を共有することで、『人々の感情が大きく揺り動かされる環境下』で使用した場合。
「確率の偏りって、どれくらいだ?」
播磨は訊いた。雫は、貧弱な肩で精一杯ボールを投げる。なんとか、近い真理亜へとボールは渡る。雫は言った。
「マンが燃えた時に発生した偏りが起きる確率は、二百数十万分の一らしいよ」
言って、彼女はニヤリと笑って亮を見る。「これってさ。精神的な影響が素粒子に働いた、って考えたくない? それってさ、素粒子が精神と相互の関係を持ってるってことにならない? 超能力の由来が科学的に解明されつつあるって、ワクワクしない?」
ワクワク、という表情を隠し切れずに顔に滲ませる雫に向かって、亮にボールを投げる真理亜は冷たく言った。
「雫さ、素粒子って何か説明出来んの?」
「出来ねー」
「ダメじゃん」
「解散」
「えー」
亮も真理亜も馬鹿にしたその話が、しかし播磨の頭の中にはいまだに残っている。
もしも播磨達の見ていたシーラカンスの姿が、キッカが意図的に見せている幻で、その声もテレパシーで伝えている彼自身の意思の声だとしたら。あの石は、脳味噌を持つ生命体ということになる。だが、現在この地球上で生命を定義する範疇に、あのシーラカンスは含まれない。
キッカの姿も声も見聞き出来なくなった今でも、播磨の中でシーラカンスに関する疑問は尽きない。シーラカンスと言うべきか、生命体に対して、と言うべきか、それは不明瞭であったが。
「まだ諦めてねぇのか?」
ハッと我に返ると、亮が自転車で播磨と並走していた。
「何を」
ぼんやりとしながら、播磨は訊き返した。だからさ、と亮は続ける。
「シーラカンスの研究者になるって話」
何だそのことか、と播磨は苦笑し、再びペダルを漕ぐ速度を上げた。
「勿論」
もう、キッカのことを知り、観察し、その謎を解き明かすことは、自分には出来ない。けれど実物のシーラカンスに関する研究はきっと、新たな発見へと導いてくれるだろう。根拠の無い自信と確信は危ういものだったが、しかしそれは、播磨を確かに前へ進ませてくれる原動力となっている。
そういう意味では、自分は雫と同じ存在かも知れない。
そう言えば、と分かれ道の交差点で自転車を一度止め、亮が訊いてきた。
「音楽のトンちゃん、学校来てないんだっけ。音楽、非常勤の方が来てるぜ」
吹奏楽部の顧問も務める音楽教諭が、ここ数日休んでいるらしい。そう言えば先日の選択授業の時、音楽選択の生徒が授業中に授業と関係無い音楽をプレイヤーから流し、注意されていたと聞く。自習中だったのだろうか。
「マジ? そう言えば最近見ないな」
「他の先生に訊いても、何か変だった」
「変って」
「何人かに訊いたんだけどさ。間違えた、って言ってすぐに訂正したけど、何人か最初、違う理由を言ってたんだ。風邪だったり、職員教習の都合だったり。最終的にはみんな風邪だって言ってたけど、口裏を合わせてる感じだった」
「ふーん? ま、音楽選択組は大変だな」
「うるせー、美術組め」
嫌味を言い合いながら、亮とはその日別れた。
*