1-2 胎動

 結局三日目、亮は家に帰りたくないと毎年の様に駄々を捏ねる真似はしなかった。寧ろ早く帰って別のことをしたい、という旨のことまで言った程だ。
 普段の彼のことを知っている孝一と伽耶だったから、流石にこの発言と姿勢の変化には困惑したらしい。けれど、一人息子がそう言うものを無理に引き留めて親がアウトドアを満喫する、というのも違うと判断し、亮の意見を尊重した。
 帰りの車内。いつもであればうるさいくらいにキャンプの感想を言ったり、車の外の光景にはしゃぐことの多い亮だったが、今年、彼は助手席で静かに座っている。球形の石をその小さな体に抱えたまま。
 家に帰って荷物を片付け、くたびれてリビングで倒れている両親を尻目に、亮は自分の部屋に籠もった。学習机の上に石を置き、じっとそれを眺めていた。
『お父さんもお母さんも、声はきこえないってさ』
 頭の中で声に出さず、しかし石に向かって話してみる。声ならぬ声は返事をした。言葉は相変わらず分からない。けれど、嫌な感情を持っていないらしいことは分かる。
 そしてふと、一つ考え付いて石に訊いてみる。
『ともだちになら、君のことおしえてもいい?』
 途端に、声ならぬ声は激しい感情を含んだ音を発し始めた。それが喜びなのか拒絶なのか、分からない。だが何となく、亮以外の人間に知られたくないらしい、ということは伝わった。
 それでも、亮は誰かに話したくて堪らなかった。
『お父さんもお母さんも、たぶん先生も信じないよ。変なやつだって思われるんじゃないかな。大人はみんなそうだもん』
 好奇心の塊だった亮は、赤ちゃんがどうやって出来るのかだとか、人ってどうやって生まれたのとか、そんな純粋な疑問や質問を周りの大人に訊いてきた。けれど皆、少し困った表情を浮かべて「考えてごらん」と曖昧に返事を返すだけで、一緒に考えてくれようともしない。友達に話せば、答えは出なくとも一緒に考え、ああだこうだと議論することが出来た。
 子供だけのコミュニティ、子供だけのサークル。それは、亮の様に探し求め、考えることが好きな者にとっては、至上の空間と関係性だった。そんな彼が信頼出来る、三人の友達。彼らならきっと、理解してくれると確信していた。
『ねえ、だからさ』

       *

 ならさきまりあ、と自分の名前を平仮名で書く時、楢崎真理亜は言いようの無い複雑な感情に支配される。同学年でも早い子は、自分の名前を漢字で書ける。けれど真理亜は、その画数の多い自分の漢字がどうしても覚えられなかった。
 外国人っぽい名前だね、と何度言われたか分からない。最早自分が日本人だと疑っている節さえある彼女だったから、今では下の名前をカタカナで書いている。先生も、それで何も言わなかった。
 けれど、マリアちゃん、と友達から名前で呼ばれるのは嬉しかった。友人ら三人から呼ばれることは、特に。
 そんな友人の一人である亮に、家に呼ばれた。
「ハリマ君としずくちゃんも一緒だよ」
 夏休みもそろそろ終わろうという頃、普段遊んでばかりだった真理亜が急いで夏休みの宿題を片付けている時の誘いだった。断るはずも無く、今日の分は終わったと母親に嘘をつき、二十六日の午後、家を出た。
 そうして学校近く、豊垣播磨と三尾雫が待っている場所で彼らと落ち合った。播磨は身体中が浅黒く焼けていて、普段から短い髪の毛は少し長くなっていた。雫はその可愛らしいチューブトップにやや不釣り合いな野暮ったい帽子を被っている。恐らく親に、外に出るなら被りなさいと言われたのだろう。
「おまたせー」
「よー」
 そんな砕けた挨拶もそこそこに、亮の家へと向かうことにした。
 セミが鳴き、真理亜達より小さな園児らしき子供達が、母親達に連れられて公園へ向かうのとすれ違う。いつもの登下校では見られない、特別な光景。これもあと少しで終わってしまうのだと思うと、寂しかった。
「夏休み、長かったね。あきちゃった」
 雫は退屈そうに言った。きっと彼女はこの夏もゲーム三昧だったのだろう。大好きも、行き過ぎれば退屈になるんだなと思い知る。真理亜は自分の夏休みを思い返す。播磨や雫、亮と遊んだ記憶以外には、特別な思い出は無かった。
 こんなことをあと何回、人生で繰り返すんだろう。そうして自分達はいつを境に、そんな感想を口にする年下の子供を羨ましそうに見るようになるんだろう。自分達を見る両親や先生達の表情と態度を見て、真理亜達は時々そんなことを話す。
 だから、いつも「あっという間だなぁ」と過ぎた日々を空虚な後悔の言葉で語る大人達と自分達とを区別する為に、真理亜達は自然と、彼らと反対の言葉を使うようになった。雫の夏休みに対する感想も、日にちが経過するのは早い、と大人が使う言葉に反抗する意味合いがある。
 真理亜も実際、夏休みは長過ぎるな、と退屈をしていて。
 そしてそれは、雫も播磨も同じようだった。
 せめて今日、亮に呼ばれた理由がとても刺激的で、一日があっという間に経過してしまうくらいにとびきり素敵なことだったらいいな。
 そんな、淡い期待だけを胸に抱いて、アスファルトから照り返す太陽の熱に辟易しながら、三人は道を歩いた。
 その声がしたのは、亮の家がすぐそこまで近付いた時だった。

「       」

「何か言った?」
 訊くが、播磨も雫も首を振る。そして訊き返してきた。「そっちこそ」
「言ってないよ」
 声、と口にはしてみたが、日本語ではない。真理亜達には英語もその他の外国語も、さっぱり分からないけれど、それでもその声らしき声が単なる音ではなく、コミュニケーション手段に用いられる言語化された体系であることは、なんとなく理解した。
 問題は、それが何処から聞こえるのか、ということで。
 はっきりと頭の中に響いた。耳がその音を聞いた、というのとはまた違う感覚だ。今まで感じ取ったことの無い感覚だけれど、何故かその声が、目の前の亮の家の中から聞こえてきたという確信があった。
 真理亜の、後ろに束ねて風通しがいいはずの首筋に、汗が流れる。シャツの襟でそれを拭って、無言でインターホンを押した。
 三人は伽耶に挨拶をし、笑顔で迎える彼女に連れられて二階へ上がった。階段の途中、伽耶が振り返って見下ろしながら質問をする。
「亮がみんなを呼んだ時、何か変なこと言ってなかったかな?」
「面白いものがあるから見て、って言われました」
 播磨が答えると、あー、と伽耶は困った様な呆れた様な、微妙な表情をする。亮が真理亜達を呼んだ心当たりがある様子だった。そうして少し声を落として言う。
「もしかしたら、亮がとても変なこと言うかも知れないけど、気にしないでね。ゲームでもしてていいよ。あとで飲み物持っていくから」
 また大人は、分からないことを分からないまま誤魔化そうとしている。曖昧なまま終わらせて、理解出来ないものから遠ざかろうとしている。
 はーい、とおざなりな返事はしたものの、亮の言葉には真剣に向き合おうと、彼女達は暗黙の内に心に決める。
 それにしても、と思う。
 こうして亮の家に遊びに来るのは初めてではない。戸建てに住んでいるので、マンションの様に隣近所に声や暴れ回る音を気遣う必要が少ないから、との亮の判断で、何度も彼の家には遊びに集まっている。遊びに来る時決まって彼は、真理亜達を出迎える。けれど今日は、それが無かった。
 伽耶の呆れ顔に、何か関係しているのだろうか。
 その疑問は、部屋に入ってすぐ分かった。
 学習机に向かって座っていた亮が振り返って歓迎の言葉を掛ける。そんな彼の机の上には、石が置かれていた。
 自分の気に入ったものや好きになったものを持ち帰って集める癖を持つ亮の部屋の中は、様々なもので溢れていた。海辺で拾ったガラス瓶や貝などに始まり、将来実験に使うんだと言ってはせっせと毎年集めている大量のセミの抜け殻が詰まった瓶詰めまである始末である。その中でも、石のコレクションが一番多い。色艶や形などが千差万別で、どれだけ見てても飽きないのだと、以前力説された覚えがある。
 亮が真理亜達を呼ぶのは大抵、そんなコレクションで彼が見付けたお気に入りを自慢したい時だ。だがそんな時は大抵真理亜達も少し辟易してしまうので、或る程度語らせた後は皆でゲームをするか外へ遊びに行く、と大体方針が決まっている。
 けれど、この時は何かが違っていた。
 亮の家の前で聞いたあの声ならぬ声が、部屋の中で響いたのである。
 播磨も雫も、それに気付いたのだろう。部屋に入った途端に体を硬直させて、伽耶が階下へ降りていっても、じっと三人は一点を凝視していた。
 即ち、亮の机の上にある、直径約二十センチの石を。
「……気付いた?」
 みなまで言わない。けれどそれで十分だった。うん、と真理亜は答えた。すると亮は安堵した表情を作り、「やっぱり、気のせいじゃなかった」と胸を撫で下ろす。
 その言葉を訊いて、播磨が戸惑いながら訊く。
「え、聞こえない人もいるのか?」
「お母さんもお父さんも、聞こえなかった。昨日、石を持って公園に行ったり駅前に行ったりしたんだ。ずっと石は大きな声を出していたのに、大人は誰も僕を見なかったよ」
 小学生くらいの子は、何人か声が聞こえた時に振り返っていたけど、と付け加える。語る亮の表情は、真剣だった。拾ってきた石や綺麗なガラス片について語る時と同じ、真っ直ぐな目。決して彼が嘘をつかない時の目。嘘を言っているとは、思えなかった。
 何より真理亜達には、確かにその声ならぬ声が聞こえている。
 亮は丁寧に石を持ち上げ、床のカーペットの上にそれを置く。彼は丁寧に、石を拾った経緯とこれまでの出来事を話した。キャンプ場で声が聞こえ、引き寄せられたこと。自分以外にはその声が聞こえないらしいこと。石は何かを訴えようとしているけれど、まるで言葉が理解出来ないこと。そして、石の目的の解読に、真理亜達の力を貸して欲しいよいうこと。
 真理亜達は、石を囲んで石を観察した。途中で伽耶が持ってきた麦茶には目もくれず、四人で揃って耳を近付けたりもする。そんな光景を見た伽耶は益々不安そうな表情を作り、部屋を出ていく。
「       」
 言葉はやはり、分からない。けれど、激しい感情は伝わる。
 それは、自分達を受け入れようとする喜びの声か、それとも拒絶の意思か。
「どうしようか」
「どうするって?」
「中を知りたいから呼んだんじゃないの?」
 雫が首を傾げる。同性の真理亜から見ても、雫のその仕草はとても可愛らしいと思える。そんな仕草に少し恥ずかしがって顔を逸らし、亮と播磨は揃って頭を掻いた。
「知りたいのは、たしかだけど」
「じゃあどうするの。割る?」
 雫が口にした途端、頭に響く声ならぬ声は激しく騒ぐ。頭に響くくらいの大音量だった。皆、揃って頭を押さえて顔を顰める。
「割らない、割らないよ」
 雫が言うと、声は治まる。けれど、まだ少し聞こえる声は刺々しかった。
「でもやっぱり、中身は知りたい」
 亮が言う。声は、今度は叫ばなかった。
 声は……いや、声の主は、自分の存在を知って欲しいのだろうか。
 でも実際、どうしよう。真理亜達の話題は、その方法についての議論に移った。
 割るのは駄目、でも中を見るにはどうすればいい? 
 十分、二十分、三十分。
 堂々巡りで解決策の見出せない状況に陥り始めた、その時だった。

 けずって

 ピタリ、と皆が動きを止めた。驚いた播磨が麦茶を溢して、カーペットに染みを作る。けれど、誰も動じなかった。
 イントネーションがでたらめではあったが、それは確かに、声ならぬものの声だったものである。声ならぬ声は、しかし今、確かに真理亜達が理解出来る言葉で、彼女達に語り掛けていた。
 削って、と。


 亮の家のガレージは、車が一台入ってしまうとそう広くはない。それでも最低限の収納スペースは揃っているので、伽耶のキャンプ用品やアウトドアグッズ、洗車用の道具の他、工具も大体一揃いあった。
 仕舞われた道具の中の一つにノミと金槌があることを、亮は覚えていた。
 四人で工具を引っ張り出すが、それを扱うのは亮だった。ガレージの地べたにそのまま胡座をかいて座り、石を抱える。そうしてノミと金槌を使い、慎重に、慎重に石の表皮を削り出そうとした。
 そんな最初の、一回目。カン、とノミの柄を叩いて、ほんのちょっとだけ、石の表面が欠けた。その瞬間、また声がする。

 こわい

 亮を囲む様にして屈んだり座ったりしていた真理亜達は顔を上げ、お互いの顔を見合った。間違い無い。今まで言葉らしい言葉を発さなかったこの石が、自分達に話し掛けている。
「だいじょうぶだよ、こわくない」
 真理亜は咄嗟に口に出した。けれど石は、どうやらまだ会話を出来る程に意思疎通をする知能が無いのだろう、こわい、こわいと繰り返し同じ言葉を口にするだけだ。
 ……そう、知能。
 ここにきて真理亜達は、口に出さずともなんとなく予感していた。単純な、一つの単語だけしか口に出来ずに恐怖の色を表に出す、その様子。先程まではそんな単語一つさえも発せず、そして恐らく理解も出来ずにいたであろうこの石。
 この石は、生まれたばかりの赤ん坊に等しい。
 言葉が理解出来ないはずだ。それは、真理亜達人間が使う言葉ではないと同時に、自分の欲求を満たして欲しいと我が儘に泣き叫ぶ、赤ん坊の声だったのだから。
 大丈夫、大丈夫、と各々が石に言い聞かせ、亮は玉の様な汗を流しながら、それを拭うことも忘れ、慎重に石を削っていく。球体の上部、全表面積のおよそ四分の一程度を、まずはゆっくり、ゆっくりと。
 こわい、と泣き叫ぶ声は徐々に静かになっていく。亮の行動が、自分を害するものではないと理解したのだろうか。
 様々な思考や疑念が、頭の中で回転する。その答えは、全く出ることも無く。
 そして削っていた面積がようやく目立ち始め、明らかに段差が生まれていると分かる程度にまで深く削れた頃。
「あ」
 ノミを打っていた亮が、その手を止める。
 まさか、大きく割れてしまったのだろうか。慌てて真理亜達が体を寄せ、彼の手元の石を覗き込む。
 それは、小さな亀裂から生まれた大きな石の欠片が剥がれ、落ちた箇所。厚さ五ミリ程度の石の『殻』の下から、姿を見せている。
 深い、深い緑色。群青色にも近い、ただの石ではない水晶体の様な何か。
 これは、石ではない。
 石を形作る物質が、水晶の様な鉱石を包み込んでいるのだ。
「代わる」
 播磨が短く言って、手を差し出す。亮は黙って、手にした工具を二つとも渡した。播磨は亮と同じ姿勢を取って、慎重に、けれど亮よりも速く、石を削り出していく。
「さっすが」
 雫が褒めた。ちらり、と播磨は彼女の方を見てから、視線を石に戻す。
「ほめたって、何も出ねーよ」
 真理亜はそんな播磨の耳が少し赤くなるのを見逃さなかったが、黙っていた。
 今は、目の前の石に、集中する。
 ……そして、夕暮れ。
 そろそろ町の子供に帰宅を促す放送が鳴ろうとする頃に、石の一部が大きく剥がれた。
 翡翠よりも深く、群青よりも濃い、深海を想起させる色合いの水晶が、石の下から少しだけ、姿を見せる。床に置かれたそれは、ガレージに差し込む濃い夕焼けの光を受け、鈍く光っていた。
 いたい、と声ならぬ声だった『それ』は言う。眩しい、という言葉を知らないそれは、強い光を嫌った。
 けれど真理亜達は誰も、影を作って『それ』を守ってやろうとしなかった。いや、あまりの驚きに思考は停止し、誰もそうする為に動き出すことが出来なかったのだ。

 僅かに覗かせる水晶の中には、一匹の魚が居た。

 標本ではない。それは生きた魚の様に動き、泳いでいる。水など存在しないはずの水晶の中で、しかしそこがまるで水中であるかの様に。
 緑色の目をしたそれを、真理亜達はただ見つめていた。
「ホログラムってやつ?」
「山の中から出てきた石の中に?」
「地面にうもれてたんでしょう?」
「水が入ってるのかな?」
 疑問しか口を突いて出ない。誰も答えられない疑問だけが、矢継ぎ早に生まれては消えていった。
「オレ、図鑑でこれ、見たことある」
 播磨が言った。皆が、彼の顔を見る。
 夏の夕暮れ、彼もまた大粒の汗を流しながら、言葉を紡いだ。
「シーラカンス、って言うんだって」

       *

 夏休みが明けて、亮は学校へ行くようになった。また、昼を一人で過ごす日々が始まる。
 在宅ワークであることを人に話すことは、滅多に無い。亮がまだ幼稚園に通っていた頃、死んだ両親からこの家を相続する前に住んでいた場所で、在宅の仕事をしていることがママ友達に知られ、そんな楽な稼ぎ口があるなら教えろと突かれて仕方が無かった経験があるのだ。資格が必要な仕事だし、家事や買い物、亮の育児もある。正直、仕事に楽な道があるとは考えにくかったけれど、快適な生活を求めるママ友はそんな現実を知ろうともしない。
 挙句には嫉妬が陰口に繋がり、根も葉も無い不快極まりない噂話が流れ始めたので、大きな嫌味を彼女達に残し、こうして故郷に戻ってきた。
 だから、学校が始まって伽耶はようやく、ひと段落出来る時間を増やすことが出来た。
 また一人で仕事をし、時折チャットやビデオ通話で打ち合わせをする日が始まる。それは誰かと繋がっているようでいて、同時にとても孤独な作業だ。伽耶にはそれが性に合っていたが、無論、苦痛に感じる人も多いだろう。
(一人孤独に、かぁ)
 考え、思うのは息子の亮のことだった。
 キャンプから、そして友達を呼んでガレージで何やら長々と実験めいたことをしたあの日から、活動的だった亮は変わった。夏休みの宿題をする為に最低二時間は一日机に向かっていること、それが終わったらその日は好きにしていいというルールを決めていた濱田家であったが、今まで亮は机に向かってもノロノロと宿題を済ませ、午前中一杯掛かって合計二時間を過ごし、昼を食べたら後はずっと外で遊んでいる、そんな子供だった。勉強をするよう動機付けをさせることが、非常に難しかったのだ。
 けれどあの日を境に、亮は机に向かってコツコツ、黙々と問題集やら日記やらを進めていた。去年泣きついて手伝ってくれと言ってきたのが嘘の様に、今年は夏休み終了の一週間前までには全て終わりそうだ。
 ただ単に外に遊びにいく時間を増やしたいが為だろう、と思ったが、それも違う。亮は外へ行かず、扇風機の首を回す自分の部屋に一人、籠るようになった。
 そんな日が四日も続いて逆に不安になった伽耶は、ノックして亮の部屋を覗いたことが一度だけある。ノックの返事さえしなかった息子が心配になったが、彼はベッドに座って足を放り出し、その手にあの石を抱えていた。
 彼は瞬きもせず、返事もせず、じいっ、とその石を見つめていたのだ。
 その時の、開け放たれた窓から聞こえる大音声のセミの音が、とても遠くのものに聞こえた。
 それだけ、亮は現世から乖離した、遠い何処かへ行ってしまったかの様な雰囲気を醸していたのだ。
 あの石は、何だ。あんなに快活だった息子があそこまで静かになるなんて、何が彼をそこまで惹き付けるのだろう?
 それに一度、不気味な光景を目にした。
 夏休みも終わりに近付いたその日も、亮は友達三人を招いて部屋に閉じこもった。持ち寄った携帯ゲーム機で遊ぶのだろうと思っていたが、騒ぐ声どころか、会話の一つも聞こえない。
 不思議に思ってトレイに麦茶を乗せ、そっと亮の部屋の扉を開いて中を覗くと、その光景に心底肝が冷えた。
 四人はあの石を床に置いて囲むように座り、無言で、じぃっ、と石を眺め、或いは睨み付けていたのだ。誰も、一言も発さずに。
 気を落ち着かせてノックをし、改めて部屋に入る。彼らはいつも通りの笑顔でお礼を言って、麦茶を受け取った。けれど伽耶の脳裏には、夏の午後、あの広くない部屋でじっと石を一様に見つめていた彼らの、そして息子の姿が不気味で仕方がなかった。
 あの石は、何なのだ。


 部屋の掃除は今度から自分でやるから絶対入らないで、と反抗期らしいことも口にするようになった亮。その成長は伽耶にとって、母親として嬉しいことではあったが、それもあの石が絡まなければ、の話である。
 石が伽耶と、そして亮の人生に介入してきているようで、彼女は落ち着かなくて仕方がない。そんな話をしても孝一は「男ってそういうもんなんだよ」と分かった風な口を利くばかりだ。
 だとしても自分には、知る義務がある。そう確信して伽耶は、家事を済ませた平日の我が家で一人、階段を登る。そうして昔、彼女の母が使っていた、今は亮の部屋であるそのドアをゆっくり開く。
 自分で掃除する、とは言っても所詮男子小学生である。まるで部屋の中は片付いていない。床にはおもちゃや漫画、そして自分で拾ってきた珍しい色々な物、それを調べる為の本や図鑑、或いはコピーしたプリントなどが散乱している。
 その中で、学習机の周囲だけはとても綺麗に整頓されていた。
 石は、机の真ん中より少し左に置かれている。夏休みに友達と一緒にガレージで削り出した、その陥没した一部の面を上に向けて。
 じっくりと、削られたその石を観察するのは初めてだった。そっと石を持ち上げ、窓の傍に持っていく。日の光が、はっきりとその削り出した輪郭線と石の内部とを照らす。
「へえ?」
 思わず感嘆の声を上げる。水晶とまでは言わないが、濁っているようで透明感も併せ持つ、不思議な鉱石のような物が埋まっている。表面は荒く削り出されたせいか歪だったが、全体的な形は丸に近い。そして驚くべきは、削られても尚、その鉱石の美しさに陰りが無いことだった。
 鉱石は、コバルトブルーとも群青ともつかない、不思議な色合いをしている。午前の透き通った光に照らされて更に、その幽玄な色味は優美さを増していた。
 海の中から見た空は、こんな色をしているのだろうか。なんとなく、伽耶はそんなことを考えた。
 ……けれど、それだけだ。
 この石にそれ以上のものは無い。ましてや、刺激に飢えた小学生男子の性格や習慣をガラリと変えてしまう程の求心力が、この石にあるとは考えにくかった。
(まあ、机に向かう時間も増えたし、いいか)
 それに最近は、リビングに置いてある家族共用のパソコンで何かを食い入るように検索し、文字を追っていることが多い。ちらりと盗み見たことがあるが怪しいサイトではなく、百科事典の様なウェブページばかりのようだ。
 この石が何故、亮をそうさせたのかは分からないけれど、何かの切っ掛けを与えてくれたというならば、それに文句は言うまい。伽耶は考えて、石をそっと元の場所に戻す。置かれていた時と、寸分違わぬ角度と場所に。
 けれどその日の夕方。
 学校から帰ってきた亮が一目散に自分の部屋へ戻っていく。ランドセルを放り出してまた遊びにいくか、石を抱えて自室に篭るかのどっちかだろうと思ったが、その日は少し様子が違った。ドタバタとやかましく階段を降りてきたと思うと、凄い剣幕で伽耶を睨み、怒ったのである。
「お母さん! 部屋、勝手に入ったでしょ!」
 夕飯の支度をしていた伽耶は驚き、亮を見る。気付かれたのだろうか? 部屋の物には石以外に一切手を触れていないし、確かに元あった場所、正確な位置と角度に戻した。部屋の扉も閉めていた。なのに、何故?
 伽耶は苦笑いをし、ごめんごめん、と謝る。
「でも夏だし、暑いでしょう? お昼だけ、換気で窓明けさせてよ。部屋の物には触らないから」
 言うがしかし、亮の怒気は治まらなかった。
「ウソだ! オレの机の石、さわったくせに!」
 え、と今度こそ驚き、そしてギョッとした。
 以前も亮の部屋に入り、掃除に邪魔になった棚の上のゴミ(伽耶は亮のコレクションを陰でそう呼ぶ)をどかしながら埃を拭いたその日、やはりゴミに触ったことを酷く怒った。子供には分かるものなのだ。だから今日は、丁寧に、気を付けて元の位置と角度に戻したはずだ。けれど、亮はそれに気付いた。
 その夜、亮は怒って夕食を食べに降りてこなかった。伽耶は自分が悪いという自覚を持っていたので謝るつもりではあったが、今の彼の態度ではそれも許してくれそうにない。
 けれど、お腹が空いたら降りてきて不機嫌になりながらも好物のカレーを食べることを知っているので、伽耶は久しぶりに、夜もゆったりとした時間を過ごす。
 夜、ちょっと遅い時間に孝一が帰ってきた頃に、亮が二階からブスッとした顔で降りてくる。
「なんだ、喧嘩したのか」
「謝ったんだけどね」
「あれ、お母さんが悪かったのか」
 苦笑しながら亮を見下ろす孝一。亮は、それにも返事をしなかった。
 孝一と亮が二人、揃って夕飯を食べている光景が珍しく、伽耶はこっそりその光景をケータイの画像に収める。後で、孝一に送ろう。そう考えて。
 その夜、しかし伽耶は寝付けなかった。
 何故、亮は伽耶が部屋に入ったことに気付いたのか。それだけでなく、部屋で自分が何をしたかも知っていた。まるで誰かが見張り、それを報告したかの様に。
 勿論、あの部屋には誰も居ない。当然だ。
 では、何故。
 かちり、と時計の長針が十二を指す。日付が変わっても、伽耶は眠れなかった。

       *

 亮は、主に播磨と二人、或いは真理亜と雫を加えた四人で、図書室に居ることが増えた。小学校の図書館の蔵書は、大したものではない。けれど市立図書館で会話をするよりも、学校の図書室で話す方が、文句を言われにくいのは確かだ。
 そうして彼らは、片っ端から本を読む。それも小説ではなく、図鑑や教育漫画など、エンタテインメント的要素を含む本からは遠いジャンルの本ばかりだ。
 いつも外で遊ぶばかりだった彼らが図書室に向かうのを、担任の教諭は不思議がっていたが、咎めることではない。精々、図書室でああだこうだと四人が何やら話しているその声のボリュームが大きいことを注意するだけで、本当にその程度だ。
 だから彼らは児童の少ない放課後の図書室で、本を読み、知識を漁ったのだ。


 おしえて
 シーラカンスは確かに、亮達にそう話し掛けてきた。
 何を教えればいい、何を知りたい。何が目的なのだ。
 何を尋ねても、シーラカンスは「おしえて」としか言わなかった。きっと生まれたての赤ん坊だから、言葉の伝達手段を他に知らないのだ。まずは、言葉を教えなければならなかった。
 夏休みの残りの日は全て、四人で川原の橋の下に集まっては石を抱え、それぞれが順番に、言葉を教えていった。五十音、単語、単純な言葉。
 シーラカンスの知識の飲み込みや吸収速度は恐ろしい程に早い。けれどそれでも、夏休み中に彼(彼、と仮称してみる)とコミュニケーションを取れる程度に言葉を教えることは出来なかった。精々、亮が外出中に彼の部屋に入った母の存在について、「はは」「はいった」「もった」と短い単語を連ねて告げ口をする程度だ。
 それでもあの魚は、知識を欲している。
「これは、オレ達だけのヒミツな」
 皆に言う。当然、誰もが笑みを浮かべて頷いた。
 秘密を共有するという、特別な非日常。そんな興奮も勿論あったが、それ以上に、きっと誰も信じてくれないと思った。それどころかそんなことを主張し続けてしまえば、自分達の頭が狂ったと見なされるのがオチだろう。
 そしてもしも、この魚を大人が知ってしまったら。
 石は取り上げられるだろう。国の偉い人達がやってきて、きっとバラバラに解剖され、実験にされてしまうんだ。どんな映画だって、そう教えてくれているじゃないか。 
 だから亮達は、シーラカンスに『教育』をすることにした。
「あいつ、どんな話が好きなんだろう」
「何でもいいんじゃねえ?」
「地図ってキョーミ持つかな」
「魚が陸にキョーミ持ってどうすんだよ」
「海の図かんを先におしえよう」
 そんなことを言い合って、考え、優先順位を決めていく。結果として、言葉や単語、文法を基礎として、海の知識を蓄えさせる。そう決めたのだ。
 放課後、皆は亮の家に集まったり、或いは亮が一人で、その日皆が集めた知識を全て、石の中を泳ぐシーラカンスに教えた。全ては、不気味で不思議で素敵な存在の正体の全てを、自分達が知る為に。シーラカンスが答えられる全てを、自分達が知る為に。
 自分達が知り得る何もかもを、教えようとした。
 けれどしばらくシーラカンスは、与えられた単語や言葉をオウムの様に返すばかりで、どうやら挨拶らしいものを彼が覚えたのは、一ヶ月以上も経ってからのこと。
 まだやるの? と最初に音を上げ始めたのは、雫だった。色々なことに移り気な向きのある彼女のことだから、そうなるのは時間の問題だとは思っていた。寧ろ、今まで飽き性だった彼女がこんなにも一つのことに付き合ってくれたのは、珍しいことだとさえ言える。
 けれど亮は、絶対に諦めたくなかった。この魚は、他ならぬ自分を呼んだのだから。


 ……亮達にもう少し、誰かにものを教えるということに関する知識があったなら、もっと効率よく言葉を教えられたかも知れない。知識を与えるよりも先に、会話を成立させる為に必要な知識を優先して教えられたかも知れない。
 けれど、遠回りで時間の掛かる手段ではあったが、彼らはそれを達成した。
 九月二十七日のことである。
『りょう』
「そう、オレ、亮だよ」
 声ならぬ声だったシーラカンスのそれは、今やはっきりとした言葉になっていた。それは子供とも大人とも老人とも、男とも女ともつかない声ではあったけれど。
 確かにシーラカンスは、彼の住む石を覗き込む亮達四人を、しっかりと見つめていた。
『りょう、は、おしえ、てく、れ、た』
「うん、うん」
「私も」
 真理亜が声を上げる。俺も私もと、播磨と雫も続く。シーラカンスは、瞳の無い緑色の目で、しかし確かに四人を見ている。亮達には分かる。シーラカンスは続けた。
『次は、なに、を、教えて、くれる、の』
「何でも、教えてやる」
 何処までこの魚は、成長するのか。何処まで進化をするのか。
 純粋な、知的好奇心。それは爆発的に亮の中で膨らんでいく。
「でもその前に、教えろ。……お前は『何』なんだ?」
 シーラカンスは、答えない。石の中で優雅にゆっくり、回遊する。それは答えを拒否しているというよりも、どう答えるべきかを思慮しているように見えた。「答えろよ」
 死に掛けのセミの鳴き声、気の早い秋の虫の音。夕焼け色に染まる、電気の点いていない部屋。
 まだ蒸し暑さの残る、十月も目前の午後四時二十分。
 シーラカンスは、言葉を発する。
『キッカ』
「……え?」
 突然の言葉に、亮達は言葉を失う。
 シーラカンスは、辿々しくも、屹然と答えた。
『キッカと、呼んで、くれ。それが、名前だから』