1-1 胎動


 濱田亮は、体を動かしたくて仕方が無い他の小学二年生同様、外で遊ぶのが好きだった。
 けれど、スポーツが好きかどうかと言えば、少し違う。彼は探検と称して、家や学校の周囲を歩き、道を知り、好きなものを拾っては集める活動的な少年だった。
 冒険や探検が好きな子供は一定数居るもので、亮は友達と見知らぬ場所へ遊びに行っては、奇妙な形をした石や木の実、セミの抜け殻などを集めては持ち帰り、母親の伽耶に嫌な顔をされるのが、春から夏に掛けてのおなじみの光景である。
 特に豊垣播磨とは仲が良く、二人して休みの日に遊びに出ようものなら、半日は絶対に帰らない。一度、陽が沈んで夜遅くになっても帰らないので、警察沙汰になったこともある。自転車で県を跨いだ山の中でひたすらカブトムシを探してくたびれていた時のことだ。勿論、親には殴られ、怒鳴られ、半月の間外出を禁止された。
 今、亮は両親と共に、県を二つ離れたキャンプ場に来ている。
「たんけん、してきていい?」
 バンガローに到着するや、亮は言った。伽耶は渋い顔をして、駄目、とにべもなく断言した。「絶対あんた、どっか行く」
「ねーえー、ちゃんと帰るからー」
「守ったこと無いでしょうが」
 嘆息し、伽耶は息子を見下ろした。短く切った髪の毛と大きな目。息子だからかどうかは分からないが、亮は可愛い。泥だらけにするだけならまだしも、うっかり大きな傷をつけて欲しくはない。何より大自然の中で駆け回るのをほったらかしにするのは、とても不安だった。園児の頃、走り回りすぎて盛大に転び、膝頭に傷痕が残るくらいの大怪我をした。以来、伽耶は少しも落ち着いていない息子の、予測不可能な行動に辟易している。
「お父さん、一緒に付いててくれる?」
 夫の孝一を呼んだ。孝一はあらかたの荷物を車から出し、バンガローの中に運び終えていた。
 バーナーやらタープテント組み立て用のペグやらは、まだ車の傍だ。んー、と孝一は屈めていた腰と背中を伸ばし、悩む様子を見せた。
「屋根と、外で休む場所を作りたいんだが」
「私の方が早いから」
 アウトドアは、伽耶の趣味だった。手慣れている彼女が組み立てる方が、準備は捗る。それに、亮の体力には流石に、女の体では追い付けないだろうと判断した。孝一もそれを理解したのだろう。嘆息して、笑顔を浮かべ、亮の手を引いた。
 五時ぐらいには戻ってきてね、と背中に声を掛け、その後ろ姿を見送った。
 遠ざかる父親と息子の後ろ姿を見送る。そのことが、いつから普通になったのだろう。
 在宅ワークをしている伽耶にとって、家族を見送ることは自然なことだった。けれど結婚してからそれは孝一に対してだけで、始めはそれがとても特別で、やがて日常になって。亮が生まれて幼稚園に行くようになってからの送り迎えに孝一が行くようになって、また新鮮な特別が始まったけれど、それももう昔の話だ。
 新しいことをしてみたい。この年になって、まだそんなことを考えられる自分に時々、驚いている。三十を過ぎてまだ体力はあるけど、こうして家族三人でアウトドアを楽しめるのは、あと何回までだろう。この特別な感じは、あと何回で普通になるんだろうか。漠然と、そんなことを考える。
 変化に飢えるのは、人として当然のことかも知れない。それが無ければ人と文明は躍進をせず、進化はもっと鈍化している。子育て自体が毎年変化をしていく『新しいこと』と言えばそうなるのかも知れないが、それを自分の趣味と同列に語るのは違うな、と伽耶は疑問に考えていた。
 何か、大きなことが起こったら。
 何か、特別で素敵で、誰も予想しないことが起きたなら。
 きっと私は、その渦の中に飛び込んでいける。息子と夫を残しても。いや、残して安全な場所に居てくれると信じているから、私はそれが出来る。伽耶はペグとハンマーを持ちながら夢想した。
 きっとそれは刺激的で、面白い。
 だから毎年、違う場所のキャンプ場を選んで遊びにくる。
 きっと今年は何かが起きると信じて。

       *

 毎年キャンプに来る度、亮は胸を躍らせていた。家ではまず拝めない、大きな木々、雄大な自然。そして夜遅くに帰ってくる父と、一日中遊べる。亮にとってはそれだけでも嬉しいことなのに、キャンプ場でいつも以上の探検が父と出来る。だから毎年、夏休みが楽しみだった。
 虫網を振り回し、虫を取る。素手で掴んで父親に見せると、ちょっと構える様な態度で、けれど笑顔で褒めてくれる。どうして大人は虫が苦手なんだろうと、亮はそれだけがいつも不満だった。
「お父さん、川」
「うん。お父さんから離れなきゃ、入っていいぞ」
 河川敷には、他のキャンプ客は居なかった。日差しが強く、町の中では想像が出来ない程に盛大に鳴くセミの音に辟易でもしているのだろうか。孝一も顔を顰め、恨めしげに砂利や石の転がる足場の悪い川原に照り付ける日光を睨む。亮はそんな父親の表情に気付くことも無く、小走りで川に近付いた。孝一も、慌ててその後を追う。
 二人はサンダルのまま川に入った。孝一はゆっくりと、足下の魚影を探し続ける亮の後ろをついていく。時々深みに行きそうになるのを止めて、別の方向を指し、魚を追わせるようにしていた。そんな彼の気遣いなど知るはずも無く、亮は魚を追い掛けた。
「とった!」
 やがて亮は一匹の魚を手で掴み、孝一に見せる。その豪快な姿に妻の面影を見たのだろうか、驚いてから苦笑して、孝一は答えた。
「ウグイだな。もうちょっと大きくなるぞ」
「めずらしい?」
「全然」
 言うと、亮はふてくされた様になってウグイを離した。ぽちゃん、と音を立てて、ウグイは慌てて下流へと逃げていった。
「お前、本当に珍しい物が好きだな。そういうところも、お母さんそっくりだ」
「お母さんも?」
「うん。でもお母さんは珍しいものというより、新しいものをいつも探してる。珍しいものを探すよりは、手軽かな」
「ボクの方が、むずかしいもの?」
「かもな。でもきっと、どっちも楽しいものだよ」
 知らないもの。珍しいもの。それはきっと、素敵なものだ。
 亮はそう信じて疑わない。誰も見たことの無い、世界で唯一の何かに出会いたい。そう願って、止まなかった。
 だから。

「       」

 何か声が聞こえた気がした、その時。亮は、何かを予感した。
「お父さん。何かきこえた」
 伝えると孝一は、うん? と首を傾げて森の中に耳を澄ませる。が、よく聞こえたな、と感心するだけだ。川の音と何十匹ものセミの鳴き声以外に、音は聞こえないらしい。
 それは、しかし亮にとっても同じだった。自然の中で生まれる多種多様で、あまりにも騒々しいその音の中から両親の声以外の何かを聞き取り、聞き分けるなど、不可能に思えていた。
 けれど、その声だけは違う。
 自然が奏でる音の洪水の中でその声は、針が落ちる様に小さな音だった。けれど、動く物の無いプールの底で聞こえる自分の心臓の音の様に、声は確かに、亮の耳に届いている。
 冷たい水が足首をさらって行く感覚が遠くなる。意識が、一度しか聞こえないその声に引っ張られて行く感覚があった。
「亮。ほら、サワガニだぞ。……亮?」
 孝一が、息子の反応が無いのに気付いて顔を上げる。隣に亮は居なかった。一瞬、最悪の事態を想定して顔から血の気が引いたが、亮は川から上がり、河川敷にぼうっと突っ立っている。胸を撫で下ろし、孝一も川から上がった。
「どうした、疲れたか」
 ううん、と気の抜けた声で亮は答えた。自分でも分からないが、聞こえる声以外に注意を払う心の余裕が、何故か無かった。
 声は尚も、何処かから聞こえる。
「きこえないの」
 亮はぼんやりとした風に聞く。孝一は否定するが、その返答を待たず、亮は上流へ向かって歩き始めた。奇妙に思いながらも、川の近くを歩かないように、とだけ声を掛けて、孝一は亮の後をゆっくりと追う。
 亮の耳に残る、奇妙な音。それはあまりにも、聴覚機関を通して聞く通常の音からは乖離していた。たった八年の人生で聞いてきた中で、それでも彼にとって、それは初めての音だ。
 音。音である。声の様にも聞こえるが、それが具体的に声であるかは分からなくて、音と呼んでみた。けれど、それが聞こえる方角……川の上流に向かって歩くと、徐々にではあるが、それが何か規則的で、一定のリズムを取っていることが分かる。
 音楽のそれではない。それは、言葉を発する時に生まれる、等間隔で単調なリズムだ。しかもか弱く、短く、頼りない。
 けれど自然の轟音の中で、そのか弱い音は確かに、亮に聞こえていた。


 上空を遮る物の無い、川原から離れたそこは、まるで森の入り口の様だった。川の流れも速く激しく、転がる石も下流に比べて幾分か大きい。太い幹の木々がまばらに生え始めており、そこから上流へ少し歩けば、渓流と呼んで差し支えない大自然が待ち構えている。
 亮は、その森の入り口付近で足を止めた。か弱く聞こえていた声らしきそれは、僅かながらに強くなっていた。
「おーい、何処まで行くんだ」
「お父さん、これは?」
 目に止まったそれを、亮は指差す。うん、と肩で息をする孝一は曲がった背を伸ばし、息子の指したそれを見上げた。
 森の入り口にそびえる、崖である。高さはおよそ、六メートル程。崖の上には更に木々が広がっているが、今は少しまばらだ。
 理由は、崖崩れ。
「危ないから、近付くなよ」
 孝一は亮の肩を掴み、自分に引き寄せる。丁度崖の上に生えていたであろう巨木は、崩れた土砂と瓦礫の前に屈し、無残にも息絶えている。朽ち方を見るに、崩れてからまだ長い月日は経っていないと思われた。
「なんで落ちちゃってるの」
「地震だな。三月の」
 大きな地震は関東から離れた場所で起きたものではあったが、揺れはしかし、広範囲に大規模に発生した。まだ今季、崖が崩れる程の大雨は降っていないと事前に情報を仕入れていたから、間違い無いだろう。
 亮は、その地震のこと、地震が引き起こしたこと、その地震でどれだけ沢山の人が悲しんだか。そういったことを、先生や両親から聞かされたけれど、子供心にそんな説教にも似た言い聞かせなど、彼の頭には入ってこなかった。
 けれど、母がぼんやりと口にした独白だけは、何故かよく覚えている。
 変わっちゃうのかな。
 新しいこと、変わることを求めていたはずの母が、変化を憂う様な口ぶりで、窓からぼんやりと外を眺めていたその表情は、亮の脳裏に焼きついている。
 思えばあの頃、伽耶は変化を喜ぶでもなく、寧ろ少しだけ変わってしまった短期間の生活に、疲弊し、うんざりしていた様に見えた。
 いい変化が、せめてあるといいな。
 亮は思った。例え小さな変化や特別なことであっても、それが素敵なものだったらいいと。そうすれば自分も嬉しいし、きっと母も喜んでくれる。
「       」
 声ならぬ声は少しだけ調子を変えて、声を発する。
 まるで、自分の心の動きに合わせて何かを伝えたかの様に。
 まさか、と思いながらも亮は、声を掛けた。
「いるの?」
 何が? と孝一は見下ろし、尋ね返す。けれど勿論、亮は答えなかった。質問をした先は父ではなく……崩れた崖の中から声を発している、何か。
「       」
 確かに声は、弾む様な言葉を発した。亮の言葉に呼応する様に。胸を高鳴らせる亮の心と連動する様に。
 間違い無い。亮は確信した。
 この崩れた土の下に、何かが居る。


 両親の作ってくれたカレーライス。毎年、キャンプで食べるそれは至上の一品で、美味しかった。けれど今年のカレーは、それ程でもない。
 不味いわけじゃない。今年も美味しい。亮にとってもそれが嬉しいはずなのに。
 頭の中には、声ならぬ声が染み付いて離れない。
 今も、もうあの崖崩れの場所から随分遠く来ているというのに、僅かに声が聞こえている。しかも先程、亮が意識して声を掛けたその時から、まるで必死に彼に呼び掛けるみたいに、頻繁に。
 だから亮は夜、眠れないままに体をそっと起こし、音を立てない様にしてバンガローを出る。その際に昼間見付けた、バンガローに備品として置かれていた園芸用のシャベルを手に持った。
 人工の光で溢れる町中では想像がつかないくらいに、キャンプ場を照らし出す月明かりは神々しく、明るかった。お陰で懐中電灯を持たずとも、足場の悪い川原を歩くことが出来た。昼とは違い、セミの代わりに鈴虫やオケラが騒々しく鳴いている。
 そんな虫の音に惑わされること無く、今も尚はっきりと明瞭に聞こえる声の下へ、亮は小走りに向かっていた。
 崩れた崖のある場所。昼間と同じく川の水が流れる音が響いている。森の木陰が作る暗闇と、明る過ぎる月光のコントラストが、非現実的な感覚を強くしている。
 亮は、細心の注意を払い、夜の川を渡る。足元の揺れる石を踏まない様に、何度も足を踏み締めて、ゆっくり、ゆっくり。
 五分程時間を掛けて辿り着いた対岸は、崩れた土砂と草で溢れ、倒木は葉を揺らめかせることをしなかった。
 崩壊したその空間で、けれど声ならぬ声はずっと、亮のことを呼んでいる。少なくとも彼には、そう思えて仕方がなかった。
 石をどかす。土を掻き分ける。子供の手には、重労働だった。シャベルでひたすら、土を掘り返す。石を放り投げる。夏の夜の蒸し暑い風を予期していたが、森の川縁の風は冷たく、亮の汗を冷やしていく。
「       」
 声ならぬ声は、亮を急かす。
 具体的に『それ』が人の言葉を発し、亮に言っているわけではない。正しくそれは、人の声ではないのだから。けれどその言葉は確かに、虫や動物がシグナルの様に出す決められた鳴き声とは明らかに違う。何がしかの言語体系を用いて発する、明らかな言葉だ。
 亮はそれを、理解出来ない。けれど、何を語り掛けているのかは分かる。言葉の色、調子、速さ、リズム。それら全てが重なり合って、彼という人間を引き寄せている。
 土を掘る音、水の流れる音。それらに混じって、自分の汗が地面を叩く微かな音さえも拾える気がした。けれど彼の耳と脳裏に焼き付くのは、常に声ならぬ声だ。
 何度か石や土が崩れる自然の妨害に遭ったものの、亮はその小さなシャベルで土を掘り進め、身体中を泥だらけにしながら、一時間以上もその作業を続けて。
 やがてシャベルの先端が、何か硬い物にぶつかった。
 最初はそれも石かと思った。けれどシャベルが衝突したその瞬間、頭に響く声は歓喜の色を浮かべ、騒いだ。
 これだ。亮はそう直感し、それまで以上のスピードで周りの土を、石を、どかした。

 それは、大きな黒い石だった。

 一見して、特段他の石と変わったところは無い。だが川原の石は殆どが淡く白や灰色に近い色をしており、土に埋もれた石は水気と泥に覆われている。一方でその石は黒く、水気も無く、掘り出したばかりだというのに泥は殆ど付着しなかった。表面も艶やかではなく、歪だ。
 けれど全体の輪郭線は、限りなく球形に近かった。
 キミが呼んだの?
 声に出さず、亮は話し掛けた。頭に響く声は呼応する様に、短い言葉を繰り返し繰り返し発する。それは明滅する光の様に、亮の脳内を駆け巡る。
 答えている。応えている。この石は、僕の言葉に。
 直径約二十センチの、球形の石。
 それは確かに、意思を持っている。

       *

 キャンプは毎年、二泊三日だ。初日は午後に到着して、二日目は目一杯遊ぶ。最終日は、体力の衰えている伽耶と孝一が根を上げてなるべく早く帰ろうとするのだが、毎年、亮がもっと居よう、もっと遊ぼうと駄々を捏ねるので、それを説得するのが大変なのが恒例であった。
 けれど、今年は不思議なことに、二日目の時点で亮は大人しくなっていた。
 朝早くから服を泥だらけにして、素敵な石を見付けた、と伽耶に報告をしにきて、彼は近くの川辺で丁寧にそれを洗い、干した。
 それはいいのだが、伽耶が心配なことに、亮はしきりに石のことを気にしているのだろうか、虫取りにも魚釣りにも、折角持ってきたバドミントンにも夢中にならない。少し続けては飽きた様に適当になり、視線はバンガローの方へと向けられる。
「どうしたの」
 そう訊いても、何を意味するのか分からない首振りをして、また遊びに戻る。けれど楽しんでいる様子が無いので、まるで伽耶の方が、亮に遊びに付き合ってもらっているかの様な感覚になる。
 疲れてるのかな、と孝一と小声で話し合いもしたが、常に一日中動き回っていなければ仕方がないとでもいう風な息子が、突然こうも疲労で大人しくなるとは思えない。
 今年から購入して設置してみたハンモックに寝転がって、亮は夕方からずっと、乾燥した例の丸い石を持ってじっとしている。
「疲れた?」
 戯けて訊いてみるけれど、返事は無かった。もう彼は、自分の胸の上に乗せた石に、心を奪われてしまっている風に見える。ねえ、と声を掛けながらキャンプチェアを引き寄せて、ハンモックの隣で腰掛ける。そこでようやく、亮は伽耶を見た。
「お母さんにも見せて?」
「うん」
 そっと、今までそんなに物を丁寧に扱ったことがあるだろうか、というくらいに、亮はそっと手を伸ばし、伽耶に石を渡す。
 素敵かと言われればよく分からないが、奇妙な石だな、とは思った。
 確かに、球に近い形をしている。自然物と言われれば確かにそうだが、恣意的に石から削り出して作られた物だと言われても信じてしまいそうだった。朝には気付かなかったが、僅かに光沢を帯びている様にも見えるそれは、エナメル質な印象を与えた。
「亮はこれ、何処が好きになった?」
 純粋な興味だった。子供の感性に、時々大人は大きな刺激を受ける。それは子育てをする親も例外ではないだろう。だから伽耶は、亮の答えに期待した。
 けれど彼の答えは、奇想天外にも程がある答えだった。
「音がきこえる」
「音?」
 重さは、見た目相応だ。中が空洞になっているということもないだろう。そうアテを付けて、伽耶はそっと石に耳を当て、澄ませる。けれど、音らしい音はしない。
 けれど亮は即座に、それを否定する。
「そんなことしなくても、きこえない?」
「えー?」
 その後も何度か耳に当て、もう片方の耳でも聞いてみたが、やはり何の音もしない。
「ほんとうに、何もきこえないの?」
「……そうだねぇ」
 モスキート音というものに類する何かだろうか。三十半ばの自分の聴覚と息子のそれでは、可聴域が異なる場合がある。若年層に聞こえる音が、一定年齢以上の者には聞こえないのだ。けれど亮は、音は石の中からすると言う。人工的な音ではない。
 生物界で言えば、象の近くに居ると頭痛がする人が居るらしいと、伽耶は昔アウトドア関連の本で読んだ覚えがあった。象は人が本来聞き取れない低周波音域で会話をする。けれど人は稀に、そうした音を聞き取ってしまい、そのせいで頭が痛くなるらしいのだ。
 伽耶は生憎、そうした経験を全く持っていないので、それが本当かどうか確かな覚えは無い。けれど少なくとも、生物でもない自然物がそうした音を発することが有り得ないことくらいは、彼女でも理解出来た。
 亮は、大丈夫だろうか。そんなことを考えながら加耶は、石を彼に返す。亮はそれを大事そうに抱き締め、ハンモックに揺られて昼寝を始めた。
「今年はゆっくり出来ていいじゃないか」
 チェアに体を預けてコーヒーを飲んでいた孝一は、亮が完全に寝たのを見計って言う。彼の言葉も、もっともではある。けれど問題は、亮が突然に不可思議な言動を始めたことだろう。
 帰ったら、耳鼻科に連れていこうかな。そう考えながら伽耶は、自分もマグに注いだコーヒーを飲む。すっかり冷めてしまっていたが、美味い不味いの味も、何だかよく分からなかった。