「ただいま」
ここだけ、という話だったけど、つい私も追加でわからないところを質問してしまって、特別講義は遅くまで続いた。結局午後六時を回り図書室の閉館で追いだされてしまい、その時教えてもらっていた問題の解説が最後まで聞けなかったことが少し残念だった。
今度また続き教えるよ。
そう言ってくれたけど、次っていつなんだろう。次もあるって思ってしまうと、何だか戸惑いに似た感情が落ち着かない。私は元来、人見知りなのは自覚している。
家の中に入るとすぐにいい香りがした。いつもよりも帰りが遅かったせいか、夕飯の支度は終わっているみたい。心配していたのか、私の声に反応したお母さんが、ぱたぱたと駆けるような足音を響かせて迎えに来てくれた。
「遅かったのね、琴美ちゃんと勉強?」
テストが終わるまで琴美と放課後に勉強すると言っていたからか、さほど心配そうな様子は見せず、お母さんが聞いてくる。
「うん、まぁ」
テスト勉強なのは間違いないけど、琴美じゃなくて初対面の男子ですなんて言ったら驚かれそうだし、経緯を説明するのは面倒だから、私は思わず曖昧に言葉を濁した。
「そう。あまり遅くならないようにね。ご飯すぐ用意するから、着替えてきなさい」
よかった。疑問に思われたりはしていないみたい。いや、別に悪いことをしたわけでもないと思うけど。
いつもより長い時間、しかも緊張状態で勉強したせいか、すごく空腹を感じた。琴美とだったら何か食べながら帰ろうか、なんて言ってるところだけど、今日は当然それもなかったし、もう限界だ。部屋に戻って着替えを済ませると、私はすぐに食卓へ向かった。
私が席につくと、間髪入れず目の前にメインの皿が置かれた。今日はオムライス。デミグラスソースじゃなくて、卵で包まれたケチャップの味付けのものは、私の好物のひとつ。空腹の時は好物が一層宝物のように輝いて見える。この時ばかりは、どんな高価な宝石よりも価値あるものなんじゃないかと思う。
さっそくスプーンで口に運び、その甘い味わいに口の中が歓喜する。一日の疲れが吹き飛ぶような幸福感に包まれて、私は思わず頬が緩むのを感じた。
「どう?」
「うん、おいしいよ」
でも一口じゃまだ満足できない。続けて二口三口と反復的な動きでオムライスを頬張りながら、そういえば、と私はここ最近の夕飯を思い浮かべていた。
ハンバーグ、カルボナーラ、エビフライ……私の好きなものばっかりだ。
こんなに続くのは珍しいな、と思った。割と手間のかかるものだからか、頻度としては週に一回ぐらいしか出てこないようなイメージだったのだけど。それに私はけっこう好き嫌いも多くて、いつもお母さんに文句を言わずに食べなさいと叱られていた。こんなに好きなものばかりなんて、今までにあったかな。
「そういえばこの間ね、病院の先生から連絡があったのよ」
「え?」
お母さんは私に背を向けながらそう言った。
「人間のストレスってね、けっこう脳に負担かかっちゃうんだって。ほら、精神的に病んだりする人ってさ、ストレスで脳がやられちゃうのが原因だったりするから……そう言われたら、そうよね。だからね、先生が、普段の生活でもなるべくストレスのかからないよう注意した方がいいだろうって」
そう言われて、私は目の前のオムライスに視線を落とした。そっか、そういうことか。だから、私の好きなものばかりを食卓に並べているんだ。私の嫌いなメニューを出したら、私がストレスを感じると思って。
ひょっとしたら、と私はスプーンでオムライスを崩してみた。間違いなくおいしいオムライスだけど、何だか違和感はあった。私はそれを確かめるために、お母さんに向かって尋ねる。
「ねぇ、お母さん。今日のオムライス、グリンピース入ってないね」
「……雪穂、嫌いだったでしょ?」
「うん……でも、いつも入れてたでしょ。彩りに必要だって言ってさ」
「そうね。そう、買い忘れたのよ。うっかり」
我が家のオムライスは、鶏肉と玉ねぎ、そしてグリンピースが定番だったはずだ。意外と料理にこだわりのあるお母さんは、私が嫌だと言っているのに、絶対にそれを外すことはしなかった。好物のオムライスだけど、毎回そのやり取りをしていた。
お母さんにもずいぶん気を使わせている。いや、怖がっているんだ。そういう日々のストレスが原因で、私にまた何かあるんじゃないかと。
申し訳ないな、と思った。私が目を覚ましたことをあんなに喜んでくれたのに、また不安にさせてしまっているなんて。
「やだな、お母さん」
私は冗談ぽく、軽い調子に聞こえるように言った。
「別にそんな、私の好きなものばかりじゃなくていいんだよ。私の好きなものって、カロリー高そうなものばっかりでしょ。それが続いたらあっという間に太っちゃうよ。そっちの方がストレスになっちゃうし、別に他のメニューだって、言うほど嫌いじゃないよ」
お母さんは怪訝そうな表情をしていたけど、そう、とつぶやきながら小さくうなずいた。
「わかった。確かに、ちゃんと嫌いなものも食べないと、栄養偏って別のところが病気になっちゃうわね」
「ほんとだよ。あ、でも嫌いは嫌いだから、あまり入れないでほしいな……」
「ダメよ。ちゃんと食べなさい」
「えぇー」
途端に厳しい言葉を浴びせてくるお母さんに、私は口を尖らせる。
好きなものばかりも嬉しいけど、こういうやり取りがなくなってしまうのは寂しい気がする。
何かに変わってほしいんじゃない。気を使ったり不安になったりしてほしくない。今までどおり、いつもどおりでいたい。私も、みんなにも。
ここだけ、という話だったけど、つい私も追加でわからないところを質問してしまって、特別講義は遅くまで続いた。結局午後六時を回り図書室の閉館で追いだされてしまい、その時教えてもらっていた問題の解説が最後まで聞けなかったことが少し残念だった。
今度また続き教えるよ。
そう言ってくれたけど、次っていつなんだろう。次もあるって思ってしまうと、何だか戸惑いに似た感情が落ち着かない。私は元来、人見知りなのは自覚している。
家の中に入るとすぐにいい香りがした。いつもよりも帰りが遅かったせいか、夕飯の支度は終わっているみたい。心配していたのか、私の声に反応したお母さんが、ぱたぱたと駆けるような足音を響かせて迎えに来てくれた。
「遅かったのね、琴美ちゃんと勉強?」
テストが終わるまで琴美と放課後に勉強すると言っていたからか、さほど心配そうな様子は見せず、お母さんが聞いてくる。
「うん、まぁ」
テスト勉強なのは間違いないけど、琴美じゃなくて初対面の男子ですなんて言ったら驚かれそうだし、経緯を説明するのは面倒だから、私は思わず曖昧に言葉を濁した。
「そう。あまり遅くならないようにね。ご飯すぐ用意するから、着替えてきなさい」
よかった。疑問に思われたりはしていないみたい。いや、別に悪いことをしたわけでもないと思うけど。
いつもより長い時間、しかも緊張状態で勉強したせいか、すごく空腹を感じた。琴美とだったら何か食べながら帰ろうか、なんて言ってるところだけど、今日は当然それもなかったし、もう限界だ。部屋に戻って着替えを済ませると、私はすぐに食卓へ向かった。
私が席につくと、間髪入れず目の前にメインの皿が置かれた。今日はオムライス。デミグラスソースじゃなくて、卵で包まれたケチャップの味付けのものは、私の好物のひとつ。空腹の時は好物が一層宝物のように輝いて見える。この時ばかりは、どんな高価な宝石よりも価値あるものなんじゃないかと思う。
さっそくスプーンで口に運び、その甘い味わいに口の中が歓喜する。一日の疲れが吹き飛ぶような幸福感に包まれて、私は思わず頬が緩むのを感じた。
「どう?」
「うん、おいしいよ」
でも一口じゃまだ満足できない。続けて二口三口と反復的な動きでオムライスを頬張りながら、そういえば、と私はここ最近の夕飯を思い浮かべていた。
ハンバーグ、カルボナーラ、エビフライ……私の好きなものばっかりだ。
こんなに続くのは珍しいな、と思った。割と手間のかかるものだからか、頻度としては週に一回ぐらいしか出てこないようなイメージだったのだけど。それに私はけっこう好き嫌いも多くて、いつもお母さんに文句を言わずに食べなさいと叱られていた。こんなに好きなものばかりなんて、今までにあったかな。
「そういえばこの間ね、病院の先生から連絡があったのよ」
「え?」
お母さんは私に背を向けながらそう言った。
「人間のストレスってね、けっこう脳に負担かかっちゃうんだって。ほら、精神的に病んだりする人ってさ、ストレスで脳がやられちゃうのが原因だったりするから……そう言われたら、そうよね。だからね、先生が、普段の生活でもなるべくストレスのかからないよう注意した方がいいだろうって」
そう言われて、私は目の前のオムライスに視線を落とした。そっか、そういうことか。だから、私の好きなものばかりを食卓に並べているんだ。私の嫌いなメニューを出したら、私がストレスを感じると思って。
ひょっとしたら、と私はスプーンでオムライスを崩してみた。間違いなくおいしいオムライスだけど、何だか違和感はあった。私はそれを確かめるために、お母さんに向かって尋ねる。
「ねぇ、お母さん。今日のオムライス、グリンピース入ってないね」
「……雪穂、嫌いだったでしょ?」
「うん……でも、いつも入れてたでしょ。彩りに必要だって言ってさ」
「そうね。そう、買い忘れたのよ。うっかり」
我が家のオムライスは、鶏肉と玉ねぎ、そしてグリンピースが定番だったはずだ。意外と料理にこだわりのあるお母さんは、私が嫌だと言っているのに、絶対にそれを外すことはしなかった。好物のオムライスだけど、毎回そのやり取りをしていた。
お母さんにもずいぶん気を使わせている。いや、怖がっているんだ。そういう日々のストレスが原因で、私にまた何かあるんじゃないかと。
申し訳ないな、と思った。私が目を覚ましたことをあんなに喜んでくれたのに、また不安にさせてしまっているなんて。
「やだな、お母さん」
私は冗談ぽく、軽い調子に聞こえるように言った。
「別にそんな、私の好きなものばかりじゃなくていいんだよ。私の好きなものって、カロリー高そうなものばっかりでしょ。それが続いたらあっという間に太っちゃうよ。そっちの方がストレスになっちゃうし、別に他のメニューだって、言うほど嫌いじゃないよ」
お母さんは怪訝そうな表情をしていたけど、そう、とつぶやきながら小さくうなずいた。
「わかった。確かに、ちゃんと嫌いなものも食べないと、栄養偏って別のところが病気になっちゃうわね」
「ほんとだよ。あ、でも嫌いは嫌いだから、あまり入れないでほしいな……」
「ダメよ。ちゃんと食べなさい」
「えぇー」
途端に厳しい言葉を浴びせてくるお母さんに、私は口を尖らせる。
好きなものばかりも嬉しいけど、こういうやり取りがなくなってしまうのは寂しい気がする。
何かに変わってほしいんじゃない。気を使ったり不安になったりしてほしくない。今までどおり、いつもどおりでいたい。私も、みんなにも。