眠りにつく日、日曜日で誰もいない病院で準備が整うのを待っていると、井田先生が突然、ちょっと話をしようと私を屋上へと連れ出した。何かまた重大なことを聞かされてしまうのじゃないかと、内心びくっとしてしまったけど、ここまで来たらもう怖いものなんてない。とっくに腹はくくったのだから、どんと構えていけと、自分自身に鼓舞をした。
むしろ、付き添いに来ていた琴美や愁くんの方が、一緒についていこうかと不安に思っていたかもしれない。
初めて足を踏み入れる病院の屋上。高いところはそんなに好きなわけじゃないけれど、四方すべてが広く見渡せる景色はすごく気持ちがいい。遮るものがない日差しは相変わらず容赦なく、肌を焦がしそうだったけれど、少しだけ聞こえる蝉の音は落ち着いてきた気がする。
その時、私の目の前をトンボが一匹横切って行った。もうすぐ夏休みも終わる。私には二学期はやってこないけれど、季節は確実に夏の終わりへ向かっている。次の季節が、少しずつ近づいている。
「話って……何ですか?」
屋上の柵に寄りかかるようにして遠くを見つめたまま、一向に口を開こうとしない先生に、私は思い切って声をかけた。言いづらそうにしている背中を見ていると、やっぱり何かとんでもないことを言われそうな気がして、正直怖い。
「……怖いか? また、植物状態に戻るのが」
身体半分をこちらに向けるようにして、ようやく先生が言葉を発した。
「もちろん、怖いです。けど……大事なことを忘れるのは、もっと怖いので」
「……すまなかったな」
「え?」
ふいに聞こえてきたその言葉に、私は思わず甲高い声を上げていた。いつも仏頂面で冗談ひとつ言わないし、場を和ませるようなこともしないし、ただただ事実のみを淡々と告げる先生のことを、私はずっと苦手に思っていた。
その井田先生が、そんな言葉を私にかけるなんて予想外で、驚いてしまった。
「君と同じような植物状態のまま眠り続ける人を救いたいと、医者になって以来ずっと研究を続けてきたんだ。そしてようやく、完成したと思った。この人工脳が本当に人々を救えるのか確かめるために、実際の患者で臨床試験を行う必要があった。そんな時……君と出会った」
私は驚いた気持ちのまま、聞き入っていた。ほとんど自分の研究以外に興味なさそうだと思っていたけれど、その裏にはそんな志を抱えていたなんて。
「君が定期健診で普段通りの生活ができていることを確認する度に、ほっとしていたよ。このままいけば、まちがいなくこの人工脳は成功だと。これで、同じように眠り続けている人を、目覚めることを待ち望んでいる家族を救うことができると。だが……そうはいかなかった。私の力が足りなかったんだ。結果……せっかく今までどおりの生活を取り戻した君を、また絶望の底に落とすことになってしまった。君の気持ちを考えると……やりきれなくてね」
悔しそうに滲む先生の表情を見ていると、私の心も痛んだ。みんな苦しいんだ。私も、お母さんも、琴美も、愁くんも、井田先生も。私の事情を知り、私に関わるすべての人ががんばって、苦しんで、精一杯、自分の力のなさを悔やんでいる。
私にできることは、ただがんばってくれたことに感謝の意を伝えること、頭を下げることぐらいだけど。
「君は、向こうの世界の話をしてくれたね」
「え? あ、はい……」
元の状態に戻ることを伝えた日、私は先生に向こうの世界の話をした。あちらには何もない暗闇だけの世界だったけど、最近、なぜか手を握られている感覚を、温かさを感じることができたと。
「この人工脳の研究を始めた時、魂の話を聞いたことがあってね、それを思い出した」
「魂……ですか?」
あまり口にしないワードだったので、思わず繰り返してしまった。
「人の心はどこに宿るのか、という話だ。一方の人は魂に、一方の人は脳に、という立場に多くは分かれる。じゃあその魂とは? そんなものがあるとして、今の科学では解明できない。存在を証明することはできない」
「はぁ……」
私はよく理解できなくて、生返事をする。
「君の見てきた世界は、魂の世界かもしれない。科学で存在を証明できないということは、存在しないということも証明できない。つまり、その世界は、君の魂は存在する可能性があるということだ。そこで誰かに手を繋がれていると感じたことも、魂同士の結びつきが二つの世界の境界線を越えているのかもしれない。非科学的なことだが……すべてに、可能性があるということだからな」
やっぱりよくわからなくて私は首を傾げた。けど、私が話した向こうの世界のことを、否定していないということは理解できた。
あ、もしかしたら。
「ひょっとして……励ましてくれてるんですか?」
言いたいことをうまく言葉にできなくて苦労している状態は、私自身にも覚えがある。その雰囲気を感じ取って、私は思い切って尋ねる。
すると、井田先生は恥ずかしそうに頭をかいて、小さくうなずいた。
「……ありがとうございます」
さっきは頭を下げただけだったけど、今度は私もちゃんと言葉にできた。
「君がもう一度元の生活に戻れるように、私も研究を続ける」
その言葉は、私の救いになる。先生の志を聞いた後なら、尚更だ。
「さぁ、そろそろ行こうか」
先生が柵から離れて、階段の方へと向かう。私はその背中を追いながら、今この場に溢れるどんな音よりも大きく、声を上げた。
「先生、私、眠り続けるなんて嫌です。一日でも、一秒でも早く、また目を覚ましてみんなと元の生活を送りたい。大事な友達がいるんです、好きな人がいるんです、悲しませたくない人がいるんです。だからお願いします。私のこと、絶対に目覚めさせてください。どんな方法でもいいから、絶対に、私を元の生活に戻してください。先生のこと、信じてますから」
頭の先から足の先までの身体全部でしぼりだしたような、私のありったけの大声で、私のありったけの祈りを、わがままを言い放った。
琴美に約束したから、これは予行練習。眠りにつく前最後の、最大限の私のわがままを。
どうか聞いてほしい。そこにいる井田先生、空の向こうにいる神さま、誰でもいい、誰でもいいから、叶えてくださいと、全身全霊で願った。
井田先生は驚いたように目を丸くしていたけど、やがてゆっくりと力強くうなずいた。
「……約束する」
それだけで、十分だった。
むしろ、付き添いに来ていた琴美や愁くんの方が、一緒についていこうかと不安に思っていたかもしれない。
初めて足を踏み入れる病院の屋上。高いところはそんなに好きなわけじゃないけれど、四方すべてが広く見渡せる景色はすごく気持ちがいい。遮るものがない日差しは相変わらず容赦なく、肌を焦がしそうだったけれど、少しだけ聞こえる蝉の音は落ち着いてきた気がする。
その時、私の目の前をトンボが一匹横切って行った。もうすぐ夏休みも終わる。私には二学期はやってこないけれど、季節は確実に夏の終わりへ向かっている。次の季節が、少しずつ近づいている。
「話って……何ですか?」
屋上の柵に寄りかかるようにして遠くを見つめたまま、一向に口を開こうとしない先生に、私は思い切って声をかけた。言いづらそうにしている背中を見ていると、やっぱり何かとんでもないことを言われそうな気がして、正直怖い。
「……怖いか? また、植物状態に戻るのが」
身体半分をこちらに向けるようにして、ようやく先生が言葉を発した。
「もちろん、怖いです。けど……大事なことを忘れるのは、もっと怖いので」
「……すまなかったな」
「え?」
ふいに聞こえてきたその言葉に、私は思わず甲高い声を上げていた。いつも仏頂面で冗談ひとつ言わないし、場を和ませるようなこともしないし、ただただ事実のみを淡々と告げる先生のことを、私はずっと苦手に思っていた。
その井田先生が、そんな言葉を私にかけるなんて予想外で、驚いてしまった。
「君と同じような植物状態のまま眠り続ける人を救いたいと、医者になって以来ずっと研究を続けてきたんだ。そしてようやく、完成したと思った。この人工脳が本当に人々を救えるのか確かめるために、実際の患者で臨床試験を行う必要があった。そんな時……君と出会った」
私は驚いた気持ちのまま、聞き入っていた。ほとんど自分の研究以外に興味なさそうだと思っていたけれど、その裏にはそんな志を抱えていたなんて。
「君が定期健診で普段通りの生活ができていることを確認する度に、ほっとしていたよ。このままいけば、まちがいなくこの人工脳は成功だと。これで、同じように眠り続けている人を、目覚めることを待ち望んでいる家族を救うことができると。だが……そうはいかなかった。私の力が足りなかったんだ。結果……せっかく今までどおりの生活を取り戻した君を、また絶望の底に落とすことになってしまった。君の気持ちを考えると……やりきれなくてね」
悔しそうに滲む先生の表情を見ていると、私の心も痛んだ。みんな苦しいんだ。私も、お母さんも、琴美も、愁くんも、井田先生も。私の事情を知り、私に関わるすべての人ががんばって、苦しんで、精一杯、自分の力のなさを悔やんでいる。
私にできることは、ただがんばってくれたことに感謝の意を伝えること、頭を下げることぐらいだけど。
「君は、向こうの世界の話をしてくれたね」
「え? あ、はい……」
元の状態に戻ることを伝えた日、私は先生に向こうの世界の話をした。あちらには何もない暗闇だけの世界だったけど、最近、なぜか手を握られている感覚を、温かさを感じることができたと。
「この人工脳の研究を始めた時、魂の話を聞いたことがあってね、それを思い出した」
「魂……ですか?」
あまり口にしないワードだったので、思わず繰り返してしまった。
「人の心はどこに宿るのか、という話だ。一方の人は魂に、一方の人は脳に、という立場に多くは分かれる。じゃあその魂とは? そんなものがあるとして、今の科学では解明できない。存在を証明することはできない」
「はぁ……」
私はよく理解できなくて、生返事をする。
「君の見てきた世界は、魂の世界かもしれない。科学で存在を証明できないということは、存在しないということも証明できない。つまり、その世界は、君の魂は存在する可能性があるということだ。そこで誰かに手を繋がれていると感じたことも、魂同士の結びつきが二つの世界の境界線を越えているのかもしれない。非科学的なことだが……すべてに、可能性があるということだからな」
やっぱりよくわからなくて私は首を傾げた。けど、私が話した向こうの世界のことを、否定していないということは理解できた。
あ、もしかしたら。
「ひょっとして……励ましてくれてるんですか?」
言いたいことをうまく言葉にできなくて苦労している状態は、私自身にも覚えがある。その雰囲気を感じ取って、私は思い切って尋ねる。
すると、井田先生は恥ずかしそうに頭をかいて、小さくうなずいた。
「……ありがとうございます」
さっきは頭を下げただけだったけど、今度は私もちゃんと言葉にできた。
「君がもう一度元の生活に戻れるように、私も研究を続ける」
その言葉は、私の救いになる。先生の志を聞いた後なら、尚更だ。
「さぁ、そろそろ行こうか」
先生が柵から離れて、階段の方へと向かう。私はその背中を追いながら、今この場に溢れるどんな音よりも大きく、声を上げた。
「先生、私、眠り続けるなんて嫌です。一日でも、一秒でも早く、また目を覚ましてみんなと元の生活を送りたい。大事な友達がいるんです、好きな人がいるんです、悲しませたくない人がいるんです。だからお願いします。私のこと、絶対に目覚めさせてください。どんな方法でもいいから、絶対に、私を元の生活に戻してください。先生のこと、信じてますから」
頭の先から足の先までの身体全部でしぼりだしたような、私のありったけの大声で、私のありったけの祈りを、わがままを言い放った。
琴美に約束したから、これは予行練習。眠りにつく前最後の、最大限の私のわがままを。
どうか聞いてほしい。そこにいる井田先生、空の向こうにいる神さま、誰でもいい、誰でもいいから、叶えてくださいと、全身全霊で願った。
井田先生は驚いたように目を丸くしていたけど、やがてゆっくりと力強くうなずいた。
「……約束する」
それだけで、十分だった。


