私が夢見る朝日を

 全部吐き出した私は、空虚で空っぽになったような心地で、身体全体をビニールシートの上に投げ出した。力の抜けた身体は波で海岸に打ち付けられた残骸のように、頼りなく空を仰いで横たわる。

――あぁ、すごい星だなぁ。

 私と愁くんを二人にするために、琴美がこじつけのように言ったことだけど、改めて見上げると本当にきれいな星空だった。

 今まで見たこともないような満天の星。視界の隅々まで広がる宝石のような光。暗闇の中私を導いてくれるような光が、あんな風にあったらいいのに。

 さっき感じたような、琴美の手の温もりみたいに――

「愁くん」
「ん?」
「ひとつだけ……お願いしてもいい?」
「いいよ、何?」
「手……握って。それで、私がちょっとだけ向こうに行っている間、手を離さないで」
「……うん」
「ありがとう」
 私がどこに行くかなんて、愁くんは何も聞かなかった。

 愁くんが、しっかりと私の手を握る。

 あったかいな。この温もりを、覚えておこう。向こうの世界でも、すぐに気づけるように。

 私はゆっくりとまぶたを閉じる。直前まで見えていた星の輝きが、まぶたの裏に焼き付いたように、まだ煌々と照っていた。


 星が消えた。

 まぶたを開く動作を、私はまだ覚えている。その記憶を頼りにまぶたを開いても、私を導くようなあの光の海はもう見えなかった。

 記憶に焼きついた光だけじゃ儚くて、脆弱で、きっとすぐに消えてしまう。すぐにでも戻って、あの光の下にまた寝転がりたい。私はそんな誘惑を振り切って、自分の身体があった場所に、頭の先から百五十センチちょっとの手足の先までに、神経を集中させて、探した。

 あの温もりを。愁くんの、存在を。

 愁くんがいた方――私の左側、そちらの手を握るようなイメージで開閉させる。

 でも、しばらくその動作を続けても、ひとりぼっちでさまよう手のひらが、虚しく闇をつかむだけだった。

 やっぱり――ダメなのかな。

 私は落胆した。電車の中で眠った時、あの時握ってくれていた琴美の温もりを感じられたのは、ただの偶然、それとも私の思い込み、だったのかな。

 あんな感覚、目覚める前はなかった。事故に遭って長い間眠っていた時、きっとベッドのそばでお母さんや琴美が何度も手を握ってくれたりしたんだろうけど、私は一度もそれを自覚することはできなかった。だからどれくらい私がそこにいたのかも定かではなかったし、ずっと孤独で、いつ自分が消えてしまうのかと怯えていた。

 なぜかはわからないけど、もしそれを感じることができるようになったのなら――と、希望をつかめた気がしたのに。

 やっぱり、ここは怖い。自覚した途端、闇が激しく牙をむいて私に向かってきている気がした。意識がフェードアウトするように、じんわりと塗りつぶされて薄くなるような感覚。向こうの世界に戻る時とは違う。消えてしまうような焦燥感。このまま取り込まれて、もう目覚めることができないかもしれない。

 そんなのは嫌。もう少し、がんばってよ。私の身体、私の頭の中のもの。代替え品かもしれないけど、ここまで一緒にやってきたじゃない。

 せめて、最後の朝日を見たいんだ。愁くんと、琴美と、三人で。

 それでさよならが言えるのなら、私の人生まだ諦めもつくんだから。

 と、心の中でそう思ったけど、即座に否定した。

――諦め? そんなの、つくわけない。

 私は消えたくない。絶対に、目覚めるんだ、戻ってくるんだ。どんなに時間がかかっても、幸せだと思ったあの世界に。だから、消えないで、私。

 どこにいるの、愁くん。

 必死で手を伸ばす。闇に抗って、意識の向く限りで、愁くんの痕跡を、存在を探す。

 お願い、お願い、私の存在をつなぎとめて。

 私の――手を握って。

 と、その時、かすかに何かに触れた感覚があった。

 愁くん……?

 指先ひとつ、先端に触れたそこへ、もう一度力の限りを振り絞って、手を伸ばす。

 今度は確かに、何かをつかんだ。温かい何かを――しっかりと握った。

 琴美と同じような手の温もりだ。ちょっとだけ、大きいかな。私がつかんだら、応えるように握り返されたような気がした。

 あったかい、すごく、あったかいよ。

 見つけた、ここに、愁くんの存在を。私とつながっている、それぞれの世界の、小さいけれど確かな架け橋。

 私を飲みこもうとしていた闇が、少しだけ薄らいでいく。それでもこの世界がただの無でしかないことは、私の感覚がこの左手以外何もないことは、変わらないけれど。

 この世界に、ようやく希望を見つけられた気がする。

 でも――


 開けた視界に広がる空は、相変わらず宝石のような輝きを放っている。

 それはとてもきれいで、できることならあの輝きの中に飛び込んでしまいたい。

「雪穂?」
 その視界に、愁くんの顔が飛び込んできた。両手でしっかり包み込むように握った手を、私によく見えるように掲げる。

「……ありがとう」
 私はゆっくりと身体を起こしながらそう言った。

「大丈夫?」
「うん、平気」
「……どこへ、行ってたの?」
 ようやく愁くんは、意を決したようにその質問をした。

「……向こうの世界。私もよくわかんないし、ちゃんと説明できないんだけど。事故に遭ってから眠っている間ずっといた世界。私はそこにずっとひとりで、何もない、何もできないで、そこにいたの。目覚めてからも何度か―最近はけっこう頻繁にね、向こうの世界に呼ばれるの。たぶん、呼び戻されてるんだろうなって、そう思う」
 私がそう答えると、愁くんはかける言葉を失ったように、口をつぐむ。

「でもね……愁くんが、手を繋いでくれてたの、わかったよ。向こうでは私の身体なんてものは見つけられないんだけど、私の左手があった場所に、愁くんの存在を感じたの。愁くんがそばにいるって、わかったの。だから、ちゃんと戻って来れた。私は私を……見失わなかった」
 言い終えると、愁くんは私の手を握る力を強めた。私の説明を理解してくれたのか、自分がここにいるって、より強くアピールするみたいに。

 ちょっと痛いなって思うぐらいのその強さが、嬉しかった。

 そう、嬉しいんだ。愁くんの気持ちがわかることが。

 私のことを思って、手を握ってくれる。

 愁くんは優しいから、私が完全に向こうの世界に戻ってしまっても、私がその手の温かさを頼りにしていると言えば、きっと愁くんはずっとそうしてくれると思う。頻繁に私の元を訪ねては、そうやって、話しかけて、私の不安を少しでも取り除こうとしてくれるに違いないんだ。

 私にとってそれは、間違いなく希望。暗闇の中で、小さくても強く輝く光。

 でもその希望は、私だけのわがままだ。私がそう望むことは、いつまで続くかもわからない絶望に埋め尽くされた道に、愁くんの貴重な人生を巻き込んでしまうことになる。

 そんなの――許されるわけないよ。

「愁くん、私……向こうの世界に、戻るよ。元の状態に、戻っちゃう。人工脳のこととかなくしちゃって、目覚める前の元の姿に」

 私ははっきりと告げた。

 もう一度言おう。喫茶店で一度は愁くんの気持ちに甘えてしまったけど、私が起きている間しか、この世界にいる間にしか、言えないんだ。

「だから――愁くんは忘れていいよ、私のこと」
 それでいい。それがいい。私なんかのために愁くんを縛り付けるなんて、できないんだから。

「愁くんのおかげで、証明できたんだよ。何もないと思っていたけど、ちゃんとつながりを感じられるって。だから私はもう、向こうでも怖くないと思う。ちゃんとひとりで、戦っていける」
 愁くんは何も答えなかった。

 しばらく無言が続いて、波の音だけが聞こえていた。やがて、愁くんはゆっくりと立ち上がって、私に背を向けた。

「愁くん?」
「ちょっとだけ……ひとりで歩いてくる。日が昇るころには戻るから、一緒に朝日を見よう。約束だからね」
 そう言って歩き出す愁くんを、私はただ見送っていた。

 怒らせちゃったかな、がっかりさせちゃったかな。

 でも、しかたないんだ。

 誰にも褒められないかもしれないけど、私だってがんばった。好きだって気持ちを、せめて最後に伝えたかったけど、我慢した。だって、そんなことを言ったら、私のことを忘れてなんて言えなくなってしまう。

 好きだよって言うのか、忘れてって言うのか――

 悲しくて、苦しくて、心がガラスみたいに砕けてしまいそうだったけど、私は耐えたよ。耐えて、忘れてもらうことを選んだ。だから、自分ぐらいは褒めてあげよう。

 もう、これでほんとに終わったんだ。

 膝を抱え込むようにして、顔をうずめた。さっきだいぶ泣いて、涙はもう十分流し尽くしたと思ったのに、また溢れて膝を濡らす。せっかく見つけた希望。絶対に帰ると決めた意志。でも、帰ってきてもその時はもう愁くんはそばにいない。いったい何年かかるだろう。琴美やお母さんは、その時まだそばにいてくれるかな。もし、あの温もりを感じなくなってしまったら、私はそれでも、諦めないでいられるかな。

 堂々巡りのように不安が何度も襲いかかる。その度に私は隠れるように、膝を深く抱えて身を縮めた。


「……雪穂」
 どれくらい時間がたったのか、ふいに肩を叩かれて、私ははっと顔を上げた。

 見ると、愁くんがいつのまにか戻ってきていて、ばつの悪そうな表情を浮かべている。

――あれ、さっきより顔がよく見える。

 ふと感じた違和感の正体は、視線を上に向けるとわかった。

 星を浮かべた夜空の色が、少しだけ薄く青みがかっている。

 もうすぐ、夜明けだ。

 私が察してうなずくと、愁くんは再び私の隣に腰を下ろして、一緒に同じ方向を――太陽の昇る方を向いて座った。

 あくまで私の経験上だけど、ここから太陽が顔を出すまでは早い。秒単位でどんどん空は明るくなって、闇が薄まるにつれ、いろんなものの輪郭がはっきりと形を帯びていく。私が待ち望んでいた景色は、一瞬で現れては消えていく儚いものだから、見逃さないようにしないといけない。

 さよならを告げるような朝日になってしまうのは、心が苦しいけど。

 考えているうちに、水平線の向こうに光の筋が見え隠れしていた。

 いよいよだ。私はその一瞬をしっかりと視界にとらえるために身構える。何だか、ドキドキと胸が高鳴った。

「雪穂、もうすぐだよ」
「うん、わかってる」
「それから、さっき言いそびれたんだけど」
「うん」
「僕は、雪穂のことが好きだよ」
 えっ――

 その言葉を理解―するよりも前段階、耳に留めることに時間を要した。

 顔を出しつつある朝日に意識の大半を向けている状況で、私は何か、理解の追いつかないような言葉を言われた気がする。

 でも、聞き間違いじゃないのなら。

「……今、何て?」
 どうか、聞き間違いじゃありませんようにと願いながら、私はおそるおそる顔を愁くんの方へ向けて聞き返す。

 愁くんは恥ずかしそうにしながらも、視線はまっすぐ真剣に私の方を見返している。

「ごめん、なかなか勇気がなくて、ずっと言えなかった。でも僕は、雪穂のことが好きだよ。本当はずっと好きだった。一緒に勉強したり、お茶したり、そういう時間を過ごしていく中で……雪穂とちょっとずつ距離を縮めていけたことが嬉しかったし、雪穂の存在が僕の中で、かけがえのないものになっていったんだ。伝えようか迷ってたけど、忘れていいなんて言われたら、言うしかないと思って……ちょっと、心の準備するのに時間かかったけど」
「それって……さっきひとりで向こうに行ったこと?」
 そう尋ねると、愁くんはこくりとうなずいた。

 何だ、怒ってたわけじゃなかったんだ。

 私は胸をなでおろして――すぐさま、それどころじゃないことに気づいた。

「え、いや、好き……って……!」
 ちょっと待って、ちょっと待ってよ。

 混乱した。うろたえた。だって、そんなこと言われたら嬉しいに決まってるよ。めちゃくちゃに嬉しいし、大声で叫んでそのまま海に飛び込みたいぐらい。

 でも、そうじゃない。

「そんなの、ずるいよ……!」
 私は、ひとりで向こうの世界に行こうって決心したのに。せっかく、忘れてって言えたのに。今さら、そんなことを言われたら。

 愁くんは申し訳なさそうな顔をしていた。突然のことで、私が困った顔をしていたせいだ。本当は、泣くほど嬉しいはずなのに。

 違う。愁くんは悪くないんだよ。愁くんだって、私と同じように勇気を出してくれたのに。

 そう考えたら、私のは――勇気だったのかな。ちゃんと本心を伝えることを、わがままを言うことを、怖がって逃げてたんじゃないかな。

 もう、わかんないからどうでもいいや。どうでもいいから、もう伝えちゃうよ。

「私も……好きだよ、愁くんのこと。すごく、すごく好きだよ」
 すっと心が軽くなった気がした。涙が流れて、何だかほっとした。

「でも、言えなかったんだよ。だって、言ったら、私、これからずっと目覚めないのに、愁くんによけいな重荷を背負わせちゃう気がして、だから――」
 まくしたてるように、言えなかった本心を言葉にする。ぎゅうぎゅうに詰め込んでいた箱をひっくり返したみたいに、止まらなかった。

 愁くんがそっと、私の手を握る。

「重荷なんかじゃない。何よりも雪穂のことが大事だから、雪穂の気持ちを大事にしたいんだ。雪穂がしてほしいことを、僕はしてあげたいんだ」
「愁くん……」
「だから、言ってよ。雪穂の願いを」
「私……愁くんのことが好き」
「うん」
「でも、愁くんの人生を縛りたくない」
「うん」
「だから……忘れてもいいの」
「うん」
「でも……」
「でも?」
「忘れないでほしい、私のこと。そばにいてほしい、ずっとじゃなくていいから。飽きたら、さよならしてもいいから。でも、ちょっとだけでもいいから、いてほしい」
「いるよ。僕は雪穂のそばにいる。忘れないし、飽きたりしない。雪穂がまた目覚めるまで、ずっと待ってる」
 愁くんの言葉に、私はまた泣きそうになった。そういうことを言うから。そういう風に私のことを思ってくれるから、愁くんのこと好きな気持ちを捨てられないんだよ。

 あぁ、最低だな、私――

 結局、縛り付けてしまった。忘れていいなんて言ったり、その数秒後に忘れないでなんて言ったり。

 たぶん、愁くんは後悔するだろうな、あんな約束するんじゃなかったなんて内心思いながら、私のところにやってきては手を握ってくれる。そして大人になって、歳をとって、自分の人生なんだったんだろうなって、後悔するんだよ。

 でも、でもね、もし私が目を覚ました時に愁くんがそばにいてくれたら、最初に私の視界にその顔を見せて喜んでくれたら。

 私はすごく嬉しいよ。涙が流れて、止まらなくなっちゃうと思う。その瞬間、まだこれから始まるはずの私の残りの人生が、間違いなく幸せだって決まるんだ。

 誰がなんて言おうと、私は幸せになれるって確信するよ。

 きっと、きっと愁くんは信じて待っててくれるからー―

「愁くん」
「何?」
「もう一度、お願いしていい?」
「いいよ、何でも」
「私の手、握って。ずっとずっと、握ってて」
 恥ずかしかったけど、申し訳なかったけど、私が願うと、ぎゅっと強く、私のか細い力では振りほどけないぐらいに強く、愁くんが握った手に力を込める。

 その時、私の顔に白い光が射した。水平線の彼方に、眩い太陽が姿を現す。空を塗り替えるように広く拡散して、反射した光で海が宝石みたいにきらきらと輝いている。

 美術館で見たあの景色と同じだ。私が見たかった、約束したあの景色だ。

 言葉も出ないほどにきれいで、まばたきも忘れるくらいに神々しかった。さっきまで星の光ぐらいしか見えなかったのに、同じ場所にいるなんて嘘みたい。

 夜の闇を抜けた先にある世界が、こんなに光輝くものだと知らなかった。

 もし戻って来れたら、その時見る世界もこんな風に光輝いていたらいいな。

 できれば、また一緒に――