私が夢見る朝日を

 約束の日。私たちは夜に駅で待ち合わせをして、終電に乗り込んだ。

 砂浜で一晩を明かすことになるからと、愁くんが簡易的なテントを持ってきて、私と琴美が飲み物や食べ物を持ってきた。何だか遠足みたいでドキドキする。ずっと抱えてきた不安を一時忘れてしまえるほど、不思議と高揚した気分。

 終電の時間に外出することなんて、これまでもほとんどなかった。同じ夜でも、私の知っている夜とは少し形が違う。車の音も、人の喧騒も聞こえなくて、いつもは雑踏に紛れ込んでしまいそうな虫の音がよく響く。街の灯りも半分以下ぐらいまで減っていて、街中で見る星のように、まばらに映るだけだった。夜の入りの頃はまだ空気中に漂う真夏の太陽の熱も今は消え去っていて、時折涼しげな風が肌をなでる。

 電車の中もほとんど人影はなくて、私たちが乗り込んだ車両は片手で数えられる程度。広々とした横長のシートに、私たちはぎゅっと身を寄せるように並んで座った。

「テント、持ってくるの大変じゃなかった?」
 私は座るなり、右にいる愁くんに声をかけた。

「そうでもないよ。これはワンタッチで組み立てられるような簡単なやつだし。ほら、収納もこんなにコンパクト」
 愁くんの掲げて見せたテントは丸い形のバッグに収まっていて、確かに私が想像していたのよりもずっと小さく持ちやすそうだ。

「雪穂は何持ってきてくれたの?」
「私はおにぎり。あまり料理得意じゃないから……」
 得意じゃないというか、ほとんどやったことない。ごまかすように苦笑しながら答えると、愁くんはむしろ目を輝かせて話を続けた。

「おにぎり、大好きだよ。ねぇ、雪穂はおにぎりの具って何が好き?」
「え? 私は……明太子かなぁ」
 私はちょっと迷って答える。その後に愁くんは? と聞き返して、しまった、と思った。

「いいね。僕は、実は梅が一番好き」
「梅? あ、よかった……梅、あるよ」
 私は膝の上に乗せたバッグをぽんぽんと叩きながら、ほっとする。好きな具を聞いておきながら、それがないとわかればがっかりさせてしまうかもしれないと思ったけど、意外にも好みが合っていたようでよかった。

 愁くんは嬉しかったのか、にこりと笑顔を浮かべる。私はちょっと意外だと思った。

「珍しいね、梅が一番好きなんて」
「うん。おばあちゃんが作ってくれたのはいつも梅のおにぎりだったから」
「……そっか。おばあさん、元気?」
「元気だよ。大丈夫」
 愁くんからおばあさんの話を聞く時は、彼がいつも辛そうにしている記憶がある。だけど今日はずいぶん穏やかな表情で話してくれていた。そういえば『祖母』じゃなくて『おばあちゃん』って呼んでいるのを聞くのは初めてかも。愁くんもずっと辛さを抱えていたんだと、改めて感じた。

「ねぇ、私はいくらが好きだよ。おにぎりの具」
 琴美がおどけるような口調でそう言った。

「いくらは高くて無理だよ……」
 おにぎりの具は家の冷蔵庫にあったものを詰め込んできただけ。家の冷蔵庫にいくらが入っていたことなんて、私の知る限りない。いくらのおにぎりがおいしいのは私も知っているけど、手作りではちょっと難しい。コンビニのおにぎりは偉大だと思う。

 それから話題は琴美が持ってきたお菓子から、小学校の遠足でよく持っていったおやつは何だったか、という話題で盛り上がった。

 私がその頃からずっと好きだったお菓子を琴美はまだ覚えていて、今日もバッグに詰めてくれていた。話が盛り上がると海に到着するまで我慢できなくなって、私たちは電車の中でお菓子を取り出して食べた。

 懐かしい味。たまに食べることもあるけど、遠足の話をした後だと、その時の思い出も甦って、よりおいしく感じる。

 お菓子を食べ終わると、琴美は手帳ぐらいのサイズのアルバムを取り出して見せてくれた。中身は、私と琴美が一緒に過ごした小学校や中学校の写真。遠足の写真も、もちろんあった。

「どうしてこんなの持ってるの?」
 懐かしみながら私が尋ねると、琴美は少し寂しそうに笑って口を開く。

「もしも……もしもだよ? 雪穂が私のことを忘れたら、これを見せたら思い出してくれるかなって思って、持ち歩いてるの」
「そう、なんだ……」
 琴美も不安なんだ。たぶんこのお菓子も、私の記憶を繋ぎとめるため、呼び起こすために選んできてくれたんだ。

 やっぱり、嫌だな。琴美のことを、愁くんのことを、私は絶対に忘れたくないし、忘れた私を二人に見せたくない。

 怖いけれど、すごく怖くてしかたないけれど、私の選ぶ道は決まっているのかもしれない。

 車窓の向こうに見えていた、星の光のような街灯がしだいに少なくなっていく。そこには本当は家や道路や緑が存在しているのだろうけど、何も見えなければ夢の中の暗闇と同じだ。窓に暗闇を見つめる私の顔が映っている。覚悟は決まりかけているのに、私の表情は晴れない。これから見に行く朝日を、私はずっと楽しみにしていたはずなのに、どんな気持ちで迎えることができるんだろう。

 私が密かに不安を感じていると、琴美の手が優しく私の頭に触れた。

「まだ先は長いから寝てなよ。私の肩、貸してあげるから」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
 琴美の提案に、私はありがたく従って琴美の肩に自分の頭を乗せる。

 目を閉じて眠りに落ちる準備をすると、琴美が私の手をそっと握ってくれた。そして耳元に、静かにささやくような声が届く。

「大丈夫だよ、雪穂。何も心配しなくていい。私たちがちゃんと雪穂を連れて行く。だから今は何も見ないで、何も聞かないでいい。私たちが、ここにいるからね」

 琴美の言葉を、私は何ひとつ疑わない。琴美の言葉で、私の不安は和らぐ。琴美がここにいて、愁くんもそばにいる。私はほっとして意識を向こうの世界へ落としていった。

 ここから終点まで、約一時間半の長旅。そこからは、ゆっくり歩いて海岸を目指す予定。ここしばらく閉じこもっていたせいで運動不足だけど、長い距離歩けるかな。


 スイッチが切り替わるように、私の意識は闇の中に切り替わる。眠ったつもりなのに、起きてしまうとか、夢と現実が入れ替わって境界線があいまいになるとか、そういう感覚。現実から夢に落ちたのか、夢から現実に覚めたのか、次第にわからなくなってくる。

 ただ、こちらの世界が夢であったなら早く覚めてほしいと思う。ここにいるだけで――いや、自分の感覚のほとんどを闇に飲み込まれて意識すらぼやけてしまうこの世界では、いる、という感覚すら薄いのだけど、とにかく言いようのない不安が付きまとう。

 常に押し寄せる波に飲まれないように抗っている。息のできる場所を探して、必死に顔を上げようともがいている。そうしないと、ここで意識のすべてを失ってしまったらもう永遠に戻っては来られない気がして。

 たぶん、それが本当の死なんだと思う。だから私は、出口を探して永遠にさまよっている。もちろんそれは例えで、今の私は探し歩くための手も足も持っていないけれど。

 苦しい。相変わらず、ここは苦しいよ。暗くて、寒くて、震えそう。何も存在しないということが、私自身の存在すらも否定されているようで、今にも自分が跡形もなく消えてしまいそうで怖かった。

 どれぐらいの時間がたったのか、何秒なのか、何分なのか、それどころかもう何年もたっているのかもしれない。ここが夢なら、早く覚めてほしい。そう願っていた私は、ふと違和感を覚えた。

――あれ、何だか……あったかい?

 私に身体があったとしたら、ちょうど左手のあたりかな。何だか、じんわりと滲むような温もりを感じた。

 それは、私の存在が確かにそこにあるということを教えてくれるような、優しい温もり。

 誰かに、手を握られているみたいで――あぁ、もしかしたら。

 琴美、そこにいるの?

 何だか懐かしいような、ほっとするような感触。

 ここではもう、触れるものなんて存在しないと思っていたのに。

 私の存在も、琴美の存在も、たとえ存在する世界が違っていても、私たちはこの一点でつながっているのかもしれない。

 もしそうなら――少しだけ、この世界でも希望を持てるかな。


「雪穂。ついたよ」
 ゆりかごのような優しい振動で琴美に肩を揺すられ、私はゆっくりと目を覚ます。すでに電車は止まっていて、ドアが開いていた。慌てて立ち上がろうとする私を、終点だから慌てなくて大丈夫と、琴美が抑えてくれた。

 ホームに降り立ったのは私たち三人だけ。つまり最終電車にここまで乗ってきたのは私たちだけということになる。ホームと電車の灯りはついているけれど、駅舎の向こうに見える外の景色は真っ暗で、ちょっと寂しい。

 改札口に向かいながら、壁に取り付けられた時刻表をちらりと見る。今日一日の電車も、これで最後だ。上りの電車はとっくに終了している。たぶん、私たちが駅を出たら数分後には、ここも電気が消えてシャッターも閉じられてしまうんだろう。

 もう、今日は帰れないんだ。

 別に大したことじゃない。あと数時間たって朝日が昇れば、また始発電車が動き出す。今日だけが特別なんじゃなくて、毎日繰り返される当たり前のことなんだってわかってるけど、それでも今ここに自分がいることは特別だった。

「何か、ドキドキするね」
 愁くんが珍しく、高揚したような声で言った。私は同意するようにうなずく。

「私、終電に乗るのも終点に降りるのも初めて。何か、緊張する」
「そっか。でもわかるな、何となく」
「愁は、ここに来たの初めてじゃなさそうだね」
 琴美が前を行く愁くんに尋ねる。

「うん、まぁ案内できる程度にはね。でもこんな時間に来ることはさすがにないなぁ。昼間は海水浴客でけっこう賑わってるんだよ。駅の中も、駅前も。今とは全然違う雰囲気で」
「そうなんだ。海水浴行く人には有名な場所なんだね」
 私と琴美はあまり海水浴に行ったことがない。昔行った時は、もっと大勢で、車で行った記憶がある。だから電車を使って海に行くのは初めてだ。

 改札口でICカードを機械にかざそうとした時、ふと視線を感じて顔を上げると、先に改札を通り抜けた愁くんが私の手元をじっと見ていた。私がまたICカードのことを忘れてはいないかとつい気になったのかもしれない。愁くんと目が合って、私が大丈夫だよと合図をすると、愁くんは安心したように向き直った。

 駅舎から出ると、背中に受ける光以外はどっちを向いても真っ暗で、ホームから見た以上に寂しさが増して感じる。海水浴のお客さんが集まるレジャー地のようだから、それ目当てのお店がいくつも立ち並んでいる様子は見えるけれど、当然のことながら全部シャッターが閉まっていた。

 道標のように数メートル置きの街灯がぽつぽつと道を映し出して、私たちはその光に挟まれるように歩いた。

「ちょっと……怖いね」
 私は苦笑いを浮かべながらつぶやくようにそう言って、思わず琴美の手首のあたりをつかむ。

「うん、正直、私も……」
 琴美の声にも力がない。寝静まった街はどうにも不気味で、時折吹いてくるひんやりとした空気がよけいに怖さを助長する。

「そう言ってるところ申し訳ないけど……この通りを抜けるともう海が目の前だから、街灯もなくなるんだよね」
 それって――と、私は察した。

「何も見えなくて、もっと怖いかも」
「待って待って」
 ぞくりとする。私と琴美は慌てて、バッグの中から懐中電灯を取り出した。

 きれいな朝日を見るためだ。怖いけど、がまんがまん。

 私は震えそうになる身体に、必死に言い聞かせていた。

 愁くんの言葉どおり、少し歩くと街灯もほとんどなくなり、懐中電灯で照らさないと足元もわからなくなるぐらい真っ暗になった。踏みしめるアスファルトの固い感触。普段聞こえないようなスニーカーの足音も、夜の静寂の中では主旋律のように存在感を強くする。

――あ、海の匂い。

 暗闇の中届いたその匂いで、私は今、防波堤に沿って海のそばを歩いていると気づいた。波の音が聞こえると、怖くてドキドキしていた心臓の鼓動がゆっくりと落ち着きを取り戻していく。歩くたびに、足音が波の音に飲まれていく。海はもうすぐそこにある。

「ここから下りるよ」
 防波堤の隙間に、石階段になっている場所があった。ここから砂浜に行くことができるみたい。気をつけて、と前を歩く愁くんの言葉に従って、私と琴美は自分の足元をしっかりと照らして、慎重に階段を下っていく。

「もうちょっと向こうに行こうか」
「うん」
 砂浜に下りた後も、愁くんは防波堤に沿うように私たちを誘導していく。砂に埋まりながら歩く不安定な足取り。波の音が聞こえる方向には今は何も見えないけど、たぶん果てしなく水平線が広がっているんだと思う。明日の太陽が昇るころ、ここにはどんな景色が浮かび上がるんだろう。

 やがて、愁くんは立ち止まって持っていたテントを砂浜に下ろした。

「この辺りなら、テントを張ってライトつけても上からは見えないと思う」
「そうなんだ。愁くん、詳しいね」
「毎年、海水浴はここに来てたからね」
 当たり前のようにさらりと言いながら、愁くんはテントの設置にとりかかった。いよいよだ。テントを張るなんて、小学生のころに行ったキャンプ以来でちょっとわくわくする。

 でも、愁くんが持ってきたワンタッチタイプのテントは想像以上に簡単で、私や琴美が手を貸す暇もなく、あっという間に完成してしまった。私が拍子抜けした心持ちでその様子を眺めていると、それに気づくこともなく、愁くんがどうぞ、と中に入るよう促してくれた。

「まだ朝日が昇るまで時間あるから、この中でゆっくりしてようよ。仮眠してもいいし」
「うん、そうだね」
「待って」
 ようやく腰を下ろして落ち着いた私たちに、ふいに琴美が言った。

「それでもいいんだけどさ……せっかくだから、星でも見てきたら? この辺り光がないし、絶対きれいだよ。私はここで荷物見てるからさ。雪穂、行ってきなよ。愁、一緒にいてあげて」

「琴美……」
 何か言いたげに、琴美が私の目をじっと見つめていた。ちゃんと話をした方がいい。喫茶店で琴美がそう言っていたのを、思い出す。

 そうだね、琴美が本当は何を言いたいのか、わかってるよ。私はまだちゃんと気持ちを伝えられていないからー―ちゃんと伝えたいって、私も本心では思っていたんだ。

 私も琴美にうなずいて、愁くんに向き直る。

「……行こう、愁くん」
 私は自分で持ってきたビニールシートを抱えて、空いている手で、愁くんの手を取った。


「風、涼しいね」
 ゆっくりと足元を確かめるように、波打ち際へ歩いていく。

 波が届く位置を確認して、そこから十分に距離を取ってビニールシートを敷いた。波は穏やかだ。この場所なら、波が迫ってきて足元を濡らすこともないと思う。

 夜風は涼やかだけど、とはいえ夏だからやっぱり少し暑い。ちょっとぐらい濡れた方が気持ちいいかもしれない。シート越しに伝わる柔らかい砂の感触。愁くんと並んで腰を下ろしながら、私はそう思った。

「大丈夫? 怖くない?」
 愁くんが心配、というよりはちょっとおもしろがるような口調で言った。

「平気だよ。愁くんがいるし」
 私は内心ドキドキしながらそう答える。光のない夜が、私の表情を隠すぐらい真っ暗でよかった。

「じゃあ、心配なのは琴美の方かな」
 愁くんの言葉に、私は歩いてきた方を振り返る。ライトの淡い光が、包み込むテントの形をぼんやりと浮かび上がらせていた。

「大丈夫」
 私ははっきりと告げる。

「琴美は……私のために時間を作ってくれたんだよ」
「……そっか」
 愁くんも何か感づいているのか、それ以上の言葉は発さなかった。

「……あの、ありがとう」
「何が?」
 思わず口をついて出た言葉だけど、聞き返されて私は首を傾げる。

「何だろう……何がってわけじゃないんだけど、でも、どうしても言いたかったの。愁くんに出会って……愁くんが私にしてくれたこと、全部に感謝してる」
 私がお礼を言うと、愁くんは恥ずかしそうに笑った。

「それは僕も同じだけど……改めてそう言われると、照れるね」
「……不思議な気分」
「え?」
「私ね、男の子、苦手だったんだよ。いや……今もどっちかと言えば苦手なままかな。でも愁くんだけは何か違うんだ」
「そういえば、そうだったね。最初はすごく警戒されたしね」
 ほんの三、四ヶ月ぐらい前の話だけど、ずいぶんたった気がする。図書館で突然話しかけてきた愁くんに、私はずいぶん身構えていた。

「いきなり話しかけられたら、緊張するよ」
「それもそうか。ごめん」
 あの時は、ただ勉強が追いつかなくて焦っていた私が、愁くんの頭の良さにすがったようなものだった。背に腹は代えられない、って、ああいう時のことを言うんだと思う。

 まさか、こんな風に自然に話せるようになるとは思ってもみなかった。勉強を教えてもらって話すうちに、勉強以外のこともいつのまにか話せるようになっていた。

 私が人工脳のことをちゃんと話せたのも、愁くんのことを信頼できていたからだと思う。愁くんと接していると、何だか安心できたんだ。きっとこの人なら、とても信じられないような話だって、ちゃんと聞いてくれる、信じてくれると、思ったから。

 それに、あの時抱きしめられた温かさを、今もちゃんと覚えている。

 好きだって気づいた、胸が締め付けられるような苦しさも、でも、それと同時に確かに感じた、胸いっぱいの幸せも。

――愁くんのことが、好きだよ。

「……雪穂?」
 呼ばれて、はっと私は愁くんの方を振り向く。

 暗闇に少しだけ慣れた視界に、愁くんの心配そうな表情が映る。しばらく考え込んで黙っていたから、心配されてしまったみたい。

「ううん、大丈夫。何でも――」
 何でもないと言いかけて、私は口をつぐんだ。

 ぎゅっと、足元の砂を力いっぱいつかむ。

 いけない、私はまた迷いだしてしまっている。結局私はそうするしかないと――向こうの世界に戻るしかないと、半ば覚悟を決めていたはずなのに。愁くんの顔を見たら、声を聞いていたら、この気持ちを噛み締めてしまったら、惜しくなってしまった。この時間、この瞬間、隣にいられるこの場所が。

 離れたくない――ほんの一瞬だけ抱いてしまった欲が、瞬く間にどんどん大きくなってしまって私の心を支配する。私の覚悟を、あっさりと塗り替えてしまう。

 ほんとに私は、意志が弱いなぁ。

 泣きたい。泣いてしまって、喉がつぶれるくらいの大声で、ありのままのわがままを叫んで、それで何とかなるのなら、私はどんなに恥をかいたって構わない。

 何でだろう。こんなに幸せなのに。毎日の何気ない日常があることが、本当はすごく幸せなんだって、思えたのに。もちろんいいことばっかりじゃない。楽しいことばっかりじゃない。嫌なことも、思い通りにいかないこともたくさんあるけど、それもこれも全部ひっくるめて、私はこの世界が大好きになった。生きていることが、愛おしかった。

 だから、ずっとここにいたい。けど――

 忘れてしまったら、死んでしまったら、もう二度と取り戻せない。戻って来れない。そんなの嫌だ。だったら、ほんの少しかもしれないけど、ずっとこの世界にいられる可能性を、選ぶべきだ。

 たとえ、またあの暗く苦しい世界に戻っても。

「……雪穂」
 その時、そっと愁くんの手が私の頭に触れる。

「聞きたいよ。雪穂の気持ち。またあの時みたいに、聞かせてよ」
 そう言って、愁くんは私の身体を包み込むように抱きしめてくれた。

 その瞬間、私は声を上げて泣いた。大粒の涙が止まらなくて、愁くんの服をぐしゃぐしゃに濡らした。

 それから、子供がわめくみたいに、訴えるみたいに何かを言ったような気がするけれど、わからない。

 意味のある言葉になったのか、伝わるような文章にできたのかもわからないけど、ただ私は私の抱えている、どうしようもなく辛くて理不尽なこの気持ちを、全部吐き出した。恥も外聞もないまま構わず叩きつけたこの声が、できることなら私のこの先の絶望的な運命を壊してほしいと願った。