病院からタクシーで家まで帰ったけれど、その車内で私とお母さんは一言も言葉を交わさなかった。憔悴しきったお母さんに、私からかけられる言葉がない。それはきっと、お母さんも同じだったんだと思う。
家に着いた時にはもう夜の十時を回っていた。真っ暗な廊下に電気をつけようとスイッチを探していると、突然後ろから、お母さんに抱きつかれて驚いた。
「お母さん?」
「……ごめんね、雪穂」
静寂に包まれた暗闇の中、つぶやくようなお母さんの声だけが、聞こえる。
「……何で、謝るの? お母さん、何も悪くないでしょ」
私の身体に回されたお母さんの手をそっと触れながら、私はそう言った。お母さんの手は、こんな夏の日だというのに、やっぱりひんやりと冷たい。
「……ごめんね、あなたに何もしてあげられなくて」
お母さんはそう言って、また謝った。
私は首を振った。暗くて見えていないかもしれないけど、振動で伝わったかもしれない。
何もしてあげられなくて、なんて、そんなことあるわけない。私は十分にわかっている。見てなくても、ちゃんと知っている。私が眠っている間、きっとお母さんはずっと私に付きっきりになって、何度も病室に通って、私の世話をしたり、話しかけたり、私が目を覚ますのを信じてくれていたはずだ。何より、どんな気持ちで人工脳を私の頭の中に入れるという選択を受け入れたんだろう。ただ、私に目を覚ましてほしくて、動いてほしくて、生きてほしくて。
そもそも、私が勝手に事故に遭ったんだ。人助けのためとはいえ、勝手に事故に遭ったんだ。お母さんが気に病む必要なんてない。ましてや、謝る必要なんてない。
謝るのは私の方だ。私のせいで、ずっとお母さんに無理をさせてきた。私のせいで、ずっと苦しい思いをさせている。今日だって、今だって。
私の目から、涙がこぼれ落ちる。ずっと止まったままだった感情が、時計の針が動き出したみたいに、一気に溢れ出す。申し訳ない気持ちも、苦しい気持ちも、不安な気持ちも、全部が一斉に襲ってきて、たまらなかった。怖くて、身体が震えた。
「ねぇ、私、どうしたらいい? お母さんのこと、忘れたくない。琴美のことも、愁くんのことも、誰のことも忘れたくない。でも、また眠るのは怖い。また何もないところに戻るのは怖い。いつ目が覚めるのかもわからないなんて、嫌だよ。そのまま死んじゃうなんて嫌だよ。私、生きたい。生き、たいよ……!」
私の身体は立つ力をなくして、その場に座り込んだ。抱きとめてくれていたお母さんも一緒に座り込んで、一緒に泣いた。どうしたらいいかわからない。それは、私もお母さんも変わらなかった。
次の日から、私は外に出ることをやめた。
何もしなくていい。お母さんがそう懇願するように言ったからだ。
家から出なければ、外から情報や刺激を受けなければ、ストレスを受けることもほとんどなくて、きっとこれ以上記憶をなくすこともない。私はテレビを見ることも、インターネットを覗くことも、音楽を聞いたり本を読んだりすることもやめた。スマホもお母さんに預けた。だから自然と、一日中ベッドの中で過ごしている。朝も昼も夜も関係なく、ただ眠り続けているか、ぼーっと何も考えずにいれば安心できた。
あえて日付を数える必要もない。カレンダーを見ることもなくなって、私がそういう生活をするようになって何日たったのかわからなくなった。
ただ、その日、珍しく家の中で話し声がした。玄関あたりかな、誰かが大きな声で、必死に何かを訴えかけている。間に、お母さんの声も聞こえた。
何だろうとベッドの中で首を傾げていると、その声がしなくなって、代わりに家の中を駆けてくるような音が聞こえる。珍しい音だ。お母さんは普段、家の中を急いで移動したり、走ったりはしない。じゃあ、この音はお母さんと話していた誰かのもの?
やがてその音は階段を上る足音に変わり、私の部屋の前までたどり着いて、止まった。
「雪穂? 私だよ、琴美。ごめん、急に来たけど、入るよ」
トントンとドアを二回叩いて、その声がしたと思ったら、すぐにドアが開く音がする。
琴美? 私はほっと安堵する。大丈夫、ちゃんと覚えている。でも何だか懐かしい響きのようで、遠い昔の記憶のようで、変な気分だった。
ただ、怖くて頭までかぶった掛布団からは出られなかった。顔を見た途端、誰だかわからなくなる、なんてことが起こらないとも限らない。
「雪穂……何してるの」
琴美の気配が、ベッドのすぐそばにある。
私は答えなかった。すると、しばらく黙っていた琴美の声が、再び聞こえてくる。
「おばさん、ごめんなさい。すぐに帰りますから、少しだけ雪穂と二人だけ話をさせてください。お願いします」
その声は私に向けたものじゃなかったらしい。部屋のドアが閉じる音がして、一階へ向かう足音が聞こえる。お母さんもそこにいたんだと、そこでようやく気づいた。
「雪穂」
お母さんの足音が遠ざかって聞こえなくなると、また琴美が私を呼ぶ声が聞こえた。私が返事をしようか迷っていると、琴美はそれを待たずに続けた。
「おばさんに、聞いたよ。この間の検査の結果のこと。あの日、すぐ連絡来るかなって思ったけど、来なくて。私、心配しちゃってさ。何回もメッセージ送ったり電話したりしたけど、それも全然返事ないし。何度かここにも来たんだけど、おばさんがどうしても会わせてくれなくて。私、絶対何かあったんだって、もう気が気じゃなくて。だから今日は強めにお願いしちゃった。会わせてくれないと、夜中に窓割って侵入しちゃいますよ、なんて脅しみたいなこと言っちゃったよ。もちろん、冗談だけど」
そうか、そうだよね。病院まで付き添ってくれたのも、お母さんが来るまで一緒にいてくれたのも琴美だ。遅くなるからって帰しちゃったけど、それからどうなったのか、私自身がそれどころじゃない状態がずっと続いて、ちゃんと伝えられてなかった。スマホも手放していたから、電話やメッセージのことも知らなかった。
「……ねぇ、顔見せてよ。雪穂」
優しく語りかけるように、琴美が言った。
「……やだ」
私はしばらく悩んで、そう答える。
「何で?」
「お母さんから、聞いたんでしょ。私、忘れちゃうんだよ。琴美の顔見た瞬間に、誰かわからなくなるかもしれない。そんなの、琴美だって嫌でしょ?」
「それって……そうやってベッドの中でこもっていれば、大丈夫なの? おばさんの話だけだから、よくわかってないのかもしれないけど……外からの情報で人工脳に負担をかけちゃうっていうなら、今私と話してることだってそうじゃないの?」
「わかんないよ。私だって、先生の話を聞いててもよくわかんない。だいたい、そう思うならどうして今話しかけるの? 琴美のこと忘れちゃったら、どうするの」
「私は、雪穂と話したいんだよ。雪穂はちゃんと、生きてるんだから」
「言ってる意味がわかんないよ。私は、琴美のこと忘れたくないーー」
その時、ばっと視界が明るくなった。
繊維に包まれた薄暗い視界が消えて、白い壁が目に映る。太陽の光に照らされて色づいた、見慣れた私の部屋。
私は驚いて身体を起こした。私の足元に、はぎ取られた掛布団が寄せられていて、琴美の手がそれをしっかりと握っていた。
「琴美……」
まっすぐな視線で、琴美が私を見つめている。久しぶりに見たその強い眼差しは、怒っているようにも見えて、私は素直に見返すことができなかった。
「……ひどい顔」
琴美がそうつぶやいて、私の頬をそっとなでる。そういえば、部屋にこもってからろくに鏡も見ていない。きっと髪もぼさぼさだし、琴美の言葉どおり人前に出られるような顔じゃないだろう。
「こっち見てよ、雪穂」
そう言われて、私はおそるおそる視線を琴美に向ける。優しく微笑む琴美の顔がそこにあった。
「私のこと、忘れちゃった?」
首を傾げながらそう尋ねる琴美に、私は強く顔を横に振る。忘れるわけがない。部屋にこもっていても、何度も琴美のことを思い出した。連絡を取りたかった。話がしたかった。
「ねぇ、雪穂。私と話、しようよ」
「……うん」
私がうなずくと、琴美は私の隣になるようにベッドの上に座り直す。
改まって話をしようとしても、何から切り出せばいいのかわからなくて、それは琴美も同じだったのか、しばらく二人で黙り込んでしまった。でも、別に気まずい感じはしなかった。むしろ、琴美が隣にいる久しぶりの空気が心地いい。ひとりの時より、よっぽど落ち着ける気がする。
やがて、静かに琴美が口を開いた。
「……病院の先生から、元の状態に戻した方がいいって、言われたんでしょ?」
「うん……」
「どうするの?」
「わからない……このまま生活してたら、記憶がなくなってしまうって……それは、すごく怖い。この間、一瞬だけど琴美のことが誰だかわからなくなった。あの時はすぐに思い出せたけど……次は、もう思い出せないかもしれない。そう思うと、このままじゃ、ダメなんじゃないかって」
私は自分の身体をぎゅっと抱き寄せた。怖くて、身体が震えそうだった。
「じゃあ……戻るの? また、あの時の状態に」
琴美が不安そうな表情を浮かべる。少し前に、琴美と公園で話していたことを思いだした。私が目覚めなくなってすごくショックを受けていたこと、目覚めた後、いろんなことを一緒にやろうと思ったこと、生きててよかったと、言ってくれたこと。私がまた眠りにつくことは、琴美にまた絶望を与えてしまうことになる。
「戻りたく、ない。琴美、私ね……ちゃんとじゃないけど、何となくだけど、眠ってた時のこと、覚えてる気がするの」
「どういうこと?」
「もちろんね、眠ってる私のそばでみんなが話してることが聞こえてたとか、そういうわけじゃないの。ただ、私その時……どこか違う世界に、いた気がする」
琴美が不思議そうに首を傾げた。私がこの話を誰かにするのは初めてだ。私自身、あの記憶のことをただの夢だと思う時もある。でも、事故から目覚めて以来たまに夢に見る世界と、人工脳の異変で一瞬意識を失った時に見た景色の感覚が、そこにいた時間の長さは違っていても、似ているような気がしていた。だからたぶん、あの記憶は、夢じゃない。
「そこには何もないの。ただ、冷たくて暗くて―何も見えない、何もない世界。私は目が見えているのかもわからなくて、何も聞こえないし、何も言葉を発せない。私がそう感じる意識はあるのに、身体があるのかどうかもわからない。そんな場所だった」
琴美は私の話を聞いている間、驚いた様子でずっと表情を硬くしていた。疑っているような雰囲気は微塵もなくて、ちょっとだけ嬉しい。琴美はいつも、私の話を真摯に聞いて、信じてくれる。
「私が実際に眠ってたのって、数ヶ月でしょ? でもね、今になって思えば、何年もの長さに等しいぐらい、そこにいた気がするんだ。そこにいると時間の感覚が違って……それこそ、いつその暗闇が明けるのか、そこから出られるのかもわからない。その時は何もわからなくて、ただじっとそこで何も考えられずに佇んでただけだったと思うけど……やっぱり、あそこにいると苦しい。少しずつ、自分が削り取られていくようで、怖いの。だから……あの場所に戻るなんて、それも耐えられない」
私はそこまで言って、また視線を下に落とした。
結局私は、どっちも嫌だと目の前の選択肢から目をそらして、先延ばしにしているだけなんだと思う。こうしていても、私の頭の中にある人工脳が直るわけじゃない。そんな奇跡、起こるわけがない。いつか、先延ばししてきた分、取り返しのつかないことが起きるんじゃないかって不安もある。それでも私は一向に決断ができなくて、自分の弱さが恨めしい。
「そんなの……どっちも決められないよね。私が雪穂の立場だったとしても、選べないと思うよ。どっち選んだって……辛いよ」
琴美の声が震えている。その震えを止めて、でも、と琴美は続けた。
「私の……正直な気持ち、言っていい? 雪穂がそんな重いものを抱えてるなんて知らなくて……こんなこと言っていいのか、正直迷うけど」
「いいよ。言ってよ、琴美」
私がお願いをするようにそう言うと、琴美も意を決したように、うなずいた。
「雪穂が、記憶をなくしてしまうことを怖がるのはわかるよ。でも、このまま外との繋がりを全部断って、家の中にこもっちゃうのは、ダメだと思う」
「うん……」
私は力なく、弱々しくうなずく。正直、私だってこのままではいけないことはわかっているけど。
琴美はそんな私の気持ちも察したかのように、私の手を取って強く握る。まるで、自分の目を見てと、言うように。
「こうしてたって、何も変わらないよ。ちゃんと生きてるって、言えないじゃん。誰とも会えなくて、話もできなかったら、眠ってるのと一緒でしょ? だから、ちゃんと生きて。ちゃんと雪穂の目で、雪穂の足で、この世界を見ようよ」
「でも……記憶が……」
「……なくならない!」
私の不安めいた言葉を振り払うように、琴美が弾けるような勢いで叫んだ。
「えっ……?」
戸惑う私を捕まえたまま、琴美はまくしたてるように、早口で続ける。
「少なくとも、私との記憶はなくならない。雪穂にとって私の記憶は、そんなに簡単に全部なくなっちゃうようなものなの? ちょっとぐらいなくなったとしても、残ってる記憶繋ぎ合わせればきっとまた思い出せる。私が雪穂との記憶を全部覚えてるんだから、もし雪穂が忘れても、私が手伝うよ。それに、もし雪穂が私のことを忘れてしまっても……また、親友になればいいじゃん。私は私だし、雪穂は雪穂のままなんだよ。何度だって、やり直してみせるから」
「琴美……」
「だから、行こうよ、雪穂。勝手なこと言ってるってわかってるけど……でも、私は雪穂にこんな生き方してほしくない。いろんなものを見て、いろんなものを経験して、生きてるって、そういうことじゃん」
琴美が私に向ける言葉はいつもまっすぐだ。嘘のない気持ちを、本気で伝えてくれる。だから私は救われるし、信じられる。
「……うん、そうだね。琴美の言うとおりだよ。こんなんじゃ、せっかく目覚めた意味がないよね」
私はベッドの上に立ち上がって、窓際のカーテンを開け放った。レールごと落下してきそうな勢いで分厚い遮光カーテンが両端に縮まると、薄暗かった部屋が窓ガラス越しに太陽の下にさらされる。
窓の外に広がる景色。何軒かの家の外壁や、細い道が見える程度の小さな世界。でも、それでも私がここ数日いた世界よりはよっぽど広くて、眩い。
何だか久しぶりに、生き返った気分だ。
「よし、じゃあどこに行く? お目覚め記念だよ」
琴美が嬉しそうに笑みを浮かべて、両手を横に大きく広げた。私は少し悩んで、答える。
「……パフェ、かなぁ。だって家じゃ、食べられないもん」
正直に言えば、何でもよかったんだと思う。でも、私の頭の中に最初に浮かんできたのはそれだった。何度も琴美と通った場所だし、家で食べられないのも、本当だし。
琴美はわかってたよ、とでも言いたそうにうなずいて、私の手を取る。
「急いで支度しなよ。ずっと光に当たってなかったんだから、日焼け止めは念入りに塗るんだよ」
私もうなずいて、部屋を飛び出した。まずは、ちゃんと顔を洗って、ぼさぼさの髪を整えなくちゃ。階段を下り、洗面所へ飛び込んで勢いよく水をひねり出したところで、音に気付いたお母さんが様子を見に現れた。
「……雪穂。何、してるの?」
お母さんは、信じられないようなものを見ているような目をしている。そう言われるのは、予想していた。家から出ないでと言ったのは、お母さんだ。私の記憶がなくすことを心配して、私がお母さんのことを忘れてしまうのを怖がって、私と同じくらい、お母さんも苦しんでいたから。
「琴美と、出かけてくる」
「何言ってるの? ダメよ、あなたの記憶がなくなったらどうするの?」
「……お願い、行かせて」
「雪穂……」
「琴美に、気づかされたの。私がこのままこうしていたって、生きてるって言えない。記憶がなくなるかもしれないのは、私だって怖いよ。でも、琴美がね、私と琴美の記憶はそんな簡単には消えないって言ってくれたの。もし消えても、もう一度思い出させる。もう一度親友になってくれるって。私は、琴美を信じるよ」
「でも、そんな根拠ないじゃない……!」
「根拠は……ないよ。でも、お母さんも一緒だよ。私はお母さんのこと、絶対忘れないよ。私はそう信じてるから、お母さんも信じてよ。お願い」
私がそう言い切る。お母さんの目に少しだけ涙が浮かんでいた。しばらく無言のまま、何かを言おうとはしているようだったけれど、何も言わずに洗面所を出ていく。その表情は、到底納得はしていない様子だった。
私は少しだけ後ろめたい気持ちを抱えながら、流れる水で顔を洗う。ごめんねと、私は何度も心の中で繰り返した。
「……雪穂」
タオルに顔をうずめて水滴を拭っていると、私を呼ぶ声が聞こえた。振り向くと、お母さんが戻ってきていた。何かを両手の中に隠すように持ち、迷っているような表情を浮かべながら。
「……これ、必要でしょ」
お母さんが手に持っていたものを私に手渡す。私が引きこもってから、ずっとお母さんに預けていたスマホだ。ちゃんと充電もされている。
「何かあったら……ううん、定期的に、連絡して。何でもいいから。あなたから連絡があれば、少し安心できる」
泣きそうな顔で、私の手を包み込むようにぎゅっと握る。
私はうん、とうなずいて約束した。
お母さんの手は震えている。どんな思いで、私が外に行くのを許してくれたんだろう。私の手を、握っているんだろう。これはきっと、私のわがままだ。
だから私は、絶対にお母さんのことを忘れちゃいけない。
家に着いた時にはもう夜の十時を回っていた。真っ暗な廊下に電気をつけようとスイッチを探していると、突然後ろから、お母さんに抱きつかれて驚いた。
「お母さん?」
「……ごめんね、雪穂」
静寂に包まれた暗闇の中、つぶやくようなお母さんの声だけが、聞こえる。
「……何で、謝るの? お母さん、何も悪くないでしょ」
私の身体に回されたお母さんの手をそっと触れながら、私はそう言った。お母さんの手は、こんな夏の日だというのに、やっぱりひんやりと冷たい。
「……ごめんね、あなたに何もしてあげられなくて」
お母さんはそう言って、また謝った。
私は首を振った。暗くて見えていないかもしれないけど、振動で伝わったかもしれない。
何もしてあげられなくて、なんて、そんなことあるわけない。私は十分にわかっている。見てなくても、ちゃんと知っている。私が眠っている間、きっとお母さんはずっと私に付きっきりになって、何度も病室に通って、私の世話をしたり、話しかけたり、私が目を覚ますのを信じてくれていたはずだ。何より、どんな気持ちで人工脳を私の頭の中に入れるという選択を受け入れたんだろう。ただ、私に目を覚ましてほしくて、動いてほしくて、生きてほしくて。
そもそも、私が勝手に事故に遭ったんだ。人助けのためとはいえ、勝手に事故に遭ったんだ。お母さんが気に病む必要なんてない。ましてや、謝る必要なんてない。
謝るのは私の方だ。私のせいで、ずっとお母さんに無理をさせてきた。私のせいで、ずっと苦しい思いをさせている。今日だって、今だって。
私の目から、涙がこぼれ落ちる。ずっと止まったままだった感情が、時計の針が動き出したみたいに、一気に溢れ出す。申し訳ない気持ちも、苦しい気持ちも、不安な気持ちも、全部が一斉に襲ってきて、たまらなかった。怖くて、身体が震えた。
「ねぇ、私、どうしたらいい? お母さんのこと、忘れたくない。琴美のことも、愁くんのことも、誰のことも忘れたくない。でも、また眠るのは怖い。また何もないところに戻るのは怖い。いつ目が覚めるのかもわからないなんて、嫌だよ。そのまま死んじゃうなんて嫌だよ。私、生きたい。生き、たいよ……!」
私の身体は立つ力をなくして、その場に座り込んだ。抱きとめてくれていたお母さんも一緒に座り込んで、一緒に泣いた。どうしたらいいかわからない。それは、私もお母さんも変わらなかった。
次の日から、私は外に出ることをやめた。
何もしなくていい。お母さんがそう懇願するように言ったからだ。
家から出なければ、外から情報や刺激を受けなければ、ストレスを受けることもほとんどなくて、きっとこれ以上記憶をなくすこともない。私はテレビを見ることも、インターネットを覗くことも、音楽を聞いたり本を読んだりすることもやめた。スマホもお母さんに預けた。だから自然と、一日中ベッドの中で過ごしている。朝も昼も夜も関係なく、ただ眠り続けているか、ぼーっと何も考えずにいれば安心できた。
あえて日付を数える必要もない。カレンダーを見ることもなくなって、私がそういう生活をするようになって何日たったのかわからなくなった。
ただ、その日、珍しく家の中で話し声がした。玄関あたりかな、誰かが大きな声で、必死に何かを訴えかけている。間に、お母さんの声も聞こえた。
何だろうとベッドの中で首を傾げていると、その声がしなくなって、代わりに家の中を駆けてくるような音が聞こえる。珍しい音だ。お母さんは普段、家の中を急いで移動したり、走ったりはしない。じゃあ、この音はお母さんと話していた誰かのもの?
やがてその音は階段を上る足音に変わり、私の部屋の前までたどり着いて、止まった。
「雪穂? 私だよ、琴美。ごめん、急に来たけど、入るよ」
トントンとドアを二回叩いて、その声がしたと思ったら、すぐにドアが開く音がする。
琴美? 私はほっと安堵する。大丈夫、ちゃんと覚えている。でも何だか懐かしい響きのようで、遠い昔の記憶のようで、変な気分だった。
ただ、怖くて頭までかぶった掛布団からは出られなかった。顔を見た途端、誰だかわからなくなる、なんてことが起こらないとも限らない。
「雪穂……何してるの」
琴美の気配が、ベッドのすぐそばにある。
私は答えなかった。すると、しばらく黙っていた琴美の声が、再び聞こえてくる。
「おばさん、ごめんなさい。すぐに帰りますから、少しだけ雪穂と二人だけ話をさせてください。お願いします」
その声は私に向けたものじゃなかったらしい。部屋のドアが閉じる音がして、一階へ向かう足音が聞こえる。お母さんもそこにいたんだと、そこでようやく気づいた。
「雪穂」
お母さんの足音が遠ざかって聞こえなくなると、また琴美が私を呼ぶ声が聞こえた。私が返事をしようか迷っていると、琴美はそれを待たずに続けた。
「おばさんに、聞いたよ。この間の検査の結果のこと。あの日、すぐ連絡来るかなって思ったけど、来なくて。私、心配しちゃってさ。何回もメッセージ送ったり電話したりしたけど、それも全然返事ないし。何度かここにも来たんだけど、おばさんがどうしても会わせてくれなくて。私、絶対何かあったんだって、もう気が気じゃなくて。だから今日は強めにお願いしちゃった。会わせてくれないと、夜中に窓割って侵入しちゃいますよ、なんて脅しみたいなこと言っちゃったよ。もちろん、冗談だけど」
そうか、そうだよね。病院まで付き添ってくれたのも、お母さんが来るまで一緒にいてくれたのも琴美だ。遅くなるからって帰しちゃったけど、それからどうなったのか、私自身がそれどころじゃない状態がずっと続いて、ちゃんと伝えられてなかった。スマホも手放していたから、電話やメッセージのことも知らなかった。
「……ねぇ、顔見せてよ。雪穂」
優しく語りかけるように、琴美が言った。
「……やだ」
私はしばらく悩んで、そう答える。
「何で?」
「お母さんから、聞いたんでしょ。私、忘れちゃうんだよ。琴美の顔見た瞬間に、誰かわからなくなるかもしれない。そんなの、琴美だって嫌でしょ?」
「それって……そうやってベッドの中でこもっていれば、大丈夫なの? おばさんの話だけだから、よくわかってないのかもしれないけど……外からの情報で人工脳に負担をかけちゃうっていうなら、今私と話してることだってそうじゃないの?」
「わかんないよ。私だって、先生の話を聞いててもよくわかんない。だいたい、そう思うならどうして今話しかけるの? 琴美のこと忘れちゃったら、どうするの」
「私は、雪穂と話したいんだよ。雪穂はちゃんと、生きてるんだから」
「言ってる意味がわかんないよ。私は、琴美のこと忘れたくないーー」
その時、ばっと視界が明るくなった。
繊維に包まれた薄暗い視界が消えて、白い壁が目に映る。太陽の光に照らされて色づいた、見慣れた私の部屋。
私は驚いて身体を起こした。私の足元に、はぎ取られた掛布団が寄せられていて、琴美の手がそれをしっかりと握っていた。
「琴美……」
まっすぐな視線で、琴美が私を見つめている。久しぶりに見たその強い眼差しは、怒っているようにも見えて、私は素直に見返すことができなかった。
「……ひどい顔」
琴美がそうつぶやいて、私の頬をそっとなでる。そういえば、部屋にこもってからろくに鏡も見ていない。きっと髪もぼさぼさだし、琴美の言葉どおり人前に出られるような顔じゃないだろう。
「こっち見てよ、雪穂」
そう言われて、私はおそるおそる視線を琴美に向ける。優しく微笑む琴美の顔がそこにあった。
「私のこと、忘れちゃった?」
首を傾げながらそう尋ねる琴美に、私は強く顔を横に振る。忘れるわけがない。部屋にこもっていても、何度も琴美のことを思い出した。連絡を取りたかった。話がしたかった。
「ねぇ、雪穂。私と話、しようよ」
「……うん」
私がうなずくと、琴美は私の隣になるようにベッドの上に座り直す。
改まって話をしようとしても、何から切り出せばいいのかわからなくて、それは琴美も同じだったのか、しばらく二人で黙り込んでしまった。でも、別に気まずい感じはしなかった。むしろ、琴美が隣にいる久しぶりの空気が心地いい。ひとりの時より、よっぽど落ち着ける気がする。
やがて、静かに琴美が口を開いた。
「……病院の先生から、元の状態に戻した方がいいって、言われたんでしょ?」
「うん……」
「どうするの?」
「わからない……このまま生活してたら、記憶がなくなってしまうって……それは、すごく怖い。この間、一瞬だけど琴美のことが誰だかわからなくなった。あの時はすぐに思い出せたけど……次は、もう思い出せないかもしれない。そう思うと、このままじゃ、ダメなんじゃないかって」
私は自分の身体をぎゅっと抱き寄せた。怖くて、身体が震えそうだった。
「じゃあ……戻るの? また、あの時の状態に」
琴美が不安そうな表情を浮かべる。少し前に、琴美と公園で話していたことを思いだした。私が目覚めなくなってすごくショックを受けていたこと、目覚めた後、いろんなことを一緒にやろうと思ったこと、生きててよかったと、言ってくれたこと。私がまた眠りにつくことは、琴美にまた絶望を与えてしまうことになる。
「戻りたく、ない。琴美、私ね……ちゃんとじゃないけど、何となくだけど、眠ってた時のこと、覚えてる気がするの」
「どういうこと?」
「もちろんね、眠ってる私のそばでみんなが話してることが聞こえてたとか、そういうわけじゃないの。ただ、私その時……どこか違う世界に、いた気がする」
琴美が不思議そうに首を傾げた。私がこの話を誰かにするのは初めてだ。私自身、あの記憶のことをただの夢だと思う時もある。でも、事故から目覚めて以来たまに夢に見る世界と、人工脳の異変で一瞬意識を失った時に見た景色の感覚が、そこにいた時間の長さは違っていても、似ているような気がしていた。だからたぶん、あの記憶は、夢じゃない。
「そこには何もないの。ただ、冷たくて暗くて―何も見えない、何もない世界。私は目が見えているのかもわからなくて、何も聞こえないし、何も言葉を発せない。私がそう感じる意識はあるのに、身体があるのかどうかもわからない。そんな場所だった」
琴美は私の話を聞いている間、驚いた様子でずっと表情を硬くしていた。疑っているような雰囲気は微塵もなくて、ちょっとだけ嬉しい。琴美はいつも、私の話を真摯に聞いて、信じてくれる。
「私が実際に眠ってたのって、数ヶ月でしょ? でもね、今になって思えば、何年もの長さに等しいぐらい、そこにいた気がするんだ。そこにいると時間の感覚が違って……それこそ、いつその暗闇が明けるのか、そこから出られるのかもわからない。その時は何もわからなくて、ただじっとそこで何も考えられずに佇んでただけだったと思うけど……やっぱり、あそこにいると苦しい。少しずつ、自分が削り取られていくようで、怖いの。だから……あの場所に戻るなんて、それも耐えられない」
私はそこまで言って、また視線を下に落とした。
結局私は、どっちも嫌だと目の前の選択肢から目をそらして、先延ばしにしているだけなんだと思う。こうしていても、私の頭の中にある人工脳が直るわけじゃない。そんな奇跡、起こるわけがない。いつか、先延ばししてきた分、取り返しのつかないことが起きるんじゃないかって不安もある。それでも私は一向に決断ができなくて、自分の弱さが恨めしい。
「そんなの……どっちも決められないよね。私が雪穂の立場だったとしても、選べないと思うよ。どっち選んだって……辛いよ」
琴美の声が震えている。その震えを止めて、でも、と琴美は続けた。
「私の……正直な気持ち、言っていい? 雪穂がそんな重いものを抱えてるなんて知らなくて……こんなこと言っていいのか、正直迷うけど」
「いいよ。言ってよ、琴美」
私がお願いをするようにそう言うと、琴美も意を決したように、うなずいた。
「雪穂が、記憶をなくしてしまうことを怖がるのはわかるよ。でも、このまま外との繋がりを全部断って、家の中にこもっちゃうのは、ダメだと思う」
「うん……」
私は力なく、弱々しくうなずく。正直、私だってこのままではいけないことはわかっているけど。
琴美はそんな私の気持ちも察したかのように、私の手を取って強く握る。まるで、自分の目を見てと、言うように。
「こうしてたって、何も変わらないよ。ちゃんと生きてるって、言えないじゃん。誰とも会えなくて、話もできなかったら、眠ってるのと一緒でしょ? だから、ちゃんと生きて。ちゃんと雪穂の目で、雪穂の足で、この世界を見ようよ」
「でも……記憶が……」
「……なくならない!」
私の不安めいた言葉を振り払うように、琴美が弾けるような勢いで叫んだ。
「えっ……?」
戸惑う私を捕まえたまま、琴美はまくしたてるように、早口で続ける。
「少なくとも、私との記憶はなくならない。雪穂にとって私の記憶は、そんなに簡単に全部なくなっちゃうようなものなの? ちょっとぐらいなくなったとしても、残ってる記憶繋ぎ合わせればきっとまた思い出せる。私が雪穂との記憶を全部覚えてるんだから、もし雪穂が忘れても、私が手伝うよ。それに、もし雪穂が私のことを忘れてしまっても……また、親友になればいいじゃん。私は私だし、雪穂は雪穂のままなんだよ。何度だって、やり直してみせるから」
「琴美……」
「だから、行こうよ、雪穂。勝手なこと言ってるってわかってるけど……でも、私は雪穂にこんな生き方してほしくない。いろんなものを見て、いろんなものを経験して、生きてるって、そういうことじゃん」
琴美が私に向ける言葉はいつもまっすぐだ。嘘のない気持ちを、本気で伝えてくれる。だから私は救われるし、信じられる。
「……うん、そうだね。琴美の言うとおりだよ。こんなんじゃ、せっかく目覚めた意味がないよね」
私はベッドの上に立ち上がって、窓際のカーテンを開け放った。レールごと落下してきそうな勢いで分厚い遮光カーテンが両端に縮まると、薄暗かった部屋が窓ガラス越しに太陽の下にさらされる。
窓の外に広がる景色。何軒かの家の外壁や、細い道が見える程度の小さな世界。でも、それでも私がここ数日いた世界よりはよっぽど広くて、眩い。
何だか久しぶりに、生き返った気分だ。
「よし、じゃあどこに行く? お目覚め記念だよ」
琴美が嬉しそうに笑みを浮かべて、両手を横に大きく広げた。私は少し悩んで、答える。
「……パフェ、かなぁ。だって家じゃ、食べられないもん」
正直に言えば、何でもよかったんだと思う。でも、私の頭の中に最初に浮かんできたのはそれだった。何度も琴美と通った場所だし、家で食べられないのも、本当だし。
琴美はわかってたよ、とでも言いたそうにうなずいて、私の手を取る。
「急いで支度しなよ。ずっと光に当たってなかったんだから、日焼け止めは念入りに塗るんだよ」
私もうなずいて、部屋を飛び出した。まずは、ちゃんと顔を洗って、ぼさぼさの髪を整えなくちゃ。階段を下り、洗面所へ飛び込んで勢いよく水をひねり出したところで、音に気付いたお母さんが様子を見に現れた。
「……雪穂。何、してるの?」
お母さんは、信じられないようなものを見ているような目をしている。そう言われるのは、予想していた。家から出ないでと言ったのは、お母さんだ。私の記憶がなくすことを心配して、私がお母さんのことを忘れてしまうのを怖がって、私と同じくらい、お母さんも苦しんでいたから。
「琴美と、出かけてくる」
「何言ってるの? ダメよ、あなたの記憶がなくなったらどうするの?」
「……お願い、行かせて」
「雪穂……」
「琴美に、気づかされたの。私がこのままこうしていたって、生きてるって言えない。記憶がなくなるかもしれないのは、私だって怖いよ。でも、琴美がね、私と琴美の記憶はそんな簡単には消えないって言ってくれたの。もし消えても、もう一度思い出させる。もう一度親友になってくれるって。私は、琴美を信じるよ」
「でも、そんな根拠ないじゃない……!」
「根拠は……ないよ。でも、お母さんも一緒だよ。私はお母さんのこと、絶対忘れないよ。私はそう信じてるから、お母さんも信じてよ。お願い」
私がそう言い切る。お母さんの目に少しだけ涙が浮かんでいた。しばらく無言のまま、何かを言おうとはしているようだったけれど、何も言わずに洗面所を出ていく。その表情は、到底納得はしていない様子だった。
私は少しだけ後ろめたい気持ちを抱えながら、流れる水で顔を洗う。ごめんねと、私は何度も心の中で繰り返した。
「……雪穂」
タオルに顔をうずめて水滴を拭っていると、私を呼ぶ声が聞こえた。振り向くと、お母さんが戻ってきていた。何かを両手の中に隠すように持ち、迷っているような表情を浮かべながら。
「……これ、必要でしょ」
お母さんが手に持っていたものを私に手渡す。私が引きこもってから、ずっとお母さんに預けていたスマホだ。ちゃんと充電もされている。
「何かあったら……ううん、定期的に、連絡して。何でもいいから。あなたから連絡があれば、少し安心できる」
泣きそうな顔で、私の手を包み込むようにぎゅっと握る。
私はうん、とうなずいて約束した。
お母さんの手は震えている。どんな思いで、私が外に行くのを許してくれたんだろう。私の手を、握っているんだろう。これはきっと、私のわがままだ。
だから私は、絶対にお母さんのことを忘れちゃいけない。


