終業式の日、琴美が水族館に行く日程を決めようと相談を持ちかけてきた。
「早めに行きたいから、来週あたりでいい?」
「いいけど、何で早めに行きたいの?」
私は病院の定期健診以外だったら、今のところは特に予定もないからいつでも構わない。単純に琴美が急ぐ理由が気になった。
「だってほら、これを機にもっと仲良くなれば、夏休み中に他の予定だって組めるようになるでしょ?」
「ちょっと!」
魂胆を隠そうともしない琴美に、私は思わず声を上げる。
「来月は雪穂の誕生日だってあるしさ、祝ってもらおうよ」
私の誕生日は八月の上旬だ。名前のせいでよく冬が誕生日だと勘違いされやすいけど、私の名前の由来は生まれた季節と特に関係ない。
「それは、おめでとうって言ってもらえたら嬉しいけど……」
「ね? できればさ、その日もどこかに遊びに行けたらいいよね」
「そんなに焦らなくても」
私の誕生日は来月ですとアピールするのも、お祝いしてとか当日遊びに行こうとか言うのも、何だか急かして要求しているみたいで気が引ける。自然な形で誕生日を知ってもらえて、自然な流れでおめでとうって言ってもらえたらそれで十分嬉しいと思う。それは今年じゃなくても、構わないから。
「まぁそれはともかくさ、そういえばこれ見てよ」
話を切り替えて、琴美がスマホの画面を私に向ける。今度行く予定の、水族館のサイトだった。
「何かあの水族館、リニューアルしてて今は水族館と美術館が一緒になった施設になってるんだって。海に関係してる写真とか絵画とか、そういうのが展示されてる場所もあるみたい」
「へぇ、そうなんだ。美術館も行ってみたいかも」
「でしょ? 雪穂、そういうの好きだと思ったんだ」
私はスマホ画面に映る画像を食い入るように見つめる。そこには水平線の向こうから、太陽がまさに昇ろうとしている瞬間の写真が掲載されていた。
この水族館は小さい頃に一度、うちと琴美の家とで一緒に行ったことがある。その時は水族館だけの施設だったと思うけど、今はそんな風になっているんだ。
昔から、海の景色や生き物が好きだった。地球の向こう側を感じられるほど雄大な海、心を落ち着けてくれる静かな波音、日の光を浴びてきらきらと宝石のように輝く水面、そういうものに、私はいつも心を奪われていた。
「うん、いいね。もっと楽しみになってきちゃった。私も、早く行きたい」
「そうこなくちゃね」
待ちきれない気持ちで、私の心は躍る。
「じゃあ、愁にも日付これでいいか聞いてこようか」
「そうだね」
私と琴美は隣のクラスに移動して、入口から中を覗きこむような格好で愁くんの姿を探した。でも愁くんの姿は見当たらなくて、琴美が近くで話し込んでいた女子のグループに話しかける。
「ねぇ、愁ってどこにいる?」
「桜川くんなら……もう帰っちゃったみたいだよ」
「帰った? もう?」
琴美が驚いたように聞き返す。確かにホームルームはどのクラスも終わっているから帰るのは自由だけど、長い夏休みでみんなとしばらく会わなくなる前にいろいろと話しておきたいのか、ほとんどの人はまだここから出ていくのを惜しむようにおしゃべりに興じている。そんな中でさっさと帰ってしまうなんて、何か急ぎの用事でもあったのだろうか。
「何か二人って、何かちょくちょく桜川くんのところに来るよね。仲良いの?」
いつのまに顔を覚えられてしまったのか、期待を込めた瞳がこちらに向けられる。
「うん、まぁね。夏休み遊びに行こうって約束してたから、日付決めようと思って」
琴美がさらりと答えたので私は驚いて目を見開いた。そんなこと、正直に言っちゃって大丈夫なの?
「えー! 夏休みに一緒に遊ぶの? すっごい! え、もう付き合ってるの?」
ほら、やっぱり。歓声に近い声を上げながら、みんなが私と琴美を交互に見やる。
「いやいや、そういうわけじゃないよ。でも、まぁ、ね」
手を振って否定しながら、ちらりと琴美の視線が私の方へ向く。私は恥ずかしくて顔を背けた。
「琴美、愁くんいないんだったら、もう戻ろうよ」
これ以上ここにいたら琴美のいいおもちゃにされてしまいそうだ。私は琴美の制服の裾を引っ張ってそう促した。
「琴美ってたまに意地悪だよね」
帰り道、私はさっきの不満をぶつけるように頬を膨らませて琴美にそう言った。
「あはは、ごめん。恥ずかしそうな雪穂がちょっとおもしろくてさ」
意地悪をした自覚はあるらしい。手のひらを合わせる仕草で謝りながら、それでも楽しそうにしているのには納得がいかなかったけど。
「でもさ、うまくいったらいいなって思ってるよ」
「うまく、って?」
「いや、ひょっとしたら雪穂の初めての彼氏になるかもしれないじゃない」
「えっ……えぇ?」
思いもよらなかった単語が琴美の口から飛び出して、私はその意味を飲み込むのに少しだけ時間を要した。ようやく処理が追いついて意味を理解したけど、恥ずかしくなって上ずった声が出てしまった。
「この間も言ったけど、雪穂の初恋だもん、絶対実ってほしいって思ってる」
「初恋……やっぱり、そうなるのかな?」
「たぶん、そうじゃない? 雪穂からそういうの聞いたことなかったし」
確かに。今まで周りの友達の恋バナというものはいろいろ聞いていたけど、他人事のように聞こえていた。自分が誰かに対してそういう気持ちを持ったことがなくて、自分の話をしたことがなかったからだ。いつも、雪穂はどうなの? と聞かれたけど、話せることがなくてはぐらかしていたっけ。
「彼氏……って、そこまで考えたことなかったけど」
しかしいざそういう気持ちになってみると、彼氏とか付き合うとか、たぶんみんなが望んでいる先の展開っていうのがあるんだろうけど、そこまでイメージできていなかった。
「まぁ、何事も経験だよ? 彼氏との楽しみもあるだろうし」
「琴美って、彼氏いたことあるの?」
「まぁね」
琴美の口ぶりからそうなのかなと思ったけれど、予想よりさらりと認めたから私は思わず目を見開いてしまった。
「去年、いたよ。ほんのちょっとの間だけ。もう卒業したけど、うちの高校の先輩」
「そうだったんだ。知らなかった」
「……先に言っておくけど、雪穂のせいじゃないから、気にしないでよ?」
「え?」
急に琴美の声のトーンが沈む。
「去年の冬ごろにさ、何となくのノリで付き合うことになったんだ。でも、すぐに雪穂の事故のことがあって、とても遊んだりする気になれなくってさ。そのまま先輩が卒業しちゃって自然消滅……みたいな感じかな」
「あ……」
私はすぐに察した。私が入院している間、琴美は毎日のようにお見舞いに来てくれたと聞いている。そんなんじゃ、誰かと遊んだりしている暇なんてあるわけない。きっと私のお見舞いを優先して、誘いを断り続けたんだ。
「何て顔してんの。だから言ったじゃん、雪穂のせいじゃないって。元々、ほんとに好きだったかどうかもわからないし、お互い告白すらなかったんだから」
申し訳ない気持ちになって私が目を伏せていると、琴美がそう言って私の背中を強めに叩いた。驚いて私は思わず小さく飛び跳ねてしまう。琴美はその様子を見ながら、けらけらとおかしそうに笑っていた。
「何かさぁ、高校生になったら自然と彼氏とかできるって、勝手に思ってたんだよね。だから、仲良かった先輩に付き合ってみようかって言われた時に、軽い気持ちでオッケーしちゃったんだ。でも嬉しかったし、楽しかったよ。続かなかったのはタイミングというか……私の気分的なもののせいで、先輩が悪かったわけじゃないし」
琴美は苦笑いを浮かべながらそう言った。でも、後悔しているという表情でもない。もう過ぎたことだからと割り切っているのか、妙にすっきりしたような、そんな顔に見える。
「愁は私から見てもちゃんとした人だと思うし、きっと大丈夫だと思うな。楽しいこといっぱい経験しようよ、雪穂。もし雪穂が愁と付き合って幸せそうにしてたら、それ見て私もうらやましくなって、また彼氏ほしいって思うかもしれないし」
「そっか……わかった。とりあえず、もっと仲良くなれるようがんばってみる」
「もう十分仲はいいと思うけど」
呆れたように、琴美が言った。
「え、そうかな?」
「うん。私は全然大丈夫だと思うんだけどな。だって私から見てても、愁って雪穂に対して特別というか……とにかくすごく雪穂のこと気にかけてる。それこそ、普通の友達に対する態度とは思えないよね」
「確かにいろいろよくしてくれてるし、優しいとは思うけど」
とはいえ、私が特別なのかどうかはわからない。初めて会った時は私がずっと入院していたことを知って気にかけてくれたということだったけど、私の境遇に同情してくれたのかもしれないし。
でも、阿久津さんとの一件で教室を飛び出した私を探しに来てくれたのには驚いた。勉強を教える側と教えられる側、世話を焼く側と焼かれる側、親切にしてくれる側とその親切に甘える側。今まで考えていたどの関係性とも当てはまらないようで、その時少しだけ、自分が特別であるような気がした。私の飛躍した勘違いだったら恥ずかしいからと、ずっと自分の中で抑え込んでいたけど。
そういえば、と私はふと思い出した。
公園で私の話を聞いた時、どうして愁くんは泣いていたんだろう。
「ねぇ、琴――」
「何かお腹空いたねぇ。雪穂、お昼どこかで食べていかない?」
琴美に聞いてみようと思ったけれど、その言葉に遮られてしまった。
「……うん、いいよ」
「決まりね、何食べようか。とりあえず駅前に行ってみる?」
このあたりで一番飲食店が多いのは駅前の商店街だ。店前に飾られたサンプルや写真の載ったメニューボードを見ていれば、自ずと食べたいものが決まってくるのはいつものこと。まぁ、私の好き嫌いの多さのせいか、たいてい選択肢の多いファミレスとかファストフードのお店に行くことが多いのだけど。
私と琴美は商店街の方へ移動し、順番に飲食店を物色していった。途中、雑貨店なんかにも立ち寄ってご飯以外のことに気を移したりしていたからなかなか決まらない。そうこうしている内に、商店街の半分を過ぎて、駅前のロータリー広場までやってきてしまった。
「どうする? お昼」
そろそろ決めた方がいいのでは、と思い私は改めて琴美に聞いてみる。
「そうだね、まぁまだ向こう側にもお店いろいろあるし」
琴美は広場を越えた先に伸びる商店街を指さす。お腹空いたと言い出したわりには早く決めたい雰囲気も伝わってこないので、まぁいいかと私は肩をすくめた。
と、その時私はふと気づく。
広場の円形のベンチに、いつも飴をくれるあのおばあさんが座っている。普段を顔を合わせるのは学校が終わった夕方の時間ばかりだったから、おばあさんもその辺りの時間帯にやってくるのだと思い込んでいた。まさかこんな真っ昼間に出会えるなんて思っていなかったから驚いた。天気もいいし、気まぐれで昼間の散歩に出たのかな。
ともあれ、ラッキーな偶然だったかもしれない。この間おばあさんを遠目に見つけた時は姿を確認しただけで、近くには行けなかった。しばらく会えていなかったから、今度また行ってみようと思ったところだった。
「琴美、ちょっと待って」
私は琴美を呼び止めて、おばあさんの方へ近づき、隣に腰を下ろした。やっぱりおばあさんは、私の方へ振り向くことも言葉を発することもせず、ただじっと前を向いている。何かを見ているのか、果たしてそれが何なのかはいまだにさっぱりわからない。ただその方向の先には―交差点が存在するだけだ。私が、事故に遭った場所。
「雪穂? どうしたの急に」
不思議そうに琴美が尋ねてくる。私はしぃっと口元に人差し指を立て、それからおばあさんとは逆側の私の隣に座るよう促した。
「ごめん、琴美。ちょっとだけ……こうしてていい?」
私もおばあさんと同じ方向をじっと見つめたまま、隣に座る琴美にそう言った。琴美が首を傾げる仕草をするのが視界の隅に映る。でもそれ以上は何も言うことなく、私たちに合わせるように姿勢を正していた。
しばらくそのままの時間を過ごしていた。夏の日差しに地面が焼ける匂い、頭上で鳴く蝉の声と、遠くホームに滑り込む電車の音。
やがて、おばあさんの手がゆっくりと動き出し、私に向かってにこりと笑いかけると共に、飴が差し出された。
私もおばあさんに向かって手を差し出しそれを受け取る。以前渡されたのと同じイチゴ味の飴。私は何だかほっとした。しばらく来ていなかったから、ひょっとしたらこのやりとりがなくなってしまうんじゃないかと、内心ドキドキしていたからだ。
「あの、おばあさん……」
今までと同じように視線を戻してしまったおばあさんに、私はずっと気になっていたことを、今日こそ聞いてみようと思った。
「どうしておばあさんはこれを私にくれるんですか?」
どこにでも売っているような、ただの飴。別に大した意味はないかもしれないし、それに私だけに渡しているのではないのかもしれないけれど。
私はその答えをじっと待つ。けれど結局、おばあさんがその問いに答えてくれることも、その表情や視線の先を変えることもなかった。
「……いつも、ありがとうございます。行こう、琴美」
私は飴を握りしめ、お礼を告げて立ち上がる。琴美がいいの? と怪訝そうな表情を浮かべたけれど、私は無言でうなずいた。
「それじゃあ、また」
おばあさんへそう言い残して、私は歩き出す。
その時、妙な視線を感じて、私は周囲を見回した。
「ん、どうかした?」
「いや、何か誰かに見られてる気がして……」
「駅前だもん。人もそこそこ多いんだし、誰かの視界には入るでしょ」
「そうかなぁ……」
それだったら今までも感じていてもよさそうだけど。でも改めて周囲の様子を窺ってみても、さっきみたいな違和感はもう消えていた。
「さ、お昼ごはん探しを続けよう」
「そうだね」
気のせいだと自分に言い聞かせて、私たちはもう片方の商店街へと向かった。
「早めに行きたいから、来週あたりでいい?」
「いいけど、何で早めに行きたいの?」
私は病院の定期健診以外だったら、今のところは特に予定もないからいつでも構わない。単純に琴美が急ぐ理由が気になった。
「だってほら、これを機にもっと仲良くなれば、夏休み中に他の予定だって組めるようになるでしょ?」
「ちょっと!」
魂胆を隠そうともしない琴美に、私は思わず声を上げる。
「来月は雪穂の誕生日だってあるしさ、祝ってもらおうよ」
私の誕生日は八月の上旬だ。名前のせいでよく冬が誕生日だと勘違いされやすいけど、私の名前の由来は生まれた季節と特に関係ない。
「それは、おめでとうって言ってもらえたら嬉しいけど……」
「ね? できればさ、その日もどこかに遊びに行けたらいいよね」
「そんなに焦らなくても」
私の誕生日は来月ですとアピールするのも、お祝いしてとか当日遊びに行こうとか言うのも、何だか急かして要求しているみたいで気が引ける。自然な形で誕生日を知ってもらえて、自然な流れでおめでとうって言ってもらえたらそれで十分嬉しいと思う。それは今年じゃなくても、構わないから。
「まぁそれはともかくさ、そういえばこれ見てよ」
話を切り替えて、琴美がスマホの画面を私に向ける。今度行く予定の、水族館のサイトだった。
「何かあの水族館、リニューアルしてて今は水族館と美術館が一緒になった施設になってるんだって。海に関係してる写真とか絵画とか、そういうのが展示されてる場所もあるみたい」
「へぇ、そうなんだ。美術館も行ってみたいかも」
「でしょ? 雪穂、そういうの好きだと思ったんだ」
私はスマホ画面に映る画像を食い入るように見つめる。そこには水平線の向こうから、太陽がまさに昇ろうとしている瞬間の写真が掲載されていた。
この水族館は小さい頃に一度、うちと琴美の家とで一緒に行ったことがある。その時は水族館だけの施設だったと思うけど、今はそんな風になっているんだ。
昔から、海の景色や生き物が好きだった。地球の向こう側を感じられるほど雄大な海、心を落ち着けてくれる静かな波音、日の光を浴びてきらきらと宝石のように輝く水面、そういうものに、私はいつも心を奪われていた。
「うん、いいね。もっと楽しみになってきちゃった。私も、早く行きたい」
「そうこなくちゃね」
待ちきれない気持ちで、私の心は躍る。
「じゃあ、愁にも日付これでいいか聞いてこようか」
「そうだね」
私と琴美は隣のクラスに移動して、入口から中を覗きこむような格好で愁くんの姿を探した。でも愁くんの姿は見当たらなくて、琴美が近くで話し込んでいた女子のグループに話しかける。
「ねぇ、愁ってどこにいる?」
「桜川くんなら……もう帰っちゃったみたいだよ」
「帰った? もう?」
琴美が驚いたように聞き返す。確かにホームルームはどのクラスも終わっているから帰るのは自由だけど、長い夏休みでみんなとしばらく会わなくなる前にいろいろと話しておきたいのか、ほとんどの人はまだここから出ていくのを惜しむようにおしゃべりに興じている。そんな中でさっさと帰ってしまうなんて、何か急ぎの用事でもあったのだろうか。
「何か二人って、何かちょくちょく桜川くんのところに来るよね。仲良いの?」
いつのまに顔を覚えられてしまったのか、期待を込めた瞳がこちらに向けられる。
「うん、まぁね。夏休み遊びに行こうって約束してたから、日付決めようと思って」
琴美がさらりと答えたので私は驚いて目を見開いた。そんなこと、正直に言っちゃって大丈夫なの?
「えー! 夏休みに一緒に遊ぶの? すっごい! え、もう付き合ってるの?」
ほら、やっぱり。歓声に近い声を上げながら、みんなが私と琴美を交互に見やる。
「いやいや、そういうわけじゃないよ。でも、まぁ、ね」
手を振って否定しながら、ちらりと琴美の視線が私の方へ向く。私は恥ずかしくて顔を背けた。
「琴美、愁くんいないんだったら、もう戻ろうよ」
これ以上ここにいたら琴美のいいおもちゃにされてしまいそうだ。私は琴美の制服の裾を引っ張ってそう促した。
「琴美ってたまに意地悪だよね」
帰り道、私はさっきの不満をぶつけるように頬を膨らませて琴美にそう言った。
「あはは、ごめん。恥ずかしそうな雪穂がちょっとおもしろくてさ」
意地悪をした自覚はあるらしい。手のひらを合わせる仕草で謝りながら、それでも楽しそうにしているのには納得がいかなかったけど。
「でもさ、うまくいったらいいなって思ってるよ」
「うまく、って?」
「いや、ひょっとしたら雪穂の初めての彼氏になるかもしれないじゃない」
「えっ……えぇ?」
思いもよらなかった単語が琴美の口から飛び出して、私はその意味を飲み込むのに少しだけ時間を要した。ようやく処理が追いついて意味を理解したけど、恥ずかしくなって上ずった声が出てしまった。
「この間も言ったけど、雪穂の初恋だもん、絶対実ってほしいって思ってる」
「初恋……やっぱり、そうなるのかな?」
「たぶん、そうじゃない? 雪穂からそういうの聞いたことなかったし」
確かに。今まで周りの友達の恋バナというものはいろいろ聞いていたけど、他人事のように聞こえていた。自分が誰かに対してそういう気持ちを持ったことがなくて、自分の話をしたことがなかったからだ。いつも、雪穂はどうなの? と聞かれたけど、話せることがなくてはぐらかしていたっけ。
「彼氏……って、そこまで考えたことなかったけど」
しかしいざそういう気持ちになってみると、彼氏とか付き合うとか、たぶんみんなが望んでいる先の展開っていうのがあるんだろうけど、そこまでイメージできていなかった。
「まぁ、何事も経験だよ? 彼氏との楽しみもあるだろうし」
「琴美って、彼氏いたことあるの?」
「まぁね」
琴美の口ぶりからそうなのかなと思ったけれど、予想よりさらりと認めたから私は思わず目を見開いてしまった。
「去年、いたよ。ほんのちょっとの間だけ。もう卒業したけど、うちの高校の先輩」
「そうだったんだ。知らなかった」
「……先に言っておくけど、雪穂のせいじゃないから、気にしないでよ?」
「え?」
急に琴美の声のトーンが沈む。
「去年の冬ごろにさ、何となくのノリで付き合うことになったんだ。でも、すぐに雪穂の事故のことがあって、とても遊んだりする気になれなくってさ。そのまま先輩が卒業しちゃって自然消滅……みたいな感じかな」
「あ……」
私はすぐに察した。私が入院している間、琴美は毎日のようにお見舞いに来てくれたと聞いている。そんなんじゃ、誰かと遊んだりしている暇なんてあるわけない。きっと私のお見舞いを優先して、誘いを断り続けたんだ。
「何て顔してんの。だから言ったじゃん、雪穂のせいじゃないって。元々、ほんとに好きだったかどうかもわからないし、お互い告白すらなかったんだから」
申し訳ない気持ちになって私が目を伏せていると、琴美がそう言って私の背中を強めに叩いた。驚いて私は思わず小さく飛び跳ねてしまう。琴美はその様子を見ながら、けらけらとおかしそうに笑っていた。
「何かさぁ、高校生になったら自然と彼氏とかできるって、勝手に思ってたんだよね。だから、仲良かった先輩に付き合ってみようかって言われた時に、軽い気持ちでオッケーしちゃったんだ。でも嬉しかったし、楽しかったよ。続かなかったのはタイミングというか……私の気分的なもののせいで、先輩が悪かったわけじゃないし」
琴美は苦笑いを浮かべながらそう言った。でも、後悔しているという表情でもない。もう過ぎたことだからと割り切っているのか、妙にすっきりしたような、そんな顔に見える。
「愁は私から見てもちゃんとした人だと思うし、きっと大丈夫だと思うな。楽しいこといっぱい経験しようよ、雪穂。もし雪穂が愁と付き合って幸せそうにしてたら、それ見て私もうらやましくなって、また彼氏ほしいって思うかもしれないし」
「そっか……わかった。とりあえず、もっと仲良くなれるようがんばってみる」
「もう十分仲はいいと思うけど」
呆れたように、琴美が言った。
「え、そうかな?」
「うん。私は全然大丈夫だと思うんだけどな。だって私から見てても、愁って雪穂に対して特別というか……とにかくすごく雪穂のこと気にかけてる。それこそ、普通の友達に対する態度とは思えないよね」
「確かにいろいろよくしてくれてるし、優しいとは思うけど」
とはいえ、私が特別なのかどうかはわからない。初めて会った時は私がずっと入院していたことを知って気にかけてくれたということだったけど、私の境遇に同情してくれたのかもしれないし。
でも、阿久津さんとの一件で教室を飛び出した私を探しに来てくれたのには驚いた。勉強を教える側と教えられる側、世話を焼く側と焼かれる側、親切にしてくれる側とその親切に甘える側。今まで考えていたどの関係性とも当てはまらないようで、その時少しだけ、自分が特別であるような気がした。私の飛躍した勘違いだったら恥ずかしいからと、ずっと自分の中で抑え込んでいたけど。
そういえば、と私はふと思い出した。
公園で私の話を聞いた時、どうして愁くんは泣いていたんだろう。
「ねぇ、琴――」
「何かお腹空いたねぇ。雪穂、お昼どこかで食べていかない?」
琴美に聞いてみようと思ったけれど、その言葉に遮られてしまった。
「……うん、いいよ」
「決まりね、何食べようか。とりあえず駅前に行ってみる?」
このあたりで一番飲食店が多いのは駅前の商店街だ。店前に飾られたサンプルや写真の載ったメニューボードを見ていれば、自ずと食べたいものが決まってくるのはいつものこと。まぁ、私の好き嫌いの多さのせいか、たいてい選択肢の多いファミレスとかファストフードのお店に行くことが多いのだけど。
私と琴美は商店街の方へ移動し、順番に飲食店を物色していった。途中、雑貨店なんかにも立ち寄ってご飯以外のことに気を移したりしていたからなかなか決まらない。そうこうしている内に、商店街の半分を過ぎて、駅前のロータリー広場までやってきてしまった。
「どうする? お昼」
そろそろ決めた方がいいのでは、と思い私は改めて琴美に聞いてみる。
「そうだね、まぁまだ向こう側にもお店いろいろあるし」
琴美は広場を越えた先に伸びる商店街を指さす。お腹空いたと言い出したわりには早く決めたい雰囲気も伝わってこないので、まぁいいかと私は肩をすくめた。
と、その時私はふと気づく。
広場の円形のベンチに、いつも飴をくれるあのおばあさんが座っている。普段を顔を合わせるのは学校が終わった夕方の時間ばかりだったから、おばあさんもその辺りの時間帯にやってくるのだと思い込んでいた。まさかこんな真っ昼間に出会えるなんて思っていなかったから驚いた。天気もいいし、気まぐれで昼間の散歩に出たのかな。
ともあれ、ラッキーな偶然だったかもしれない。この間おばあさんを遠目に見つけた時は姿を確認しただけで、近くには行けなかった。しばらく会えていなかったから、今度また行ってみようと思ったところだった。
「琴美、ちょっと待って」
私は琴美を呼び止めて、おばあさんの方へ近づき、隣に腰を下ろした。やっぱりおばあさんは、私の方へ振り向くことも言葉を発することもせず、ただじっと前を向いている。何かを見ているのか、果たしてそれが何なのかはいまだにさっぱりわからない。ただその方向の先には―交差点が存在するだけだ。私が、事故に遭った場所。
「雪穂? どうしたの急に」
不思議そうに琴美が尋ねてくる。私はしぃっと口元に人差し指を立て、それからおばあさんとは逆側の私の隣に座るよう促した。
「ごめん、琴美。ちょっとだけ……こうしてていい?」
私もおばあさんと同じ方向をじっと見つめたまま、隣に座る琴美にそう言った。琴美が首を傾げる仕草をするのが視界の隅に映る。でもそれ以上は何も言うことなく、私たちに合わせるように姿勢を正していた。
しばらくそのままの時間を過ごしていた。夏の日差しに地面が焼ける匂い、頭上で鳴く蝉の声と、遠くホームに滑り込む電車の音。
やがて、おばあさんの手がゆっくりと動き出し、私に向かってにこりと笑いかけると共に、飴が差し出された。
私もおばあさんに向かって手を差し出しそれを受け取る。以前渡されたのと同じイチゴ味の飴。私は何だかほっとした。しばらく来ていなかったから、ひょっとしたらこのやりとりがなくなってしまうんじゃないかと、内心ドキドキしていたからだ。
「あの、おばあさん……」
今までと同じように視線を戻してしまったおばあさんに、私はずっと気になっていたことを、今日こそ聞いてみようと思った。
「どうしておばあさんはこれを私にくれるんですか?」
どこにでも売っているような、ただの飴。別に大した意味はないかもしれないし、それに私だけに渡しているのではないのかもしれないけれど。
私はその答えをじっと待つ。けれど結局、おばあさんがその問いに答えてくれることも、その表情や視線の先を変えることもなかった。
「……いつも、ありがとうございます。行こう、琴美」
私は飴を握りしめ、お礼を告げて立ち上がる。琴美がいいの? と怪訝そうな表情を浮かべたけれど、私は無言でうなずいた。
「それじゃあ、また」
おばあさんへそう言い残して、私は歩き出す。
その時、妙な視線を感じて、私は周囲を見回した。
「ん、どうかした?」
「いや、何か誰かに見られてる気がして……」
「駅前だもん。人もそこそこ多いんだし、誰かの視界には入るでしょ」
「そうかなぁ……」
それだったら今までも感じていてもよさそうだけど。でも改めて周囲の様子を窺ってみても、さっきみたいな違和感はもう消えていた。
「さ、お昼ごはん探しを続けよう」
「そうだね」
気のせいだと自分に言い聞かせて、私たちはもう片方の商店街へと向かった。