髪を整え終わって部屋を出ようとすると、侍女が軽く咳払いをした。

「あの、お嬢様」

「なあに?」

「お嬢様がお望みであれば、わたくしはいつでもおそばにおります」

 エレナはそっとミリアを抱き寄せると、彼女の耳元でささやいた。

「ありがとう。これからもよろしくね」

 朝食に向かおうとしたエレナに侍女が声をかけた。

「本日はお庭でお召し上がりください」

「あらそうなの? どうして?」

 侍女が窓から空の様子を眺めた。

「お天気がよろしいので、旦那様と奥様もお庭でお待ちでございます」

 エレナは我が耳を疑った。

 え?

「今、なんて言ったの?」

「ですから、旦那様と奥様がお庭で……」

 お父様が?

 お母様が?

「どういうこと?」

 エレナは窓に駆け寄って庭園を見下ろした。

 バラ園で父と母が朗らかに談笑しているのが見える。

 そんな馬鹿な。

 エレナは振り向いてミリアに詰め寄った。

「こ、ここは天国ではないわよね?」

 ミリアが苦笑している。

「お嬢様、まだ寝ぼけていらっしゃるのですか。小説の読み過ぎではございませんか」

「ねえ、ミリア。本当にこれは夢ではないのですよね」

「当たり前でございます」

「なら、わたくしをつねってみてよ」

「では、遠慮なく」

 ミリアが両手でエレナの頬をぐにっと引っ張る。

 い、痛い、痛い!

 ちょっと、やりすぎよ。

 ハムスターじゃないんだから。

 でも、夢じゃない。

 もう何が何だか分からない。

 どれが本当なのよ!?

 でも、そんなことなんてどうでもいい。

「お母様! お父様!」

 エレナは裸足で部屋を駆け出した。

「お嬢様! なんて、はしたない!」

 侍女が靴を持って追いかけてくるのなんか待っていられない。

 チクチクする芝生を裸足で駆け抜け、愛しい母の胸に飛び込む。

「お母様!」

「まあ、エレナ、どうしたの?」

 うれしすぎて言葉が出てこない。

 だって、信じられないほど幸せなんですもの。

 母がエレナの足下を見て微笑む。

「まあ、裸足ではありませんか。お転婆ねえ」

「申し訳ございません、奥様」と、ミリアが靴をそろえてエレナの前に並べる。

 父がその様子を眺めながら笑っている。

「エレナ、ごらん。見事なバラが咲いているよ」

「はい、お父様」

 咲き乱れる花から花へ蜜を求める蜂が飛び交い、そよ風に乗っていい香りが漂う。

 三人そろって用意されたテーブルにつく。

 ティーポットのカバーに蝶が止まって羽をそろえる。

 トーストにたっぷりとイチゴのジャムをつけて口に入れる。

 なんだろう。

 こんな当たり前のものがとても久しぶりのように思える。