目をこらしてみると、壁に小さな黒い虫が張りついてるのが目に入った。

「ルクス!」

 帰っていたのですか。

 ならばどうしてそんな姿のままなのですか。

 壁に歩み寄ろうとすると、エレナの影を察知した虫が逃げ出す。

 闇に紛れてしまってどこにいるのか分からない。

「どうして逃げるのですか?」

 カササ……。

 音のする方を向いてみても、やはり姿は見えない。

「ルクス……でしょう?」

 呼びかけても返事はない。

 ベッドの上で何かが揺れる。

 黒い虫の頭に伸びる触角だ。

 ゆらりゆらりと周囲の様子を探っている。

「どうしてそんな姿のままなのですか」

 エレナが手を伸ばそうとしただけで小さな虫はまた闇の中へ姿を隠してしまった。

 もしかして。

「おまえは……ただの虫なのですか?」

 カサ、カササ……。

 壁を這い上がるゴキブリの姿を見てエレナは笑い出した。

 はあ……。

 わたくしはただの虫に何を期待したのでしょうか。

 まぎらわしい。

 おまえは一体何をやってこの冥界へ堕ちてきたのですか。

 わたくしをからかうためというのなら、立派にその役割を果たしましたよ。

 ならば、おまえを潰してこの茶番を終わりにしてしまいましょう。

 エレナはベッドの上の枕を取り上げて思いっきり壁にたたきつけた。

 間一髪ゴキブリは逃げ出した。

 もういい!

 いったいなんなのよ!

 もう誰もわたくしの前に現れるんじゃありませんよ!

 逃げるのならば最初から現れなければいいでしょうに。

 エレナは何度も何度も枕を壁にたたきつけた。

 ゴキブリなんかもうどうでもよかった。

 黒い虫だろうと、暗闇だろうと、それがどこにいようとなんであろうと、そんなことはもうエレナにとってはどうでもよかった。

 枕の中の羽毛が飛び散り、白いほこりと一緒に舞い上がる。

 たった一匹のゴキブリすら潰すこともできないようなわたくしが一体何の罪を犯したというのでしょうか。

 クローゼットの脇に置かれた鏡に自分自身が映っている。

 サキュバスはどこへ行ったの?

「あんたはあたし、あたしはあんた。だから出てきなさいよぉ。ていうか、あたしがそっちにいってあげよっかぁ」

 ものまねすら下手だ。

 そんなつまらない自分自身など粉々に砕けてしまえばいい。

 鏡の中の自分自身に向かってエレナは拳を突き出した。

 音を立てて割れたガラスの破片が飛び散る。

 鋭いガラスの破片を取り上げてエレナはのどにあてた。