ああ、もう、イライラする。

 こんなときは掃除をするに限る。

 無駄だと分かっている作業ほど無心になれるものだ。

 ただ、やはり、そう都合良くはいかないようだった。

 箒を持って玄関ホールへ下りていくと、またキッチンから料理の匂いが漂ってきた。

 まだいたのですか、あの妖魔。

 エレナはわざと足音を鳴らしながら廊下を進むと、力一杯ドアを開けた。

 中ではサキュバスがまた何かを調理していた。

「はぁい、お元気ぃ?」

 あいかわらず不快なしゃべり方をする妖魔だ。

「元気ですけど、不機嫌ですわ」

「へえ、なんで? なんで、なんで?」

 知ってるくせに。

 エレナは返事をせずに歩み寄った。

「今度は何ですの?」

「またシチューだよ」

「他に何か作れないのですか?」

「煮たり焼いたりいろいろできるけど、べつにいいじゃん。おいしいんだから」

「でもまたおかしな材料を使ってるんでしょう?」

「今日は赤い実は入れてないよ」

「じゃあ、別の何か?」

「何よ、疑ってんの? やだやだ。ひねくれた女ねぇ」

「指輪をだまし取ったり、赤い実を食べさせたり、何度もだましたのはあなたではありませんか」

「あたしはあんただし、あんたはあたし。だましたのもあんた、だまされたのもあんた。あんたのものはあたしのもの。あたしのものはあたしのもんだけどね」と、指にむっちりとはまったサファイアをわざとらしく見せつける。

 またその理屈だ。

 都合が悪くなると全部それだ。

「今回はね、くりいむシチューだよ」

 鍋の中から甘い香りが立ち上っている。

「この甘い香りは何ですの?」

「クリームでしょ。べつに変な物入ってないし」

「でも、ずいぶん甘そうですわよ」

「あたしと帝王様のこと? なんちって」

 背筋がぞわぞわする。

 ああ、鍋ごとひっくり返してやりたい。

「味見する?」

「いいえ、結構です」

「何よ、疑ってんの? べつに変なもんは入ってないってば」

「もう信じません」

「えー、せっかく作ったのにぃ」

 言葉とは裏腹にサキュバスは笑みを浮かべている。

「あんたさ」と、自分で一口味見しながら妖魔がエレナに顔を寄せてきた。「そんなこと言ってるけど、のぞきに来たんでしょ。もう、興味津々じゃん」

 エレナは顔を赤くしながら首を振った。

「ち、違います。わたくしは名前を呼ばれたから行ってみただけです」

「はあ? 呼ばれた? んなわけないじゃん」

「いえ、まちがいなく『エレナ』と寝言を言ってました」

「寝言はあんたが寝て言いなよ。帝王様が呼んでいたのはあたし。だって、あたしとイイコトしてたんだから」

「一人でしたわよ」

「あたしもいたよ」

 ルクスは一人で枕を抱きしめていたはずだ。

 サキュバスがニヤつきながら鼻歌を歌い出す。

 鍋底を引っ掻くような不快な歌声だ。

「ふんふーん、ふん、ねえ、何してたか知りたい?」

 エレナは顔をしかめながら首を振った。

「ねえ、知りたい?」

 しつこい妖魔だ。

「いいえ、結構です」

「えー、ていうか、聞いてよ」

「嫌です」

「聞いてくれなくてもしゃべっちゃうしぃ」

 サキュバスは鍋をかき回しながら『帝王様ったらぁ』とか、『もうすごいのぉ』とか、『あたしもうアハンハンでぇ』とか、一人でベラベラと意味不明なことを語り出す。

 エレナはその言葉を一切聞き流しながら鍋の様子を眺めていた。