「そんなにこわがることないじゃん」
サキュバスが肩に腕を回してくる。
「気持ちいいことなんだからさ」
耳たぶをなめられて思わずエレナは肘でサキュバスを払いのけてしまった。
それでも相手はめげずに抱きついてくる。
「本当はしたいくせに」
「な、何をですか?」
「知りたい?」
「い、いいえ」
エレナは慎重に言葉を選んだ。
また何か弱みを握られてはかなわない。
それを狙っているのか、サキュバスのからかいもますますエスカレートしていく。
「あたしが教えてあげよっか」
「いえ、結構です」
「我慢してないでさ。どうせあんたも帝王様にかわいがってもらいたいんでしょ」
そうなってもいいとは思うし、そうなるしかない運命なのだろうけど、こういう罠にはまってすることではないはずだ。
ルクスだってそう言っていたではないか。
サキュバスが調理台の上に転がる赤い実をつかんで、見せつけるようにボリボリとむさぼり食う。
「あんたもどう? たくさん食べればどんどんどんどんあたしみたいなナイスバディになれるわよ」
どうやらこの木の実にはそういう作用もあるらしい。
エレナはサキュバスの体つきを眺めながら、あふれ出てきそうな淫靡な欲望を必死に押さえ込んでいた。
「この真っ赤な木の実の効果ってすごいんだよ。あたしずっと食べまくってるから、バインバインにはじけちゃって、服とか胸とお尻がきつくて困っちゃうのよね」
自分には関係のない悩みだ。
「あんたはいいわよねぇー」
「なんでですか?」
「ポロリするほど胸ないじゃん。アハハハハ」
さすがにカチンときて、エレナは奥歯をギリギリとかみしめた。
出て行きなさいと言いたいところだけれど、そもそもここは自分の城ではないのだ。
行き場のない怒りの気持ちが体のうずきをますます増幅させていく。
胸ははじけなくても、顔が熱くてはじけてしまいそうだ。
少し横になって休んだ方がいいかもしれない。
「お、おいしいお料理をごちそうさまでした」
席を立って、自分の寝室に戻ろうとしたときだった。
キッチンの出口にはルクスが立っていた。
「あ、おかえ……」
エレナを横から突き飛ばしてサキュバスが駆け寄る。
「やだあ、帝王様ぁ。お帰りだったんですかぁ」
「ああ、今戻った」
サキュバスがルクスに抱きついて黒光りするマントに潜り込む。
「帝王様わぁ、熟したのと青いのどっちがお好み? ていうか、あたし? やだぁ、もう」
ルクスがサキュバスの手を取って、口づける。
「指輪が似合うではないか」
「でしょぉ。こんな素敵なもんプレゼントしてくれるなんて、やっぱり帝王様ってチョーイケメン、あたしマジ感謝」
ちょっと、それはわたくしのですよ。
「ふさわしき者にこそ、ふさわしき物を。おまえの指にあってこその宝石だ」
「ですよねぇ」
なにが『ですよね』ですか。
人の物をだまし取っておいて。
二人のやりとりを見ているとイライラしてきてしまう。
エレナは二人のわきを通って自室へ行こうとした。
「体調がすぐれませんので、失礼します」
だが、ルクスはエレナの方を見もせず、サキュバスと話している。
「やっと俺の女になる気になったか」
は?
どういうことですの?
「あったりまえじゃーん。ていうか、あたし、帝王様に最初っからメロメロなの知ってるでしょぉ」
「あれほど嫌がっていたではないか」
「えー、誰それ? そんなことないしぃ。帝王様のことが嫌いな奴なんているんですかぁ? そいつ馬鹿なんじゃないの」
チラリとエレナの方に視線を向けながらサキュバスがルクスの体を撫で回している。
「あの、わたくしはここにおりますけど」
声をかけてもルクスに無視されてしまう。
見えていないというよりも、まるで自分がここに存在していないようだった。
どうやらルクスはサキュバスをエレナだと思っているらしい。
わたくしとこんなおかしな妖魔の見分けがつかないなんてどういうことですの?
冥界の帝王のくせに、妖魔の淫靡な魅力に惑わされるなんて。
何が帝王ですか、なさけない。
恥を知りなさいな。
どうしてわたくしの前に現れる殿方はどれも品性下劣なのでしょうか。
これでは王宮のウェイン王子と変わらないではないか。
サキュバスはこれみよがしにいちゃつくのをやめない。
「帝王様、向こうであたしとイイコトしましょうよ」
「どれ、おまえの痴態を愛でるとしようか」
「やだあ、もう、あたしに何させるんですかぁ」
「おまえは俺をどう楽しませたいのだ?」
「えー、言うんですかぁ。いやあん恥ずかしい。てか、言えないけどぉ、全部しちゃうしぃ」
と言うなり、サキュバスはペロリと舌を出すと、エレナに嘲笑を向けてからルクスに口づけた。
「んー、ブチュッ。あはーん。好き好き大好き帝王様ぁ。あたし、もう我慢できなーい。早くつれてってぇん」
「よかろう。俺の部屋へ来るがいい」
ルクスはサキュバスをお姫様のように抱き上げてキッチンを出て行く。
「ちょっと、あの……」
お姫様はわたくしでしょうに……。
置き去りにされたエレナは力なくへたり込んでしまった。
サキュバスに奪われた悔しさと、ルクスに無視された悲しさと、誰かに慰めてほしいという寂しさが同時に覆い被さってきて、立っていられないほど力が抜けてしまった。
なのに、体が火照って汗が止まらない。
あの赤い木の実の効き目がますます強くなっていくようだ。
でも、この体のうずきをおさめる方法をエレナはまだ知らなかった。
「ああ、お母様、どうかこのわたくしをお守りください」
エレナはなんとか立ち上がって自分の寝室にたどりつくと、ベッドの上に倒れてそのまま意識を失ってしまった。
◇
どれくらい眠っていたのかは分からない。
目を開けると、相変わらず真っ暗だったが、『フィアトルクス』と唱えると、ほんのりと明かりがついた。
体のうずきはおさまっていた。
どれほど泣いていたのだろうか、枕がぐっしょりと濡れている。
汗をかいたせいかシーツも冷たい。
まるでおねしょをしてしまったかのようだ。
まさか……してませんわよね。
下半身がとくにびっしょりと不快だが、おねしょではないようだった。
なんだか自分の体から獣みたいな臭いがするような気がする。
なんだろうか。
いったい自分はどうしてしまったのだろうか。
あら……?
何かが聞こえたような気がする。
エレナはベッドの上に起き上がって耳をそばだてた。
人の声だろうか。
……エレナ……。
誰か、わたくしのことを呼びましたか?
……エレナ……。
やはり聞こえる。
部屋を出て、暗い廊下を声のする方へたどっていく。
エレナは心の中で『光あれ』と唱えた。
ほんのりと足下が明るくなる。
……エレナ……。
閉まったドアの向こうから声が聞こえてくる。
ここはルクスの寝室だ。
なぜ、私の名を……。
ドアノブに手をかけてそっと押す。
隙間からのぞきこんでみると、人の気配がしない。
中へ一歩踏み込んだとき、ベッドの上で何かが動いた。
……エレナ……。
間違いない。
たしかに、エレナとはっきり言っている。
「もし」
声をかけても返事はない。
「どうかしましたか」
一歩ずつ近づきながら声をかけてもやはり返事はない。
ベッドの上に寝ているのはルクスだった。
彼は黒光りするマントを身にまとい、枕を抱きしめるようにして眠っている。
「……エレナ……」
「はい、なんですか」
思わず返事をしてしまったが、男は寝言をつぶやいているだけだった。
そういえばサキュバスはどこにいったのだろうか。
二人で寝室へ行ったはずなのに、ルクスしかいない。
エレナはため息をつきながらベッドのふちに腰掛けてルクスの髪に手を伸ばした。
サキュバスといったい何をしていたというのだろう。
あんなに興奮していたのだから、二人できっと楽しいことをしていたのだろう。
でも、それはわたくしとではないのですね。
寝乱れた彼の髪を整えてやりながらエレナはルクスの寝顔を見つめていた。
「おお……エレナ……」
ルクスが枕に顔を埋めながら名前をつぶやく。
な、何をしているのですか、この男は。
枕をわたくしだと思っているのですか。
寝惚けるにもほどがあります。
でも、その表情は嫌いではなかった。
なんとも無防備で幸福感に満ちた笑顔だ。
こんなルクスは見たことがない。
起こしてしまわないように気をつけながらルクスの頬をそっと指先でなでてみる。
目覚めさせてしまったとしてもかまわない。
ただ、もう少しこのまま寝顔を眺めていたい。
「……エレナ……」
寝顔を眺めているうちに、いつの間にかルクスの腕がエレナの腰に回されていることに気がつかなかった。
「あっ」
寝惚けた彼に不意に力尽くで抱き寄せられてしまう。
あ、あの……。
エレナは絶句した。
彼はマントの下には何も身につけていなかったのだ。
「……エレナ……」
眠ったままの彼なのに、その腕にはしっかりとした力が込められていた。
え……。
あの……。
急なことで心の準備ができていない。
しかし、エレナはルクスの腕の中で彼のするがままに身を委ねていた。
不思議な安らぎを感じる。
なぜだろう。
不安は何もない。
エレナは初めて自分の気持ちに正直に向き合っていた。
これがもしかして……。
ラテン語の勉強そっちのけで夢中になったあの小説に書かれていた憧れの……。
体の奥がまた火照りだす。
と、そのときだった。
ガバッ!
ゾワゾワワ!
ルクスの体が変形を始める。
ミシッ!
ギシシッ!
巨大なゴキブリの姿に変身したルクスの体から爪やトゲの生えた昆虫の脚がニョキニョキと伸びてきてエレナの体をベッドに押さえつけようとする。
「キャアアアアアアアアアアアア!」
もう何度目だろうか。
エレナはまた失神してしまった。
目を開けるとそこはまた闇の世界だった。
もう何度目だろうか。
分かっていることなのに、いまだに慣れない。
「気がついたか」
闇の中で声がする。
誰かの腕を枕にして眠っていたらしい。
「ルクス……ですか」
「そうだ」と、闇が返事をした。
すぐ目の前にいるはずなのに、何も見えない。
そういえば……気を失ったんだった。
最後に見たものを思い出すと、体が震え、鳥肌が立つ。
エレナは手で彼の顔をなでて確かめてみた。
鼻、頬、耳、少し汗ばんで濡れている髪。
彼は人の姿に戻っているようだ。
「何をしている?」
エレナは答えずに彼の髪に指を通していた。
ルクスも彼女のするにまかせて、それ以上何も言わなかった。
今は明かりはいらない。
顔を見られたくなかった。
「泣いているのか」
……言わなくていいのに。
顔を隠したくて体をひねろうとして、自分がまだ服を着ていることに気がつく。
「俺の寝床に入り込んで何をしようとした?」
エレナは答えなかった。
答えられなくて黙っていた。
何をしたかったのか、自分でも分からない。
ただ、そばにいたかった。
一緒にいたかった。
触れ合っていたかった。
ただそれだけなのに。
他に何があったというのだろうか。
それをただ自分は知らないだけなのか。
心の奥に冷たい滴がぽたりと垂れて波紋を広げる。
もう体の火照りもなく、心は冷え切っていた。
エレナは闇の中でそっと涙をぬぐうと、ゆっくりと身を起こしながら、『光あれ』と唱えた。
ベッドに横たわったルクスの姿があらわになる。
薄い毛布から出た裸体の上半身は間違いなく人の姿だった。
エレナはベッドの上に転がる枕を持ち上げて、思いっきりルクスにたたきつけた。
「何をする」
男が冷静に枕を払いのける。
エレナはその枕をもう一度取り上げて、またたたきつけ、そしてそれに体重をかけてルクスにのしかかった。
「何をしている」
両腕で枕ごとエレナを押しのけると、今度はルクスがエレナの上にのしかかって押さえつけた。
「どうした? 何を怒っている?」
「怒ってなどいません」
ルクスが鼻で笑う。
「そうか。ならいい」
ちっとも良くない。
「どんな夢を見ていたのですか?」
「夢? 俺は夢など見ない」と、ルクスの力がゆるむ。
「でも、寝言を言っていたではありませんか」
「寝言など言わんぞ。俺は寝ない。冥界の帝王だからな」
またそれだ。
そのくせ、あんな妖魔にたぶらかされて……。
もう、話にもならない。
こんな男と話などしたくもない。
エレナはルクスを手で押しのけてベッドの上に起き上がった。
「あのおかしな妖魔とお楽しみになっていればいいでしょうよ。失礼します」
「待て」と手をつかまれる。「妖魔とは何だ?」
「あなたの大好きなわたくしのことです!」
背中にルクスの笑い声を残してエレナは部屋を出た。
ああ、もう、イライラする。
こんなときは掃除をするに限る。
無駄だと分かっている作業ほど無心になれるものだ。
ただ、やはり、そう都合良くはいかないようだった。
箒を持って玄関ホールへ下りていくと、またキッチンから料理の匂いが漂ってきた。
まだいたのですか、あの妖魔。
エレナはわざと足音を鳴らしながら廊下を進むと、力一杯ドアを開けた。
中ではサキュバスがまた何かを調理していた。
「はぁい、お元気ぃ?」
あいかわらず不快なしゃべり方をする妖魔だ。
「元気ですけど、不機嫌ですわ」
「へえ、なんで? なんで、なんで?」
知ってるくせに。
エレナは返事をせずに歩み寄った。
「今度は何ですの?」
「またシチューだよ」
「他に何か作れないのですか?」
「煮たり焼いたりいろいろできるけど、べつにいいじゃん。おいしいんだから」
「でもまたおかしな材料を使ってるんでしょう?」
「今日は赤い実は入れてないよ」
「じゃあ、別の何か?」
「何よ、疑ってんの? やだやだ。ひねくれた女ねぇ」
「指輪をだまし取ったり、赤い実を食べさせたり、何度もだましたのはあなたではありませんか」
「あたしはあんただし、あんたはあたし。だましたのもあんた、だまされたのもあんた。あんたのものはあたしのもの。あたしのものはあたしのもんだけどね」と、指にむっちりとはまったサファイアをわざとらしく見せつける。
またその理屈だ。
都合が悪くなると全部それだ。
「今回はね、くりいむシチューだよ」
鍋の中から甘い香りが立ち上っている。
「この甘い香りは何ですの?」
「クリームでしょ。べつに変な物入ってないし」
「でも、ずいぶん甘そうですわよ」
「あたしと帝王様のこと? なんちって」
背筋がぞわぞわする。
ああ、鍋ごとひっくり返してやりたい。
「味見する?」
「いいえ、結構です」
「何よ、疑ってんの? べつに変なもんは入ってないってば」
「もう信じません」
「えー、せっかく作ったのにぃ」
言葉とは裏腹にサキュバスは笑みを浮かべている。
「あんたさ」と、自分で一口味見しながら妖魔がエレナに顔を寄せてきた。「そんなこと言ってるけど、のぞきに来たんでしょ。もう、興味津々じゃん」
エレナは顔を赤くしながら首を振った。
「ち、違います。わたくしは名前を呼ばれたから行ってみただけです」
「はあ? 呼ばれた? んなわけないじゃん」
「いえ、まちがいなく『エレナ』と寝言を言ってました」
「寝言はあんたが寝て言いなよ。帝王様が呼んでいたのはあたし。だって、あたしとイイコトしてたんだから」
「一人でしたわよ」
「あたしもいたよ」
ルクスは一人で枕を抱きしめていたはずだ。
サキュバスがニヤつきながら鼻歌を歌い出す。
鍋底を引っ掻くような不快な歌声だ。
「ふんふーん、ふん、ねえ、何してたか知りたい?」
エレナは顔をしかめながら首を振った。
「ねえ、知りたい?」
しつこい妖魔だ。
「いいえ、結構です」
「えー、ていうか、聞いてよ」
「嫌です」
「聞いてくれなくてもしゃべっちゃうしぃ」
サキュバスは鍋をかき回しながら『帝王様ったらぁ』とか、『もうすごいのぉ』とか、『あたしもうアハンハンでぇ』とか、一人でベラベラと意味不明なことを語り出す。
エレナはその言葉を一切聞き流しながら鍋の様子を眺めていた。
相変わらず料理そのものはとてもおいしそうだ。
「ねえ、ちょっと、聞いてる?」
聞いてません。
「でね、もうアソコがジンジンヒリヒリしちゃって大変なのよ、もう」
うふふと笑い出したかと思うと、妖魔が声を潜める。
「ねえ、アソコってどこだか分かる?」
エレナは静かに答えた。
「唇ですか」
「セイカーイ! えー、なんで分かるの?」
「だって、真っ赤に腫れてますもの」
「やだあ、もう、恥ずかしいー。そうなのぉ、チューしすぎちゃってぇ、たいへーん。もうねぇ、帝王様、あたしにギュッとしがみついて離してくれないんだもーん。ていうか、あたしも離さないしぃ」
相手にするのも馬鹿馬鹿しい。
こんな妖魔と遊んでいる冥界の帝王というのも軽蔑の対象でしかない。
「んー、まあ、いっかな」と、サキュバスが調理の手を止めた。「できたから、帝王様呼んでこよっと」
あんな男の顔など見たくもない。
エレナはサキュバスに続いてキッチンを出て、またホールの掃除に取りかかることにした。
キャッキャッと猿のような叫び声を上げながら階段を駆け上がっていくサキュバスが廊下から彼のことを呼んでいる。
「帝王様ぁ、お食事の用意ができましたよーん。やだあ、『オレが食べたいのはおまえ』って? あたしじゃないですからぁ。シチューですぅ。って、チューがいい? もう、今からですかぁ? いいけどぉ」
ああ、もう。
馬鹿じゃないの、馬鹿バカ馬鹿!
二人とも箒でたたき出してやりたい。
でもここはルクスの屋敷だ。
いいですわ!
こうなったら、わたくしの方が出て行きますわ。
あんな男に心を委ねようとしたわたくしが愚かでした。
エレナは箒を投げ出して屋敷を飛び出した。
◇
屋敷を出てみたところで、周囲は暗黒に包まれていて何も見えないし、どこにも行けない。
『光あれ』と唱えてみても、自分の手元が明るくなるだけで、やはりまわりの様子はまったく分からない。
エレナはこれまでも家の外の様子を見ようとしたことがあったが、いつもこんな調子であきらめていたのだった。
でも、今度ばかりはあの家にはいたくなかった。
あんな妖魔が自分の代わりに愛されるなんて納得できない。
手探りで暗闇の中を歩く。
ルクスが言っていたことを思い出す。
冥界には獣がいて、堕ちてきた罪人を食べる。
それが魂の浄化なのだと。
ならば、いっそのこと食われてしまった方がましだ。
自分も浄化してほしい。
もうこんなところにいたくはない。
しかし、そんな一時の激情を吹き飛ばすようなことが起きた。
ウオオオオォーン!
「な、何ですの?」
暗闇のどこからか獣の遠吠えが聞こえてくる。
ウオオオオォーン!
恐怖で思わず体が震え出す。
食われてしまえばいいなどと思っていた自分を呪いたくなる。
どこにいるのだろうか。
何が吠えているのだろうか。
オオカミか野犬か、はたまた見知らぬ魔物だろうか。
と、また暗闇から音が聞こえてきた。
ガリッ!
何の音ですか?
バキボキッ!
パクッ!
獣が獲物を食らう音だ。
骨を砕く音。
肉を引きちぎる音。
顔を天に向け、喉の奥へと肉を送り込んでいく音まで、まるで耳元で聞かされているようにくっきりと聞こえる。
そんな……。
すぐ近くだというのですか。
エレナは思わずルクスの助けを求めてしまった。
いつでもどこからでも駆けつけると言っていたはずだ。
なのに、ルクスは姿を見せない。
ルクス、お願いです。
わたくしが愚かでした。
助けに来て。
私を屋敷に連れ帰ってくださいな。
なのに彼は姿を現さない。
「ルクス! ルクス! わたくしはここです。お願いです。助けに来て!」
恐怖で声がかすれてしまうが、エレナは必死に彼を呼んだ。
と、そのときだった。
エレナの声に紛れるように、人の泣き声が聞こえてきたような気がした。
彼女は口を閉じて、耳をそばだてた。
……えーん……、……えーん……。
聞こえる。
間違いない。
子供の泣き声だ。
エレナは声の聞こえてくる方に向かって歩き出した。
駆けつけてやりたくても、暗闇の中で走れないし、どこにいるのか分からない。
それに野獣に出くわしてしまうかもしれない。
それでも、エレナは気持ちを奮い立たせながら声の主を探し歩いた。
「誰か、いますか?」
返事はない。
だが、泣き声は確かに聞こえる。
「どなたかいるのですか? どこですか?」
……えーん、えーん……。
ウォオオオオン!
また獣の遠吠えが聞こえた。
嫌な予感がする。
子供の泣き声を聞きつけて襲おうとしているのではないか。
自分が襲われる心配をしているどころではなかった。
急がなければ。
……えーん……。
野獣の鳴き声に混ざって子供の泣き声が聞こえる。
「どこにいるのですか? わたくしの声は聞こえますか?」
……ごめんなさい……。
かなり近いところで聞こえたようだ。
「大丈夫ですか。助けに来ましたよ」
……うえーん、ごめんなさい……。
「どうしてあやまっているのですか? 大丈夫ですよ」
と、手探りで進んでいると、足に何かがぶつかった。
ただ、それは暗闇に沈んでいて姿が見えない。
自分の姿は光っているのに、相手の姿は照らされないようだし、相手にもこちらは見えていないようだった。
「いるのですか?」
「うん」
エレナはしゃがみ込んでそこにいる何かを手でなでた。
子供の顔のようだ。
涙と鼻水でグショグショだ。
「いいですか? わたくしと同じ言葉を唱えるのですよ。『フィアトルクス』。言ってごらんなさい」
「フィルトクス?」
「フィアト、ルクス」と、一言ずつ区切って言い直してみる。
「フィアト、ルクス」
「そうです」
すると、闇の中に子供の姿がぼんやりと浮かび上がった。
小さな男の子だ。
まだ三、四歳くらいだろうか。
「大丈夫ですか。怪我はありませんか? どこか痛くないですか?」
「ううん」と、泣きながら首を振っている。
エレナは子供をそっと抱き寄せた。
「大丈夫ですよ。泣かなくてよいのですよ。よしよし……」
と、語りかけてやったところで、子供はなかなか泣き止もうとしない。
ウォオオオーン!
獣もまだどこかにいるらしい。
「えぐっ、うわーん」
ますます大声で泣いてしまう。
これでは獣を呼び寄せているようなものだ。
エレナは子供をきつく抱きしめた。
「大丈夫。大丈夫ですよ。わたくしがギュッとしていれば、あなたは食べられたりしませんからね」
「ボク、食べられちゃうの?」
かえって怖がらせてしまったらしい。
「大丈夫ですよ。わたくしが追い払ってあげます」
子供の頭を包み込んで獣の遠吠えが聞こえなくなるようにエレナは抱きしめる腕に力を込めた。
「ママ、痛いよ」
「あら、ごめんなさいね」
加減が分からないし、そもそも自分もこわいからついきつく抱きしめてしまったのだ。
そもそもママではないのだけれど。
少し力を緩めてやると、安心したように胸に顔を押しつけて男の子はようやく泣き止んだ。
「胸がなくてごめんなさいね」と、思っただけのつもりが、つい声に出してつぶやいてしまった。
男の子が細い腕でエレナに抱きついてくる。
「ママはおっぱい大きかったけど、ギュッてしてくれなかったよ」
それはかわいそうに……。
そういえば、あなたのママはどうしたのですか、とたずねそうになって、エレナはその言葉を飲み込んだ。
一人でこの冥界に堕ちてきたのだ。
元々家族に愛されていたのなら、天に召されていたはずで、こんなところにはいないのだろう。
つまりそれがこの子の運命だということなのだ。
だからといって、獣に食われてしまえばいいなんてことはないはずだ。
男の子を屋敷へ連れて行こうとした、そのときだった。
ガウッ、ガウワウッ!
急に闇の中からぼんやりとした光が浮かび上がる。
すぐ近くに狼のような姿をした獣が現れた。
背中が丸く体は細いが、足の爪と口から飛び出した二本の牙が鋭い。
うつろな目で二人を見つめながらよだれを垂らしてうなり続けている。
エレナは子供を後ろに隠しながら静かに立ち上がった。
ガウッ、グルゥゥゥウ!
獣はじっと視線を合わせたまま前足で地面を引っ掻いている。
後ずさりしようとすると、獣の体が跳ねそうになった。
エレナはとっさに腕を上げて獣の目をにらみつけた。
一瞬ひるんだような目を見せて獣がまた間合いを保ったまま地面を引っ掻き始めた。
男の子はエレナの右脚にしがみついてブルブルと震えている。
逃げようとしても、飛びかかられたら終わりだ。
とはいえ、いつまでもにらみ合っていても、どうにもならない。