「それと、もう一つ言わなかったことがある」と、ルクスが爪の長い指でエレナを指す。「体がうずいてこないか?」

 あの実を食べてから、体が火照っているような気はしていた。

 空腹が満たされたからだと思っていたが、違うのだろうか。

「あの木の実は快楽の実だ。食べたものはあらゆる欲望をほとばしらせ、求めるようになる。そのうちおまえは俺に身も心もゆだねたくなるさ」

「ひ、卑怯な罠を……」

 ルクスはエレナの頬に手を当てた。

「そんなに頑なになることはない。おまえにとって、悪いことではないだろう」

「そのような卑劣な手を使わずとも、好きなようにすればよいではありませんか。冥界の帝王なのですから」

「痴態を眺めるのも一興だ」と、ルクスが耳元に顔を寄せた。「とくにおまえのような女のな」

「最低な人ですね」

「俺は人ではない冥界の帝王だ。人間ごときの善悪など超越している」

 ルクスの手が変形して巨大なゴキブリの足になったかと思うと、爪の先をエレナのドレスに引っかけて抱き寄せる。

「俺はおまえをいつでも思い通りにできる」

「す、すればいいと言っているではありませんか」

「まだまだだ。まだつまらん。そのときが来るまでおまえはここにいればいい。冥界とはいえ何不自由ない暮らしだ」

 そう言うと、ルクスは小さなゴキブリの姿になって埃だらけの床を這い回り始めた。

 巨大化した姿を思い浮かべてしまい、エレナは目を背けた。

「これなら怖くあるまい」

 と言われても、正体を知ってしまっているせいで背筋が寒くなるのは止められない。

「ごめんなさい。無理です」

「まあ、いいだろう。俺はこの姿で地上を観察してくる。人間どもに悟られる心配がないから便利だ。たまに俺を潰そうとするやつがいるが、遠慮なく冥界に堕とせるしな」

 そう言うとゴキブリがエレナのドレスを這い上がってきた。

「俺を家の外に出してくれ」

「自分で行けばよいではありませんか」

「少しくらい助けてくれてもいいだろう。俺もおまえを助けたではないか」

「気を失わせて連れてきて、だまして出られないようにしたのではありませんか」

「そうしないと助け出せなかった」と、ゴキブリがドレスのひだに隠れて背中の方へ回ろうとする。

「わ、分かりました」

 エレナは玄関へ駆けていき、ドレスをバタバタとはたいてゴキブリを追い払った。

 姿は闇に紛れて分からなかったが、カサ、カササという足音がだんだん遠ざかっていくのだけは分かった。

 ふう。

 私はいったいここで何をしたらいいのでしょうか。

 ドレスの裾についた埃をはたきながらエレナはため息をついた。

 お掃除でも、しましょうかしら。