家の中には他に、寝室が二つと、暖炉のある居間、それと書斎があるだけだった。

 その書斎にしても、本棚はあっても、本は一冊もない。

「どうしてここには何もないのですか」

「俺は本など読まんからな」

「なぜですの?」

「すでにあらゆる知識を身につけているからだ」

「物語などは?」

「つまらん空想など不要だ。冥界では何の役にもたたんぞ」

 退屈しのぎになるのでは、と思ったが、エレナは黙っていた。

 どうせその心も読み取っているのだろう。

 それにしても、冥界の帝王だから大きな城や宮殿に住んでいるのかと思ったのに、案外質素な暮らしのようだ。

「おまえもここで暮らすがいい」

「わたくしもですか?」

「それともそこらへんの荒野で野宿をするか?」

「野宿とは何ですか?」

「地べたに寝るんだよ。まあ、毒蛇やサソリの餌食になるだけだがな。苦痛は永遠に続く」

 それと比べたら、この埃だらけの家の方がよっぽどましだ。

「分かりました。では、ここでお世話になります」

 ルクスの表情に笑顔が浮かんだような気がした。

「ならば、俺は出かけてくる」

「どちらへ?」

「地上の世界だ。人々を観察して、冥界へ堕とすものを決めるのが俺の仕事なのでな」

「地上へ戻れるのですか」

「俺はな。おまえとも地上で出会ったであろう」

 王宮の牢屋にいたのはそういうことだったのか。

 たしかに監獄には罪人がたくさんいるだろう。

 エレナはルクスに詰め寄った。

「わたくしは? わたくしもつれていってはもらえませんか?」

「無理だ」

「なにゆえですの? あなたにはできて、わたくしにはできないのですか?」

「俺は冥界の帝王だ。おまえは違う」

 単純だが、分かりやすい説明だ。

「それに、おまえは冥界の木の実を食べた」

 さっきの赤い果物のことだ。

「あれを食べた者は二度と冥界を出ることはできなくなる」

 なんということか。

 エレナはルクスに詰め寄った。

「わたくしをだましたのですね!」

「だましてなどいない。おまえが自分で勝手にもいで食べたのだろう。人の欲望とはそれ自体罪深きものだ」

 言われてみれば確かにそうだ。

 ルクスが食べているのを見て、安心してつい手を出してしまったのは自分だ。

「でも、あなたも食べたではありませんか」

「俺は冥界の帝王だからな。食べても影響はない」

 またそれだ。

 エレナは議論する気力を失っていた。