「俺のことが嫌いか?」

 そうささやきながらルクスはエレナの耳たぶに口づけた。

 嫌いではない。

 窮地を救ってくれたことに関しては恩に感じてもいる。

 だが、どうしても素直に受け入れることができないだけだ。

 自分はあの黒光りする羽の下で幾重にも節で折れ曲がった手足をうごめかす魔物の妻にならなければならないのだろうか。

 それが避けられない運命なのだとしても耐えられない。

 エレナはぎゅっと目を閉じて身を固くしたまま涙をこらえていた。

「まあいいだろう」

 ルクスが手を離し、エレナの背中に手を回して抱き起こす。

 相変わらず周囲は暗闇のままでルクスの姿以外は何も見えない。

 人としての姿でいてくれる間は、まだ少し落ち着いて相手ができる。

 ただ、いつあの姿に変身するのかと思うと、やはり怖い。

 どうしても、恐怖心や警戒心を払拭することはできなかった。

 ルクスがエレナの顎に手をかけてじっと見つめる。

「おまえはそのうち俺の女になるだろう」

 エレナは彼と目を合わせずにうつむいていた。

「一つだけ教えてやる」と、ルクスが人差し指を立てた。「おまえには冥界の特殊能力が備わっている」

「特殊能力とは何ですか?」

「冥界に堕ちた者に与えられる力だ。地上界でいう魔法のようなものだな」

「わたくしにそのような力が?」

「冥界では普通のことだ。地上とは違うのでな。ないと何もできないこともある」

 そもそもこの暗闇の中でルクスの姿しか見えないのだから、今のままではたしかに何もできない。

「おまえの能力は『親孝行』だ」

 親孝行?

 それが特殊能力?

「あの、わたくしにはもう父も母もおりませんが」

「それは俺の知るところではない」

「では、何のための親孝行なのですか」

「それも俺には関係のないことだ」

 まるで要領を得ない会話に、エレナはため息をついた。

「私は一体何をしたら良いのですか」

「それも俺には関係のないことだ。自分で考えろ」

 なんだろう、なんだかひっぱたきたくなってしまった。

「さきほどから、関係がないなどと他人行儀で、まったく意味がないではありませんか。なぜそのようなことをわざわざ教えたのですか」

「知らんものは知らん」

「冥界の帝王のくせに」

「それとこれとは別だ。俺は冥界を支配しているが、おまえのことは自分で考えろ。それとも、おまえは俺に無理矢理支配してもらいたいのか」

 ルクスがエレナの肩に手をかけて押し倒そうとする。

「望みであれば、俺はおまえを支配することができる」

 エレナは手を突き出して抵抗しながら、ルクスに願いを述べた。

「親孝行のスキルと言っても、わたくしにはもう親はおりません。でも、一つだけかなうのであれば、わたくしの身はどうなろうとかまいません。お父様とお母様が天国で仲睦まじく暮らせるようにお取りはからいください」

「だから、それは俺には関係のないことだ。天のことは天の仕事だ」

 それを言われてしまうと、何も言えなくなってしまう。

「だが、一つ教えてやれることがある」と、ルクスはエレナの肩に置いていた手を頭に回して髪をなでた。

「おまえの父母はここにはいない」

「ということは、天国にいるということですか」

「それは分からない。ただ、冥界にはいない。冥界のことなら分かる。俺に分かるのはそれだけだ」

 エレナはそれを聞いて少しだけ安心した。

 冥界でないのなら、天国なのだろう。

 今の自分にできるのは祈ることだけだ。

 その祈りが少しでも天に届けばいい。