◇
目を開けると暗闇だった。
ああ、まただ。
でも、暗闇には慣れた。
それよりも、わたくしはどうしたのだったかしら。
思い出そうとしてさっと血の気が引いていく。
そうだ、おぞましい物を見たんだった。
と、エレナのかたわらで何かがうごめいた。
「気がついたか」
暗闇の中で額にかかった髪をそっとかき上げられる。
優しい手つきで、恐怖は感じない。
むしろ、何か懐かしいような穏やかな気持ちを感じる。
フィアトルクス。
エレナは『光あれ』と心の中で唱えた。
その瞬間、目と鼻の先に男の顔が浮かび上がった。
冥界の帝王ルクスがエレナに口づけようとしている。
「な、何をするのですか」
思わず突き飛ばそうとしたが、手を捕まれていて身動きが取れなかった。
「おっと、気の強い女だな」
逆にのしかかられて押さえつけられてしまう。
「俺の女になれ」
なっ……。
「なかなかいい女だ。俺の女になれば冥界は思うままだぞ」
ルクスが口元に笑みを浮かべる。
「す、好きなようにすればいいではありませんか。帝王なのですから、どうせあなたの好きなようにできるのでしょう」
「それではつまらん。俺を愛する女になれ」
「む、無理です」
だって、あなたは……。
「俺の正体を恐れているのか」
エレナは答えなかった。
答えようとすると体がこわばって声が出なくなってしまうのだ。
「王宮では、俺と結婚すれば牢屋から逃げられるかと親しく話していたではないか」
「あのときは……小さな虫だと思っていたから冗談を言ったまでです」
「約束はしていないと?」
それを言われると言い返せない。
あの心細い状態だったとはいえ、頼るものがいない中で、一縷の望みを託していたのは事実だ。
でも、それはかわいらしい小さな虫だと思ったからだ。
ゴキブリという生き物を見たことがなかったエレナにとって、それは頼りになる同室者だったのだ。
だからこそ親しみを感じて語りかけていたのであって、地下牢の火事場で見たあの巨大化したおぞましい姿を思い出すと、素直になるのは無理だった。
ルクスが顔を近づけてくる。
エレナは思わず目を閉じた。
我慢だ。
この冥界でこの男に逆らうことはできないのだろう。
あの形態に変身して自分をむさぼり尽くす姿を想像した瞬間、全身に鳥肌が立ってしまう。
だが、エレナにはどうすることもできなかった。
冥界に落ちた己の運命を呪うしかないのだ。