と、その時だった。

 真っ暗闇の中で何かが動く気配がした。

 姿は見えないが、どこかで音がする。

 カサ、カササ。

 聞き覚えのある音だ。

 エレナの周囲でこちらの様子をうかがっているようだ。

 カサ、カササ。

 間違いなく、何かがいる。

 嫌な記憶がよみがえる。

 閉じこめられた地下牢で最後に見たもの。

 巨大化したゴキブリのおぞましい姿だ。

 思い出しただけで背筋がぞくぞくし、歯が鳴り始める。

 また意識が遠くなりかける。

 だが、大きく息を吸って拳に力を込めると、恐れや不安がやわらいでいった。

 気味の悪い虫だろうとなんだろうと、むしろこの際、なんでもいいから姿を現してほしかった。

 この何もない闇の世界にこれ以上一人で放置されたら、おかしくなってしまいそうだ。

「どなたか……いますか?」

「いるぞ」

「ひゃあっ」

 思わず悲鳴を上げてしまった。

 巨大ゴキブリに襲われるかと身構えたが、何も起こらなかった。

 それに、それは間違いなく人の声だった。

 ゴキブリではなさそうだ。

 相変わらず周囲は闇で、見回してみても誰もいないし、何も見えないけど、誰かがいるらしい。

 エレナは闇の中へ呼びかけた。

「どなたですか?」

「俺は冥界の帝王だ」

 低く太いけど、よく通る声だ。

 ただ、不思議なことに、どちらの方から聞こえてくるのかが分からない。

 後ろと言われればそのようにも思えるし、上と言われればそちらのようにも聞こえる。

「冥界の帝王ですか」

「そうだ」

 どこにいるのかは分からなくても、声はしっかりと聞こえる。

 そういえば、さっきまでのように、自分の声も消えてしまうことがなくなった。

 会話ができるだけで、なんだか心が弾んでくる。

「あの、あなたはどこにいるのですか」

「ここにいる」

 と言われても、やはり何も見えない。

 もしかして、目が見えなくなってしまったのだろうか。

「いや、見えている」

 エレナの心の中を見透かしたように声が聞こえてくる。

「では、どうして姿が見えないのでしょうか」

「冥界だからだ」

「冥界では何も見えないのですか?」

 返事がない。

「明かりをつけてもらえませんか」

「おまえがつければいい」

 ランプもろうそくもないのに、どうやったらいいのだろうか。

「唱えろ」

「何をですか?」

「おまえの望むことを」

 明かりをつけてほしい、と?

 エレナはラテン語を唱えた。

「フィアトルクス」

 光あれ!

 大げさかと思ったが、他に言葉を思いつかなかったのだ。

 だが、言葉を唱えた瞬間、目の前に人の姿が現れた。

 周囲は暗闇のままなのに人の姿だけが浮き上がって見える。

 なんだか夢の世界を見ているようだ。