「お待たせいたしました、お嬢様」

 肩掛けを持って戻ってきた侍女が鏡をのぞき込みながら左右の長さを調整する。

「まあ、少しはましになったかしら」と、エレナはうなずいて見せた。

「大変お美しゅうございますよ」

「だといいけど」

「では、旦那様にご挨拶をして、出発いたしましょう」

 ドアを開けた侍女にうながされてエレナは部屋を出た。

 父のシュクルテル伯爵はもう長いこと病で伏せっていた。

 医者の懸命の治療で命を保っているものの、ここ最近ではもう起き上がることもできなくなっていた。

 主寝室の重いドアをミリアが押し開ける。

「旦那様、お嬢様がご挨拶に参りました」

 中から返事はない。

 エレナはベッド脇に歩み寄った。

「お父様、具合はいかがですか」

 耳元で声をかけるとようやく目が開く。

「おう、我が娘よ」と、伯爵が震える手を伸ばそうとする。

 エレナはその手を取ってさすった。

「優しい娘よ。今日は一段と美しいのう。亡き妻を思い出すようじゃ」

「お母様のお召し物だそうです」

「おうおう、そうであったのう」と、青白い顔に落ちくぼんだ目を細めながら伯爵が口元に笑みを浮かべた。

「お父様、わたくし、今晩の婚約パーティーへ参りますの」

「そうか。いよいよか」と、かすれた声で伯爵がつぶやく。「わしは行けぬが、心配はあるまい。我が伯爵家の名誉にかけても、このたびの婚姻を無事に成立させねばならぬ。そなたも母から受け継いだ誇りと気品を忘れるではないぞ」

「はい、お父様」

 娘として従順な返事をしながらも、エレナの心の中では不満が渦巻いていた。

 貴族というのはなんとも面倒なものだ。

 格式やら気品やらしきたりだの、守るべき決まり事が多すぎる。

 それが庶民と貴族を分け隔てるものだとはいえ、そこまで大切なものなのか。

 彼女は父のやつれた姿を見るにつけ、いつも疑問に思うのだった。

 かといって、それを今言っても仕方のないことだ。

 エレナは父に微笑みを作って見せた。

「このたびのことが無事に済みましたら、お父様も気候の良いところに転地療養をなさってくださいな」

 骨張った手に力を込めながら父がうなずく。

「今後のことはそなたに任せておけば、わしも、ゴホッ……安心じゃな」

 声を出そうとすると咳が止まらなくなってしまうようだ。

 エレナは枕元に置かれた吸い飲みを取り上げて、冷めた薬用茶を父の口にふくませた。

 しばらくして呼吸が落ち着くと、父は目を閉じた。

 まるで蝋人形のようだ。

 エレナは冷たい父の手を毛布の中に入れた。

 目を閉じたまま唇が動く。

「ミリアはおるか?」

 侍女が前に進み出る。

「はい、なんでございましょうか」

「そなたはよく我が伯爵家に仕えてくれた。礼を言うぞ」

「もったいないお言葉でございます」

「これからもエレナのことを頼むぞ」

「はい、私の心はいつも一つでございます」

「うむ、今宵のことも粗相のないようにな」

「はい、心得ております」

「良い知らせを待っておるぞ」

 父は柔和な表情になって穏やかな寝息を立てはじめた。

 エレナはミリアの横からそっと声をかけた。

「では、お父様、行って参ります」

 目のふちを指でぬぐいながら部屋を出ると、廊下の冷たい空気が首筋にまとわりついてくる。

 エレナは身震いしながら肩掛けをかき寄せた。