再び静かになった牢屋の中で、エレナは食事に手を伸ばした。

 パンの陰から黒い虫がひょっこり顔を出す。

「おまえはゴキブリというのですか」

 話しかけると、返事するかのようにゆらりと触角を揺らす。

 名前が分かると急に親近感がわく。

「おまえも食べますか」

 パンを小さくちぎって床においてやろうとすると、エレナの動きを見て警戒したのか、ゴキブリはまた壁際へ逃げてしまった。

「大丈夫。わたくしはおまえをつぶしたりはしませんから」

 エレナは虫をあまり見たことがない。

 母が大切にしていたバラの庭園で見た蝶やバッタくらいしか知らない。

 ハエや蚊といった害虫も知ってはいたが、召使いたちが駆除していたから目にする機会はほとんどなかった。

 ゴキブリを見たことはなかったし、それに対する恐怖や偏見もなかった。

 エレナはパンをスープに浸して口に入れた。

 ほとんど味のないスープだったが、お腹が空いていたせいか、体にしみいるような気がした。

 だが、あまりにも少なすぎてあっという間に食べ終わってしまった。

 いつもならチーズやフルーツも好きなだけ選べるというのに、全然物足りない。

 斜陽貴族といえども恵まれた生活だったことをエレナは初めて思い知ったのだった。

 いったいいつまでここに閉じこめておくつもりなのだろうか。

 さっきの男達に聞いたところで何も知らないだろう。

 お父様はどうしているだろうか。

 ふと気がつくと、壁際でゴキブリがパンのかけらに覆い被さっていた。

 小さなかけらとはいえ、ゴキブリの体と比べたら巨大な岩くらいの比率になる。

「わたくしには足りなくても、おまえにはごちそうですね」

 話しかけるとまるで返事をするかのように触覚を揺らす。

 エレナは独り言をつぶやいた。

「カエルと結婚するのは嫌でしたが、今となっては、カエルの方がましでしたね」

 つい、笑ってしまう。

 ゴキブリの他に誰もいない牢獄で一人、エレナは背中を丸めながら膝にあごをのせてつぶやき続けた。

「おまえと結婚したら、わたくしをここから連れだしてくれるかしら?」

 ゴキブリが足をぴくりとのばして体をこちらへ向けたような気がした。

「無理よね。あ、でも、わたくしがゴキブリになればいいのかしらね。そうすればあの高い窓から一緒に外へ飛んでいけるかもしれませんね」

 他にすることもないと、つまらない空想が楽しくなる。

 でも、次の瞬間、急に虚しさに襲われてエレナの目から涙があふれ出した。

 誰か。

 誰でもいいからわたくしをここから連れだして。

 お城へ帰りたい。

 誰かわたくしをお城へ連れてかえって。

 ……カサカサ。

 目を上げると、お盆の上の器にゴキブリが入っていた。

 泣いている間にいつのまにか近寄ってきていたらしい。

 スープの入っていた器のふちに足をかけてこちらを見ている。

 ゆらゆらと揺れる触覚が手招きしているように見える。

 エレナは涙をぬぐった。

「わたくしを連れ出してくれるのですか?」

 ゴキブリは逃げずに触覚を揺らしている。

 虫と会話をしていると、扉の向こうで足音が聞こえた。

 さっきの男達と違う足音だ。

「おまえ、隠れなさい」

 通じるわけがないかと思ったら、ゴキブリは素直にエレナのドレスに這い上がってきて、プリーツの中に潜り込んだ。

「じっとしてるのですよ」

 そっと声をかけたとき、扉の鍵を外す音がした。