「あいつのことを気にしている? 確かに真子からは一回電話があったよ。出張が終わる前に一度飯でもどうかって。けど断った。沙綾に妙な誤解されたくないから」

 正直に答えてくれた彼にわたしは安堵した。真子さんには悪いけれど、少しだけ嬉しかった。彼は、わたしを選んでくれた。
 でも、とすぐに心の中の別の場所が異議を唱える。

 本当は、ずっとほしい言葉があった。
 だから、わたしはゆっくりと駿人さんを見上げた。

「わたしが駿人の求める結婚相手の条件にぴったりだから、わたしと結婚がしたいの?」

 彼は合理性を求める人だ。それでも、わたしは聞かずにはいられなかった。
 だって、これはわたしの結婚のことだから。

 彼はわたしの視線から逃げなかった。互いに見つめ合う間を海風が通り抜ける。
 駿人さんが唇を舐めた。

「条件は……」

 彼が口を開くまでとても長い時間のように感じた。実際はほんの数秒の間のことだったのだろう。

「条件は大事だろ。その中で沙綾とは気も合うし一緒にいて苦じゃなかったから、改めて考えた。沙綾とならって」

 この人は、結局条件だけで沙綾を選ぶのだ。
 わたしは一度目をつむった。わたしは彼から欲しい言葉の正体を思い知る。この男は昔っからそう。沙綾が手を伸ばしているのに、欲しいものはくれないのだ。

「……わかった。そういうことなら。……わたしは駿人さんとは結婚できない」

 * * *

 カムデンタウンのフラットのリビングダイニングルームのテーブルの上には日本食材店で買ってきた日本の缶チューハイとスシロールのパック詰めと日本のお馴染みのスナック菓子に占拠されている。ほかにも近所のスーパーで仕入れた生ハムとチーズとオリーブの実と、クッキーもある。

「あーあぁ。せっかくイギリスで元カレと再会したのに。一瞬で玉砕とかありえなくない?」

 生ビールの缶をプシュッと開けてぐびぐび喉に流し込み、ぷはぁっと缶を口から離した後の一言。発したのは真子さんだった。

 どうしてここに彼女がいるのかというと、夕方リリーと待ち合わせをしてピカデリーサーカス近くにある日本食材店に行って買い込みをしているところで偶然鉢合わせたからだ。

 お互い気まずい空気の中、真子さんが一言「楽しそうでいいわね」と口火を切ったら、リリーが「真子も来たらいいじゃん! わたしたち、今日はやけ酒なんだから!」と強引に彼女を引きずってきたからだ。

 今日は平日のど真ん中で、真子さんは明日も仕事だろうにいいのかと考えていたわたしを尻目に、以外にも彼女はリリーに従ってついてきた。
 しかもカムデンのスーパーに寄ったときなど自分の好きなチーズの主張までしていた。

「しかも、沙綾さん、結局駿人を振ったってどういうこと?」
「だって……。駿人さんはべつにわたしが相手じゃなくてもよかったんだもん。たまたま祖父同士が仲良くて、それでわたしに白羽の矢が立っただけってそういうことだったわけだし」

 わたしものっけから缶チューハイをくぴくぴ飲んでふわぁぁ、と長い息を吐き出した。

「それのどこがいやなの。お互いの親族が乗り気で、相手の親族に受け入れられているってものすごくラッキーなことじゃない」
 真子さんがビールの缶をだんっとテーブルに置いた。開始早々目が若干座っている。
「だって……」

 結婚が条件とか、そんなにも割り切れない。もう少し夢を見ていたい。

「そっちの凛々衣さん、だっけ? もそうよ。あれだけ。あれだけ直球でプロポーズされて、なにが嫌なの」
「わたしは……やっとイギリスの大学に入りなおして、勉強している最中なのに。まだやりたいこともたくさんあるし、行きたい国もたくさんあるのに。結婚なんて……わたしにはまだ……重たいんだもん」

 リリーがしょんぼりと項垂れた。本日ダニエルは仕事で出張。その隙を狙ってリリーのほうから家飲みしよ、と提案をしてきたのだ。

「若いねー。ま、二十五ならそんなもんか。わたしもあの時は仕事を覚えなきゃー、同期の男に負けてられるか、とか思って仕事ばっかりだったしねー」

 真子さんが自嘲気味に笑って缶を振る。中身がすっかり空のようで彼女は別のビールのプルトップに手をかける。

「わたし、イギリスにずっと住むことなんて考えられないもん。卒業したあとのことなんて、まだ分からない」
「でも、ダニエルはずっとリリーと一緒にいたいって思ってくれているんだよね」
「……うん。たまに重たいけど」

 リリーは椅子の上で体育すわりをしながらレモン味のチューハイの缶をぷらぷらと揺らしている。お酒が飲める年の、大きな迷子のようでもある。道ではなくて己の心に迷っている。