女性に案内された扉の向こう。そこでは子どもからお年寄りまでが、グラスやコップを片手にくつろいでいた。
椅子などの家具が無いので、皆思い思いに床に座っている。数人が輪になって談笑していたり、ゆったりとひとりでのんびりしていたり、過ごし方は自由の様だ。
「あの、ここは」
「私の主がお持ちの空間でございます。こちらへ」
女性はまたすっと足を動かす。その方を見ると、この空間唯一の家具であろう大きな大きな木製の重厚なテーブルがあり、その上には数え切れないほどの飲み物の瓶やボトルなどが置かれていた。
その右横にはグラスなどが置かれている棚、左横にはシステムキッチンがあった。コンロの下にオーブンがはめ込まれている立派なものだ。
そしてテーブルの向こうで、笑顔で飲み物の用意をしているのは、同じ顔をした若い女性がふたり。
ふたりとも肩に掛かるぐらいの長さのカールヘアで、ふんわりと柔らかそうな印象だった。そしてころころと言う表現が似合いそうな、丸っこい体型で愛嬌の良さを感じる。それぞれ揃いの白い割烹着を着けていた。
謙太たちと入れ替わる様に、作ってもらったばかりの飲み物を受け取った青年が去って行く。
手前の女性がこちらに気付いてぺこりと小さく会釈をよこしてくれた。
「サヨさん、こんにちは」
「あらぁ、こんにちは」
もうひとりも気付いて笑顔のまま頭を小さく下げる。
「こんにちは。本日も誠にありがとうございます」
女性の名はサヨさんと言うらしい。サヨさんはふたりに深くお辞儀をした。
「日付の感覚はまるでありませんけどねぇ」
手前の女性はのんびりと言って柔らかく笑う。
「ヨリコさま、マユコさま、交代の方々をお連れいたしました」
サヨさんは言って謙太と知朗を掌で示す。謙太たちは反射的にヨリコさまマユコさまと呼ばれたふたりに、ぺこっと頭を下げた。
「こんにちはぁ」
「こんにちは」
「こんにちは。そっかぁ、もうかなり経ちましたもんねぇ」
「はい。長らくお勤めお疲れさまでございました」
ヨリコさんが目を丸くすると、サヨさんはまた深々と頭を下げた。
ヨリコさんは感慨深げに「そっかぁ」と言って、マユコさんと揃って割烹着を外し、もたもたと不慣れな手付きで畳んでサヨさんに渡した。
「はい、確かにお返しいただきました。本当にお疲れさまでございました」
サヨさんはもう何度目かわからないお辞儀をし、謙太と知朗に振り返ると、その割烹着をそのままふたりに渡した。
「こちら、お役目の方にお渡しする割烹着というものでございます。どうぞお着けくださいませ」
「今ですか?」
「はい」
謙太と知朗はつい顔を見合わせるが、受け取ったばかりの割烹着をばさっと広げた。
さして面識も無い人がたった今まで着けていた割烹着ということで、少し抵抗がありつつ、そしてふくよかだとは言え、女性のサイズが男性である謙太たちには小さいのでは無いかと思いつつ。しかし割烹着はまるで新品の様に、ぱりっとしわも汚れも無かったのだ。
不思議に思いながらも謙太と知朗は割烹着に腕を通す。するとこれもおかしななことにサイズがぴったりだった。
袖もきちんと手首まであり、後ろで紐を結んでもきつく無いし長さも膝まであった。これは一体どういうことか。
「わ、お似合いですぅ!」
「ね! 男の人の割烹着って良いねぇ!」
ヨリコさんとマユコさんは口々に謙太と知朗を褒めてくれた。お世辞であってもそう言われたら悪い気はしない。つい「はは」と照れてしまう。
「謙太さま、知朗さま、その割烹着はお役目の証明の様なものでございますので、こちらにお立ちいただく時には、お手数でございますがお着けいただけます様お願いいたします」
「分かりましたぁ」
「おう」
謙太と知朗が素直に頷くと、サヨさんはゆるやかに口角を上げて小さく頷いた。
「ヨリコさま、マユコさま、私はまだ謙太さまと知朗さまに説明がございますので、大変恐れ入りますが、先へはおふたりでお進みいただけますでしょうか。扉を出ていただけましたら、お判りいただける様になっております」
「分かりました。サヨさん今までありがとうございました」
「ありがとうございました」
「とんでもございません。こちらこそ本当にありがとうございました。これからのご活躍、楽しみにしております」
ヨリコさんとマユコさんはサヨさんにぺこりと首を下げると、仲良さげに手を繋ぎ、スキップでもしそうな足取りで扉へと向かって行く。
その時くつろいでいた人々から「今までありがとうなー」「ありがとう」と声が掛かり、ふたりは優雅に手を振った。
「ではご説明させていただきます。こちらにおられる方々が飲まれたいものをご注文されますので、お作りくださいませ。作り方は全て謙太さまと知朗さまのお頭にお入れさせていただきましたので、どの様なお飲み物でも問題無くお作りいただけるかと思います」
「俺らの頭にそんなことをしたのか?」
知朗の眉がぴくりと動く。サヨさんはそれを見て焦った様に、今までで一番深く腰を折った。
「大変申し訳ございません。それはこのお役目にどうしても必要なものなのでございます。失礼なのは重々承知しております。ですがどうか了承いただけませんでしょうか」
「ああ、違う違う、怒ったとかじゃ無ぇんだ。そんなこともできるんだって驚いただけだ」
知朗が慌てて言うと、サヨさんはほっと安堵の表情になった。
「そうおっしゃってくださり安心いたしました。ありがとうございます。グラスなどは基本的に交換となっておりますので、不足してしまう様なことは無いかと思います。汚れたグラスなどはこちらに」
サヨさんがシステムキッチンに置かれている大振りの白い箱を示す。
「入れていただけましたら綺麗になり、元の場所に戻される様になっております。こちらは皆さまご自身でお入れになりますので」
「へぇっ」
「はぁっ」
ふたりは驚いて声を上げる。それはまるで魔法の様では無いか。サヨさんにそう言うとサヨさんは「魔法……それはとても素敵ですね」と穏やかな笑みを浮かべた。
「そうおっしゃっていただけますのは本当に嬉しゅうございます。説明は以上となります」
「え、ほんまにドリンクを作るだけでええんですか?」
「はい。それだけでございます。ですが炎への恐怖心を消すと言うのは主の命令ですので、もしかしますと何かあるのかも知れません。まだ私も聞いていないのでございます。分かり次第お伝えしに参りますので、恐れ入りますがお待ちくださいませ」
「えっと、じゃあ今は質問とかは特に無いんですけど、そういうのができたときはどうしたらええんですか?」
「私は毎日1度こちらにお伺いいたしますので、何かありましたらその時におっしゃっていただけましたら。こちらでのお役目は、基本的にお飲み物のご提供ですので、特に何かある訳ではございません。先ほどお役目を終えられましたヨリコさまとマユリさまも、長年お勤めいただきましたが、ご質問などはほとんどございませんでした」
「分かりました。とりあえず僕たちはできることをしますね。まずはドリンクを作って、この空間と言うか世界に慣れることかなぁ」
「だな。こうなったらやるしか無ぇよな。まだ実感沸かねぇ感じもするが、うだうだ言ってても仕方無ぇし」
謙太と知朗が言うと、サヨさんは「まぁっ」と嬉しそうな声を上げる。
「とても前向きなお考え、本当に素晴らしく思います。さすがでございます。では私は戻ろうかと思います。よろしいでしょうか」
「多分大丈夫や思います。ここにおられるのって皆亡くなられた人、人間なんですよね。やったらどうにかなると思います」
「はい。動物などはおられませんし、幻の生物もおりません。皆さま謙太さま知朗さまと同じ人間さまでございます」
「あ、それともしご存知やったら教えて欲しいんですけど」
「はい」
「火事の火元ってなんやったんでしょうか。僕たちは店の火の元なんかはふたりで何度も確認します。今日、今日って言ってええんかな、今回もそうしていたんで、そこが火元だと思いたぁなくて」
するとサヨさんは悲しそうに目を伏せた。
「……付け火です」
「付け火、放火か」
知朗が忌々しそうに言うとサヨさんは「はい」と小さく頷いた。
「下手人は酩酊されている様でした」
「そうですか……」
酔っ払いが気でも大きくなって見境を無くしたか。腹立たしいことこの上ないがもう起きてしまったことだ。
ビルのオーナーやテナントに入っていた他の企業は大変だろうが、保険にも入っていただろうし、損害賠償の請求なども含めてどうにか少しでも心を沈めてもらえたらと思う。
責任逃れと言うわけでは無いが、原因が味噌麺屋で無いことは、ほんの少し謙太と知朗の心を楽にした。
「では私はこれにて失礼いたします。どうぞよろしくお願いいたします」
「はぁい。ありがとうございまぁす」
「ありがとうな」
サヨさんは深く一礼するとするすると、歩いて扉から出て行った。
椅子などの家具が無いので、皆思い思いに床に座っている。数人が輪になって談笑していたり、ゆったりとひとりでのんびりしていたり、過ごし方は自由の様だ。
「あの、ここは」
「私の主がお持ちの空間でございます。こちらへ」
女性はまたすっと足を動かす。その方を見ると、この空間唯一の家具であろう大きな大きな木製の重厚なテーブルがあり、その上には数え切れないほどの飲み物の瓶やボトルなどが置かれていた。
その右横にはグラスなどが置かれている棚、左横にはシステムキッチンがあった。コンロの下にオーブンがはめ込まれている立派なものだ。
そしてテーブルの向こうで、笑顔で飲み物の用意をしているのは、同じ顔をした若い女性がふたり。
ふたりとも肩に掛かるぐらいの長さのカールヘアで、ふんわりと柔らかそうな印象だった。そしてころころと言う表現が似合いそうな、丸っこい体型で愛嬌の良さを感じる。それぞれ揃いの白い割烹着を着けていた。
謙太たちと入れ替わる様に、作ってもらったばかりの飲み物を受け取った青年が去って行く。
手前の女性がこちらに気付いてぺこりと小さく会釈をよこしてくれた。
「サヨさん、こんにちは」
「あらぁ、こんにちは」
もうひとりも気付いて笑顔のまま頭を小さく下げる。
「こんにちは。本日も誠にありがとうございます」
女性の名はサヨさんと言うらしい。サヨさんはふたりに深くお辞儀をした。
「日付の感覚はまるでありませんけどねぇ」
手前の女性はのんびりと言って柔らかく笑う。
「ヨリコさま、マユコさま、交代の方々をお連れいたしました」
サヨさんは言って謙太と知朗を掌で示す。謙太たちは反射的にヨリコさまマユコさまと呼ばれたふたりに、ぺこっと頭を下げた。
「こんにちはぁ」
「こんにちは」
「こんにちは。そっかぁ、もうかなり経ちましたもんねぇ」
「はい。長らくお勤めお疲れさまでございました」
ヨリコさんが目を丸くすると、サヨさんはまた深々と頭を下げた。
ヨリコさんは感慨深げに「そっかぁ」と言って、マユコさんと揃って割烹着を外し、もたもたと不慣れな手付きで畳んでサヨさんに渡した。
「はい、確かにお返しいただきました。本当にお疲れさまでございました」
サヨさんはもう何度目かわからないお辞儀をし、謙太と知朗に振り返ると、その割烹着をそのままふたりに渡した。
「こちら、お役目の方にお渡しする割烹着というものでございます。どうぞお着けくださいませ」
「今ですか?」
「はい」
謙太と知朗はつい顔を見合わせるが、受け取ったばかりの割烹着をばさっと広げた。
さして面識も無い人がたった今まで着けていた割烹着ということで、少し抵抗がありつつ、そしてふくよかだとは言え、女性のサイズが男性である謙太たちには小さいのでは無いかと思いつつ。しかし割烹着はまるで新品の様に、ぱりっとしわも汚れも無かったのだ。
不思議に思いながらも謙太と知朗は割烹着に腕を通す。するとこれもおかしななことにサイズがぴったりだった。
袖もきちんと手首まであり、後ろで紐を結んでもきつく無いし長さも膝まであった。これは一体どういうことか。
「わ、お似合いですぅ!」
「ね! 男の人の割烹着って良いねぇ!」
ヨリコさんとマユコさんは口々に謙太と知朗を褒めてくれた。お世辞であってもそう言われたら悪い気はしない。つい「はは」と照れてしまう。
「謙太さま、知朗さま、その割烹着はお役目の証明の様なものでございますので、こちらにお立ちいただく時には、お手数でございますがお着けいただけます様お願いいたします」
「分かりましたぁ」
「おう」
謙太と知朗が素直に頷くと、サヨさんはゆるやかに口角を上げて小さく頷いた。
「ヨリコさま、マユコさま、私はまだ謙太さまと知朗さまに説明がございますので、大変恐れ入りますが、先へはおふたりでお進みいただけますでしょうか。扉を出ていただけましたら、お判りいただける様になっております」
「分かりました。サヨさん今までありがとうございました」
「ありがとうございました」
「とんでもございません。こちらこそ本当にありがとうございました。これからのご活躍、楽しみにしております」
ヨリコさんとマユコさんはサヨさんにぺこりと首を下げると、仲良さげに手を繋ぎ、スキップでもしそうな足取りで扉へと向かって行く。
その時くつろいでいた人々から「今までありがとうなー」「ありがとう」と声が掛かり、ふたりは優雅に手を振った。
「ではご説明させていただきます。こちらにおられる方々が飲まれたいものをご注文されますので、お作りくださいませ。作り方は全て謙太さまと知朗さまのお頭にお入れさせていただきましたので、どの様なお飲み物でも問題無くお作りいただけるかと思います」
「俺らの頭にそんなことをしたのか?」
知朗の眉がぴくりと動く。サヨさんはそれを見て焦った様に、今までで一番深く腰を折った。
「大変申し訳ございません。それはこのお役目にどうしても必要なものなのでございます。失礼なのは重々承知しております。ですがどうか了承いただけませんでしょうか」
「ああ、違う違う、怒ったとかじゃ無ぇんだ。そんなこともできるんだって驚いただけだ」
知朗が慌てて言うと、サヨさんはほっと安堵の表情になった。
「そうおっしゃってくださり安心いたしました。ありがとうございます。グラスなどは基本的に交換となっておりますので、不足してしまう様なことは無いかと思います。汚れたグラスなどはこちらに」
サヨさんがシステムキッチンに置かれている大振りの白い箱を示す。
「入れていただけましたら綺麗になり、元の場所に戻される様になっております。こちらは皆さまご自身でお入れになりますので」
「へぇっ」
「はぁっ」
ふたりは驚いて声を上げる。それはまるで魔法の様では無いか。サヨさんにそう言うとサヨさんは「魔法……それはとても素敵ですね」と穏やかな笑みを浮かべた。
「そうおっしゃっていただけますのは本当に嬉しゅうございます。説明は以上となります」
「え、ほんまにドリンクを作るだけでええんですか?」
「はい。それだけでございます。ですが炎への恐怖心を消すと言うのは主の命令ですので、もしかしますと何かあるのかも知れません。まだ私も聞いていないのでございます。分かり次第お伝えしに参りますので、恐れ入りますがお待ちくださいませ」
「えっと、じゃあ今は質問とかは特に無いんですけど、そういうのができたときはどうしたらええんですか?」
「私は毎日1度こちらにお伺いいたしますので、何かありましたらその時におっしゃっていただけましたら。こちらでのお役目は、基本的にお飲み物のご提供ですので、特に何かある訳ではございません。先ほどお役目を終えられましたヨリコさまとマユリさまも、長年お勤めいただきましたが、ご質問などはほとんどございませんでした」
「分かりました。とりあえず僕たちはできることをしますね。まずはドリンクを作って、この空間と言うか世界に慣れることかなぁ」
「だな。こうなったらやるしか無ぇよな。まだ実感沸かねぇ感じもするが、うだうだ言ってても仕方無ぇし」
謙太と知朗が言うと、サヨさんは「まぁっ」と嬉しそうな声を上げる。
「とても前向きなお考え、本当に素晴らしく思います。さすがでございます。では私は戻ろうかと思います。よろしいでしょうか」
「多分大丈夫や思います。ここにおられるのって皆亡くなられた人、人間なんですよね。やったらどうにかなると思います」
「はい。動物などはおられませんし、幻の生物もおりません。皆さま謙太さま知朗さまと同じ人間さまでございます」
「あ、それともしご存知やったら教えて欲しいんですけど」
「はい」
「火事の火元ってなんやったんでしょうか。僕たちは店の火の元なんかはふたりで何度も確認します。今日、今日って言ってええんかな、今回もそうしていたんで、そこが火元だと思いたぁなくて」
するとサヨさんは悲しそうに目を伏せた。
「……付け火です」
「付け火、放火か」
知朗が忌々しそうに言うとサヨさんは「はい」と小さく頷いた。
「下手人は酩酊されている様でした」
「そうですか……」
酔っ払いが気でも大きくなって見境を無くしたか。腹立たしいことこの上ないがもう起きてしまったことだ。
ビルのオーナーやテナントに入っていた他の企業は大変だろうが、保険にも入っていただろうし、損害賠償の請求なども含めてどうにか少しでも心を沈めてもらえたらと思う。
責任逃れと言うわけでは無いが、原因が味噌麺屋で無いことは、ほんの少し謙太と知朗の心を楽にした。
「では私はこれにて失礼いたします。どうぞよろしくお願いいたします」
「はぁい。ありがとうございまぁす」
「ありがとうな」
サヨさんは深く一礼するとするすると、歩いて扉から出て行った。