愛を知らない操り人形と、嘘つきな神様。

 
 俺を幸せにするためならなんでもするなんて叫ばないで欲しかった。だってそんな言葉を残されたら、忘れように忘れられない。殺されたことを、永遠に考えざるを終えなくなってしまう。
 そんなのは望んでなかった。
 同情で捨てられるか自殺されるかのどちらかであって欲しかった。
 もしそうだったら忘れられた。
 紫色のものを見るたびに母さんが喜ぶかなと思って買って、部屋に置いてからいないのを実感して後悔にかられるなんてことにはならないハズだったんだ。
 ――忘れたかった。
 忘れられる存在であって欲しかった。だってそうじゃないと、思い出すたびに後悔にかられて、死にたくなってしまうから。
 

 父さんは母さんの死体を山に埋めると、妻に離婚届けを渡しに行った。
 父さんが偽りの夫婦生活をやめて俺と暮らすのを選んだのには、理由があった。
 それは、俺を父さんの車の中に監禁するためだった。父さんは俺を車の中に閉じ込めて、俺が警察のとこに行ったりするのと、警察に電話をかけたりするのを防ごうとしたんだ。
 車に閉じ込められた俺は、足を縄で縛られて生活してた。その縄をほどいてもらえるのは、風呂に入る時だけだった。
 トイレをしたくなった時は、車の中にあるビニール袋の中に用を足すように言われた。どんなに嫌だって泣き喚いても、それを強いられた。

 車の中は俺の牢獄だった。

 狭くて、暖房も冷房も父さんが車を使う時しかつけてもらえない。
 夏は冷房がついてなければ窓を全開にしないと熱中症になるほど暑くて、冬は暖房がないと毎日風邪をひきそうになるくらい寒い。どうしようもなく怖い独房だった。

 俺はその独房の中で、父さんが金の催促をする現場を毎日のように見た。

 おかまみたいな見た目で自信に溢れていそうなのに、父さんの前では土下座をする人。
 髪がぼさぼさでだらしがない見た目をしていて、父さんを雑にあしらう人。
 真面目なサラリーマンのなりをしているのに、父さんの前では涙ながらに許しを請う人など、金の催促をされる人は見た目も、催促された時の反応も千差万別だった。
 父さんが怒鳴るのを怖いと思っていた俺はその人達が責められる現場を見るのが、正直あまり好きではなかった。
 たぶん父さんはそのことに気づいていたのに、敢えて俺を車の中で育てようとした。
 怒鳴ってる自分を日常的にみせて、警察に通報したらお前もこういうことをされるんだぞって、俺に伝えようとしていたんだ。
 そんな風になってから一か月が過ぎたある日、とんでもないものを目にした。
 父さんから金を借りた人間が桜の木に縄をくくりつけて、首をつって死んでいたんだ。

 俺はそれを見て、また吐き気に襲われた。
 俺はその日、人が死ぬのを見るのも、人が死ぬのを想像するのも怖くなった。
 実際に人が死んだ時はもちろんのことだが、ドラマや動画とかで死んだ人を見ても吐くようになった。
 人が死ぬということを、身体が一切受け付けなくなった。
 それから二年が過ぎたある日、俺は父さんにあ『中学を卒業したらお前が暮らすためのマンションを一部屋買ってやるし、高校にもちゃんと通わせてやるから、その代わり井島海里という少年が手酷い虐待をされてる動画を撮影しろ』と言われた。
 車で生活するのにうんざりしてた俺は、それに迷いなく応じて、父親に言われてお前と同じ高校を受験した。

「じゃあ零次は俺に接触するために同じ高校に来たのか?」
 戸惑いながら俺が発したその言葉に、零次は迷いなく頷いた。
「ああ、そうだよ。親父、お前の家によく来てただろ。だから、お前が行く高校知ってたんだよ。ただ海里に近づくのは、海里か海里の父親かあるいは保証人をしてる奴のいずれかに闇金の子供だとバレないように、入学して半年以上たってからにしろって言われてたから、それまでは、普通に高校生活を謳歌してた。いや、楽しんでるふりを俺はしてたんだ。好きでもない女と遊んで、欲を満たして」

「……なんでそんなことをしてたんだ」

「……どうせ母親みたいに失う可能性があるなら、浅い付き合いだけしようと思ったんだよ。いっただろ。――人が死ぬのが嫌なんだって。だから父親に従った。失うのが怖いからって人もろくに頼れない自分に、そうする以外に選択肢はないと思ったんだ! 
 ……虐待の現場に出くわした時、やった!と思った。
 嘘じゃない。少なくともその時の俺は、本気でお前が虐待されている動画を撮ろうとしてた。お前を助けようなんて、全然考えてなかったんだ。でも虐待の現場を見て、その気持ちが変わった。高校生の子供が皮膚を炙られて、赤ん坊みたいに泣きじゃくる。そんな酷い見るに堪えない地獄絵図のような世界が、そこには広がっていた。
 その泣きじゃくっていた子供が、自分に見えたんだ。監禁されて自由を奪われて、辛いよって、嫌だよって叫んでた頃の自分に見えたんだ。それで俺はいつの間にか動画を撮るのも忘れて、お前を助けに行っていた。
 ……助けないで動画を撮らないとダメだって、撮らないと殺されるってわかっていたのに、気が付けばそうしていたんだ。俺と違って自由を手に入れてないお前を見て、可哀想だと思ってしまったんだ。救ってやりたいと思ってしまったんだよ。そんなことをして動画を撮るのをおろそかにしたら、地獄に逆戻りする羽目になると。やっと手に入れた自由を、失うハメになると分かっていたのに」

「動画を撮らないと殺すって言われたのか?」
 俺は返答を聞くのが怖くて、震えながらその言葉を言った。
「……ああ。卒業までに動画を撮らないと殺すって言われた。それがあったから、俺はお前のことを助けた後、あんな意味深な言葉を言って、お前の自殺を止めたりしたんだよ。――お前が自分を大切にすればするほど、酷い虐待の動画を撮れる可能性が高まると思ったんだ」
 心臓をわしづかみされたかのような衝撃に襲われる。
「……じゃあ、零次は俺を騙してたのか?」
 冷や汗が頬を伝い、俺は震えながらその言葉を口にした。
「ああ。俺はお前が命のありがたみが分かればわかるほど、酷い虐待の動画が撮れるんじゃないかと想ったんだ。だからお前に、自分の命を大切にしろっていった。

 ……カメラを渡すところまでは、計画は一応順調だった。お前を助けてしまったのはイレギュラーな事だったけど、それ以外は順調だった。ものすごい虐待の映像が撮れたしな。問題はその後だった。……お前が、自殺を考えたのが問題だった。……映像を観て自殺をしようとしてると気付いた俺は、録画をやめるのと、お前の自殺を止めさせるのが目的で江の島に行った。……そして、同居をしようってお前に言った」

「それの何が問題なんだよ?」

「わからないか? 俺がやるべきことは録画を止めることと、自殺をやめさせること。その二つだけで良かったんだよ。……同居なんて、提案すべきじゃなかったんだ。だって同居をして仲良くなったら、お前を救いたいと思ってしまうだろ。……映像を警察に提出して、お前の父親に裁きを受けさせてやりたいって思ってしまうだろ。それじゃあダメだったんだ。……俺は自分が殺されないために親父に動画を渡さなきゃいけなかった。そうしなきゃいけなかったんだよ!!」
 零次は声が枯れる勢いで泣き叫んだ。

「れっ、零次……」
 俺の右腕の包帯に、零次の涙が何度も何度も落ちる。
 落ちるたびに腕がズキズキと痛んで、俺は顔をしかめた。
 その痛みはまるで、零次の辛さを体現しているかのように痛かった。

「なぁ海里、なんで人の心ってのはこんなに複雑なんだ? 
 ……俺は、ずっと自由が欲しかった。
 それなのに俺は親父を裏切って、お前を助けちまったんだよ! そんなことをしたら殺されるとわかっていたのに。俺は親父に殺されないために、お前を救いたいって気持ちを押し殺して動画を渡しに行こうとしたのに、途中でお前の虐待を見て……っ!」
 言葉にならない声を上げて、零次は泣き崩れる。
「……俺はお前を素通りしようと思った。虐待なんて見ぬふりして、親父に動画を渡しに行こうと思った。それなのに!!」
 俺の両腕をつかんで、零次は叫んだ。
「れっ、零次」
「俺はずっと牢獄の中にいた。大好きだった母さんを殺されて、大嫌いな父親の車の中に、足を縄で縛られて閉じ込められて。
 ……風呂には三日に一回しか入れてもらえなくて、ビニール袋に用をたすのを強要されて。……言葉なんかじゃとても現わしきれないような苦痛を何度も味わった。
 でもその環境は、突然壊された!
 お前の父親が金を返さなかったおかげで、俺はつかの間の自由を手にすることができたんだ。だから俺は、その自由を守らなきゃいけないと思った。虐待の動画を撮って、それを父親に渡すだけでその自由を永遠に手にすることができるといわれてるなら、ちゃんとそうするべきだったんだ! 
 それなのに俺は、お前にほだされた! お前を見て、助けてやりたいと思っちまったんだよ! 
 つかの間でも自由を手に入れた俺と違って、お前はずっと牢獄の中にいたから! しかもその環境から、逃げようともしていなかったから! 
 そんなお前を見ているのが嫌になって、俺はお前を本気で助けようとしたんだ! 
 ……そんなことをしたら、自分の人生が終わってしまうと分かっていたのに」
 零次が言ったその言葉は、切実さに溢れていた。
 俺の瞳から、涙が零れ落ちる。
「……は? 何でお前が泣くんだよ」
 涙を流した俺を見て、零次は信じられないといった顔をした。
「だって俺、知らなくて。……全部知らないで、お前と仲良くしてたからっ!」
 声を上げて叫んだその言葉は、本心だった。

 ――俺は全部知らなかった。

 こいつが何を想って父親に反抗して俺を助けてくれたのかとか、こいつがどれだけ複雑な環境にいたのかとか、そういうのを全く知らなかった。そういうのを全部知らないで仲良くしていた。その事実がもの凄い心を締め付けてきて、涙が流れた。
「……そんな泣くほどのことじゃないだろ」
「泣くほどのことだよ! 俺、辛い。……そばにいたのにずっとお前の辛さに気づいてやれなかったんだと思うと、辛くて、悔しくてたまらない」
 本当に悔しい。こいつのSOSにずっと気づいてやれなかったのかと思うと、辛くてたまらない。
「……海里」
 俺の涙を拭って、零次は目尻を下げて、悲しそうに笑った。
「……ありがとう、零次。本当にありがとう。助けてくれて」
 俺が泣きながらそう言うと、零次はぎゅっと拳を握り締めた。
「……俺は助けたくなかった。助けちゃダメだったんだ。……助けなければ、こんなことにならずに済んだんだんだよ! ……本当は俺、お前と普通の友達になりたかった! 親父の命令でお前に近づくんじゃなくて! ただの同級生として遊びたかった!」
 零次が口にしたその言葉は、叶うハズもない願望だった。
 きっと零次が闇金の子供として生まれて、俺があのクソみたいな父親の子供として生まれた時点で俺らの出会い方は決まっていた。――ただの偶然じゃなくて、どちらかの親の作為で出会うことになると。
 俺達が偶然出会うなんてはっきりいって奇跡に等しい。とてもありえないことだった。

「……俺もだよ。俺も、零次とただの友達になりたかった」

 それでも俺は、零次の言葉に同意した。
 裏があるかもと思いながら、零次の手を取ったあの日の自分のことを思い出して。

「うっ。俺、本当はお前と離れんの嫌だった! すげぇ嫌で、他に方法はないのかってめっちゃ思った。脅されてたのに! 地獄に戻るハメになるわかってたのに、お前とずっと一緒にいたいっと思ってた ……俺、お前とずっと一緒にいたい!」
 俺の服を握り締めて、零次は叫んだ。
「うん。俺もずっと一緒にいたい! お前が死んだら、生きていけない!!」
 俺は左手を零次の腰にやって叫んだ。

 ――神様は残酷だ。

 神様はきっと、俺達の結末にハッピーエンドを残していない。

「……じゃあ二人で心中でもするか? 俺の父親がここに来る前に」
「えっ」
 俺は思わず零次の腰から手を離した。
「ハッ。嘘だよ嘘。そんなことしねぇよ。俺だけ生き残ったりしたら、絶対嫌だし」
 焦った俺を小馬鹿にするみたいに、零次は笑う。
 その笑顔は痛々しくて、とても辛そうな顔だった。
「零次……俺は本当にお前と一緒にいたいよ」
 俺は零次を見ながら、泣きながら言った。零次は俺を見て、作り笑いをした。
「ああ、俺も。でも無理だ。俺達は一緒にいても幸せになれない。一緒にいたら、多分どちらかが死ぬか、あるいは両方死ぬハメになる。そういう運命なんだよ。俺達が一緒にいても、バッドエンドにしかならない」
 その言葉は、俺が想った言葉と殆ど同じ意味だった。

「れっ、零次」
「……海里、ここまで来てくれて本当にありがとな」
「え?」
「じゃあな」
 零次は立ち上がると、海に向かって走った。
 俺は慌てて立ち上がって、零次の後を追い、海の中に入ろうとする零次の手を掴んだ。
「ふざけんな!! 何で人の自殺は止めたくせに、死のうとすんだよ!」
 俺は声が枯れる勢いで叫んだ。
「……だって父親に殺されて死ぬくらいなら自分で死んだ方がいいじゃん」
 零次が言ったのは、絶望していた俺が想っていたのと同じ言葉だった。
「それ言われたら確かに否定できねぇけどさ……俺は嫌だよ。お前が死んだら」
「はぁー、じゃあ一緒に逃げるか。海外でも。居場所バレそうになったら逃げるのをひたすら繰り返して、俺の父親から逃げまくるか」
 そういって、零次は演技にしか見えないような呑気な顔をして笑った。
「……でも、そんなことしたら」
「ああ。たぶんいつか見つかって、俺が親父に殺される」
 目じりを下げて、零次は悲しそうに顔を伏せる。
「そんなの嫌だよ。俺、零次とずっと一緒にいたいし」
「ああ、俺もずっと一緒にいたい。でも無理なんだよなぁ……」
 零次の涙が、また俺の包帯に落ちた。
「……零次、無理じゃないかも」
「は?」
「零次の父親を、児童虐待の容疑で逮捕すればいいんだよ」
 俺の提案に、零次は作り笑いをして首を振る。
「……無理だよ。俺が殺されそうになってる動画を撮んのは。父親は絶対部下を連れてくる。俺達が二人でいるのを見越してな。だから絶対無理だ」
「じゃあどうすんだよ! 父親に殺されるのを黙って受け入れんのかっ!?」
 零次の胸倉を掴んで、俺は叫んだ。
「……海里が自殺するのを許してくれないなら、そうするしかないかもな」

「ふざけんな! 人が死ぬのは散々止めたくせに、そんなこと言ってんじゃねぇよ!」
 
 そうするしかないなんて言わないで欲しかった。どうしようもない状況だからって何もかも諦めないで欲しかった。俺の人生をどうしようもない状況から必死で救ってくれたくせに、そんな風に言わないでほしかった。
 俺が生きたいと思ってるのを見破って自殺を止めてくれたのは零次なのに、零次自身は自殺にためらいがないのすごい嫌だと思った。
 さんざん考えて出した結論でも、それだけは嫌だと思った。

「……ごめんな、海里。でももうダメだ。ゲームオーバーだ。俺達は」
「は?なんでだよ」
「……お前が俺の場所を父親に教えたからだよ。せっかくハッキングされてるスマフォを壊してから海に行ったのに、お前が俺の居場所を父さんに教えちまった。……父さん、きっとお前を尾行してる。もうすぐ、ここに着くよ」
「なっ!?」
 思わず言葉を失う。
 俺は唇を噛んだ。

 ――何かないのか。俺ら二人とも助かる方法。

「海里、もういい。もう二人で生きようとしなくていい。全部俺の自業自得だから」
「嫌だ! 絶対嫌だ! お前がいない世界で生きるのなんて!」
 零次の胸倉をさらに強い力で握りしめて、俺は叫んだ。
「駄々っ子か」
 俺を馬鹿にするみたいに、零次は笑った。
「駄々もこねたくなるよ! だって俺、お前がいなかったら……死んで……っ」
 力が抜けて、零次の胸から手が滑り落ちる。
 零次は俺の頬に手をやって、涙を拭った。
 

「ごめんな、助けて」
「え……?」
 涙を拭いながら、俺は聞き返す。
「こんな酷い結末になるくらいだったら、出会わない方が良かったかもな俺達」
 俺は零次を砂浜に押し倒した。
「ふざけんな! そんなこと言うなよ!!」
 零次の胸を何度も何度も俺は叩いた。
 零次は笑って、俺の頭を撫でた。
「……ありがとな、そんな風に言ってくれて」
 その言葉は、俺がかつて零次に向けて言った言葉だった。
 思わず俺は言葉を失う。
 俺達は本当にここで終わりなのか?
 俺達が一緒に生きる方法は、本当に一つも残されていないのか?
 いや、違う。
 そんなことないハズだ。
 考えろ。――考えろ、二人で幸せをつかみ取る方法を。

 警察を呼んでも、零次の父親がそれより先に来たら意味ないよな。

 じゃあ誰かに助けを求めるのは? 
 母さんに電話をかけてもしょうがないよな。一体、誰にかければいいんだ?
 ――ダメだ。思いつかない。
 零次の父親から逃げる方法が、全く思いつかない。
 本当に方法は一つもないのか……?
 いや、ある。一つだけ。
「零次、服屋に行こう」
「え? ……まさか海里、変装でもする気か?」
「うん。女装して逃げる」
 俺がそう言うと、零次は鼻で笑った。
「ハッ、アホか。女装なんてしても顔でバレるに決まってるだろ」
「ああもう! うるさいな! やってみなきゃわかんないだろ! ……頼むから、少しは自分のために動いてくれよ!!」
 俺の言葉を聞いて、零次はほんの少しだけ目を大きく開けた。
「……俺、監禁をされる前に、お前に会いたかったよ。そうなってたら、自分のために動けたのかもしれないな」
 そういうと、零次は俺の肩をどんと押してから、立ち上がった。
「うわっ」
 咄嗟のことでまともに反応できなかった俺はバランスを崩して、砂浜にしりもちをついた。
 ――バシャンッ!
 俺が身体を起き上がらせた瞬間、零次が海に飛び込んだ。
「れっ、零次!!」
 俺は慌てて零次の後を追って、海に潜った。
 でも俺は怪我のせいでまともに泳ぐことも出来なくて、すぐに意識を失ってしまった。

 

「それじゃあ、成人を祝しまして、カンパーイ!」
 奈緒が笑って、美和のグラスに自分のグラスを近づける。
「かんぱーい」
 美和はそういって、奈緒のグラスに自分のグラスを近づけた。
 二人ともテンションが高すぎる。
「……」
 帰りたい。
 俺はテーブルを挟んで向かいにいる奈緒と美和を見ながら、そんなことを想った。
 

 一月八日、夜。

 成人式を終えた俺は、奈緒と美和と一緒に、居酒屋に飲みにきていた。
「海里君、ちゃんと食べてる? 細いんだからガツガツ食べなよ?」
 成人したくせにジンジャーエールを飲んでいる俺の顔を覗きこんで、奈緒は笑う。
 成人した奈緒は、相変わらず茶髪で身長が低くて、整った顔をしていた。
「……食べてるよ」
 俺は奈緒から目を逸らして、食事が取り分けられている自分の皿に目をやった。
 滑稽なくらい量が減っていない。
「嘘! ご飯全然減ってないじゃん! お酒も飲んでないし! 海里君、私が朝連絡しなかったら、今日来ない気だったでしょ! だから乗り気じゃないんじゃない?」
 手に持っているビールをごくっと飲み干して、不満げに奈緒は言う。
 見てて気持ちいいくらい飲みっぷりがいい。俺とは正反対だ。

「……そうだな」
 俺は奈緒の言葉に適当に返事をした。
 食欲どころか、俺には物欲も性欲もない。
 あるのはもの凄い喪失感だけだ。四年前からずっと。
 もう零次がいなくなってから、四年が過ぎてしまった。

「はぁー」
「あのさーテンションただ下がりするからため息つくのやめてくんない? まぁ海里はあいつがいないせいで、常時テンションが低いんだろうけど」
 奈緒の隣にいる美和が、呆れたようにいう。
 返す言葉も思いつかず、俺は机に顔を突っ伏した。
「美和、それ禁句。海里君、さらにテンション下がってるよ」
「ごめん。そんなに気を落とさないで、元気だしなさいよ。海里はよくやったじゃない」
「……そんなことない」
 だって俺は、零次を見つけられてないんだから。