「あ……えっと、志乃さん? よくいらっしゃいました。ちょっと失礼しますね。晋太郎の母、三津と申します」

現れたのは、新郎のお母さまだ。

「あ、えっと、こちらが晋太郎の祖母の阿恵で……」

「こんばんは」

白髪の上品そうなお祖母さまは、丁寧に頭を下げた。

「こちらが、父親の吉之輔です」

新郎一家が揃って、額を床にこすりつけるような礼をする。

慌てて私も額をつけた。

「あ、はい。これからよろしくお願いします」

義母となる人が、いそいそとにじり寄ってきた。

「ね、志乃さん。今日は朝から一日疲れたでしょ? 先にごちそうにしましょうよ。ね、せっかくなんですもの。お腹空いたでしょ? 先に食べちゃいましょ。ね!」

新郎の晋太郎さんは、まだ姿を見せない。

本来なら新郎の登場の後に、三三九度の盃と式三献と言われる夫婦だけの盃と膳が出されるはずだ。

親族との盃を交わすのは、その後なのに……。

「あの、晋太郎さんは……」

「さ、お食事を運んでちょうだい!」

お義母さまの指示で、豪華な膳が運ばれてくる。

それは空いたままの晋太郎さんの席にも置かれた。

今日の昼には婚礼の儀式のために、うちに来ていたのは間違いない。

その時に祝い酒を酌み交わしたのは互いの顔を知っている父と兄だけで、私は姿を見ていない。

生きて存在していることだけは、確かなはずだ。

「あの、晋太郎さ……」

「この鯛ね、とってもよいものが入ってきたのよ。縁起がいいわねぇ~。上物よ! 今日はとってもおめでたい日なんですもの、奮発しなくっちゃ。ねぇ、お父さん!」

そう言われた義父は、居心地の悪そうに焼いた鳥を箸にとると、何も言わず口に放り込んだ。

「さ、志乃さんも先にいただきなさい。まぁ~! なんて、おめでたい日ですこと!」

お義母さまは高らかに笑い、また私の盃に酒を注ぐ。

妙に芝居がかった賑やかな祝言の宴と、飲まされ続けるお酒のせいで、頭がふらふらとしてきた。

待って。なんか違うよね、コレ。

この婚礼の儀は、何かがおかしい。

絶対にもっと何か他の、もっと大切なことを考えなくちゃいけないのに、不安と緊張と酒のせいで、頭が上手く回らない。

私が嫁いで来たのは、本当にあの方のところなんだよね? 

ね? 間違ってないよね? 

気がつけばお義父さまやお義母さまの食事は、ほとんど食べ尽くされていた。

「あの、新郎の晋太郎さんは……」

「そうだ! 志乃さん、せっかくですもの、お色直しもやってしまいましょうよ。志乃さんの綺麗なお衣装、私も見たいわぁ~!」

お義母さまの突然の提案に、また目が回る。

酔いのせいだけなんかじゃない。

親族との盃は交わし終わった。

なんだかんだで、引き出物の贈りも終わっている。

この次はお婿さんが花嫁を連れて、先祖の位牌にお参りだ。

お色直しは、その後!

「ねぇ、お義母さん。お父さんもそう思うでしょ! ね、ほらほら、じゃあ先に、着替えてきちゃいましょうかねぇ!」

いつの間にか頼りになるはずの待上臈も、姿を消している。

義母に促され、立ち上がりたくもないのに立たざるを得ない状況だ。

すっかり酔いも回り、気分までおかしくなった足元がよろける。

このまま本当にあの人が来なかったら、どうしよう。

長い袖が引っかかり、祝いの膳がひっくり返った。

「あ、すみません……」

驚きと悲しみと、情けないのと恥ずかしいのと。

こんなのは祝言の宴なんかじゃない。

ましてや婚礼の儀式なんかじゃ絶対にない。

涙がにじむ。

これが酔うということなのかな。

もうダメ、泣きそう。

「あの、晋太郎さんは!」

バンッ! 

その瞬間、襖が開いた。

背の高いスッとした鼻筋の、その人が飛び込んでくる。

「晋太郎!」

「遅れました」

ズカズカと突き進み、並べた膳を蹴散らし、お義母さまの声を振り切って、その人は私の腕をつかんだ。

「来い!」

廊下へ出る。

引きずられるようにして、ずんずん突き進む。

掴まれた腕の痛みに、なぜかほっとした。

外は寒いはずなのに、酒のせいか体は熱い。

大きな月がぽっかりと浮かんでいる。