店の外に出て左右を見渡すと、車道に沿って伸びる石畳の先に、彼女の後姿を見つけた。
長い黒髪を振り乱しながら、一心不乱に走っている。
日はすでに没したようで、薄暗い街中には街灯の光がぽつぽつと灯り始めていた。
「待ってよ!」
必死に張り上げた僕の声は、車の音に掻き消されてしまう。
いくら叫んだところで、彼女の足が止まることはない。
僕は彼女の鞄を抱えたまま、遠くに見えるその背中を追って駆け出した。
大きな交差点に差し掛かると、彼女はそこに架かる歩道橋の階段を上った。
彼女との距離を徐々に縮めながら、僕も数秒遅れでそこを上る。
嫌な予感がした。
高い場所――それも真下ではたくさんの車が往来する交差点。
この場所から、もしも彼女が飛び降りでもすれば、助かる可能性はゼロに近い。
僕はさらにスピードを上げ、息を切らしながら二段飛ばしで階段を駆け上がった。
最上段に着き、そこから真っ直ぐに伸びる歩道橋の先を見る。
すると視界に飛び込んできたのは、手すりの縁に片足をかけ、今にも車道へ飛び込まんとしている彼女の姿だった。
「駄目だって!」
僕はすかさず駆け寄り、彼女の上半身を捕まえた。
しかし。
「離してください!」
彼女は泣きそうな声で叫び、イヤイヤと全身をばたつかせた。
「どうして私の邪魔ばかりするんですか。あなたには関係ないでしょう!」
「確かに、僕は赤の他人かもしれない。けれど……放っておけない」
「人助けのつもりですか!? 自殺なんて馬鹿げてるって……死んでも何にもならないって、そう言うんでしょう。みんなそう言うんです!」
「ああそうだよ。死ぬなんて馬鹿げてる」
「っ……!」
手すりから身を乗り出したまま、彼女は首だけをこちらに振り返らせた。
涙に濡れた美しい瞳が、僕の目を射抜く。
きっと、あらゆる感情が彼女の胸を締め付けていたのだろう。
けれどその感情を上手く言葉に出来ないのか、彼女は悔しそうに唇を噛んでいた。
そうして数秒の沈黙の後、彼女は斜めに視線を逸らして言った。
「……どうせっ……どうせあなたも、私を愚かだと思っているのでしょう。死んだ人間の後を追うなんて、意味のないことだって……!」
まるで自分自身を追い詰めているかのようだった。
その発言の内容を聞く限り、やはり彼女は死んだ父親の後を追おうとしているのだろう。
「正直、愚かだと思うよ」
僕は率直な感想を口にした。
「さっき君が言った通りだよ。死んだ人間の後を追うことに、意味なんてないと思う。でも……君の気持ちもわかるつもりだよ。僕も、同じだったから」
僕がそう言うと、彼女は不可解そうに眉を顰めて、ゆっくりとこちらに視線を戻した。
「僕だって、許されるなら母さんの後を追いたかった。母さんが死んだとき、最初は僕も自暴自棄になって、自分も死んでやろう、なんて思ってた。でも……できなかった。母さんの気持ちを考えると、そんなことは許されないんだって、思ったから」
「お母さんの……気持ち?」
彼女は掠れた声で言った。
少しだけ、こちらに興味を示したように見える。
今なら少しは話を聞いてもらえるかもしれない――そう思って、僕は続けた。
「僕の家は、母子家庭だった。父親は僕が赤ん坊の頃に蒸発して、それからずっと、母さんが女手一つで僕を育ててくれたんだ。家計はいつも苦しかったし、つらいことも色々あったと思うけれど……それでも母さんは、最後まで僕を大事にしてくれた。自分の身を削って、自分の時間を割いて、そのすべてを僕に捧げてくれたんだ。……だから、そんな風に育ててもらった僕がもしも自殺なんかしてしまったら、母さんはどう思うと思う? それまでの苦労が、すべて水の泡になってしまうんだよ。母さんの必死の思いが、すべて無駄になってしまうんだ。……そんなのは、僕自身が許せなかった」
「…………」
手すりに掴まったままの少女は、黙って僕の声を聞いている。
僕の言葉は、少しでも彼女の心に届いているのだろうか。
「君だってそうだろ。君がそれだけ父親のことを思うってことは、君の父親も、君のことをずっと大切にしてきたはずだ。その思いを、君は無駄にしてしまうのか?」
「……。……私は……」
そう、彼女が何かを言いかけたとき。
頑なに手すりから離れようとしなかった彼女の身体が、突如としてこちらに倒れかかってきた。
「! おわっ……!」
突然のことに、僕は対処しきれなかった。
そのまま後ろへ転がるようにして、僕たちは歩道橋の上に倒れ込んだ。
僕は仰向けで大の字になり、その上に彼女の華奢な身体が覆い被さる。
薄手のカーディガン越しに、やわらかな肉の感触と、確かな体温とが伝わってきた。
まだ、生きている。
「……どうして」
彼女は上半身だけを浮かせると、至近距離から僕を見下ろした。
「どうして、今の今になって……そんなことを言うんですか」
消え入りそうな声で、彼女は言った。
その麗しい瞳からはぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちていた。
時折、僕の頬にもその滴が落ちてくる。
そんな目の前の光景に、僕は半ば以上に心を奪われていた。
こんなに近くで女の子の涙を見たのは初めてだった。
そして、こんな状況下で不謹慎かもしれないけれど……美しい、と思わざるを得なかった。
死の淵に立って涙を零す一人の少女が、こんなにも美しいとは思わなかった。
しかしここまで盛大に泣かれてしまうと、次第に罪悪感のようなものが湧き上がってくる。
そして、不安に思う。
やはり僕は、彼女の心を傷つけてしまったのだろうか、と。
「えっ、ちょっと何あれ。何してんの?」
そこへ、複数の戸惑うような声が届いた。
声のした方を見ると、ちょうど階段を上ってきたらしい若い女子グループが、こちらを警戒するように眺めていた。
やめよう、戻ろう――と、女子グループは慌てて階段を下り始める。
どうやら変な誤解をされたらしい。
夕闇の中、歩道橋の上で、若い男女が身体を重ねている――なんて。
情事の最中だと思われたかもしれない。
僕に覆いかぶさっていた彼女は、どこか気まずそうにふいと視線を斜めに逸らした。
さすがに恥ずかしかったのだろうか。
「……すみません。もう、行きます」
彼女はそう言うと、ゆっくりと僕の身体から離れていった。
「どこ行くの?」
「家ですよ。……帰るんです」
本当だろうか。
今の今まで自殺を図ろうとしていた女の子が、このまま無事に家までたどり着けるだろうか。
「本当に?」
僕はその場に立ち上がって、その真意を確かめるように聞いた。
「本当です」
そう言って、彼女はこちらに背を向けた。
その全身を見る限り、確かに今、死相は消えている。
よろよろと歩き出した彼女の身体は、ちょっと足元が覚束ない様子ではあるものの、五体満足で、どこにも怪我をする予定はないように見える。
けれど油断はできない。
彼女の自殺は口先だけのものではない。
電車の駅でも、校舎の屋上でも、彼女は僕の目には死体として映っていた。
それはつまり、彼女には本当に死ぬ気があったということだ。
死んでやる、死んでやる、と言っていつまでも死なないような、口先だけの人間とはわけが違う。
「本当に、大丈夫?」
しつこいと承知で、僕はもう一度聞いた。
「何度聞けば気が済むんですか」
案の定、彼女は不機嫌な様子でこちらを振り返った。
「だって嘘っぽいから」
「じゃあ、どうすれば信じてくれるんですか?」
意見を求められて、僕は悩んだ。
一体どうすればいいのだろう。
いくら口では大丈夫だと言われても、やはり不安は残ってしまう。
このまま僕が目を離せば、彼女は一人でひっそりと死んでしまうような気がする。
「……明日」
「え?」
「明日また、ここで会えないかな?」
苦し紛れに思いついたことを、僕は口にした。
「明日、ここでまた会おうよ。もしも君がここに来てくれるのなら、僕は、君がまだ生きているということを確認できるから」
「……本気ですか?」
正気ですか、の間違いだったかもしれない。
「もし、私が来なかったらどうするんですか?」
彼女は不可解そうに僕を見る。
「君が来るまで、ここでずっと待ってる。だから君がもし来てくれなかったら、僕はそのままここで凍死するか、餓死するかもしれない」
そんな僕の発言に、彼女は今度こそ呆れたように溜息を吐いた。
「一体何を言っているんですか? 私が来なかったら、あなたは死ぬんですか? 赤の他人であるあなたが、見ず知らずの私のために?」
「もう他人じゃない。少なくとも僕はそう思ってる」
「な……」
「僕の命は、君に預ける。僕の心臓を、君にあげるから」
そんな突拍子もない僕の発言に、彼女は戸惑いの色を隠せないようだった。
きっと、僕に対して色々な警戒をしているのだろう。
一体どうすれば、僕はもっと彼女の心に近づけるのだろう? ――そんな考えを巡らせたとき、はた、と大事なことを忘れていたことに気づいた。
「そういえば、まだ名前を言っていなかったね。……僕は、#守部__もりべ__##結人__ゆうと__#」
僕が唐突に自己紹介をすると、不意を突かれたらしい彼女はきょとん、として、何度か目を瞬いていた。
さすがに急すぎたかもしれない。
けれど、ここで話を終わりにするわけにはいかない。
そのまま黙り込んでしまった彼女に、
「君は?」
と、僕は催促する。
なんて強引なやり方だろう。
我ながら呆れてしまう。
けれど、もともとコミュニケーション能力の低い僕には、正しい友達の作り方なんてわからない。
だから、駄目で元々。
ごり押しでやり通すしか道はない。
僕は彼女と関わってしまった。
だから、もう引き返すことはできないのだ。
「……#橘__たちばな__##逢生__あい__#、です」
と、彼女は意外にも素直に名前を教えてくれた。
「橘さん、か」
ちょっとした達成感を味わいつつ、僕は呟くように言った。
「別に、呼び捨てでいいですよ。あなたの方が年上っぽいですし」
「そう? じゃあお言葉に甘えて、逢生」
「……なんで下の名前なんですか」
そう言った彼女の声色は、心なしか、小さく笑いを含んでいるようにも聞こえた。
そうして約束を交わした僕らは、二人並んでバス停の方へと向かった。
家まで送ろうかと聞くと、あっさり拒否された。
まあ、これは仕方がない。
少し心配ではあるけれど、見送りは乗り場までにする。
「それじゃあ、また明日」
「…………」
彼女は返事こそしなかったものの、こくん、と小さく頷いてくれた。
明日また、彼女と会える。
そんな予感が僕にはあった。
〇
彼女を見送った後、僕はすぐさま近くのトイレへと急いだ。
実はもう我慢の限界だったのだ。
十一月を目前に控えた夜の街。
冷え切った風は僕の全身を刺すように撫でる。
だから当然、トイレも近くなる。
なんだか一仕事を終えたような気になりながら、僕はトイレの入口を潜り、さらに水道の前を通り過ぎしようとした。
そのときだった。
「――……」
悪寒のようなものが、走った。
(何だ?)
何かが、視えた。
視界の端に、それは映り込んでいた。
「…………」
赤い、何かが視える。
僕は一度立ち止まって、ゆっくりと水道の方へと視線を向けた。
水道のすぐ上には、大きな鏡が取り付けられている。
そして、その中央。
「あ……」
鏡には、僕の顔が映っていた。
「なんで……?」
そこに映っていたのは、確かに僕の顔だった。
けれど、今現在のものではない。
そこにあったのは、血まみれになった僕の顔。
頭から血を流し、顔全体にもひどい擦過傷を作っている。
およそ七日以内に実現することになる、未来の姿――まぎれもない僕の屍が、そこに映っていた。