あの歩道橋で、逢生ちゃんと再会した後。
どうやら僕は高熱を出して倒れてしまったらしい。
それから病院に運ばれて、こうして昼過ぎまで眠っていたという。
そうして意識が戻ってからは、あっけらかんとしたものだった。
特に問題がなければ帰宅してもいいということで、僕はそのまま退院することになった。
〇
帰りは僕のことが心配だからと、逢生ちゃんが家まで送ると言い出した。
さすがに年下の女の子に家まで送ってもらうなんて、一人の男として頼めるはずはない。
だから最初は断ろうかとも思った。
けれど同時に、少しでも彼女と長く一緒にいたい――という気持ちもあった。
もちろん、下心なんかじゃない。
ただ、彼女のことが心配だった。
僕が目を離した隙に、自殺をしてしまうかもしれない彼女。
その心の奥底には、父親関連の問題が渦を巻いている。
「ねえ、逢生ちゃん。僕らの親のことなんだけど……僕も、一さんから聞いたよ」
あまり口にしたくはない話題だったけれど、いつまでも話さないわけにもいかない。
バス停でバスを待つ間、僕はそれとなく話を始めた。
「驚いたよ。まさか逢生ちゃんのお父さんが、僕の……」
そこで僕は一度、言葉に詰まった。
実の父親、なんていう言い方はしたくなかった。
血の繋がりなんて、僕にとっては今さらどうでもいいことだったけれど。
それでも逢生ちゃんにとってはどれほど重要なことなのかはわからない。
安易に口にして、不快な思いをさせたくはなかった。
「結人さん」
と、今度は逢生ちゃんが口を開く。
「私ね……。私の本当のお父さんは、誰だかわからないそうなんです。母は高校生のときに、夜道で襲われて……、そのときに身ごもったのが私なんだそうです。それで、当時学校で母の担任をしていたのが、あなたのお父さんでした」
そんな身の上話を、彼女は始めた。
おそらくは誰にも知られたくないであろう事実を。
僕は驚きつつも、決して彼女の声を聞き漏らさないよう耳を澄ませた。
「あなたのお父さんは、とても優しい人でした。外ではあまり人と接しない性格でしたけれど、身近な人のためには何だってするような人でした。だから、きっと……私の母のことも放っておけなかったんだと思います。そして、私のことも……」
そこまで言うと、彼女はこちらに身体を向け、ぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい」
そう唐突に謝られて、僕は首を傾げた。
「どうして逢生ちゃんが謝るの?」
「あなたのお父さんは、私のために橘家に来たんです。母が死んで、私が一人になってしまったから……」
その辺りのことは、僕は母から詳しく聞かされていない。
父は僕が幼い頃にどこかへ行ってしまった、と、それだけだった。
だから僕は自分の父親に対してそれほど深く考えたことはなかったし、特別な執着もなかった。
けれど今になって思えば、ほんの少しだけ父のことを理解できる。
僕と同じように、人の屍が視えていたという父。
おそらくは僕と同じような悩みを抱えていただろう彼は、きっと僕と似通ったところがあったと思う。
人に対する接し方や、考え方も。
だから僕は、そんな父に思いを重ねながら。
目の前で必死に頭を下げている逢生ちゃんの、震える手のひらをそっと握って、言った。
「逢生ちゃんが謝ることじゃないよ」
僕が言うと、彼女は弱々しく顔を上げた。
再び露わになったその顔は、今にも泣きそうになっていた。
「僕の父さんは、自分がそうしたかったから、この道を選んだんだと思う。……それに」
上手くできるかわからなかったけれど、僕は精一杯の笑みを浮かべて言った。
「もしも僕が父さんの立場だったら、きっと同じことをしていたと思うんだ」
「え……?」
「僕、こんな性格で、人と接するのは苦手だけどさ。それでも、教師になりたいんだ。教師になって、それで……大切な生徒の役に立ちたいって思ってる」
恥ずかしい告白だった。
試験に落ちた身でありながら、何を戯言を言っているのかと笑われるかもしれない。
けれど、どんなに恥ずかしい内容であっても、僕にとってはこれが本音だった。
「僕、今まで色んな人に嫌われて、避けられて……母さん以外の人間のことはずっと好きになれなかった。だから、自分からもできるだけ他人との接触は避けてきたんだ。でも本当は……誰かを好きになって、大切にしたいと思っていたんだ。母さんが僕にしてくれたように、自分の身を削ってでも守りたい存在が欲しかった。だから……もしも教師になることができたら、自分が担当する生徒たちだけは命を懸けてでも守りたいと思ってた」
逢生ちゃんは戸惑うような表情をしながらも、黙って僕の声を聞いてくれている。
そんな彼女の手をきゅっと強く握って、僕は自分の思いを何とか言葉にする。
「きっと、父さんもそうだったんだと思うよ。君のお母さんのことも、君のことも、父さんにとって大切な存在だったんだよ。だから……どうか謝らないでほしい。自分を責めないでほしい。僕に対して、罪悪感のようなものを抱かないでほしい。これは僕からのお願いだよ」
この思いが彼女に届くかどうかはわからない。
僕は、人に思いを伝えるのが苦手だから。
「でも……。でもね、結人さん」
それまで黙っていた逢生ちゃんは僕の話しを一通り聞いた後、申し訳なさそうに眉根を寄せて、わずかに視線を落として言った。
「父は今年の夏、交通事故で亡くなったんです。人の死相が視えると言っていた父が、ですよ。自分の死因だって予測できていたはずです。死を回避しようと思えばできたはずです。なのに、父はそうしなかった。……それってやっぱり、自殺なんじゃないですか? あなたのお母さんが今年の夏に亡くなったから、その後を追って」
「!」
それは、僕も少しだけ引っかかっていたことだった。
父と母の死期は、あまりにも近かった。
「本当は、あなたたちの元へ帰りたかったんじゃないですか?」
恐る恐る、という風に、上目遣いにこちらを見上げる彼女。
その瞳には不安や怖れの色が滲んでいる。
「……違う。違うよ、きっと」
僕は自信のない声で答える。
もっと、張りのある声が出せれば良いのに。
「でも結人さん。もし父が自殺だったとしたら、私……父の気持ちが少しわかるんです。私も、父の後を追おうとしていましたから」
不穏なことを、彼女は平然と言ってのける。
死んだ人間の後を追って自殺すること。
それは、僕が初めて彼女に会ったときの、彼女の心の状態だった。
まさか、今もまたその状態に戻っているというのか――そんな不安が胸を過ったとき、一瞬だけ、視界がぐにゃりと歪んだように見えた。
鈍い頭痛がして、眩暈がきたようだった。
「結人さん?」
少しだけよろめいた僕の様子に、逢生ちゃんは再び顔を上げた。
そのとき、僕は気がついた。
彼女のはっとするような白い顔の、頬の部分に一つだけ、小さな傷が付いている。
見覚えがあった。
これは確か、二人で港の方へ向かった日。
観覧車での騒ぎの中で付いてしまった傷だ。
あの日から、すでに一週間近くが経っている。
こんなにも小さな傷が、一週間も残っているものだろうか?
「逢生ちゃん、その傷」
「え、傷……?」
僕から手を離し、彼女は不思議そうに自分の顔をさすった。
「どこですか?」
さすがにここまで小さな傷だと、自分でも気づいていないのかもしれない。
けれど、気づかない理由は他にも考えられる。
(まさか……)
嫌な予感がした。
これが、普通の傷であればいいのだけれど。
いや、『今現在そこに存在している傷』であればいいのだけれど。
「逢生ちゃん。まさか、まだ……自殺なんて考えてないよね?」
「え?」
僕が尋ねると、彼女は驚いたように目を丸くする。
「だめだよ。死んじゃだめだ。自殺したって何の意味もないんだから!」
僕は必死で訴える。
彼女の頬にある傷。
それはもしかすると、一週間前から僕だけに視えていた、彼女の死顔なのかもしれない――そんな不安があった。
「ゆ、結人さん? どうしたんですか。なんだか変ですよ」
焦る僕を前に、彼女は動揺しているようだった。
まさか図星なのか?
彼女はまた自殺を考えているというのだろうか。
不安ばかりが僕の胸を支配する中、バスは時間通りにやってきた。
逢生ちゃんは僕の方を心配そうに見ながら、バスに乗り込む。
僕もその後に続いて、入口の段差を上った。
背後ですぐに扉が閉まる。
そうして車内の真ん中に立ち、辺りを見回して、それから僕は愕然とした。
車内には死体しかなかった。
いや、正確には『これから死ぬ予定の人間』しかいなかった。
右を見ても左を見ても、老若男女すべてが血にまみれている。
椅子に座っている親子連れも、手すりに掴まって立っている学生も、みんなどこかしらに怪我をしていて、中には骨が飛び出ている者もいる。
「結人さん? 座らないんですか?」
逢生ちゃんが言った。
彼女は最後尾の席が空いていると言って僕を誘導する。
しかし僕はそれどころではなかった。
このままこのバスに乗っていれば、僕らは死ぬ。
このバスは、これからすぐにでも事故に遭うはずだ。
「逢生ちゃん、だめだよ。降りよう。今すぐ」
「え? 何を言ってるんですか、結人さん。……まさか」
僕の体質を理解している逢生ちゃんは、すぐに察しがついたらしい。
緊張した面持ちで僕の顔色を窺っている。
「そのまさかだよ。事故るんだよ、このバス。早く降りなきゃ」
「で、でも」
戸惑う逢生ちゃんに背を向けて、僕は運転席の方へと走った。
「運転手さん、停まって。停めてください!」
「わっ、なんだ!?」
僕が声を掛けると、運転手の男性はいきなりのことに驚いた様子だった。
「停まってください。お願いですから!」
僕が掴みかかると、バスは激しく横揺れした。
どうやらハンドルを取られたらしい。
蛇行運転を始めた車内では、人々のどよめきと短い悲鳴が上がる。
「おい、やめろ。危ないから!」
運転手が怒鳴る。
僕は停まってほしい一心だった。
自分はどうなっても構わない。
バスを停めて、逢生ちゃんの無事を確保することさえできればそれでよかった。
けれどバスは停まらない。
そのうち対向車線にはみ出して、前方からは大型トラックが迫ってくる。
このままではぶつかってしまう。
「結人さん、落ち着いて!」
逢生ちゃんの声が聞こえた。
瞬間。
彼女の渾身の力で、僕の身体は後方へと引っ張られた。
運転手は僕の腕から解放されると、ギリギリのところでハンドルを左へ切り、トラックとの正面衝突を免れた。
激しい揺れと遠心力によって、僕と逢生ちゃんの身体は通路の上に放り出された。
座席に頭をぶつけ、二人そろってその場に転がる。
痛む頭を押さえながら、僕はゆっくりと顔を上げ、改めて車内を見渡した。
そうして、再び愕然とした。
騒然とする車内には、今は誰一人として屍となる者はいなかった。
すべての人間が、生きた姿を保っている。
通路に尻餅をついている学生も、母親にしがみついている幼い子どもも、みんな健康的な姿で、不信感を露わにした目を僕に向けている。
そんな冷たい視線を一身に受けて初めて、僕は我に返った。
あのまま僕が運転手の邪魔をし続けていたら、このバスは明らかに事故に遭っていた。
僕のせいで。
今ここにいるすべての人が、怪我をするか、死んでいたかもしれない。
「このガキ……!」
怒りに震えるその声に気づいて、僕は後ろを振り返った。
すると振り向きざまに、襟首を乱暴に掴まれて、そのまま上へと持ち上げられた。
「なんてことしやがる。もう少しで大事故になるところだったんだぞ!」
そこに見えた顔は運転手のものだった。
僕は何とも答えられずに、ただされるがままになっていた。
全身に力が入らない。
何も考えられない。
頭が回らない。
そしてそれ以上に、自分自身に絶望していた。
目の前の運転手は、僕の顔面を目掛けて拳を振り上げる。
「やめてください!」
そのとき、またしても逢生ちゃんの悲痛な声が届いた。
「すみません。ごめんなさい。すぐに降りますから……!」
そう言って、彼女は僕の身体を運転手から無理やり引きはがす。
「さっさと行け!」
運転手は良心的にも、出口の扉を開けてくれた。
その慈悲に甘えて、僕らは外へ向かう。
その際、段差で#躓__つまず__#いた僕の身体に引っ張られて、逢生ちゃんもまたバランスを崩し、僕らは文字通りバスの外へ転がり出た。
アスファルトの上で重なるようにして倒れた僕らの背後で、バスは扉を閉め、すぐに走り去った。
「……大丈夫ですか、結人さん?」
上半身を浮かせながら、逢生ちゃんはやわらかな声で聞いた。
僕は何も答えられなかった。
大の字で仰向けになったまま、遠い秋の空を見つめる。
皮肉なほど透き通った青い空。
雲はほとんどない。
その中を、一羽のカラスが優雅に横切っていく。
ただ一言、阿呆とでも僕を罵ってくれれば、少しは僕も納得できたかもしれないのに。
「……ごめん。逢生ちゃん」
言いながら、視界が揺れるのがわかった。
自分のことが情けなくて、恥ずかしくて、涙が出そうだった。
「僕、もう少しで君を殺すところだった」
声が震える。
こんなはずじゃなかったのに。
「ごめん。本当にごめん。こんなつもりじゃなかったんだ。僕はただ、君を死なせたくなくて……」
僕はただ、逢生ちゃんを守りたかった。
彼女がどうにか生きてくれるようにと、それだけを願っていたはずだった。
なのに実際はどうだ。
僕はこの手で、彼女を殺してしまうところだった。
「結人さんはきっと……心配性なんでしょうね。お父さんと一緒です」
そう言って、彼女は笑った。
そうして路上に放り出されたままの僕の冷たい手を、きゅっと握る。
「大丈夫ですよ。私は死んだりしませんから」
そんな彼女の言葉を、僕はきっと信じていない。
どれだけ信じようとしても、心の奥底には不安が潜んでいる。
だからこそ僕は誰も信じられずに、こんな風に暴走してしまったのだ。
こんな僕が彼女を信じるためには、一体何が必要なのだろう。
僕はどうすればいいのだろう。
彼女のことを、僕はどうしたいと思っているのだろう?
僕のことが心配だからと、逢生ちゃんはもう少しだけ一緒にいてくれることになった。
年下の女の子から心配されるなんて、一人の男として本当に情けない。
もともとは僕が彼女を守るつもりで関わりを持ったはずなのに、いつのまにこうなってしまったのだろう。
「ねえ、結人さん。もう一度港の方まで行ってみませんか?」
隣を歩く彼女はそんな提案をして、ぱっちりとした瞳でこちらの顔を覗き込む。
「港?」
僕はあまり乗り気ではなかった。
あの場所には、あまり良い思い出がない。
「大丈夫ですよ。もう観覧車には乗りませんから」
そう先回りして、彼女は苦笑した。
そして、
「私のことも、心配しなくて大丈夫ですよ。もう、自殺したりなんかしませんから」
僕の一番恐れていることを、彼女は否定する。
「本当に?」
どこにも保障なんてない。
人の命は、失われてしまったらそれで終わりだ。
決して取り戻すことはできない。
「本当に、本当ですよ。……どうすれば信じてもらえますか?」
このやり取りも二回目だ。
一回目は先週のこと。
彼女が初めて自殺を否定したときのことだった。
あのとき、僕は彼女の言葉が信じられなかった。
そして今回も。
僕はあの日から何も変わらず、ずっと彼女の心を疑い続けている。
「……逢生ちゃんはさ、お父さんの気持ちがわかるって言ったよね。死んだ人間の、後を追う人の気持ちが」
先ほど逢生ちゃんの言っていたことを、僕は口にした。
「それはやっぱり、逢生ちゃんもまだ自殺を考えているってことじゃないの? 自分も死んで、お父さんのところへ行こうとしているんじゃないの?」
「違いますよ」
少し強めの口調で、彼女は否定した。
「確かに私は……先週までの私は、父に執着していました。きっと私は、自分の手の届かないものをこの手で掴みたかったんだと思います。父が生きていた頃から、私も何となくわかっていたんです。父の心はもっと遠いところにある。私の手の届かないところにあるって。だから……父が死んでから、私も手を伸ばそうとしたんです。遠くへ行ってしまった父の手を、私も掴みたかった。でも――」
そこで一度切ると、彼女は長い黒髪を揺らして、涙を浮かべた瞳で、僕の方を見上げた。
「でも、あのとき……駅のホームで線路に飛び込もうとしていた私の手を、あなたは掴んでくれたでしょう?」
言われて、僕は思い出す。
彼女と初めて会った日。
明らかに死ぬ気でいた彼女を、僕は引き留めた。
「最初は驚きました。どうして見ず知らずの私の手を掴んでくれたんだろうって。でも、どうせ正義感とか使命感とか、その場の成り行きとかで掴んだんだろうなって思いました。結人さん自身も、キーホルダーがどうとか……曖昧なことを言っていましたし」
その点については僕も弁解しようがない。
事実、キーホルダーがなければ僕は彼女を見殺しにしていたかもしれないから。
「でも、ね」
彼女はそう言って、ほんの少しだけ足を速めたかと思うと、今度は僕の前へ先回りして、そこで立ち止まった。
彼女のぱっちりとした瞳が、僕を正面からまっすぐに射貫く。
「あなたに何度も引き留められるうちに、私の心境も変わっていったんです。この人は私のことを見てくれている。守ってくれようとしている。そう思ったから、私……あなたのことをもっと知りたいって思ったんです」
僕は足を止めて、同じようにまっすぐ彼女を見つめていた。
「あなたのことが気になるから、私は……あなたのそばにいたいと思ったんです。だからもう、自殺なんてしません。……信じてもらえませんか?」
そんな彼女の思いに、僕は水を浴びせられたような感じがした。
胸の内でずっともやもやとしていたもの。
なぜ彼女を引き留めたのだろう。
なぜ彼女のことが気になるのだろう。
なぜ彼女に生きていてほしいのだろう。
もともと人付き合いが苦手で、『普通』の接し方を知らない僕にはわからなかったけれど。
今、やっとわかった気がする。
「……僕も、一緒にいたい」
なんてことはない、人間らしい感情だったのだ。
「僕は、ずっと君と一緒にいたい。君のことが、好きだから」
好きだからこそ一緒にいたい。
大切だから。
守りたいから。
そんな僕の強い思いは、彼女には重荷かもしれないけれど。
けれどいつか、もしも彼女が僕と同じように、強い思いを抱いてくれるのなら。
彼女はずっと、僕のそばで生きていてくれるのかもしれない――と、初めてそんな風に思った。
今から四か月前。
母の葬儀が終わって、数日が経った頃。
僕は死のうと思っていた。
どうせなら派手な死に方が良いと思った。
真っ赤な血を散らせて、第一発見者にトラウマを植え付けるくらいの。
駅前の店で丁度いいナイフを見つけたので、それを買った。
家にある包丁は錆びてしまっているから。
一息で死ぬためには、できるだけ切れ味の良いものを使いたい。
◯
夜になって、帰りの電車に揺られながら窓の外を見つめていると、ふと自分の死顔がそこに映っているのに気がついた。
あまりはっきりとは映っていないのでわかりにくいけれど、そこに視える僕の顔には、べっとりと大量の血が付着していた。
頸動脈を切ると、勢いよく血が噴き出すと聞いている。
やはり派手に死ぬのならこれくらいでないといけない。
そんなことを考えていると、どこからか、誰かのすすり泣く声が届いた。
見ると、近くの椅子に座っていた大学生くらいの女の子が、スマホを片手に泣いている。
髪の長い子だった。
誰かと話しているらしい。
途切れ途切れに紡がれる女の子の言葉を聞いていると、どうやら父親の訃報があったようだ。
きっと良い父親だったのだろう。
女の子はひっきりなしに嗚咽を漏らしている。
こんな風に泣いてくれる人がいるなんて、その父親は幸せ者だな――と、少しだけ羨ましくなってしまう。
僕にはこんな風に泣いてくれる人なんていない。
友達もいないし、親戚とも疎遠になっているから。
もしも母が生きていたなら、母だけはきっと泣いてくれたのだろうけれど。
――結人が先生になったところ、見てみたかったなあ。
不意に、母の言葉が思い出された。
病床で呟くように言っていた。
そんな母の願いは、結局叶わなかった。
母はもう逝ってしまったし、それに、僕はもう試験なんて諦めている。
たとえ教師になったところで、その結果を見せたかった相手はもういない。
だから試験勉強なんてとっくの昔に放棄していた。
もう、いつ死んだっていい。
死ぬつもりでいた。
準備も万端だった。
なのに、どうして。
どうして今になって、こんなにも母の顔が思い出されるのだろう。
近くの椅子で泣いている女の子の声が、まるで母の泣き声のように聞こえてしまう。
◯
僕は堪らなくなって、次の駅で降りた。
自宅の最寄り駅はまだ先だったけれど、耐えられなかった。
目頭が熱い。
こんな場所で、一人で泣きそうになっている。
頭の片隅で母が言っている。
――応援しているからね、結人。
僕が教師になって、立派に生きていけるようにと、母が言っている。
せっかく死ぬ覚悟を決めていたのに。
これで終わらせられると思っていたのに。
でも。
母が応援しているから、僕はまだ死ねない。
少なくとも、自殺だけはだめだ。
母が、ここまで僕を育ててくれたのだから。
それに、どうせいつかは死ぬのだから。
「......わかったよ、母さん」
母がそう願うのなら、抗えない運命の日がやってくるまで。
「もう少しだけ、がんばってみるよ」
僕が本当の屍になる、その日まで。
弱々しく呟いた僕の声は、走り去る電車の轟音に掻き消された。
(終)