今日もまた、嫌なモノが視える。
駅のホームから見下ろすと、線路上には肉片が散らばっていた。
ピンク色の、やけに艶々とした美しい肉だった。
若い女性のものだろうか。
バラバラになった全身のうち、かろうじて原型を留めて転がっている右腕は白く、余計な脂肪の付いていない、肌理細やかで瑞々しいものだった。
この人間の死体が視えるようになってから、今日でちょうど一週間となる。
おそらく、視えているのは僕だけなのだろうけれど。
「二番線に、普通電車が参ります」
聞き慣れたアナウンスが流れ、線路の先からは電車がやってきた。
金属同士が擦れ合う轟音とともに、車両はホームへと入ってくる。
散らばった肉片には目もくれず、その上を何食わぬ顔で走行し、やがて停まる。
扉が開き、乗客が出入りを終えると、まるで何事もなかったかのようにまた出発する。
再び露わになった線路上には、先ほどと同じピンク色の肉片が散らばっていた。
電車が過ぎ去っても、何一つとして変わらない。
細い右腕だけが相変わらず美しく、原型を留めている。
死体は何も動かず、僕以外の人間からは認知もされず、異臭を放つこともない――ということは、今ここに広がっている景色はやはり、僕の目だけに視えている幻なのだ。
だから、まだ死んでいない――と僕は確信した。
この美しい肉片は、今はまだ、ここに存在していない。
僕の目に映るこの惨状は、これからここで起こるはずの、近い未来の事故の景色なのだ。
おそらくは今日、ここで一人の女性が電車に撥ねられて、こんな風にバラバラになって死んでしまう。
事故か、自殺か、他殺か、原因はわからない。
けれど、その女性がここで死ぬことだけは確定している。
そう僕の第六感が告げている。
僕の目には、その人の屍が視える。
「…………」
ちらりと頭上の時計を確認すると、目的の快速電車が到着するまで、あと五分ほど時間があった。
吹きさらしのホームでじっと待っているのも寒いので、この隙にトイレを済ませておくことにする。
昼間とはいえ、十月も終盤になってくると外はそこそこ冷える。
特に、ちょうど衣替えをするこの時期はどうしても体温調節が難しい。
とはいえ、わざわざ階段を下りてまでトイレに行くのは、寒いからという理由だけではない。
この場所を、一刻も早く離れたかったのだ。
なにせホームから見える線路の上には、ぐちゃぐちゃになった女性の轢死体がある。
正確にはまだ『予定』でしかないのだけれど、それでも僕の目には映ってしまう。
これから起こるであろう事故の現場が、僕の目には視えてしまうのだ。
何が悲しくて、そんなグロい光景をじっと五分間も見つめていなければならないのだろう。
こうして適当な理由をつけてでも、その場を離れたくなるのが自然な流れだと思う。
線路上の屍に背を向けて、僕は階段の方を見た。
すると、ちょうど下から階段を上ってきた人の姿があった。
薄手のカーディガンが視界の端に入り、女の子かな、と改めてその人物を注視する。
そこで僕は、ハッと息を呑んだ。
若い女性のファッションに身を包んだその人物には、首がなかった。
首から上が、何もない。
それどころか手も足も、肌が見えるはずの部分には何もない。
服だけが、歩いている。
まるで透明人間が服を着て歩いているかのような状態だった。
それで、ああこの人だ――と直感した。
線路の上に散らばった轢死体。
あれは多分、この人のものだろう。
おそらくこれから彼女は線路に飛び込んで、僕が乗るはずだった快速電車に撥ねられて、あの惨状を創り出す。
バラバラになった身体は線路上にあるから、こちらは透明人間のように見えてしまうのだ。
やはり、僕の目に狂いはなかった。
僕は一週間も前から、この人の屍が視えていたのだ。
「まもなく、二番線を列車が通過いたします」
と、いきなりアナウンスが流れた。
「へっ?」
不意打ちをくらい、僕は思わず間抜けな声を漏らした。
快速電車が来るまでは、まだ五分ほど残っていたはずだ。
慌てて電光掲示板を見ると、『列車が通過します』の文字が点滅している。
そういえば。
この時間になると、いつも特急列車が通過する。
それを忘れていた。
ということは、今から死んでしまう予定のこの女性は、僕の乗る快速電車ではなく、その前に通過する特急列車に撥ねられるのだ。
そのことに気付いたとき、僕は改めて、やはり急いでここを離れなければと思った。
いくら死体を見慣れているとはいえ、実際に人が死ぬところを見るのはやっぱり嫌だ。
それに何より、関わりたくないのだ。
これから死ぬことが決まっている人間に対して、僕にできることは何もない。
だから不用意に近づかない方がいい。
可哀想だとか、何か自分にできることはないかとか考えたことも過去にはあったけれど、そうやって変に関わろうとしたところでいつもロクな目には遭わなかった。
だから、誰かと関わりを持とうとするのには、それなりの覚悟がいる。
関わりを持つのなら最後まで。
それができないのなら、最初から関わるべきじゃない、と思う。
何の責任も取れないくせに、中途半端に関わって、それで相手を助けた気になっているのはただのエゴだと思う。
今の僕には、赤の他人を助ける覚悟なんてない。
だから僕は視線をわずかに下げ、透明に見えるその女性の脇をそそくさと通り抜けようとした。
そのときだった。
女性の肩から提げられていた鞄に、キーホルダーが一つ付けられているのに気がついた。
何気なく目に入ったそれは、ひどく見覚えのある物だった。
メダルのような、薄く丸い形をしたそれ。
表面にはオーストラリアの観光名所であるシドニーのオペラハウスが描かれている。
かなり年季の入ったそれは所々の色が剥げてしまっている。
これと同じ物を、かつて母が持っていた。
母が大事にしていた物だから、僕の記憶にも鮮明に残っていた。
「……それ」
思わず、声を掛けそうになってしまった。
反射的に、口を噤む。
関わってはいけない。
この女性は、今から死んでしまう人なのだから。
そう必死で自分に言い聞かせる僕の前で、女性はゆっくりとした足取りでホームの端を目指す。
このまま止まらないつもりだろうか。
だとすると、彼女は自殺志願者なのかもしれない。
自ら線路に飛び込んで、自殺を図ろうとしているのかもしれない。
なぜ、そんなことをするのだろう?
自然と、疑問が浮かんだ。
まだ若そうなのに――といっても、僕もまだ大学生だけれど――まだまだ人生これからだろうに、なぜ、未来ある命を自ら絶とうとしてしまうのだろう。
一体、何が彼女をそうさせているのだろう?
そんなことをぼんやりと考えているうちに、線路の先からは特急列車が近づいてくる。
ブレーキをかける気配は微塵もない。
通過する予定だから当たり前なのだけれど。
女性はやはり足を止めない。
ゆっくりとした足取りで、しかし迷うことなく、まっすぐ進んでいく。
そんな彼女の様子に、僕以外の人間は誰一人として気づいていない。
ここで僕が止めなければ、彼女は確実に死ぬ。
「……待って」
気付けば、僕は口を動かしていた。
絞り出された声はあまりにも小さくて、列車の音に掻き消されてしまう。
「待って」
今度は、力強く。
普段はあまり出さない声を、必死で張り上げる。
彼女は振り返らない。
代わりに、周りにいた人々が僕の異様さに気づいてこちらへ視線を向ける。
すると彼らも、この緊急事態にやっと意識が向いたようだった。
あと一歩で、彼女は線路に落ちてしまう。
僕は咄嗟に手を伸ばし、彼女の手を掴んだ。
間一髪。
こちらの力に引っ張られて、女性はがくんっ、と前のめりになって止まった。
その一瞬の後。
ものの一秒もしない内に、やってきた特急列車は彼女の鼻先数センチの所を通過した。
轟音がホームを駆け抜け、過ぎ去ると、すぐにまた元の静かな状態に戻る。
けれど、再び露わになった線路上には、あの美しい肉片はもうどこにも見当たらなかった。
きれいさっぱり、死体は消えている。
ということは、これで彼女の運命は変わったのだ。
僕が彼女を引き留めたことで、彼女の死は回避された――それはつまり、僕の勝手な行動が、彼女の人生に影響を与えてしまったということだ。
「……どうして」
蚊の鳴くような小さな声で、彼女は言った。
「どうして止めたんですか」
声につられて、僕は改めて彼女を見下ろした。
それまで透明人間にしか見えなかった彼女の後姿は、いつのまにか、首と手足とが正常な位置に戻っていた。
先ほどまで線路上に転がっていたあの美しい右腕は、今は僕の手が掴んでいる。
小柄な彼女の頭は僕の胸の高さにあって、長い黒髪を持っていた。
「どうして……!」
責め立てるような声を上げながら、彼女は勢いよくこちらを振り返った。
その顔は、僕が思っていたよりも少しだけ幼かった。
大学生か、高校生か。
どちらとも取れるその顔は、大人びた子どものような、子どもっぽい大人のような、年齢不詳の雰囲気を醸し出していた。
平日のこの時間に私服でいるところを見ると、やはり大学生なのかもしれない。
白く美しい肌に、黒目がちでぱっちりとした瞳。
通った鼻筋に、控えめな口元。
長い黒髪は自然なストレートで、風が吹く度にさらりと音もなく揺れる。
思わず、可愛い、と口にしてしまいそうな麗しい容姿だった。
「どうして止めたんですかって、聞いているんです!」
再び彼女が声を上げたところで、僕はやっと我に返った。
「いや、その」
なぜ止めたのか、と聞かれて、僕は首を傾げた。
なぜ、止めたのだろう。
自分のことなのに、その答えがわからない。
「えっと……そのキーホルダー」
咄嗟に口にしたのは、例のキーホルダーだった。
「……これ、ですか?」
彼女は鞄にぶら下げていたキーホルダーを手に取った。
メダルのような、薄く丸い形をしたそれ。
表面にはオペラハウスの絵が描かれており、所々が剥げかかっている。
「それ、僕の母親も持ってたんだ。まったく同じものを」
そんな僕の返答を聞いて、彼女はきょとん、と目を丸くした。
「……そんな理由で、私を止めたんですか?」
たぶん、びっくりしているのだろう。
正直、僕自身も驚いている。
まさかこの局面で、こんな珍回答をすることになるなんて。
「うん、まあ」
続けられる言葉はそれくらいしかなかった。
コミュニケーション能力の低さは前々から自覚していたものの、よもやここまでとは。
「…………」
彼女――僕よりいくらか年下に見えるその少女は、暫く何かを考えてから、キッとこちらを睨んだかと思うと、次の瞬間には僕の腕を強めに振りほどいた。
そうして不機嫌そうに顔を背けてどこかへ立ち去ろうとする。
「怒ったの?」
火に油を注ぐ、とはこのことか。
デリカシーの欠片もない僕の言葉は、彼女の機嫌をさらに損ねたらしい。
「……わ、私っ!」
彼女は一度足を止めると、こちらを振り返らず、妙に引き攣った声で言った。
「私っ……これでも、覚悟を決めてきたんです。勇気を振り絞って、心を決めて……これでやっと終わらせられると思ったのに……。なのに、どうして、どうして……っ!」
切羽詰まったような、必死の叫びだった。
けれど、どこか言葉足らずな印象があった。
言いたいことはたくさんあるのに、的確な言葉が見つからなくて、感情だけが先走っているような。
「勇気って……。自殺するのに勇気が必要なの? それって、本当は死にたくないってことじゃない?」
僕はただ率直な意見を言ったつもりだったけれど、言ってしまってから、また後悔した。
まるで揚げ足取りのような僕の言葉に、彼女は今度こそこちらを振り返って僕を睨んだ。
やはり怒っているのだろう。
目尻にはほんのりと涙が滲んでいるが、その口元は悔しげにキュッと引き結ばれ、怒りの感情を露わにしている。
その仕草が妙に幼くて、僕は不覚にも可愛いと思ってしまった。
「し、失礼します!」
言い返す言葉が見つからなかったのか、彼女はそれだけ言って再び背を向けた。
そうして階段を降りていく彼女の背中を見送りながら、僕は胸の内で呟く。
きっと、彼女も僕と同じくらい口下手なんだろうな――と。
〇
どうして手を出してしまったのだろう――。
大学の正門へと続く道を歩きながら、僕はぼんやりと先ほどのことを思い出していた。
あのとき、自殺を図ろうとしていた女の子。
彼女は今日のために心の準備をして、やっとの思いで実行に移したのだ。
それを僕は妨害してしまった。
何の関係もない僕が。
彼女の事情も知らずに。
普段の僕なら、決してあんなことはしなかった。
もうじき死ぬことが確定している人間――特に自殺志願者は、僕のような第三者がいきなり介入してきたところでそう簡単に意思や行動を変えたりはしない。
おそらくはあの女の子も、これからまた別の場所、あるいは別の方法で自殺を図ろうとするだろう。
だから、僕が何をしようとしたところで結局は意味がないのだ。
むしろ彼女にとっては、僕のような存在は邪魔でしかない。
せっかく覚悟を決めていたのに、今回のように妨害されては、また改めて出直さなければならなくなる。
それがわかっているから、普段の僕なら決して関わろうとはしなかったのに。
「ちょっと、危ないでしょ!」
そこへ後方から、何か争っているような声が届いた。
振り返って見ると、僕と同じように道を歩いていた数人の女子グループが、横を通り過ぎたバイクに向かって文句を言っているのが目に入った。
バイクは明らかに一人乗り用のものだったが、乗っているのは二人組の若い男だった。
狭い道をジグザグに走行し、歩行者のすれすれの所を猛スピードで通過する。
危険運転、ここに極まれりだ。
この調子だと、近いうちにでも事故を起こすんだろうな――なんて考えていると、それを肯定するかのように、僕の目には彼らの未来が映った。
ヘルメットを被っていない彼らの頭は、大部分が損傷して血まみれになっている。
たぶん、致命傷だろう。
(ご愁傷様)
僕は胸の内で黙祷を捧げた。
今は楽しそうに笑っている彼らも、七日以内にはこの世を去ることになる。
僕の目には、七日以内に死ぬ人間の、死んだときの姿が視えるから。
「おい、そこ邪魔だぞ!」
バイクの男たちはそう言って、今度は僕の方へと接近してくる。
どけ、という意味だろう。
彼らはスピードを緩めず、明らかに僕の方へと車体を寄せてくる。
しかし僕がいくら避けようとしたところで、きっと彼らは僕の身体のすれすれの所を通過するのだろう。
だから、僕はあえて動かなかった。
「! おいっ……!?」
僕が微動だにしないことに気づいて、運転手の男は慌ててハンドルを切った。
結果、彼らは急カーブをしながら僕の目の前を通り過ぎた。
去り際に、何か物言いたげにこちらを振り返っていたけれど、結局はそのまま走り去っていった。
あの様子だと、相当焦ったのだろう。
人を轢く度胸もないくせに、よくもあんな無茶な遊びができるものだ。
これで警鐘は鳴らした。
これに懲りて運転の仕方を改めるのなら、彼らも未来の事故死を免れるかもしれない。
けれど、もしもこのまま同じ行動を繰り返すつもりなら、そのときはきっと、彼らの人生は終わる。
「……ご愁傷様」
たぶん、彼らの運命は変わらないだろう。
小さくなるバイクの後ろ姿を見送って、僕は再び歩き出す。
これ以上僕に出来ることは何もない。
だから、関わらない。
今までもずっと続けてきたことだ。
相手が死ぬとわかっていても、何の責任も持てない僕は、中途半端に手を出すべきではない。
わかっていたはずだ。
なのに、どうして。
どうして、あの子のときは――。
その日のすべての受講を終え、帰路に就く。
今日はバイトもないし、せっかくだからカフェにでも寄っていこう――なんて考えながらふと視線を上げると、見覚えのある人物の姿が目に入った。
「……あ」
校舎の屋上に、一人の少女が立っている。
長い黒髪に、薄手のカーディガン。
顔はよく見えないけれど、たぶん、間違いない。
「また、あの子か」
思わず呟いていた。
昼間の、駅で会ったあの女の子だった。
まさか同じ大学に通っていたとは――じゃなくて。
あの自殺志願者があんな場所に立っているということは、つまり、これから飛び降り自殺でもするつもりなのだろう。
さすがに、自分の通っている大学で自殺があったとなると体裁が悪い。
特に、僕のような就職活動真っ只中の学生にとっては尚更。
「ちょっと、待って」
およそ聞こえるはずのない弱々しい声を発しながら、気がつけば僕はまた、彼女の方へと駆け寄っていた。
といっても、さすがに今から屋上へ向かっても間に合わない。
僕は、彼女が飛び降りようとしている先――ちょうど彼女の落下地点となるべき場所へと走った。
すると彼女も僕のことに気づいたのか、どこか一点だけを見つめていた彼女の顔が、ふっとこちらに向けられた。
遠くてよく見えないけれど、その小さな頭からは赤い血が噴き出ているように見える。
これもおそらくは未来の姿――屍の様子なのだろうけれど。
「また、あなたですか」
咎めるような声が、上から降ってきた。
「どいてください。危ないですよ」
「危ないことをしようとしてるのは君の方だろ」
僕の声が聞こえたかどうかはわからない。
彼女はしばらく何かを考えるように固まっていたけれど、やがてハッとしたように周囲を見渡した。
つられて僕も辺りを見回す。
すると、僕らの周りにはいつのまにか人が集まっていた。
軽く十人はいるだろうか。
遠巻きに、警戒するようにこちらの様子を窺っている。
そこで僕はちょっと緊張した。
人に注目されるのはあまり得意じゃない。
無言のまま、それらの視線を受け止める。
そんな微妙な空気が数秒流れた後。
飛び降り自殺を図ろうとしていた女の子は、ゆっくりとその場から後退したかと思うと、次の瞬間にはこちらに背を向けて走り出していた。
まるで追手から逃げるような挙動だった。
人が多くなってきたせいだろうか。
とりあえず、出直すことにしたのだろう。
そんな彼女を眺め終えてから、僕はまたしても胸の内で呟く。
もしかすると彼女も、僕と同じくらい人が苦手なのかもしれない――と。
〇
また、邪魔をしてしまった。
バスの車窓から見える街の夕景を眺めながら、後悔の念と罪悪感とに苛まれる。
これだけ彼女の自殺を妨害しておきながら、このまま何事もなかったかのように僕は普段の生活に戻る――そう考えると、一体僕は何だったのだろう、という気分になる。
何の意味もなく、ただ彼女の邪魔をした。
それは、僕が最も忌み嫌っていたはずの行動だ。
誰かと関わりを持つのなら最後まで。
それができないのなら、最初から関わるべきじゃない――と、そう思っていたのに。
けれど、このまま終わりだという予感は、なかった。
上手く言えないけれど、第六感のようなものだった。
僕は昔から、なんとなくだけれど、予感めいたものを感じ取ることがある。
人の死を予見できることに通ずるものがあるのかもしれない。
僕はまた、あの女の子と出会う――そんな予感があった。
果たして、その予感は的中した。
帰りに寄ったカフェの、窓際の席。
無機質な壁と向かい合うようにして、あの女の子が座っていた。
(まさか、本当にいるとはね……)
まあ、二度あることは三度あるっていうし。
それに同じ大学に通っている者同士、寄り道する場所は限られているから、こうやってばったり会うのもそう珍しいことではないのかもしれない。
彼女は一人でテーブルに着き、熱心にスマホを弄っていた。
僕は後ろからそっと近づき、彼女の綺麗な黒髪越しに見えるスマホの画面を覗く。
案の定というべきか。
画面にはネットの検索サイトが表示されており、検索窓には『自殺 方法 種類』と、見るからに自殺志願者らしいワードが並んでいた。
画面に新たな自殺方法が表示される度に、僕の視界では彼女の身体の様子が変わっていく。
血まみれになったり、青白くなったり、黒くなったり、透明人間になったり。
それはつまり、彼女がまだ自殺方法に迷っているということだ。
「自殺の方法って、そんな簡単に決めていいものなの?」
僕が声を掛けると、彼女は小動物のようにびくん! と身体を跳ねさせて、素早い動きでこちらを振り返った。
「あっ……あなた」
よほど驚いたのか、彼女は小さな口元をパクパクとさせていた。
まだ自殺方法は決めかねているらしく、今は五体満足で健康的な身体が僕の目に映っている。
「今日はよく会うね」
「あ、あなた……どうしてここにいるんですか。まさか私を尾行して……?」
「ううん。たまたまここに入ったら、君を見かけたから」
「ほ、本当ですか?」
彼女は疑わしげな目を向けてくる。
無理もない。
もしも僕が逆の立場なら、きっと同じような顔をしていたと思う。
「これが欲しいんですか?」
彼女は警戒心を剥き出しにしたまま、例のキーホルダーを手に取った。
シドニーのオペラハウスが描かれた、いかにも土産物っぽいキーホルダーだ。
「これが欲しいのなら、あげます。私にはもう必要ありませんから」
「いらないよ」
「え?」
僕が拒否すると、彼女は面食らったような顔をした。
「僕はいらない。これを大事にしていたのは、僕の母さんなんだ。母さんは、もういなくなったから。今年の夏に、病気で」
「あ……」
彼女は一瞬だけ真顔になったかと思うと、
「……すみません」
と、小さな声で言った。
「どうして謝るの?」
「だって、失礼なことを聞いてしまったから……」
「僕が勝手に言ったのに?」
「それは……」
僕はただ思ったことを口にしただけだったけれど、彼女はどんどん居心地が悪そうに肩を竦ませていった。
たぶん、僕の発言が悪いのだろう――それはわかっているのだけれど、どこがどう悪いのか、具体的には把握していない。
これだから僕は友達ができないのだと思う。
「……私も、父親を亡くしたんです。今年の夏に」
やがて、俯きがちだった彼女は絞り出すようにして、そんなことを言った。
「君も?」
妙な偶然に、僕はある種の興味を持った。
もしかすると、こうして似たような境遇にあったから、僕の『予感』は働いたのかもしれない。
類は友を呼ぶ――とは少し違うかもしれないけれど。
「お父さんのこと、好きだったの?」
「え? ええ、はい」
その返答で、僕はまた新たな予感を察知した。
「まさか、それで自殺しようと思った、なんて言わないよね?」
そう聞いた瞬間、彼女のぱっちりとした美しい瞳は、何か強い衝撃を受けたように硬直した。
そうしてみるみるうちに歪な形を作り、黒目がちな表面は涙の膜に覆われていく。
「もしかして、図星?」
僕はさらに追い打ちをかける。
すると、
「あっ……あなたには関係ないでしょう!」
突然声を張り上げて、彼女は立ち上がった。
たぶん、彼女の中で触れられてほしくないモノに、僕は触れてしまったのだろう。
彼女はキーホルダーの付いた鞄をその場に放置したまま、いきなり駆け出したかと思うと、その足で店を出ていった。
しん、と水を打ったように店内は静寂に包まれる。
辺りを見渡さなくても、周囲の視線が僕に集まっていることは明白だった。
さすがにこの状況でこれ以上店に留まることはできない。
早くこの場を去ろう、と一歩踏み出したとき、その場に放置されたままの彼女の鞄のことが気にかかった。
(鞄……どうしよう)
今からでも、彼女を追いかけることはできる。
これを持って、彼女に会いに行くことが。
(でも……)
会いに行ったところで、一体僕に何が出来るというのだろう。
また、今みたいに彼女を傷つけてしまうかもしれない。
何の意味もなく、ただ邪魔をしてしまうだけかもしれない。
――関わりを持つのなら、最後まで。
脳裏で、生前の母の言葉が蘇った。
――それが出来ないのなら、最初から関わるべきじゃないわ。
わかってるよ。
中途半端に、関わってはいけない。
僕は、彼女にとっては何の意味もない存在なのかもしれない。
だから、最初から関わるべきではなかった。
でも。
こうして一度関わりを持ってしまった以上、最後まで責任を持つべきだ。
(……行こう!)
僕は彼女の鞄を手に取り、駆け出した。
店の外に出て左右を見渡すと、車道に沿って伸びる石畳の先に、彼女の後姿を見つけた。
長い黒髪を振り乱しながら、一心不乱に走っている。
日はすでに没したようで、薄暗い街中には街灯の光がぽつぽつと灯り始めていた。
「待ってよ!」
必死に張り上げた僕の声は、車の音に掻き消されてしまう。
いくら叫んだところで、彼女の足が止まることはない。
僕は彼女の鞄を抱えたまま、遠くに見えるその背中を追って駆け出した。
大きな交差点に差し掛かると、彼女はそこに架かる歩道橋の階段を上った。
彼女との距離を徐々に縮めながら、僕も数秒遅れでそこを上る。
嫌な予感がした。
高い場所――それも真下ではたくさんの車が往来する交差点。
この場所から、もしも彼女が飛び降りでもすれば、助かる可能性はゼロに近い。
僕はさらにスピードを上げ、息を切らしながら二段飛ばしで階段を駆け上がった。
最上段に着き、そこから真っ直ぐに伸びる歩道橋の先を見る。
すると視界に飛び込んできたのは、手すりの縁に片足をかけ、今にも車道へ飛び込まんとしている彼女の姿だった。
「駄目だって!」
僕はすかさず駆け寄り、彼女の上半身を捕まえた。
しかし。
「離してください!」
彼女は泣きそうな声で叫び、イヤイヤと全身をばたつかせた。
「どうして私の邪魔ばかりするんですか。あなたには関係ないでしょう!」
「確かに、僕は赤の他人かもしれない。けれど……放っておけない」
「人助けのつもりですか!? 自殺なんて馬鹿げてるって……死んでも何にもならないって、そう言うんでしょう。みんなそう言うんです!」
「ああそうだよ。死ぬなんて馬鹿げてる」
「っ……!」
手すりから身を乗り出したまま、彼女は首だけをこちらに振り返らせた。
涙に濡れた美しい瞳が、僕の目を射抜く。
きっと、あらゆる感情が彼女の胸を締め付けていたのだろう。
けれどその感情を上手く言葉に出来ないのか、彼女は悔しそうに唇を噛んでいた。
そうして数秒の沈黙の後、彼女は斜めに視線を逸らして言った。
「……どうせっ……どうせあなたも、私を愚かだと思っているのでしょう。死んだ人間の後を追うなんて、意味のないことだって……!」
まるで自分自身を追い詰めているかのようだった。
その発言の内容を聞く限り、やはり彼女は死んだ父親の後を追おうとしているのだろう。
「正直、愚かだと思うよ」
僕は率直な感想を口にした。
「さっき君が言った通りだよ。死んだ人間の後を追うことに、意味なんてないと思う。でも……君の気持ちもわかるつもりだよ。僕も、同じだったから」
僕がそう言うと、彼女は不可解そうに眉を顰めて、ゆっくりとこちらに視線を戻した。
「僕だって、許されるなら母さんの後を追いたかった。母さんが死んだとき、最初は僕も自暴自棄になって、自分も死んでやろう、なんて思ってた。でも……できなかった。母さんの気持ちを考えると、そんなことは許されないんだって、思ったから」
「お母さんの……気持ち?」
彼女は掠れた声で言った。
少しだけ、こちらに興味を示したように見える。
今なら少しは話を聞いてもらえるかもしれない――そう思って、僕は続けた。
「僕の家は、母子家庭だった。父親は僕が赤ん坊の頃に蒸発して、それからずっと、母さんが女手一つで僕を育ててくれたんだ。家計はいつも苦しかったし、つらいことも色々あったと思うけれど……それでも母さんは、最後まで僕を大事にしてくれた。自分の身を削って、自分の時間を割いて、そのすべてを僕に捧げてくれたんだ。……だから、そんな風に育ててもらった僕がもしも自殺なんかしてしまったら、母さんはどう思うと思う? それまでの苦労が、すべて水の泡になってしまうんだよ。母さんの必死の思いが、すべて無駄になってしまうんだ。……そんなのは、僕自身が許せなかった」
「…………」
手すりに掴まったままの少女は、黙って僕の声を聞いている。
僕の言葉は、少しでも彼女の心に届いているのだろうか。
「君だってそうだろ。君がそれだけ父親のことを思うってことは、君の父親も、君のことをずっと大切にしてきたはずだ。その思いを、君は無駄にしてしまうのか?」
「……。……私は……」
そう、彼女が何かを言いかけたとき。
頑なに手すりから離れようとしなかった彼女の身体が、突如としてこちらに倒れかかってきた。
「! おわっ……!」
突然のことに、僕は対処しきれなかった。
そのまま後ろへ転がるようにして、僕たちは歩道橋の上に倒れ込んだ。
僕は仰向けで大の字になり、その上に彼女の華奢な身体が覆い被さる。
薄手のカーディガン越しに、やわらかな肉の感触と、確かな体温とが伝わってきた。
まだ、生きている。
「……どうして」
彼女は上半身だけを浮かせると、至近距離から僕を見下ろした。
「どうして、今の今になって……そんなことを言うんですか」
消え入りそうな声で、彼女は言った。
その麗しい瞳からはぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちていた。
時折、僕の頬にもその滴が落ちてくる。
そんな目の前の光景に、僕は半ば以上に心を奪われていた。
こんなに近くで女の子の涙を見たのは初めてだった。
そして、こんな状況下で不謹慎かもしれないけれど……美しい、と思わざるを得なかった。
死の淵に立って涙を零す一人の少女が、こんなにも美しいとは思わなかった。
しかしここまで盛大に泣かれてしまうと、次第に罪悪感のようなものが湧き上がってくる。
そして、不安に思う。
やはり僕は、彼女の心を傷つけてしまったのだろうか、と。
「えっ、ちょっと何あれ。何してんの?」
そこへ、複数の戸惑うような声が届いた。
声のした方を見ると、ちょうど階段を上ってきたらしい若い女子グループが、こちらを警戒するように眺めていた。
やめよう、戻ろう――と、女子グループは慌てて階段を下り始める。
どうやら変な誤解をされたらしい。
夕闇の中、歩道橋の上で、若い男女が身体を重ねている――なんて。
情事の最中だと思われたかもしれない。
僕に覆いかぶさっていた彼女は、どこか気まずそうにふいと視線を斜めに逸らした。
さすがに恥ずかしかったのだろうか。
「……すみません。もう、行きます」
彼女はそう言うと、ゆっくりと僕の身体から離れていった。
「どこ行くの?」
「家ですよ。……帰るんです」
本当だろうか。
今の今まで自殺を図ろうとしていた女の子が、このまま無事に家までたどり着けるだろうか。
「本当に?」
僕はその場に立ち上がって、その真意を確かめるように聞いた。
「本当です」
そう言って、彼女はこちらに背を向けた。
その全身を見る限り、確かに今、死相は消えている。
よろよろと歩き出した彼女の身体は、ちょっと足元が覚束ない様子ではあるものの、五体満足で、どこにも怪我をする予定はないように見える。
けれど油断はできない。
彼女の自殺は口先だけのものではない。
電車の駅でも、校舎の屋上でも、彼女は僕の目には死体として映っていた。
それはつまり、彼女には本当に死ぬ気があったということだ。
死んでやる、死んでやる、と言っていつまでも死なないような、口先だけの人間とはわけが違う。
「本当に、大丈夫?」
しつこいと承知で、僕はもう一度聞いた。
「何度聞けば気が済むんですか」
案の定、彼女は不機嫌な様子でこちらを振り返った。
「だって嘘っぽいから」
「じゃあ、どうすれば信じてくれるんですか?」
意見を求められて、僕は悩んだ。
一体どうすればいいのだろう。
いくら口では大丈夫だと言われても、やはり不安は残ってしまう。
このまま僕が目を離せば、彼女は一人でひっそりと死んでしまうような気がする。
「……明日」
「え?」
「明日また、ここで会えないかな?」
苦し紛れに思いついたことを、僕は口にした。
「明日、ここでまた会おうよ。もしも君がここに来てくれるのなら、僕は、君がまだ生きているということを確認できるから」
「……本気ですか?」
正気ですか、の間違いだったかもしれない。
「もし、私が来なかったらどうするんですか?」
彼女は不可解そうに僕を見る。
「君が来るまで、ここでずっと待ってる。だから君がもし来てくれなかったら、僕はそのままここで凍死するか、餓死するかもしれない」
そんな僕の発言に、彼女は今度こそ呆れたように溜息を吐いた。
「一体何を言っているんですか? 私が来なかったら、あなたは死ぬんですか? 赤の他人であるあなたが、見ず知らずの私のために?」
「もう他人じゃない。少なくとも僕はそう思ってる」
「な……」
「僕の命は、君に預ける。僕の心臓を、君にあげるから」
そんな突拍子もない僕の発言に、彼女は戸惑いの色を隠せないようだった。
きっと、僕に対して色々な警戒をしているのだろう。
一体どうすれば、僕はもっと彼女の心に近づけるのだろう? ――そんな考えを巡らせたとき、はた、と大事なことを忘れていたことに気づいた。
「そういえば、まだ名前を言っていなかったね。……僕は、#守部__もりべ__##結人__ゆうと__#」
僕が唐突に自己紹介をすると、不意を突かれたらしい彼女はきょとん、として、何度か目を瞬いていた。
さすがに急すぎたかもしれない。
けれど、ここで話を終わりにするわけにはいかない。
そのまま黙り込んでしまった彼女に、
「君は?」
と、僕は催促する。
なんて強引なやり方だろう。
我ながら呆れてしまう。
けれど、もともとコミュニケーション能力の低い僕には、正しい友達の作り方なんてわからない。
だから、駄目で元々。
ごり押しでやり通すしか道はない。
僕は彼女と関わってしまった。
だから、もう引き返すことはできないのだ。
「……#橘__たちばな__##逢生__あい__#、です」
と、彼女は意外にも素直に名前を教えてくれた。
「橘さん、か」
ちょっとした達成感を味わいつつ、僕は呟くように言った。
「別に、呼び捨てでいいですよ。あなたの方が年上っぽいですし」
「そう? じゃあお言葉に甘えて、逢生」
「……なんで下の名前なんですか」
そう言った彼女の声色は、心なしか、小さく笑いを含んでいるようにも聞こえた。
そうして約束を交わした僕らは、二人並んでバス停の方へと向かった。
家まで送ろうかと聞くと、あっさり拒否された。
まあ、これは仕方がない。
少し心配ではあるけれど、見送りは乗り場までにする。
「それじゃあ、また明日」
「…………」
彼女は返事こそしなかったものの、こくん、と小さく頷いてくれた。
明日また、彼女と会える。
そんな予感が僕にはあった。
〇
彼女を見送った後、僕はすぐさま近くのトイレへと急いだ。
実はもう我慢の限界だったのだ。
十一月を目前に控えた夜の街。
冷え切った風は僕の全身を刺すように撫でる。
だから当然、トイレも近くなる。
なんだか一仕事を終えたような気になりながら、僕はトイレの入口を潜り、さらに水道の前を通り過ぎしようとした。
そのときだった。
「――……」
悪寒のようなものが、走った。
(何だ?)
何かが、視えた。
視界の端に、それは映り込んでいた。
「…………」
赤い、何かが視える。
僕は一度立ち止まって、ゆっくりと水道の方へと視線を向けた。
水道のすぐ上には、大きな鏡が取り付けられている。
そして、その中央。
「あ……」
鏡には、僕の顔が映っていた。
「なんで……?」
そこに映っていたのは、確かに僕の顔だった。
けれど、今現在のものではない。
そこにあったのは、血まみれになった僕の顔。
頭から血を流し、顔全体にもひどい擦過傷を作っている。
およそ七日以内に実現することになる、未来の姿――まぎれもない僕の屍が、そこに映っていた。
人の死体を初めて視たのは、僕がまだ小学校に上がってすぐのことだった。
週末の連休を利用して、祖父母の家に泊まりがけで遊びに行ったときのこと。
土曜日――つまり一日目、初めに祖父母と顔を合わせたときは、何の違和感もなかった。
いつも通り、祖父母は僕と母を笑顔で迎えてくれた。
一緒にご飯を食べ、お風呂に入り、和室に四つの布団を敷いて、皆で川の字になって眠った。
そこまでは良かった。
けれど、翌朝。
四人のうちで一番遅くに目を覚ました僕は、寝惚け眼を擦りながら、皆の待つリビングへと向かった。
そうして部屋の入口の扉を開けると、
――おはよう、結人。
三人はほぼ同時に、僕の方へと笑いかけた――はずだった。
けれど、その中に一人だけ、あきらかに他の人間とは異なる姿をした人物が交じっていた。
だから、その人物の表情だけは、僕には見えなかった。
幼心にもその異様さに気づいていた僕は、扉の前に突っ立ったまま、黙って視線だけをそちらに向けていた。
――どうかしたのかい。
その声を聞いて初めて、僕はその異様な姿をした人物が、自分のよく知る祖父であることに気がついた。
――おじいちゃん、あのね……。
僕はそこで一度切ると、それから先をどう言って良いものかわからずに閉口した。
――言ってごらんなさい。
優しい声で、祖父は促した。
僕は迷った末、おずおずと口を開いた。
――……あのね。おじいちゃん、どうして今日は『頭』がないの?
そんな僕の発言を合図に、それまで和やかだった場の空気はぴんと張り詰めた感じがした。
――……どういう意味だい?
短い沈黙を破ったのは祖父だった。
それまで穏やかだった祖父の声色は、どこか重苦しいものとなっていた。
――首から上がなくなってるよ。どこかに落としたの? 血も出てるし……痛くないの?
正確には顎から上がなくなっていたのだけれど、そのときの僕は上手く表現できなかった。
それから、さらに長い沈黙が訪れた。
誰一人として口を開こうとはしなかった。
後に母から聞いた話では、当時の祖父は顔面を真っ青にさせていたらしい。
それからちょうど一週間後、祖父は死んだ。
車での事故だった。
高速道路を走行中にトラックと衝突し、頭が潰れてしまったという。
その話を母から詳しく聞いたのは、それから何年も経ってからのことだった。
祖父の葬式に、僕は呼ばれなかった。
親戚と疎遠になったのは、そのことがあってからだった。
〇
「……はあ」
昔のことを思い返していると、つい溜息を吐いてしまう。
七日以内に死ぬ人間の、死んだときの姿が視える――こんな体質を持って生まれたおかげで、今までロクなことはなかった。
目に視えたままのことを口にすると、大抵の人は僕のことを気味悪がった。
そして僕が口にしたままのことが現実になると、周囲は僕を怖れるようになる。
だから、今まであからさまなイジメに遭うようなことはなかったものの、常に避けられているという感覚はあった。
身体の成長とともにその自覚は強くなり、体質のことは隠すようになったけれど、時すでに遅し。
常に友達のいなかった僕は、他人との正しい付き合い方を学ぶことができなかった。
結果、こうして一人の女の子と会うためだけに、歩道橋の上で何時間も寒さに耐えている。
女の子を待たせてはいけない、と思ったのだが、さすがに来るのが早すぎたかもしれない。
ポケットからスマホを取り出して時刻を確認すると、午後一時二〇分だった。
約束の時間は、二時だ。
「…………」
スマホを見たついでに、カメラアプリを起動した。
そうして内側のレンズを使って、自分の顔を映してみる。
すると画面上に現れたのは、血まみれになった僕の顔――七日以内に現実のものとなる、僕の死顔だった。
(僕……死ぬのか)
どこか他人事のように、そんなことを思った。
あまり実感がない。
しかしこうして自分の死顔を視るのは、僕の人生においてこれが二度目だった。
前に視たのは、母が死んだとき。
この世でたった一人の味方を亡くした当時の僕は、自暴自棄になって、勢いのまま自身の喉元にナイフを突き立てて死ぬつもりだった。
けれど、結局は思い留まった。
そして、今回。
頭から大量の血を流して死ぬ運命にある僕は、これから一体どんな経緯を辿ることになるのだろう?
自殺するつもりはない。
ということは、これから何らかの事故に巻き込まれるのか。
あるいは誰かに殺されるのか? ――なんてことを考えていると、すぐそばで、誰かが立ち止まったのに気がついた。
もしやと思って、僕は顔を上げた。
そこに立っていたのは、一人の女の子だった。
白い肌に、長い黒髪。
歳は十代の後半くらいで、ぱっちりとした目が可愛らしい。
昨日のあの子――橘逢生が、僕の前に立っていた。
「……いつから待ってたんですか?」
わずかに声を震わせながら、彼女は言った。
「待ち合わせは二時って言ってましたよね。一体いつから待ってたんですか? 風邪ひきますよ!?」
咎めるような口調で、彼女は言った。
眉尻を上げ、怒ったような顔をしているけれど、しかし言っている内容は僕への労りの言葉だった。
根は優しい子なのかもしれない。
「そう言う君だって早いじゃないか」
負けじと僕も返す。
約束の時間までは、まだ三十分以上ある。
もしもまだ僕が来ていなかったら、彼女はこの寒空の下でじっと僕を待っているつもりだったのだろうか。
そう考えると、なんだか気の毒になってくる。
僕が強引に取り付けた約束のせいで、彼女がつらい思いをしていたかもしれない、だなんて。
しかしそれよりも僕が気になったのは、彼女の、その姿だった。
彼女の白い顔には、べっとりと赤い血が付着していた。
おそらくは次の自殺方法を考えついたのだろう。
その姿は今現在のものではなく、今から七日以内に実現することになる未来の姿だ。
やはりまだ死ぬつもりでいるらしい。
それも残念ではあったのだけれど、その他にも一つ、僕は気になることがあった。
彼女の死因となる傷は、僕のそれとよく似ていた。
頭から血を流し、さらに顔にも数か所、擦過傷がある。
一体、どうやって死ぬというのだろう?
同じような死に方をするということは、まさか二人で心中でもするのだろうか。
あるいはもっと別の要因で死ぬのだろうか。
たとえば空からいきなり何かが降ってきて、僕たちの頭をかち割ってしまうとか。
そんなことを考えたとき、僕は反射的に頭上を仰いだ。
街の上空に広がる空には雲一つなく、秋らしい透き通った色がどこまでも続いていた。
「どうかしましたか?」
僕の行動を不思議に思ったのか、彼女が聞いた。
「いや、別に」
僕はそう短く言って視線を下ろす。
すると再び目が合った彼女は、眉を顰めて訝しげに僕を見つめた。
「本当に、何もないんですか? 今のあなたの動き、なんて言うか、その……ええと」
「不審者っぽい?」
「そ、そう! 不審者です! 挙動不審!」
彼女はそう勢いで言ってしまったらしく、言い終えてから、ハッと我に返るような顔をした。
「あっ。す、すみません! そういう意味で言うつもりじゃなかったんです。その、ちょうどいい言葉が見つからなくて……っ」
そう弁解するように言って、慌てて頭を振る。
やはり彼女も僕と同じように、普段から人と喋り慣れていないらしい。
こうして的確な言葉がすぐに出てこないのは、人と接する時間が少ないからだと思う。
と、そのとき。
ぐうう――……と気の抜けるような音を立てて、僕のお腹が鳴った。
その音に気を取られたのか、彼女はしばらく言葉を失って、僕の顔とお腹とを交互に見ていた。
そして、
「……ふふっ」
小さく噴き出すようにして、彼女は笑った。
「ふふふ……!」
一度噴き出してしまうともう歯止めが利かなくなったのか、彼女はぷるぷると肩を震わせて笑っていた。
「……そんなにおかしかった?」
さすがの僕も、ここまで笑われるとなんだか恥ずかしくなってくる。
「っ……お、おかしいですよ。だって、すごい音だったから……あっははは!」
彼女は今度こそ、大きく口を開けて笑った。
まるで子どもみたいに笑う彼女に、僕はつい見惚れてしまった。
それまでは不機嫌そうな顔や、悲しそうな顔ばかりだったから。
こうして楽しそうに笑っているのを見ると、こちらまで和やかな気分になってくる。
彼女もこんな風に笑えるのだ――と、妙な感心を覚えた。
「……はあ。おなか、空きましたね」
ひとしきり笑った後、彼女は言った。
「どこかで一緒にランチでもしますか?」
そんな提案を受けて、僕は我に返った。
そして悩んだ。
女の子と二人きりでランチというのは、とても魅力的な響きだったけれど、しかし普段からそんな経験のない僕には、一体どんな店に連れて行けばいいのかがわからなかった。
どこも予約なんてしていない。
こんなとき、どんな行動を取るのが『普通』なのだろう?
内心慌てていると、そこへ助け舟を出すように彼女は言った。
「あの、よかったら昨日のカフェに行きませんか?」
「え?」
昨日のカフェ。
というのは、昨日僕らが偶然再会したあのカフェのことだろう。
「私、あの店にはよく行くんです。コーヒーがとっても美味しいんですよ」
そう言って、僕に微笑みかける彼女。
初めて見る彼女の優しい笑顔に、僕はなんだか胸の奥がじんと温まるような感じがした。
相変わらず、頭からは赤い血を流したままなのだけれど。
それでも、可愛い――と、人の死顔を見て思ったのは、このときが初めてだった。