車内には死体しかなかった。

 いや、正確には『これから死ぬ予定の人間』しかいなかった。

 右を見ても左を見ても、老若男女すべてが血にまみれている。
 椅子に座っている親子連れも、手すりに掴まって立っている学生も、みんなどこかしらに怪我をしていて、中には骨が飛び出ている者もいる。

「結人さん? 座らないんですか?」

 逢生ちゃんが言った。
 彼女は最後尾の席が空いていると言って僕を誘導する。

 しかし僕はそれどころではなかった。

 このままこのバスに乗っていれば、僕らは死ぬ。
 このバスは、これからすぐにでも事故に遭うはずだ。

「逢生ちゃん、だめだよ。降りよう。今すぐ」
「え? 何を言ってるんですか、結人さん。……まさか」

 僕の体質を理解している逢生ちゃんは、すぐに察しがついたらしい。
 緊張した面持ちで僕の顔色を窺っている。

「そのまさかだよ。事故るんだよ、このバス。早く降りなきゃ」
「で、でも」

 戸惑う逢生ちゃんに背を向けて、僕は運転席の方へと走った。

「運転手さん、停まって。停めてください!」
「わっ、なんだ!?」

 僕が声を掛けると、運転手の男性はいきなりのことに驚いた様子だった。

「停まってください。お願いですから!」

 僕が掴みかかると、バスは激しく横揺れした。
 どうやらハンドルを取られたらしい。

 蛇行運転を始めた車内では、人々のどよめきと短い悲鳴が上がる。

「おい、やめろ。危ないから!」

 運転手が怒鳴る。

 僕は停まってほしい一心だった。

 自分はどうなっても構わない。
 バスを停めて、逢生ちゃんの無事を確保することさえできればそれでよかった。

 けれどバスは停まらない。
 そのうち対向車線にはみ出して、前方からは大型トラックが迫ってくる。

 このままではぶつかってしまう。

「結人さん、落ち着いて!」

 逢生ちゃんの声が聞こえた。

 瞬間。

 彼女の渾身の力で、僕の身体は後方へと引っ張られた。

 運転手は僕の腕から解放されると、ギリギリのところでハンドルを左へ切り、トラックとの正面衝突を免れた。

 激しい揺れと遠心力によって、僕と逢生ちゃんの身体は通路の上に放り出された。
 座席に頭をぶつけ、二人そろってその場に転がる。

 痛む頭を押さえながら、僕はゆっくりと顔を上げ、改めて車内を見渡した。

 そうして、再び愕然とした。

 騒然とする車内には、今は誰一人として屍となる者はいなかった。
 すべての人間が、生きた姿を保っている。
 通路に尻餅をついている学生も、母親にしがみついている幼い子どもも、みんな健康的な姿で、不信感を露わにした目を僕に向けている。

 そんな冷たい視線を一身に受けて初めて、僕は我に返った。

 あのまま僕が運転手の邪魔をし続けていたら、このバスは明らかに事故に遭っていた。

 僕のせいで。
 今ここにいるすべての人が、怪我をするか、死んでいたかもしれない。

「このガキ……!」

 怒りに震えるその声に気づいて、僕は後ろを振り返った。
 すると振り向きざまに、襟首を乱暴に掴まれて、そのまま上へと持ち上げられた。

「なんてことしやがる。もう少しで大事故になるところだったんだぞ!」

 そこに見えた顔は運転手のものだった。

 僕は何とも答えられずに、ただされるがままになっていた。

 全身に力が入らない。
 何も考えられない。
 頭が回らない。

 そしてそれ以上に、自分自身に絶望していた。

 目の前の運転手は、僕の顔面を目掛けて拳を振り上げる。

「やめてください!」

 そのとき、またしても逢生ちゃんの悲痛な声が届いた。

「すみません。ごめんなさい。すぐに降りますから……!」

 そう言って、彼女は僕の身体を運転手から無理やり引きはがす。

「さっさと行け!」

 運転手は良心的にも、出口の扉を開けてくれた。

 その慈悲に甘えて、僕らは外へ向かう。
 その際、段差で#躓__つまず__#いた僕の身体に引っ張られて、逢生ちゃんもまたバランスを崩し、僕らは文字通りバスの外へ転がり出た。

 アスファルトの上で重なるようにして倒れた僕らの背後で、バスは扉を閉め、すぐに走り去った。

「……大丈夫ですか、結人さん?」

 上半身を浮かせながら、逢生ちゃんはやわらかな声で聞いた。

 僕は何も答えられなかった。
 大の字で仰向けになったまま、遠い秋の空を見つめる。

 皮肉なほど透き通った青い空。
 雲はほとんどない。
 その中を、一羽のカラスが優雅に横切っていく。

 ただ一言、阿呆とでも僕を罵ってくれれば、少しは僕も納得できたかもしれないのに。

「……ごめん。逢生ちゃん」

 言いながら、視界が揺れるのがわかった。

 自分のことが情けなくて、恥ずかしくて、涙が出そうだった。

「僕、もう少しで君を殺すところだった」

 声が震える。
 こんなはずじゃなかったのに。

「ごめん。本当にごめん。こんなつもりじゃなかったんだ。僕はただ、君を死なせたくなくて……」

 僕はただ、逢生ちゃんを守りたかった。
 彼女がどうにか生きてくれるようにと、それだけを願っていたはずだった。

 なのに実際はどうだ。
 僕はこの手で、彼女を殺してしまうところだった。

「結人さんはきっと……心配性なんでしょうね。お父さんと一緒です」

 そう言って、彼女は笑った。
 そうして路上に放り出されたままの僕の冷たい手を、きゅっと握る。

「大丈夫ですよ。私は死んだりしませんから」

 そんな彼女の言葉を、僕はきっと信じていない。
 どれだけ信じようとしても、心の奥底には不安が潜んでいる。
 だからこそ僕は誰も信じられずに、こんな風に暴走してしまったのだ。

 こんな僕が彼女を信じるためには、一体何が必要なのだろう。

 僕はどうすればいいのだろう。

 彼女のことを、僕はどうしたいと思っているのだろう?