ゆるゆると瞼を開くと、見覚えのある天井が目に入った。

(ここは……)

 電気の消された部屋。
 薄暗い、けれどまだ日は落ちていない。
 壁際の障子の向こうからは薄らと外の光が漏れ出ている。

 僕の身体は布団の上に寝かされていた。
 鼻先を掠めるのは畳と線香の匂い。

 記憶違いでなければ、ここは逢生ちゃんの家の仏間だった。
 その証拠に、ほんの少しだけ視線を転がすと、天井付近に飾られた二人の遺影が見える。

 逢生ちゃんの、父と母。
 片方は僕の親でもあるのだけれど。

「……逢生ちゃん」

 試しにその名を呼んでみると、意外とすんなり声が出た。

 駅前の、歩道橋の上では全身が凍えて力が入らなかったけれど。
 今はもう、身体の冷えも、底知れない睡魔の波も感じない。

 体調が少し回復したのかもしれない。
 逢生ちゃんが看病してくれたのだろうか。

「逢生ちゃん。どこにいるの?」

 もう一度彼女の名を呼びながら、僕は身体を起こした。
 そうして布団を這い出ると、薄らと光の漏れている障子に手を伸ばす。

 障子を開けると、古い木製の廊下の先に縁側が見えた。
 そのさらに先には庭があり、あまり良い天気とは言えない微妙な明るさの空が広がっている――と、視線を上げかけた、そのとき。

 人の足が、宙に浮いているのが見えた。

「……え?」

 間抜けな声が、僕の喉から漏れていた。
 それほどまでに呆気に取られる光景が、そこにあった。

 人の足が、宙に揺れている。
 右と左が一本ずつ。
 ちょうど一人分。

 僕はゆっくりと視線を上げる。

 細く白い足の上には、女性もののワンピースと、長い黒髪。

「あ……」

 一人の人間が、そこにぶら下がっていた。

 そして、その人間の首は、天井から垂れる一本のロープに括りつけられていた。

「な、んで……」

 そこに見えた顔に、僕は凍りつく。

 白い肌に、長い黒髪。
 いつもはぱっちりとしていたその瞳は、今はどす黒く、気だるげにどこかを見つめている。

 死んでいる、と一目でわかる。

 逢生ちゃんが、首を吊っていた。


 


       〇





「――……ッ!!」

 そこで僕は布団を捲り上げ、勢いで上半身を起き上がらせた。

「うっ……」

 眩しい。
 白い光が眼球を直撃して、僕は眩暈がした。

 酷く頭痛がする。

 一体何が起こっている?

「! 結人さんっ」

 近くで声がした。

 女の子の声。

 その声にハッとして、僕はすぐにでもその子の顔を確認したかったけれど、目が光に慣れるまで少し時間がかかった。

 胸の早鐘を聞きながら、僕は暗闇の中で現状の把握に努める。

「……逢生、ちゃん?」

 右の手のひらで両目を押さえたまま、僕は尋ねた。

「逢生ちゃん、そこにいるの?」

 彼女が、ここにいる。
 生きている。
 その事実を掴みたくて、僕は空いた方の手を前方へと伸ばした。

 するとその指先を、そっと温かい感触が包んだ。

「……いますよ。ここに」

 その声を聞いた途端、目頭が熱くなった。

 彼女が、そこにいる。

 今、ここにいる彼女が本物で。
 さっきの首吊り死体は夢だったのか?

「逢生ちゃん、よかった。僕は……君がいなくなるんじゃないかと思って……」

 そうしてゆっくりと右手を離し、目を開くと、そこには僕の捜し求めていた、彼女の生きた姿があった。

 白く美しい肌に、ぱっちりとした瞳。
 どこにも怪我はない。
 五体満足で、血の通った身体。

「……ふふ。心配しすぎですよ。私、もう自殺をする気はないって言ったじゃないですか」

 そう言った彼女の顔には、やわらかな笑みが浮かんでいた。

「でも逢生ちゃん、あのとき……僕は視たんだ。歩道橋から見える線路の上に、人の死体があったのを。だから、逢生ちゃんがそうなるんじゃないかって」
「見間違いではないですか? 人違いだったら、それはそれで悲しいですけれど……」
「見間違い?」

 見間違いだなんて、そんなはずはない。
 あんなグロテスクなものが、ただの幻だったなんて。

「結人さんは心配しすぎなんですよ。私は……平気ですから」

 そう言った彼女の笑みには、どこか陰があるように、僕の目には映っていた。