教えられた住所は、駅からバスで十分ほどの所だった。
街の中心からはそれほど離れてはいなかったけれど、だからといって人気の多い場所ではなかった。
山際の、緩い斜面になっている辺り。
立派な一軒家が点在している一帯だった。
ちょうど山の陰になる場所だったので、日が落ちた後のそこは深い闇に包まれていた。
舗装された道の片側には街灯が等間隔で並んでいるものの、その合間合間では何も見えない黒い空間が存在する。
時折、聞いたことのないような獣の声がする。
鳥だろうか。
山の上から、何かを警告するようにゲエゲエと鳴いている。
そんな薄気味悪い道を、僕は一人で歩いていた。
たまに足が何か硬いモノを踏みつけたりするのだけれど、道端に何が落ちているのか、暗すぎて肉眼では確認できない。
人の死体でなければいいのだけれど――なんて、つい余計なことまで考えてしまう。
やがて道の先に、一際大きな日本家屋が、ぬっと姿を現した。
築数十年は経っていそうな、瓦屋根の一軒家だった。
「ここ、かな……?」
スマホの地図アプリを何度も確認し、やはりここで間違いない、と確信する。
木製の柵で閉め切られた門の横には、『橘』と書かれた表札があった。
ここに、逢生ちゃんが住んでいる。
つい勢いでここまで来てしまった。
けれど、いざインターホンを押そうという段になると途端に迷いが生じた。
こんな時間に、いきなり訪ねて良いものなのだろうかと。
(でも、住所を教えてくれたってことは……来てもいいってことだよね?)
自分自身にそう言い聞かせるように問う。
門前払いをするつもりなら、そもそも家の場所を教えなかったはずだ。
だから……と覚悟を決めようとしたそのとき、ふと、人の気配を感じた。
誰かの目が、こちらを見ている――そんな気がした。
思わず辺りをきょろきょろとすると、一瞬だけ、どこかで視線が合った気がした。
街灯の光がほとんど届かない場所。
後方……いや、前方だ。
木製の柵で閉ざされた、その向こう側。
橘家の敷地内。
「っ……」
僕は息を呑む。
柵の間から、二つの目がぎょろりとこちらを見上げていた。
想像以上に至近距離から、僕は見られていた。
「どなた……?」
今にも事切れそうなか細い声で、その人物は言った。
年配の女性らしかった。
暗い陰になっている門の向こうを注視すると、闇の中で、ぼんやりと人のシルエットが浮かんでいた。
腰の曲がった小柄な女性だった。
家の敷地内にいるということは、逢生ちゃんの家族なのかもしれない。
おそらくは一緒に住んでいるという、彼女の祖母だろう。
「あ、あの。僕、守部といいます。逢生さんに会いに来ました」
「守部……?」
暗闇の中で、もぞ、と黒い影が動く。
「守部……、守部……」
女性はその音を噛みしめるように、何度も繰り返す。
そして。
「守部……――巴」
小さく呟かれたのは、母の名だった。
先ほどの電話でもそうだったが、彼らはなぜ、僕の母の名を知っているのだろう?
「ご……」
僕が混乱していると、目の前で腰を曲げていた女性は、ぎょろりとした目をこちらに向けたまま、
「ごめん、なさい」
「え?」
片言で、謝罪の言葉を口にした。
「ごめん、なさい。ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!」
謝罪の声は段々と加速して、そして、やがてぴたりと止まった。
そうして再び訪れた静寂の中で、どこからか、ケタケタと子どもの笑い声がした。
僕が後ろを振り返ると、暗い道の真ん中で、こちらに指を差す幼い男の子の姿があった。
「あのおばあちゃん、また謝ってるよお」
そう言ってにやにやと笑っている男の子の手を、
「早く行くわよ」
と、気まずそうに引っ張る女性がいる。
おそらく親子だろう。
母と息子。
近所の住民だろうか。
彼らは二人手を繋いで、帰り道を急いでいるらしかった。
――あのおばあちゃん、また謝ってるよお。
男の子の言葉を聞く限り、こうして目の前の女性が謝罪を繰り返すのは、普段からよくあることなのだろう。
失礼な言い方になるけれど、とても正常だとは思えない。
何か、心に病を抱えているのだろうか。
と、そこへ敷地の奥の方から、ガラリと格子戸の開けられる音がした。
「来たのか」
続けて届いた声は、聞き覚えのあるものだった。
先ほどの電話の相手――おそらくは逢生ちゃんの祖父だ。
土を踏みしめる彼の足音が、段々と近づいてくる。
やがて暗闇から姿を現したその人物は、大方予想していた通りの年配の男性だった。
「君が、結人くんか」
低い、警戒するような声で彼は言った。
「何をしに来た」
「え……」
敵意を剥き出しにした目で、彼はこちらを睨みつける。
「我々を殺しに来たのか」
そんな物騒な質問を投げつけられて、僕は狼狽えた。
「こっ……殺すだなんて、そんな。そんなわけないじゃないですか」
一体何を言い出すのか。
「君は、我々を恨んではいないのか?」
「恨む?」
わけがわからず、僕は固まっていた。
「……やはり君は、巴さんから何も聞いていないようだね」
再び母の名が出され、僕はさらに混乱した。
「君の母親は、あえて我々との縁を切った。その方が君のためになると考えたからだ」
「僕のため? どうして……」
「それを知るには、再び我々と関わりを持たなければならない」
至極当然のことを、彼は僕の前に突きつける。
彼らの話を聞くためには、お互いに意思の疎通を図らねばならない。
それはつまり、関わり合いになるということだ。
「いいのか? 君の母親はわざわざ君のために、我々との関係を断ったのだよ」
今まで想像もしなかった母の過去を前にして、僕は固まっていた。
橘という家系について、僕は何も知らされていなかった。
母との間に何があったのかはわからないし、どうして縁を切ったのか、その理由も知らない。
縁を切ったということは、余程のことがあったのだろう。
せっかく母が良かれと思って切った縁を、ここで復活させてしまって良いのだろうか。
およそ答えは出ないであろう問題に、僕は頭を悩ませる。
でも。
「……僕が逢生さんと関わるということは、つまり、あなた方――橘家と関わりを持つということですよね」
逢生ちゃんは橘家の人間だ。
彼女と関わろうとすることはつまり、そういうことだ。
なら、僕の答えは決まっている。
――関わりを持つのなら、最後まで。
脳裏で、母の声が僕を奮い立たせる。
僕は、逢生ちゃんとの縁を切るつもりはない。
「僕は、あなたたちと関わりたい。逢生さんのことが、心配だから」
震えそうになる足に力を入れ、僕は言った。
すると、それまで僕を睨んでいた逢生ちゃんの祖父は、
「……入りなさい」
と、木製の柵をがらりと開けた。
そうして暗闇の中で、言った。
「ようこそ、橘家へ」