そこに立っていたのは、一人の女の子だった。

 白い肌に、長い黒髪。
 歳は十代の後半くらいで、ぱっちりとした目が可愛らしい。

 昨日のあの子――橘逢生が、僕の前に立っていた。

「……いつから待ってたんですか?」

 わずかに声を震わせながら、彼女は言った。

「待ち合わせは二時って言ってましたよね。一体いつから待ってたんですか? 風邪ひきますよ!?」

 咎めるような口調で、彼女は言った。
 眉尻を上げ、怒ったような顔をしているけれど、しかし言っている内容は僕への労りの言葉だった。
 根は優しい子なのかもしれない。

「そう言う君だって早いじゃないか」

 負けじと僕も返す。

 約束の時間までは、まだ三十分以上ある。
 もしもまだ僕が来ていなかったら、彼女はこの寒空の下でじっと僕を待っているつもりだったのだろうか。

 そう考えると、なんだか気の毒になってくる。
 僕が強引に取り付けた約束のせいで、彼女がつらい思いをしていたかもしれない、だなんて。

 しかしそれよりも僕が気になったのは、彼女の、その姿だった。

 彼女の白い顔には、べっとりと赤い血が付着していた。
 おそらくは次の自殺方法を考えついたのだろう。
 その姿は今現在のものではなく、今から七日以内に実現することになる未来の姿だ。

 やはりまだ死ぬつもりでいるらしい。

 それも残念ではあったのだけれど、その他にも一つ、僕は気になることがあった。

 彼女の死因となる傷は、僕のそれとよく似ていた。
 頭から血を流し、さらに顔にも数か所、擦過傷がある。

 一体、どうやって死ぬというのだろう?
 同じような死に方をするということは、まさか二人で心中でもするのだろうか。

 あるいはもっと別の要因で死ぬのだろうか。
 たとえば空からいきなり何かが降ってきて、僕たちの頭をかち割ってしまうとか。

 そんなことを考えたとき、僕は反射的に頭上を仰いだ。

 街の上空に広がる空には雲一つなく、秋らしい透き通った色がどこまでも続いていた。

「どうかしましたか?」

 僕の行動を不思議に思ったのか、彼女が聞いた。

「いや、別に」

 僕はそう短く言って視線を下ろす。

 すると再び目が合った彼女は、眉を顰めて訝しげに僕を見つめた。

「本当に、何もないんですか? 今のあなたの動き、なんて言うか、その……ええと」
「不審者っぽい?」
「そ、そう! 不審者です! 挙動不審!」

 彼女はそう勢いで言ってしまったらしく、言い終えてから、ハッと我に返るような顔をした。

「あっ。す、すみません! そういう意味で言うつもりじゃなかったんです。その、ちょうどいい言葉が見つからなくて……っ」

 そう弁解するように言って、慌てて頭を振る。

 やはり彼女も僕と同じように、普段から人と喋り慣れていないらしい。
 こうして的確な言葉がすぐに出てこないのは、人と接する時間が少ないからだと思う。

 と、そのとき。
 ぐうう――……と気の抜けるような音を立てて、僕のお腹が鳴った。

 その音に気を取られたのか、彼女はしばらく言葉を失って、僕の顔とお腹とを交互に見ていた。

 そして、

「……ふふっ」

 小さく噴き出すようにして、彼女は笑った。

「ふふふ……!」

 一度噴き出してしまうともう歯止めが利かなくなったのか、彼女はぷるぷると肩を震わせて笑っていた。

「……そんなにおかしかった?」

 さすがの僕も、ここまで笑われるとなんだか恥ずかしくなってくる。

「っ……お、おかしいですよ。だって、すごい音だったから……あっははは!」

 彼女は今度こそ、大きく口を開けて笑った。

 まるで子どもみたいに笑う彼女に、僕はつい見惚れてしまった。
 それまでは不機嫌そうな顔や、悲しそうな顔ばかりだったから。
 こうして楽しそうに笑っているのを見ると、こちらまで和やかな気分になってくる。
 彼女もこんな風に笑えるのだ――と、妙な感心を覚えた。

「……はあ。おなか、空きましたね」

 ひとしきり笑った後、彼女は言った。

「どこかで一緒にランチでもしますか?」

 そんな提案を受けて、僕は我に返った。
 そして悩んだ。

 女の子と二人きりでランチというのは、とても魅力的な響きだったけれど、しかし普段からそんな経験のない僕には、一体どんな店に連れて行けばいいのかがわからなかった。

 どこも予約なんてしていない。
 こんなとき、どんな行動を取るのが『普通』なのだろう?

 内心慌てていると、そこへ助け舟を出すように彼女は言った。

「あの、よかったら昨日のカフェに行きませんか?」
「え?」

 昨日のカフェ。
 というのは、昨日僕らが偶然再会したあのカフェのことだろう。

「私、あの店にはよく行くんです。コーヒーがとっても美味しいんですよ」

 そう言って、僕に微笑みかける彼女。

 初めて見る彼女の優しい笑顔に、僕はなんだか胸の奥がじんと温まるような感じがした。

 相変わらず、頭からは赤い血を流したままなのだけれど。
 それでも、可愛い――と、人の死顔を見て思ったのは、このときが初めてだった。
 
 
 店に入って席に着くと、彼女は慣れた様子でコーヒーとサンドイッチを注文した。

「あ、じゃあ僕も同じサンドイッチ。……と、あとカフェオレ」
「かしこまりました」

 注文が通った瞬間、僕の向かいでメニューに目を落としていた彼女は、ばっと勢いよく顔を上げた。

 僕が見ると、どこか驚いたような顔で彼女は固まっていた。

 僕、何か変なことを言ってしまっただろうか?

「……コーヒーは、頼まないんですね?」

 店員が見えなくなってから、彼女は内緒話でもするかのように言った。

「え? うん。僕カフェオレが好きだから」
「そ、そうですか……」

 しゅん、としたように視線を落とす彼女。

 そこで、ああそうか、と僕は合点がいった。

 そういえばここへ来る前に、この店はコーヒーが美味しいのだと彼女が言っていた。
 だからこそ彼女はここを選んだのだと。

 コーヒーを勧められておきながら、あっさりとそれを無視する僕。
 忘れていたとはいえ、なんて嫌な男なのだろう。
 これだから僕は友達ができないのかもしれない。

 変な空気のまま時間だけが過ぎて、やがてテーブルの上には注文の品がそろった。

「それじゃ、食べましょうか」

 久方ぶりに彼女が口を開いて、僕は頷いた。

 後ろめたさを感じながら、僕はカフェオレに口を付ける。
 しかし意識は向かいのコーヒーカップに集中していたので、味はほとんどわからなかった。

 そんな僕の視線に気づいたのか、

「……あの。一口飲みます?」

 出し抜けに彼女がそんなことを言ったので、僕はカフェオレを噴き出しそうになった。

「い、いいの?」

 これは、いわゆる間接キスというものになるのではないか。

 緊張する僕の心境には気づかない様子で、彼女はコーヒーカップを僕の方へと押し出した。
 どうぞ、という意味だろう。

 どうやら彼女はこういったことをあまり気にしないらしい。

 僕は一人心臓をバクバクさせながら、勧められるままにコーヒーを啜った。

「美味しいでしょう?」

 鈴の音のような声で、彼女が聞いた。

「う、うん」

 正直、緊張のせいで味なんてほとんどわからなかった。


 


       〇





 それから、他愛もないことをあれこれと話した。
 といっても、お互い持っている話題は少ないので、プロフィールを探り合うくらいでしかなかったのだけれど。

 彼女――橘逢生は、僕と同じ大学に通う二年生で、サークルなどには所属していないようだった。
 実家住まいらしいが、両親はもういないので、祖父母と三人で暮らしているという。

「それで、守部さんは――」
「結人でいいよ」

 僕がそう言うと、彼女はちょっと困ったような顔をした。

「え。でも……」

 年上の人間を下の名前で呼ぶのに抵抗があるのか、迷うような素振りを見せる。

「僕も、逢生ちゃんって呼ぶからさ」
「……じゃあ、結人さん」

 そう、小さく言った彼女は口元に手を当てて、ほんのりと頬を桜色に染めていた。

 そんな女の子らしい反応に、僕はドキッとしてしまう。

 まあ、お互いにもともと顔中が血まみれで、赤く染まってはいるのだけれど。

「結人さんは、何年生なんですか?」
「僕は四年だよ」
「じゃあ、就職活動は……」
「だめだった」

 僕は過去形で言った。
 けれど正確には、まだやろうと思えばいくらでもできる。
 一般の企業ならまだ募集している所はあるはずだ。

 でも。

「僕、教師になりたかったんだ。だから教員採用試験を受けたんだけれど、ついこの間、不合格の通知があって」

 そんな情けない結果を口にしながら、僕は自嘲するように笑った。

「……すみません」

 と、彼女――逢生ちゃんは申し訳なさそうに言った。

「どうして謝るの?」
「失礼なことを聞いてしまったから……」

 デジャヴだった。
 昨日もこうして同じようなやり取りをしたような気がする。

 だから、僕はそれ以上はつっこまなかった。

 昨日みたいに、「僕が勝手に話したのにどうして謝るの」なんてつっこめば、彼女ははまた居心地の悪い思いをしてしまうだろう。

 僕が黙っていると、やがてサンドイッチを食べ終えた彼女は、

「私も……教師になりたかったんです」

 と、呟くように言った。

「なりた、かった……? どうして過去形なの?」

 不思議に思って、僕は尋ねた。

 僕の場合なら、過去形で言ってもおかしくはない。
 すでに今年の試験は終了してしまったのだから。

 けれど、彼女はこれからだ。
 まだ始まってもいない。
 彼女が試験に挑むのは、まだ二年も先のことなのに。

「私……教師になるのがずっと夢でした。父が、教師でしたから」
「そうなの?」

 なんという偶然か。
 実は僕の母親も、教師の仕事に就いていたのだ。

 思わずその事実を伝えたくなったけれど、寸前で僕は思い留まった。
 ここで水を差してしまうと、それ以上彼女の話を聞けなくなってしまう――そんな気がしたから。

「私、最初は……自分はただ教師になりたいだけだと思っていたんです。それが夢だからって。でも、……違いました。私は、ただ教師になりたかったんじゃない。私は、教師になった姿を父に見せたかったんです。この世でたった一人の、私の味方である父に」

 言いながら、彼女はどこか一点を見つめていた。
 視線はテーブルの上に注がれていたけれど、そこに焦点は合っていないように見えた。

「でも今年の夏、父が亡くなって……私の目標は消えてしまいました。もう、見せる相手がいませんから。……生きる目的も、そこで失くしてしまったんです」
「だから、自殺するっていうの?」

 僕が聞くと、彼女は一瞬だけ僕の顔を見上げた。

 けれどすぐに視線を逸らして、

「いけませんか?」

 と、消え入りそうな声で言った。

「うん。いけないと思う」

 僕は素直な意見を口にした。

「確かに、君の目標は消えてしまったかもしれない。これ以上生きていても何の意味もないって、思ってしまうかもしれない。でも、君のお父さんはそうは思わないはずだよ。きっと君のお父さんは、君の夢を応援していたはずだ。教師になってほしいって。だから……今ここで君が死んでしまったら、それはお父さんのためにはならない。お父さんの気持ちを踏みにじって、君が自己満足するだけだよ」

 と、勢いでそこまで言ってしまってから、僕はハッと我に返った。

 向かいで僕の話しを聞いていた彼女は、斜めに視線を逸らしたまま、大きな瞳に涙を溜めていた。
 今にも零れ落ちてしまいそうなそれを、必死に堪えている。

「……ごめん」

 泣かせるつもりじゃなかった。

 けれど、何と言っていいのかわからなくて。

「ちょっと、外に出ようか」

 風に当たれば少しは気分転換になるかもしれない。
 食事も終わったし、ここに長居は無用だろう。

 僕らは秋風の吹く街中へと、二人並んで出ていった。
 
 
 あてもなく、僕らは歩いた。

 進む方向さえ決めていなかった。
 けれど駅前だと人が多くて疲れるのか、無意識のうちに、僕らはそこから離れていった。

 そうしてコンクリートで舗装された平らな道を、南へ向かって歩いていく。

「どうする? 港の方まで行く?」

 かなり歩いたところで、僕は聞いた。

 このまま歩き続ければ、いずれは海に出る。
 港周辺には娯楽施設や商業施設などが集まっているので、そこまで行けばまた何かしらの店に入って休むことができる。

 逢生ちゃんは無言のままだったけれど、こくりと小さく頷いて、僕の提案を受け入れてくれた。





 そうして、僕らはやはり歩き続けた。
 次第に日は西へと傾いて、ほんのりと赤みを帯びてくる。

 やがて視線の先に、港の景色を象徴する大きな観覧車が見えた。
 日没前の今はまだそれほど目立ってはいないけれど、夜になって電飾が点灯すれば、この観覧車は鮮やかな色を発して観光客を魅了する。

「……ここへ来るのは、久しぶりです」

 それまで黙っていた逢生ちゃんが、思い出したように言った。

「そうなんだ。何年ぶりくらい?」
「わかりません。中学くらいまではよく来ていたんですけれど……父と、二人で」

 父、というワードを引き出させてしまったことに、僕は後悔した。
 彼女の過去を探ろうとすると、どうしても父親のことに触れてしまう。

「ごめん。聞かない方が良かった?」
「いいえ。私から話し出したことですから。……むしろ、私の方こそごめんなさい」
「え?」

 いきなり謝られて、僕は間抜けな声を漏らした。

「私、子どもみたいですよね。泣いたり、怒ったり。それから……あなたに八つ当たりみたいなことをしてしまって」
「八つ当たりだなんて、そんな。君に関わろうとしたのは僕の方なんだから」

 何の関係もないくせに、横から口を出したのは僕の方だ。

 昨日の昼間、あの駅で、もしも僕が彼女の邪魔をしたりしなければ、彼女はこんな風に悩んだりしなかったのに。

「……でもね、結人さん」

 僕の隣を歩きながら、彼女は絞り出すように言った。

「私、あのとき、邪魔しないでって言ったけど……。本当は――」

 彼女はさらに小さな声で、

「……嬉しかったのかも、しれません」

 そんな彼女の告白に、僕は足を止めた。

「本当に?」

 僕が聞くと、彼女は数歩先で立ち止まって、こちらを振り返った。

「たぶん、……ね」

 顔の半分を夕焼けの色に染めながら、彼女は確かに言った。 

 けれど。

「本当に、本当? ……じゃあ、もう自殺する気はないってこと?」
「そう……だと、思っています」
「本当に?」
「……なんで、そんなに聞くんですか。そんなに私に死んでほしいんですか?」

 僕がしつこく聞くと、彼女は膨れっ面をしてみせた。

「いや、そういうわけじゃないけど」

 僕が否定すると、途端に彼女は「冗談ですよ」と言って笑ってみせた。

 そのやわらかな笑顔に、僕はホッと胸を撫で下ろす。
 彼女が生き延びてくれるのなら、それ以上に嬉しいことはない。

 けれど。
 僕は、信じられなかった。

 だって、いま僕の目に映っている彼女は、頭から大量の血を流しているのだから。

 もちろん、これは今現在の姿じゃない。
 これは僕の目を通して視える、彼女の未来の姿なのだ。

 つまり僕の目に狂いがなければ、彼女はこれから七日以内に死ぬことになる。

 彼女にはまだ、自殺する可能性が残っているのだ。

「……正直、父のことはまだ引きずっていますよ。でも、だからって自殺なんかしちゃったら、父が悲しむかもしれないから……結人さんの言う通りです。だから私、考え直してみます。父のことも吹っ切れるように、これからの人生を楽しめるようにしないと」

 そんな風に強がってみせる彼女に、僕は一抹の不安を覚えた。

 それまで暗い気持ちでいた人が、打って変わって明るい態度を見せる――これは俗にいう躁鬱状態ではないのだろうか、と。

「ねえ結人さん。観覧車に乗りませんか?」
「え?」

 妙にテンションの上がっている彼女はそう言って、長い黒髪を揺らしながら、くるりと身体を反転させた。
 そうして南の方角に見える大きな観覧車を見つめる。

「昔、父とあれに乗ったことがあるんです。だから、久々に乗ってみたいなって」
「それは、僕は別にいいけど……。いいの? 僕と一緒に乗っても、たぶん楽しくはないよ? 下手したら、乗ってる間はずっと無言になるかも……」
「いいんですよ」

 彼女はこちらに背を向けたまま、

「私、友達が少ないので……一緒に乗ってくれそうな子がいないんです」

 そう、寂しそうに肩を落とした。

 その小さな背中に、僕は何と声をかけていいのかわからなかった。

 もしも僕が彼女の父親だったなら、迷うことなく、その小さな背中を抱きしめていただろう。
 けれど僕は父親じゃないし、彼女をよく知る友人でもない。

 だから、僕は動けなかった。

 ただ、一緒に観覧車に乗ること――今の僕が彼女にしてあげられることは、それだけだった。
 
 
 海に面した広場は人で賑わっていた。
 街の中心部から離れているものの、大型ショッピングモールやアミューズメントスペースが広がるそこには、平日でも多くの親子連れやカップルが訪れる。
 そんな海辺の街に建つ観覧車は、特に若者のデートスポットとして有名だった。

 観覧車の前には人の列ができており、十組ほどが順番を待っていた。

 僕らはその最後尾に立つと、お互い無言のまま、まるで申し合わせたかのように同時に観覧車を見上げた。

「……結構、古いんだね。観覧車」

 思わず、そんなムードのない発言をしてしまった。

 しかしそれほどまでに、観覧車の老朽化は進んでいた。
 遠くから見ればそれほどでもないけれど、こうして近くで見てみると節々のサビが目立つ。

「これ、落ちたりしないよね?」
「不吉なことを言わないでください」

 逢生ちゃんは苦笑しながら言った。

 僕は本気のつもりだったけれど、伝わらなかったらしい。

「いや、ほんとにこれ危ないんじゃない?」

 なんとなく、嫌な感じがした。
 僕の勘はよく当たるから。

「じゃあ、やめます?」

 少しだけ残念そうな声で逢生ちゃんが言う。

 うん、と即答しかけたけれど、ギリギリで飲み込む。

 せっかく、逢生ちゃんが乗りたがっていたのだ。
 ここまで来てお預けだなんて、ちょっと可哀想だと思う。
 できることなら乗せてあげたい。

 でも。

「ちょっと、試していい?」
「え?」

 僕はそう断りを入れてから、彼女の手を握り、列の外へ出た。

「な、なんですか?」

 いきなりのことに驚いたのか、彼女の声は少しだけ上擦っていた。

 僕は彼女と手を繋いだまま、列の最後尾を見つめた。

 先ほどまでは僕らが一番後ろだったけれど、僕らが列から外れた後、一組の家族連れがそこへやってきた。
 したがって今、列の最後尾にはその家族連れが立っている。

 彼らは、それまで僕らが乗るはずだったゴンドラに乗る。
 その未来が決まった瞬間。

「……あ」

 家族連れの、姿が変わった。

 父と、母と、幼い娘――一瞬前まではどう見ても健康そのものだった彼らは、今は顔中を真っ赤な血で染め上げていた。
 頭から大量の血を流し、顔面にも多くの擦過傷を作っている。

 それは、数秒前までは僕らの身に降りかかるはずの運命だった。

「結人さん? どうしたんですか?」

 隣から声を掛けられて、僕はハッと我に返る。

 不思議そうにこちらを見上げる逢生ちゃんの顔を見ると、彼女はもう、どこにも血を流してなどいなかった。

 まさかと思い、僕はすかさずスマホを取り出して、カメラアプリで自分の顔を確認した。
 画面に映し出された顔には、やはりどこにも怪我はなかった。

 運命が、変わったのだ。

「……逢生ちゃん、やっぱり観覧車はやめよう」
「えっ?」

 僕は彼女の手を強く握り直し、その場から歩き出す。

「ど、どうしたんですか? 何かあったんですか?」

 事情を知らない逢生ちゃんは、大きな目をぱちくりとさせている。

「嫌な予感がするんだよ。あの観覧車、たぶんゴンドラが落ちるよ。早く離れた方がいい」
「な、何を言ってるんですか?」
「僕にはわかるんだ」

 いきなりこんなことを言っても、信じてもらえるとは思わない。
 変な人だ、と思われるかもしれない。
 それでも、彼女の命には代えられない。
 たとえ僕がどんなに気味悪がられたとしても、彼女が無事ならそれでいい。

「ねえ、待ってください。結人さん、あなたもしかして――」

 僕の手に引かれながら、彼女は言う。

「人の死体が視えるんですか?」
「!」

 その言葉に、思わず僕は立ち止まった。

「……今、なんて?」

 恐る恐る、僕は彼女を振り返った。

 色白の、どこにも怪我をしていない彼女の、ぱっちりとした瞳が僕を見つめている。

「あなたは……これから死ぬ人の姿が、視えるんじゃないですか?」

 どこか確信を持ったような眼差しで、彼女はまっすぐに僕を見上げる。

「……どうして、それを」
「視えるんですね?」

 確認するように聞かれて、僕は返事ができなかった。

「結人さん。さっき、あのゴンドラが落ちるって言ってましたよね。それは本当ですか?」
「……えっと」

 僕が目を逸らすと、

「落ちるんですね?」

 まるで僕の思考を見透かすかのように、彼女は強い口調で聞く。

「ゴンドラが落ちるというのなら、その前にみんなを避難させないと」
「避難?」

 いきなり彼女がそんなことを言い出したので、僕は耳を疑った。

「避難させるなんて、そんなの……できっこないよ。だって、いくら僕が注意を促したところで、事が起こるまでは誰も耳を傾けてはくれないんだから」
「やってみなければわかりませんよ。それに、問題のゴンドラに乗る人さえ止められたら、それで大丈夫なんでしょう?」
「それは、そうだけど……。どうしてそこまでしようとするの? 赤の他人だよ?」

 助けたところで、自分に何かメリットがあるわけじゃない。
 むしろ、自分がどんな行動を取るかによっては周囲から奇異な目で見られるかもしれない。
 そんな危険を冒してまで、どうして他人を助ける必要があるのだろう?

「それを言うなら、結人さんだって同じじゃないですか。……赤の他人であるはずの私を助けてくれたのは、あなたですよ」

 その言葉に、僕は今度こそ何も答えられなくなってしまった。

 逢生ちゃんはゆっくりと僕の手を離し、観覧車の方を振り返ると、

「あの家族連れですよね?」

 僕たちの元いた場所を見つめ、駆け出した。

 僕はその場に突っ立ったまま、呆然と彼女の背中を見つめていた。

 順番待ちの列に割って入り、何かを必死に訴えている彼女。
 危うくゴンドラに乗り込みそうになっていた家族を、彼女は力ずくで引っ張り出す。
 そのうち騒ぎを聞きつけたスタッフたちが集まってきて、彼女の身体を取り押さえる。
 問題のゴンドラは無人のまま上昇する。

 そして。

「!」

 皆が、息を呑む。

 無人のゴンドラは車輪の一角から外れると、一瞬にして数メートル下の地面に落下し、固いコンクリートの上に打ち付けられて大破した。

 すべてがスローモーションのように見えた。

 必死に何かを叫んでいる逢生ちゃんの姿も。
 彼女を取り押さえるスタッフの動きも。
 砕け散るゴンドラの窓も。
 事故に驚いて振り返る人々も。

 どこか遠い世界の光景のように、僕の目には映っていた。


 


       〇





「……どうしてあのとき、僕を信じてくれたの?」

 帰りの電車に揺られながら、僕は尋ねた。

 あのとき、嫌な予感がする、なんていう僕の曖昧な発言を、どうして信じてくれたのだろう。

 隣に座る逢生ちゃんは、「えっと……」と少しだけ言い淀んでから、

「私の父も、視える人でしたから」

 と、小さな声で言った。

「え?」

 彼女の言っている意味がわからず、僕は首を傾げた。 

「死相が視える人だったんですよ。近いうちに亡くなる人の、死ぬときの姿が視えてしまうんだそうです。……結人さんも、そうなんでしょう?」

 そんな彼女の告白に、僕は心臓が止まるかと思った。

「私、そういう体質の人は父以外に見たことがなかったんですけど……。意外と、他にもいるのかもしれませんね」

 そう冗談っぽく言った彼女の表情は穏やかだった。
 きっと、大好きな父親のことを思い出していたのだろう。

「逢生ちゃんには視えないの?」

 僕が聞くと、彼女は少しだけ残念そうに、

「はい……」

 とだけ答えた。
 その横顔は、口元には微笑を浮かべていたものの、どこか物憂げな雰囲気を漂わせていた。

 そして僕は、そんな彼女の白い頬に、小さな擦り傷があるのを見つけた。

 きっと、先ほどの騒ぎの中で付いてしまったのだろう。

「……逢生ちゃんがもし、僕と同じ体質だったら……身が持たなかったかもしれないね」
「ふふ。どうでしょうね」

 小さく笑った彼女の顔には、どこにも死相は見当たらなかった。


 


       〇





 翌朝になって、僕は祖母に電話を掛けた。

「あ、おばあちゃん? 久しぶり」
「ああ。結人」

 スマホのスピーカーから、祖母の穏やかな声が聞こえてくる。

 正直、僕はこの優しげな声が苦手だ。

 原因はわかっている。
 祖父が亡くなってから――僕が祖父の死を予言したあのときから、祖母はどことなく僕の存在を遠ざけるようになったからだ。

「この間の、母さんの四十九日のときはありがとね。色々と任せちゃって……」

 ぎこちないながらも、最低限の挨拶は済ませておく。

 対する祖母は「ああ」とか「うん」とか、短いけれど返事はしてくれる。

「それで、おばあちゃん。……一つ聞きたいことがあるんだけど」

 本題は、ここからだった。

 この質問をするまでに、僕は一晩悩んだ。

 この話を祖母にはするな――と、生前の母から言いつけられていたからだ。

「あのさ……僕の、体質のことなんだけど」

 電話口で、祖母は黙っている。

 僕は一度深呼吸をしてから、聞いた。

「親戚の中に、僕と同じ体質の人って他にもいるの?」

 言い終えた後の数秒間は、何の音も聞こえないくらいに静かだった。
 僕も、祖母も、何も言わない。
 周りの雑音さえ耳に入ってこない。

「……あんたの、他に」

 やっと祖母が口を開いた。

 そう思った瞬間。

「……そんな化け物、いるわけないだろおおおおおおおおおおおッ!!」

 耳をつんざくような怒号が、スピーカーの向こうから飛んできた。

 反射的に、僕はスマホを落としてしまった。

 ゴツ、と嫌な音を立てて、それは床の上に転がった。

 慌てて拾い上げると、すでに通話は切れていた。

(化け物……?)

 祖母の絶叫が、耳にこびりついている。

(僕は……)

 反論する気なんてさらさらなかった。

 僕は、化け物。
 そんな当たり前のことは、周りを見ていればわかる。

 でも。

 ――私の父も、視える人だったんです。

 彼女の。
 逢生ちゃんの父親までもが、そうだったとは思わない。

 なら、この体質は一体何なのだろう?

 『普通』の人にはない、この感覚は。

 僕の不気味なこの体質は、一体どこからやってきたのだろう――?
 
 
「……ただいま」

 バイトを終えて帰宅すると、静寂が僕を出迎えた。

 暗い部屋に灯りを入れると、荒れ放題になった景色がそこに照らし出される。
 投げっぱなしの書類に、散らばった洗濯物。
 キッチンのシンクには洗っていない食器やカップラーメンのゴミが山積みになっている。

 大学に入るのと同時に借りたこの部屋は、一年前まではそれなりに清潔さを保っていた。

 けれど母が入院してからは、そうはいかなくなった。

 母が闘病生活を送る間、僕はここに留まるよりも、病院にいることの方が多かったように思う。
 そうして荒れていくこの部屋を放置していたのが、今もまだ惰性で続いている。

 母の葬儀は、もう済んだのに。

「…………」

 壁際の時計を確認すると、午後七時十五分だった。

 夕食はまだ済んでいない。
 さてどうするか――と考えたとき、ふと、あのカフェのサンドイッチが脳裏を過った。

 昨日、一昨日と、逢生ちゃんと行ったあのカフェ。
 ……といっても、一昨日はただ偶然そこで鉢合わせただけなのだけれど。

 ――私、あの店にはよく行くんです。

 彼女の声が、僕を誘惑する。

 今日も彼女は、あの店を訪れているのだろうか。

「……行くか」

 一度はテーブルの上に放り出した財布を、ポケットに戻す。

 そうして僕はまた、秋風の吹く夜の街へと繰り出した。


 


       〇





 店に入ると、捜し人はすぐに見つかった。

 カウンターに一人で座る、髪の長い女の子。
 ちょうど隣の席が空いていたので、僕は迷わずそこへ腰を落ち着けた。

「今日も来てたんだね」
「!」

 僕が声を掛けると、不意打ちを食らったらしい彼女は手にしたコーヒーカップを落っことしそうになっていた。

「ゆ、結人さん……!」

 大きな目をぱちくりとさせながら、彼女は僕を見つめた。

「どうしたんですか。今日は約束してなかったのに」
「いや、君がここにいるんじゃないかと思って。会いに来たっていうか」

 僕が素直な気持ちを口にすると、途端に彼女の表情は強張った。
 そうしてほんのりと頬を朱色に染めたかと思うと、

「め、メニュー、ここにありますよ。何、食べますっ?」

 どこか上擦った声で言った。

 何か、気まずくなるようなことでも言ってしまっただろうか。

「ええと、昨日と同じサンドイッチにしようと思って。それから飲み物は……」

 彼女に見せてもらったメニューに目を落としながら、僕はちょっと迷った。

 ドリンクの欄にはコーヒーとカフェオレとが上下に並んでいる。

(今日こそは、コーヒーにするか?)

 僕が迷っていると、逢生ちゃんはそれに気づいたのか、

「……ふふ。無理して頼まなくていいですよ。カフェオレが好きなんでしょう?」

 そう、ちょっとだけ笑いを含んだ声で言った。

 そして付け加えた。

「コーヒーなら、私のを一口あげますから」


 


       〇





 サンドイッチだけでは物足りなかったので、ついでにサイドメニューもいくつか頼んだ。

 それらをすべて平らげてから、僕は改めて逢生ちゃんの横顔を見つめた。

 白くて美しい彼女の肌には、今はもうどこにも死相は現れていなかった。
 昨日まで視えていた大量の血や擦過傷は、もうどこにも見当たらない。

 それはつまり、彼女が死を回避したことを意味している。
 もしかすると、自殺のことも本当に諦めてくれたのかもしれない。

 その代わり、昨日の騒ぎで付いてしまった小さな擦り傷だけは頬に残っていたけれど。

「……どうかしました?」

 不意に彼女がこちらを向いた。
 ぱっちりとした瞳が至近距離から僕を見つめ返す。

 その無垢な眼差しに、僕はどきりとした。

「いや、別に。えっと……そのキーホルダー」

 咄嗟に、視界の端に見えたキーホルダーを指差した。

 彼女の鞄にぶら下がっている、例のキーホルダーだった。
 表面にシドニーのオペラハウスが描かれている、メダルのような形をしたそれ。

「それって、逢生ちゃんが買ってきたの? それとも貰い物?」

 何でもいいから話題を逸らしたかったのだけれど、図らずともキーホルダーに触れられたのは幸運だった。
 初めて会ったときから、ずっと気になっていたから。

「これですか? これは父から貰った物です。……というより、形見ですね。生前の父がずっと身に着けていたんです」
「そう、なんだ」

 父というワードに、僕は警戒した。
 あまり深堀りすると、彼女の負の感情を刺激してしまうかもしれない。

「それ、オーストラリアのお土産だよね?」
「ええ、そうです。父が言っていました。昔、修学旅行でシドニーに行ったんだって。……あ、でも生徒として行ったときじゃないんですよ。父は教師でしたから、仕事で行ったんだって」

 それを聞いて、僕はもしやと思うことがあった。

「修学旅行って、いつぐらいに行ったの?」
「え? それは……ええと」

 古い記憶を辿っているのか、彼女は斜め上を見つめながら暫く固まっていた。

「……二十年以上前になるんじゃないですかね。私が生まれる前に買ったみたいですから。それがどうかしたんですか?」
「いや、大したことじゃないんだけど……。僕の母親も昔、同じものを修学旅行で買ったんだ。僕の母親も教師だったから。……だから、もしかしてと思って」
「!」

 僕の言葉に、逢生ちゃんはハッと口元を押さえて目を丸くした。

「もしかして、同じ学校に勤めていたとかですかっ?」

 興奮した様子で、彼女は言った。

「わからない。でも、可能性はあるよね?」

 そんな予感が、僕にはあった。

「そうですよ。そうかもしれない……。もしそうだったとしたら、すごい偶然じゃないですかっ?」
「うん、すごいよね」

 彼女とは対称的に、僕は比較的落ち着いた声で答える。
 もともと色々な予感はあったから。

「私、家に帰ったらちょっと調べてみます。何かわかるかもしれませんから」

 かなりテンションの上がっている彼女はそう僕に約束して、さらに連絡先を教えてくれた。

「明日の夜、またここで会いましょう? 何かわかったら、すぐに報告しますから」

 彼女はそう、嬉しそうに言った。
 間接的にも父親の思い出に触れられたことを喜んでいたのかもしれない。





       〇





 彼女との約束を信じて、僕は翌日を楽しみに待っていた。

 けれど、当日。
 いくら待っても、彼女はその店には来なかった。

 代わりにラインのメッセージだけが届いた。

『ごめんなさい。今夜は会えません。』

 書かれていたのは、その一言だけだった。
 
 
 どうして会えないのか、何かあったのか――なんて野暮なことを聞く勇気はなかった。

 彼女が自分から何も言わなかったところを見ると、きっと聞かれたくない理由なのだろう。

 あるいは、わざわざ伝える必要もないと考えたのかもしれない。

 僕らは別に特別な関係を築いているわけではないし、つい最近知り合ったばかりの間柄なのだから。

「はあ……」

 なんとなく気分が沈む。

 意味もなく、僕は今日もまたいつものカフェでサンドイッチを食べていた。

 いや、意味はなくもないか。
 僕はここに座って、逢生ちゃんが来るのを待っているのだ。

 彼女が来るのを、心待ちにしている。





       〇





 次の日も、また次の日も、僕は大学やバイトの帰りにカフェに寄った。

 けれど彼女はついぞ現れなかった。



 やがて土日が終わり、次の週がやってくる。





       〇





 十一月に入った。

 スマホにはあれ以来何のメッセージも来ていない。

 ラインを立ち上げ、友達のいない僕の『友達一覧』を開くと、そこには企業名ばかりがずらりと並んでいる。
 その中から『橘逢生』の文字を探し出し、トーク画面を開く。

 僕が送った、「わかった」という短い返事を最後に、ぱったりと会話は途切れている。

 何か気の利いた言葉を掛けることができれば、結果は変わっていたかもしれない。
 けれど、普段から他人とのやり取りに慣れていない僕にはそれができなかった。

 文字を打とうとしても、何も頭に浮かんでこない。

 もどかしかった。
 それと同時に、不安な気持ちもあった。

 彼女と最後に話したのは、僕らの親のことだった。
 自殺の発端となっている、彼女の父親の話。

 ――私、家に帰ったらちょっと調べてみます。何かわかるかもしれませんから。

 家に帰って、彼女は一体何を知ったのだろう?
 その内容こそが、僕に会えない理由なのではないだろうか。

「…………」

 僕はスマホに目を落とし、もう一度ラインを開く。
 画面の端には『通話』の文字が見える。

 僕は、一度深呼吸をして。

 それから、通話ボタンを押した。

 聴いたことのない呼び出し音を耳にしながら、彼女が応答するのを待つ。
 よほど緊張していたのか、自分の心臓の音が頭に響いている感覚があった。

 そうして、数秒が経った頃。

 プツ、と呼び出し音が止まる。

「もしもし」

 その声に、僕は今度こそ心臓が止まるかと思った。

 電話に出たのは逢生ちゃんではなく、男性の声だった。
 あきらかに年上、どころか、かなり年配の雰囲気がある。

 まさか掛け間違えたのか。

「す、すみません。間違えまし――」
「守部結人くんか?」

 見知らぬ男性から自分の名を言い当てられて、僕は戸惑った。

「……はい。そう、ですけど……」

 あなたは? と聞き返したいのも山々だったが、こちらから掛けておきながらそれを言うのは気が引けた。

 男性はさらに続けた。

「……母親の名前は、守部 (ともえ)さんか」
「!」

 その言葉に、僕は絶句した。

 なぜここで僕の母親の名前が出て来るのだろう? 

 様々な憶測が頭を駆け巡り、僕が黙っていると、痺れを切らしたのか男性は再び口を開いた。

「君は、うちの逢生とはどういう関係かな」

 逢生ちゃんの名前が出てきたことで、僕は考えを改めた。

 この電話の相手は、彼女の家族――共に暮らしているという祖父なのではないかと。

「……あ、あの。……えっと」

 相手の正体に気づいたことで、少しは話す勇気が出てきたのに、いざ質問に答えようとすると、どう言えばいいのかわからなかった。

 逢生ちゃんとの関係。

 僕たちは、一体どういう関係なのだろう。
 友達、と言っていいのだろうか。
 今まで僕に友達なんていなかったのに?

 なら、知り合いと言えばいいのだろうか。
 それもなんだか投げやりな感じがする。

「答えられないような浅い関係なのか?」

 詰問するような声色で、男性は言った。
 何か怒っているのかもしれない。

 僕の喉はカラカラに乾いていた。

「中途半端に関わるようなら、うちの逢生とはもう会わないでほしい」

 有無を言わさぬような、力強い声だった。

 中途半端に関係を持つこと。
 それは、僕が最も忌み嫌っていたはずのことだ。

「……すまない」

 男性は最後にそう、掠れた声で言った。

 そうして強制的に、通話は切られた。

「…………」

 何も聞こえなくなったスマホを、僕はしばらく無言で握りしめていた。

 逢生ちゃんに何があったのだろう。
 彼女の祖父は、何を思ったのだろう。

 そして、何より。

 僕は一体何をしているのだろう? ――その疑問が一番大きかった。

 初めて彼女と会ったとき、自殺しようとしていた彼女を、僕は無理やり引き留めた。
 そうして強引に約束を取り付け、何度も彼女に会おうとした。

 それだけのことをしておきながら、いざ関係性を聞かれると、すぐに答えられないなんて。
 電話で告げられた通りの、中途半端な男だ。

 情けない。

 こんな中途半端な僕が彼女と関わりを持とうとするなんて、思い上がりも甚だしい。

 やはり僕は、これ以上彼女と関わらない方が良いのだろうか。

 ――関わりを持つのなら、最後まで。

 脳裏で、母の言葉が蘇る。

 ――それが出来ないのなら、最初から関わりを持つべきじゃないわ。

 最初から、関わらない方が良かったのかもしれない。

 けれど。

 たとえ短い間だったとしても、彼女と作った思い出。
 それを忘れることなんてできない。

 僕はもう一度電話を掛け、再び応答した彼に言った。

「お願いです。住所を教えてください。これから、会いに行きます」
 
 
 教えられた住所は、駅からバスで十分ほどの所だった。
 街の中心からはそれほど離れてはいなかったけれど、だからといって人気の多い場所ではなかった。

 山際の、緩い斜面になっている辺り。
 立派な一軒家が点在している一帯だった。

 ちょうど山の陰になる場所だったので、日が落ちた後のそこは深い闇に包まれていた。
 舗装された道の片側には街灯が等間隔で並んでいるものの、その合間合間では何も見えない黒い空間が存在する。

 時折、聞いたことのないような獣の声がする。
 鳥だろうか。
 山の上から、何かを警告するようにゲエゲエと鳴いている。

 そんな薄気味悪い道を、僕は一人で歩いていた。
 たまに足が何か硬いモノを踏みつけたりするのだけれど、道端に何が落ちているのか、暗すぎて肉眼では確認できない。

 人の死体でなければいいのだけれど――なんて、つい余計なことまで考えてしまう。

 やがて道の先に、一際大きな日本家屋が、ぬっと姿を現した。
 築数十年は経っていそうな、瓦屋根の一軒家だった。

「ここ、かな……?」

 スマホの地図アプリを何度も確認し、やはりここで間違いない、と確信する。

 木製の柵で閉め切られた門の横には、『橘』と書かれた表札があった。

 ここに、逢生ちゃんが住んでいる。

 つい勢いでここまで来てしまった。

 けれど、いざインターホンを押そうという段になると途端に迷いが生じた。
 こんな時間に、いきなり訪ねて良いものなのだろうかと。

(でも、住所を教えてくれたってことは……来てもいいってことだよね?)

 自分自身にそう言い聞かせるように問う。
 門前払いをするつもりなら、そもそも家の場所を教えなかったはずだ。
 だから……と覚悟を決めようとしたそのとき、ふと、人の気配を感じた。

 誰かの目が、こちらを見ている――そんな気がした。

 思わず辺りをきょろきょろとすると、一瞬だけ、どこかで視線が合った気がした。

 街灯の光がほとんど届かない場所。
 後方……いや、前方だ。

 木製の柵で閉ざされた、その向こう側。
 橘家の敷地内。

「っ……」

 僕は息を呑む。

 柵の間から、二つの目がぎょろりとこちらを見上げていた。

 想像以上に至近距離から、僕は見られていた。

「どなた……?」

 今にも事切れそうなか細い声で、その人物は言った。
 年配の女性らしかった。

 暗い陰になっている門の向こうを注視すると、闇の中で、ぼんやりと人のシルエットが浮かんでいた。

 腰の曲がった小柄な女性だった。
 家の敷地内にいるということは、逢生ちゃんの家族なのかもしれない。
 おそらくは一緒に住んでいるという、彼女の祖母だろう。

「あ、あの。僕、守部といいます。逢生さんに会いに来ました」
「守部……?」

 暗闇の中で、もぞ、と黒い影が動く。

「守部……、守部……」

 女性はその音を噛みしめるように、何度も繰り返す。
 そして。

「守部……――巴」

 小さく呟かれたのは、母の名だった。

 先ほどの電話でもそうだったが、彼らはなぜ、僕の母の名を知っているのだろう?

「ご……」

 僕が混乱していると、目の前で腰を曲げていた女性は、ぎょろりとした目をこちらに向けたまま、

「ごめん、なさい」
「え?」

 片言で、謝罪の言葉を口にした。

「ごめん、なさい。ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!」

 謝罪の声は段々と加速して、そして、やがてぴたりと止まった。

 そうして再び訪れた静寂の中で、どこからか、ケタケタと子どもの笑い声がした。

 僕が後ろを振り返ると、暗い道の真ん中で、こちらに指を差す幼い男の子の姿があった。

「あのおばあちゃん、また謝ってるよお」

 そう言ってにやにやと笑っている男の子の手を、

「早く行くわよ」

 と、気まずそうに引っ張る女性がいる。

 おそらく親子だろう。
 母と息子。
 近所の住民だろうか。
 彼らは二人手を繋いで、帰り道を急いでいるらしかった。

 ――あのおばあちゃん、また謝ってるよお。

 男の子の言葉を聞く限り、こうして目の前の女性が謝罪を繰り返すのは、普段からよくあることなのだろう。
 失礼な言い方になるけれど、とても正常だとは思えない。
 何か、心に病を抱えているのだろうか。

 と、そこへ敷地の奥の方から、ガラリと格子戸の開けられる音がした。

「来たのか」

 続けて届いた声は、聞き覚えのあるものだった。

 先ほどの電話の相手――おそらくは逢生ちゃんの祖父だ。

 土を踏みしめる彼の足音が、段々と近づいてくる。
 やがて暗闇から姿を現したその人物は、大方予想していた通りの年配の男性だった。

「君が、結人くんか」

 低い、警戒するような声で彼は言った。

「何をしに来た」
「え……」

 敵意を剥き出しにした目で、彼はこちらを睨みつける。

「我々を殺しに来たのか」

 そんな物騒な質問を投げつけられて、僕は狼狽えた。

「こっ……殺すだなんて、そんな。そんなわけないじゃないですか」

 一体何を言い出すのか。

「君は、我々を恨んではいないのか?」
「恨む?」

 わけがわからず、僕は固まっていた。

「……やはり君は、巴さんから何も聞いていないようだね」

 再び母の名が出され、僕はさらに混乱した。

「君の母親は、あえて我々との縁を切った。その方が君のためになると考えたからだ」
「僕のため? どうして……」
「それを知るには、再び我々と関わりを持たなければならない」

 至極当然のことを、彼は僕の前に突きつける。

 彼らの話を聞くためには、お互いに意思の疎通を図らねばならない。
 それはつまり、関わり合いになるということだ。

「いいのか? 君の母親はわざわざ君のために、我々との関係を断ったのだよ」

 今まで想像もしなかった母の過去を前にして、僕は固まっていた。

 橘という家系について、僕は何も知らされていなかった。
 母との間に何があったのかはわからないし、どうして縁を切ったのか、その理由も知らない。
 縁を切ったということは、余程のことがあったのだろう。

 せっかく母が良かれと思って切った縁を、ここで復活させてしまって良いのだろうか。

 およそ答えは出ないであろう問題に、僕は頭を悩ませる。

 でも。

「……僕が逢生さんと関わるということは、つまり、あなた方――橘家と関わりを持つということですよね」

 逢生ちゃんは橘家の人間だ。
 彼女と関わろうとすることはつまり、そういうことだ。

 なら、僕の答えは決まっている。

 ――関わりを持つのなら、最後まで。

 脳裏で、母の声が僕を奮い立たせる。

 僕は、逢生ちゃんとの縁を切るつもりはない。

「僕は、あなたたちと関わりたい。逢生さんのことが、心配だから」

 震えそうになる足に力を入れ、僕は言った。

 すると、それまで僕を睨んでいた逢生ちゃんの祖父は、

「……入りなさい」

 と、木製の柵をがらりと開けた。

 そうして暗闇の中で、言った。

「ようこそ、橘家へ」
 
 
 通された先は仏間だった。

 部屋に入って右を向くと、床の間の隣に金仏壇があった。

「座りなさい」

 逢生ちゃんの祖父、(はじめ)さんがそう言って、僕は「失礼します」と歩を進めた。

 部屋の中央には座布団が二つ並べられていた。
 僕は下座に腰を下ろすと、改めて仏壇の方を見た。

 経机の上には花や果物が供えられている。
 そして、その上方、天井付近には二人の男女の遺影が飾られていた。

「逢生の、両親だ」

 僕の視線に気づいたのか、一さんは上座に#胡座__あぐら__#を掻きながら言った。

 二枚ある遺影のうち、片方は四十代後半くらいの、どこか寂しげな印象のある男性だった。
 そして女性の方は、まだかなり若い。

「我々の娘――橋子(きょうこ)は、逢生を産んだ十九歳の冬に事故で死んだ」

 唐突に告げられたその事実に、僕は何とも返事をすることができなかった。

 たった十九歳での事故死。
 その衝撃は、彼らの心に暗い影を落としているに違いない。

「君は、この二人の顔に覚えはないか?」

 出し抜けにそんなことを聞かれて、僕は一瞬だけ身を強張らせたものの、素直に「いいえ」と答えた。
 写真の中で微笑を浮かべている二人のことを、僕は知らない。

 けれど一さんの言わんとしていることを、僕は肌で感じ取っていた。

 この二人に、僕は関係がある。
 そんな予感があった。

「……知らない、か。さすがは巴さんだね。君にはやはり、我々のことは一言も話さなかったようだ」

 そう、一さんは冷ややかな笑みを浮かべながら言った。

 そして、

「関わりを持つのなら、最後まで」

 彼の口にしたそのフレーズに、僕はどきりとした。

「それは……」
「巴さんの言葉だ。中途半端な関係は持つなという、彼女の戒めだ。君も一度くらいは聞いたことがあるだろう」

 一度なんてもんじゃない。
 何度も、何度も、母は言っていた。

 関わりを持つのなら最後まで。
 それが出来ないのなら、最初から関わるべきじゃない、と。

「彼女はそれを徹底していたよ。だからこそ我々と縁を切った。我々との関係が中途半端に残っていると、君に悪影響を与えると判断したのだろうね」
「あなたたちは、一体……僕と、どういう繋がりがあったのですか?」

 僕は恐る恐る尋ねた。

 この質問をするということは、すなわち母の思いを踏みにじるということだ。
 僕を護ろうとした母の思いを。

 それでも。

「知りたいんだね?」

 最後の確認といわんばかりに、一さんは低い声で言った。

 はい、と僕は声にして返す。

「たとえどんな結果になっても、僕は後悔しません。逢生ちゃんと……逢生さんと会えなくなるくらいなら、僕は……」

 言いながら、僕は胸の内で彼女のことを思い出していた。

 僕たちはまだ出会ったばかりで、お互いのことを深くは知らないし、思い出も決して多くはないけれど。
 それでも、忘れられない。

 彼女の泣いた顔。
 怒った顔。
 困った顔。
 笑った顔。

 そして、その都度僕の目に映っていた、彼女の死顔。

 そのすべてが愛おしい――なんて言うのは大袈裟かもしれないけれど。

 それでも、失いたくないと思う。 

「……君は、人の屍が視えるそうだね」

 観念したように、一さんは目を伏せて言った。

 僕の体質については、おそらく逢生ちゃんから聞いたのだろう。

 彼は再びゆっくりと目を開くと、畳の上に視線を落としたまま続けた。

「私と家内には、そんな能力は備わっていなかった。生まれたときから、目に見えるものが世界のすべてだった。私たちの娘である橋子も同じだった。誰がいつどうやって死ぬのかなんて、予測することはできない。もちろん、娘の死期だって……」

 そこで彼は一度、何かを堪えるように声を詰まらせた。
 けれどすぐにまた口を開き、

「だが、逢生の父親――(わたる)は違った。彼は君と同じで、数日以内に死んでしまう人間の、死んだときの姿が視えるのだと言っていた。……あの体質は、どうやら遺伝するようだね」
「遺伝?」

 その指摘に、僕は首を傾げた。

 遺伝する、ということはつまり、逢生ちゃんもまた同じ能力を引き継いでいるということだ。

 けれど彼女は、それを否定していた。
 少なくとも僕の前ではそうだった。
 私には視えない、と確かに言ったのだ。

 どういうことですかと僕が尋ねようとすると、それよりも早く、一さんが言った。

「逢生の父親……いや、育ての親である渡は、逢生とは血が繋がっていない。彼の実子はたった一人。守部巴さんとの間に出来た息子――守部結人くんだけだ」

 思いがけない発言に、僕は目を見開いていた。

 と、そのとき。

 視界の端で、すうっと障子が動いたのがわかった。

 見ると、数センチほど開いた隙間から、ぎょろりとした目が一つだけ、こちらを見つめている。

 奥さんだった。
 逢生ちゃんからすると祖母に当たる。
 ここへ来たとき、最初に僕を出迎えてくれた人だった。

「どうした?」

 一さんが聞くと、奥さんは瞬きもせずに、

「逢生がいないの」

 と、無機質な声で言った。

「さっきまで二階にいたのよ。ずっと部屋に籠っていたのに。いきなりいなくなって」

 淡々と言うその口ぶりからは、焦りのようなものはあまり感じられなかった。

 僕の方はまだ心臓がバクバク言っている。

 逢生ちゃんの父親だと思っていた人が、実は僕の父親だった。

 以前から妙な偶然や予感めいたものはあったけれど、まさかそんな繋がりがあったなんて。

「逢生ちゃ……逢生さんは、僕のことを避けているのですか?」

 できる限り平静を装って、僕は尋ねた。

 僕が来たから、彼女は出て行ったのかもしれない。

 一さんは何かを考えるように低く唸ると、

「遠慮はあるだろうね。我々の存在は、君の家庭を壊したことになるのだから」
「壊した?」
「君から父親を奪った」
「それは……」 

 そうかもしれない。

 かつて母が言っていた。

 父は、僕らを捨ててどこか遠くへ行ってしまったのだと。
 そして向かった先が、この橘家だったということだ。

「でも……その選択をしたのは父本人なのでしょう? あなた方のせいではないはずです」

 一さんは何も言わない。

 僕は少しだけ身を乗り出して聞いた。

「逢生さんはどこまで知っているんですか?」

 ここが重要だった。

 つい最近まで自殺を考えていたような子のことだ。
 場合によっては不必要に自分自身を追い詰めてしまうかもしれない。

「先日、すべてを話したよ」

 すべてという言葉に、僕はひやりとした。

「先週だったか……。逢生の口から君の話が出てね。人の死体が視える子だと聞いて、すぐにピンときた。それで、お互いのためにももう会うなと言ったんだ。そのときに、なぜと聞かれたから……すべてを話した」

 嫌な予感がした。

 彼女はすべてを知っているという。

「それで、彼女は……何と言ったんですか」

 恐る恐る、尋ねた。

 すると一さんは小さく息を吸ってから、

「……全部私のせいだ、と」 

 その答えに、僕は目眩がした。

 全部自分のせい――その思考は危険なものだ。
 およそ自殺者の数割が最期に辿り着きそうな結論とさえ思える。

 そこで僕はふと、壁に掛けられている時計を見上げた。

 午後九時過ぎ。

 こんな夜遅くに、逢生ちゃんはどこへ行ったのだろう?

 嫌な予感がする。

(……迎えに行かなきゃ)

 どこからともなく競り上がって来る焦燥感が、僕の胸を襲う。
 このままでは取り返しのつかないことになると。

(彼女が、死んでしまうかもしれない)

 僕はその場に立ち上がり、短い挨拶を済ませると、すぐさま部屋を出た。
 
 
 暗い夜道を走りながら、僕は彼女に電話をかけた。
 しかし繋がらない。

 一体どこにいるのだろう。
 見当もつかないが、僕は自然と街の中心を目指していた。

 途中、人混みを掻き分けていると、あちこちに屍がうようよとしているのが目についた。

 血まみれの老人。
 全身が真っ黒焦げになった家族連れ。
 首のないサラリーマンにキスをする女。
 透明人間。

 今日はやけに屍が多い気がする。

 いや、それでなくとも。

 死は、常日頃から身近に存在するものなのだ。
 今はただ僕が過敏になっているだけで、特別なことは何もない。

 だからやはり、僕は彼女が心配だった。

 もともと他の誰よりも死に近い場所にいたのだ。
 そんな彼女が自分自身を責めるようなことがあればどうなるか。

 最悪の事態を頭に浮かべていると、ちょうど駅前の歩道橋に差し掛かったとき、そこから駅のホームが見えた。

 歩道橋と並列するようにして伸びる、高架上の線路。
 そこに鮮やかなピンク色をした物体が視える。

 そこで僕は、足を止めた。

 もしやという予感があった。

 そうして吸い寄せられるようにして、ゆっくりと歩道橋の端に寄る。

 そこから視えたのは、バラバラになった人の肉片と、かろうじて原型を留めている白い腕だった。
 線路の上に、人の轢死体が転がっている。その美しい屍には見覚えがあった。

「逢生ちゃん……?」

 駅で騒ぎになっていないところを見ると、この屍はまだ存在していないものなのだろう。
 おそらくは僕の目だけに映っている、近い未来の光景なのだ。

 思い返せば、逢生ちゃんと初めて会ったのもこの駅のホームだった。
 彼女は今度こそ、ここで命を絶つつもりなのかもしれない。

 確信めいたものを感じ取り、僕は駅の改札へと急いだ。


 


       〇





 それから、僕はひたすら待った。
 駅のホームの片隅で、それらしき人物をずっと捜していた。

 待ってさえいれば、彼女と会える――そんな予感があった。

 けれど、いくら待っても彼女の姿は見えなかった。

 まさかこんなときに限って僕の勘が外れるのではないか、なんて嫌な予想をしてしまう。



 そのうち終電時刻を過ぎ、駅員によって僕はホームから追い出された。


 


       〇





 仕方なく歩道橋の方へと戻り、そこから高架上を覗く。

 やはり、線路の上には人の轢死体が散らばっている。

 きっと、彼女はここへ来る――それだけを信じて、僕はじっと待っていた。





 歩道橋の端に腰を下ろし、スマホで時刻を確認する。

 午前二時。

 次第に気温はどんどん下がり、僕の全身を凍らせていく。

 寒い。
 辺りは静かだ。
 逢生ちゃんは来ない。

 再び電話を掛けてみたものの、やはり応答はなかった。

 彼女は今、一体何を考えているのだろう。

 そして僕は、一体何をしているのだろう?

 僕は彼女の何なのだろう。
 やはり、彼女を傷つける存在でしかないのか……。

 そんな考えがぐるぐると頭を巡っているうちに、時刻は朝方へと近づいていた。

 寒い。
 けれど、全身の震えはいつのまにか止まっていた。

 感覚がない。
 意識も段々と遠退いて――そして。

 声が、聞こえた。 

 ――結人。

 誰だろう。

 懐かしい声。

 ――結人。

 聞こえてるよ。

 でも、眠いんだ。





「結人……さん」

 三度目の呼び声に、僕は目を開いた。

 そこで僕は、自分がいつのまにか眠ってしまっていたらしいことに気がついた。

 そうしてゆるゆると視線を上げると、目の前には、今にも泣きそうな女の子の顔。

 白い肌に、ぱっちりとした瞳。
 長い黒髪は艶々として、ふわりと風に揺れている。

 待ち焦がれた彼女――逢生ちゃんの姿が、そこにあった。

「……いつから待ってたんですか」

 涙声で彼女が言う。

「風邪ひきますよ……っ」

 くしゃりと顔を歪めて、彼女は必死にこちらへと訴えていた。
 怒ったような顔をしているけれど、彼女なりに僕を心配してくれているようだった。

 できることなら、今すぐにでも彼女をこの手で抱きしめたかった。
 けれど身体が言うことを聞かない。
 まるで金縛りにでも遭ったかのようだった。

「っ……」

 声を出そうとしても、うまくいかなかった。

「え、何ですか……?」

 逢生ちゃんが耳を寄せてくる。

 僕は出せる限りの力を振り絞って、

「……無事で、よか……た……」

 あまりにも弱々しい僕の声は、彼女に届いたのかどうかはわからない。
 けれど、伝えたかった言葉の通り、彼女が無事でさえいてくれればそれだけで良かった。

 彼女の身体を見る限り、今はどこにも死相は現れていない。
 あの線路上に散らばっていた肉片も、今ごろは消えていることだろう。

 それにしても、眠い。

「結人さん……?」

 せっかく彼女に会えたのに申し訳ないけれど、僕はもう、それ以上起きている余裕がなかった。

「結人さん!」

 彼女の声を遠くに聞きながら。

 僕はそのまま、ずるずると深い睡魔の波に飲み込まれていった。