初めまして、と言うには少し妙な気がしますね。
ええ、確かにあなたにお会いするのは今日が初めてです。でもあなたのお名前だけは一方的にですが、前から存じ上げているので、どうも初めてという気がしないんですよ。
雑誌で……名前は何と言いましたか……ああ、そうそう、『謎工房』でしたね。その雑誌でお名前を拝見しました。ですから、あなたがわざわざ私を訪ねてこられた理由も察しがつきますよ。あなたの目的は珠城さんでしょう? 彼に関わる話を収集している、そういうことですよね?
前もって申し上げておきますが、私が珠城さんと会ったのはほんの二回だけです。しかもそれは偶然の産物でした。
あの当時、私はまだ大学生で、珠城さんのことは何も知りませんでした。珠城さんがハートヒーラー、心の治療師と呼ばれていることも。
……珠城さん、彼は何者なのでしょうね? 生死に関係なく、その迷える魂を救うという。ハートヒーラー、心の治療師、癒す人……彼を形容する言葉は様々です。それ故、とらえどころがない。
我々には見えないものが彼には見えるようですね? 彼は何を見ているのでしょう?
ああ、それはあなたにも判らないのですね。珠城さんをずっと追いかけているあなたさえも判らないというのなら、それは永遠に解けない謎なのかもしれません。きっと、本当の彼を誰も知らないのでしょう。
伝説。
そう言ってしまっても差支えありませんよね。珠城さんにまつわる伝説……何でも彼の元を訪れようと思えば生半可な気持ちでは駄目だ、切実に、心から彼に会いたい、また会わなくてはいけないという状況でなければ、彼の元には辿り着けないという……。
彼と連絡を取りたいと、住所や電話番号を入手すべく奔走する人もいると聞きますが、そんなものあってないようなもの。みつかるわけがありませんよね。
先ほども言いましたが、私はあの当時、珠城さんの存在すら知りませんでした。それでも彼の元に、あの店にたどり着くことができたのは、私の、彼女への想いが本物だったからなのでしょう。そして、その想いはあまりにも危ういものだったから……。
すべてが終わった後、もう一度、珠城さんに会ってみたいと思いました。彼はそう思わせる魅力を持った人でしたから。しかし、もう会うことは叶いませんでした。
記憶にある道を辿ってあの店を探しました。でも、どうしてもみつけることができなかったのです。今、もしもう一度、彼に会えたとしたらどうだろう? そんなことを時々考えます。でも、きっと彼にも今の私を救うことはできないでしょう。……何故って、それは私が救われたいと思っていないからですよ。
あなたにはありませんか? これを続けているといつか身の破滅につながる……それが判っていても、どうしてもやめることができない、そんなことが。
……ああ、すみません。話しが逸れてしまいましたね。では、これからあなたの望む話しをすることにします。その昔に起こった私と彼女の物語をお聞かせしましょう。それをどう解釈されるかは……あなたにお任せします。
☆
当時、私は地方から大学に入学するために上京してきたばかりの田舎者でした。近くに住む親戚の計らいで川辺に建つ新築マンションに入居することができ、それはなかなか快適な新生活の始まりのはず、でした。
引っ越して落ち着く間もなく、おかしなことが起き始めたのです。
おかしなこと。それは『夢』です。
奇妙な夢を見るようになったのです。
新しい生活や学校、人間関係に戸惑うことも多かった頃のことですから、最初のうちは慣れない環境のせいでそんな夢を見るのだろうと思っていました。じき、収まるだろうと。しかし、都会の生活に慣れ始めてもその『夢』は私の元を訪れ続けます。
初めは気味悪く思っていたのですが、しかし気が付くと私はその夢の訪れを心待ちにするようになっていました。いえ、私が待っていたのは夢そのものではなく、夢に登場する儚げな少女のことなのですが。
彼女はいつも窓辺に立っていました。そこは気の遠くなるくらい白く清潔な部屋で、私は気が付くとその部屋の真ん中にぽつんと立っているのです。
どうしてここにいるのか、あるいはいなければならないのか、何も判らないまま、私はそこにいて、大きな窓の傍に立つ少女をみつめ続けていました。
彼女は私を同じくらいの年齢に見えました。小柄なほっそりとした体に白い質素なワンピースをまとい、黒く長い髪を素直に肩先に下ろしていました。白く小さな顔に大きな黒い瞳が印象的な少女です。
彼女は何も言いません。私も何も言いません。ただ、みつめあうだけでした。
みつめあう。
ただ、それだけで不思議と私たちは判り合えたのです。知らない少女なのに何年も一緒にいる恋人同士のように思えたものでした。私はその時、確かに幸福でした。
その短い夢は毎夜、私の元を訪れます。
毎夜、私は彼女とみつめあいました。私たちは恋をしていたのです。……おかしいですか? 夢の中の、現実に存在しない少女と恋に落ちるなんて。でも、私は真剣でした。真剣に恋をして、そのせいで学業も手がつかなくなるほどだったのです。
欲求は募ります。
言葉を交わしたい。彼女に触れたい。彼女を抱きしめたい。自分だけのものにしたい……!
鏡を見るたび、衰えていく自分の姿をそこにみつけました。
体のどこかにある本能が少女の夢に囚われることの危険を声を限りに警告します。その声を確かに聞きながらも、それが正しいと思いながらも、私は少女に恋する気持ちを抑えられずにいました。
私にとって夢の世界の少女が唯一の確かな現実で、現実であるこの世界……つまり、少女のいないこの世界がまるで不確かな夢の世界のようでした。
そのうち、とうとう私は大学に行くこともやめてしまいました。彼女の面影を求めて、ふらふらと街をさ迷い歩く無為な毎日を過ごすようになっていたのです。
そんな生活がひと月も続いたある日のこと、どこをどう歩いたのか、気が付くと私は知らない街角に立っていました。
もう日は傾いて、時はいわゆる逢魔が時です。不意に私はひどい疲労を感じました。立っていることも辛いほどの重たい疲労感でした。
ふらついた私が手をついた壁には、コーヒー色の看板がかかっていました。目をやるとそこには『乱反射』とあります。喫茶店かと思い、私は深く考えずそのドアを押し開けて店内に入りました。中は薄暗く、間接照明の柔らかな光が私の気持ちを和ませてくれました。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうから優しい声がしました。
ぼんやりとしていた私はぎょっとしましたが、しかしその声の主を見て不思議と心は落ち着きました。その声の主は青年でした。優しげな面差しの彼は、どう見ても挙動不審で怪しげな私をきれいな微笑みで迎えてくれたのです。彼はただ佇むだけの私をカウンターの席に招いてくれ、何も言わない私にコーヒーを出してくれました。
「温かい飲み物の方がよろしいですよね?」
私は無言で頷き、コーヒーを一口飲みました。ほろ苦いコーヒーがとてもおいしく、その温かさは心に沁みました。それは久しぶりに感じる癒しでした。私は不意にあふれ出そうになる涙を指で押さえ、ごまかすために青年にあえて話しかけました。
ここはどこですか?
その質問はひどく間の抜けたものだったと思います。しかし、青年は微笑みもそのままに丁寧に応じてくれました。
「ここは『乱反射』というバーです」
あ、すみません。バーならまだ開店前ですよね?
「構いません。どうぞ、ごゆっくり」
あの、私はどうしてここにいるのでしょう?
「それはあなた自身がご存知のはず」
私が知っている?
そう言われて私は、はっとしました。
不意にあの夢の少女の姿が頭に浮かんだのです。そして、その刹那、少女のことをこの目の前にいる知らない青年に話してみたくなりました。彼に彼女の話しをするために、私はここにいるような気がしたのです。
私の気持ちを見透かしたように青年はひとつ頷いてくれました。それをきっかけに、今まで誰にも言えなかった少女の夢を堰を切ったように私は語り始めていました。
そうして、すべてを語り終えた私に青年は言ったのです。
「あなたの望みはなんですか?」
望み?
私は真っ直ぐに彼の目を見、そして淀みなく答えました。私の望みはただひとつ、夢ではなく現実の世界で彼女に会うことだと。
「よろしいのですか」
私の答えを青年は悲しそうに受け取り、やはり悲しそうに言いました。
「夢は夢だからこそ美しいのです。その夢はあなたの成長と共にいつかは消えて懐かしむものになるはずです。今は辛くてもそうなるまで待つことを僕は勧めます」
私は激しく首を振りました。待つなんてできない。
待つことも、夢の中のほんのひと時にしか彼女に会えないことも、すべてが嫌でした。この身を焼き、血すらも焦がしつくすようなこの恋の痛みに私は気が狂わんばかりだというのに。
青年は少し考えているようでした。しばらくして再び口を開いた彼はどこか疲れているように見えました。
「あなたの背後に「流れ」が見えます。これは川。川の流れを追いなさい。あなたの想い人は川の上流にある白い建物の中にいます。……どうしても会いたいと言うのなら僕は止めません。お行きなさい」
今思えば不思議なことに、その時の青年の言葉を少しも疑いませんでした。私は弾かれるように席を立つと、礼も言わず店を飛び出していたのです。
川。
私のマンションを前を流れるあの川のことに違いないと思いました。そうか、あの川が私たちを繋いでいたのだ。
私は歓喜の声を上げて、青年に言われた通り、川の流れを追いました。もう辺りは夜で、足元も危うい暗さでしたが、そんなことに構う心の余裕はありません。川辺の道を何度もつまずきながら、私は走り続けました。
彼女に会えるのだ、もうすぐ! もうすぐ!
どのくらい走ったでしょうか、暗い空に突然、白い建物のシルエットが浮かび上がりました。彼女がいるのはそこに違いない。すぐにその白い建物が病院だと判りましたが、私は何も考えず、病院にたどり着くと裏口から中に入りました。そして、本能に任せて彼女を探したのです。
人の気配のない廊下の一角で私は足を止めました。誰かに呼ばれたような気がしたのです。振り向いた先には病室のドアがありました。私は何の迷いもなく、そのドアを押し開き、中に入りました。
そこは白い部屋でした。あの夢で見たままの。
大きな窓の向こうには星もまばらな夜が広がり、まるで一幅の絵のようにそこにありました。
夢とまるで同じ白い部屋の光景でしたが、しかし、夢と異なっているところもあります。それは少女の姿がないことでした。
私は窓際のベッドに近づきました。
そこに誰かが眠っていたのです。白い寝具の中に長い黒髪が見えました。見覚えのあるあの艶やかな黒髪です。私は高鳴る胸を抑えつつ、手を伸ばしました。その手がもう少しで彼女に届きそうになった時、突然、背後のドアが開いたのです。
私は不測の事態に驚いて、その場を飛びのきました。
その時、はずみで彼女の眠っている寝具を引っ張ってしまいました。私は慌てましたが、しかし、そのせいでそこに眠っている人の顔が見えました。私は開いたドアのことなど忘れて、眠っている人物の顔を覗き込んだのです。
そして……私はそこに呆然と立っていることしか出来ませんでした。何故ならベッドで眠っていたのは私の恋する少女ではなく、私の母親と同年代と思われる見知らぬ中年の婦人だったからです。
ショックのあまり声の出ない私は、よろよろと後ずさりました。自分が何をしたいのか、どうしてここにいるのか、その一瞬で判らなくなってしまったのです。少女を想うあまり、会えなかったこの落胆は大きく、泣き叫びたい衝動に駆られました。
そんな時です。ベッドの婦人が目を開けたのは。それは突然の覚醒でした。ひるむ私を婦人の瞳は一途にみつめます。驚いたことに、彼女の漆黒の瞳は確かにあの少女のものでした。
私は再度、婦人の顔を覗き込みました。どこかに少女の面差しがないか、必死で探しました。その時、不意に彼女の細い腕が伸び、私の手首を掴んだのです。それは女性のものとは思えないほどの強い力で、そして何よりも情熱的でした。しかし、その感触はざらざらと乾燥していて、まるで枯れ枝にでも絡み付かれたようで、私の心には嫌悪感しか浮かんできません。
私の夢に現れたあの少女の手はふっくらとしていて、触ったことがなくともその感触が柔らかくしっとりとしていることは容易に想像がつきます。あの手の持ち主がこの婦人であるはずがありません。私の少女など、どこにもいないのです。
気が付くと私は婦人の手を乱暴に振りほどいていました。
一瞬、彼女の唇が動き、何か言ったようでしたが、私にはその言葉は届きません。婦人はそれを最後にぐったりとして目を閉じてしまいました。
まさか息を引き取ったのではと、おろおろしている私の肩を背後から叩く人がいます。それはさっき、部屋のドアを開けて入ってきた人物でした。
彼は品の良さそうな中年の紳士で、穏やかに私を見返します。彼はそこに立って、一部始終を見ていたはずですが、私の行為を咎めるでもなく、黙って婦人のベッドに近づき、寝具の乱れを整えました。そして、改めて私に向き直りました。
「彼女は深く眠ったようです」
ぎょっとする私に、紳士は微笑みました。
「大丈夫。ただ眠っただけです。心配には及びません。ところで、あなたはどなたで、どうしてここに?」
そのシンプルで当然の質問に私はどぎまぎしてしまいました。
どう説明すればいいのか判らなかったのです。彼から見れば、私は不審な侵入者でしかありません。そんな怪しげな男の怪しげな話を信じてくれるだろうか? ありのままを話してこの紳士は納得してくれるのだろうか?
私は結局、適切な言葉を見つけることができず、ただ俯いてそこに立っていることしか出来ませんでした。
紳士はしばらくそんな私の様子を静かにみつめていましたが、このままでは埒があかないと思ったのでしょう、あくまでも優しい声で再び私に言いました。
「何を聞いても驚きません。話していただけませんか? あなたが何故、私の妻の病室にいるのかを」
私は弾かれるように顔を上げて紳士に問い返しました。
あの人は、あなたの奥さんなのですか?
紳士は頷きました。そして、肯定されたことに私は失望しました。
何がどこでどう狂ってしまったのでしょう。夢の中の少女があの婦人? 婦人はこの紳士の妻?
私は気が付くと、笑っていました。笑いながら泣いていました。若い私には込み上げてくる感情を抑えることが出来なかったのです。
「私に話してください」
紳士がもう一度言いました。それは感情の無い声でした。悲しんでもいない、怒ってもいない、何も無い声でした。
私はだらしなく涙を流しながら、ただ頷いていました。
紳士は紙コップの中のコーヒーを随分、長い間みつめていました。
私の話がショックだったのかと心配になりましたが、ようやく上げた彼の顔には、何故か優しい表情が浮かんでいました。
私と紳士はあの後、病室を出てロビーの隅にあるソファーに落ち着きました。そこでようやく私は紳士に今までのいきさつを話すことが出来たのです。
しばらくして紳士は静かに言いました。
「……次は私が話をする番ですね。私の妻は……十八歳で時間が止まっているのですよ」
時間が止まっている?
私はその言葉の意味が判らず、紳士の顔を見返しました。紳士はそんな私に薄く微笑むと、言葉を続けます。
「私と妻は同い年でしてね、もう随分、昔の話になりますが、若い頃、私たちは、私の仕事が軌道に乗って落ち着いたら結婚しようと約束していました。婚姻届は既に取り寄せていて、署名も済ませていたのです。何かあるたびにそれを眺めては、近い未来に二人で役所に出しに行くことを楽しみに、日々、頑張っていたのです。
彼女が交通事故に遭ったのは、そんな時でした。まだ彼女は十八歳だったのに、その事故により植物状態になってしまいました。
あれから三十年近く彼女は眠り続けています。多分、あなたの言う夢の中の少女は十八歳に頃の妻の姿なのでしょう。不思議なこともあるものです」
あなたはこの夢の話を信じてくれるのですか?
紳士は頷きました。
「妻は年に一度ほどのペースで不意に目覚めるのですよ。ついさっき、あなたもご覧になったでしょう? まあ、目覚めると言ってもそれはごく短い時間で、すぐにまた昏睡状態に戻るのですが。
それでも私は必死に声を掛けます。私が判るかい? 私はここにいるよ、と。しかし、彼女は私を見ません。彼女は……年を取ってしまった私に気が付かないのです。……仕方ありません。彼女の意識は今も十八歳のまま時間が止まっているのですから。彼女の記憶の中には十八歳の頃の私しかいないのです。年を取ってしまった私を受け入れられるわけがありません」
ひとつ息をつくと、紳士はソファーから立ち上がりました。
「十八歳の妻は私ではなく、あなたをみつけたのでしょうね。妻はあなたの手を握った。私のではなく」
何か言いかける私に軽く手をふって遮ると、彼は言いました。
「会いに来てくれてありがとう。妻に幸福な夢を見せてくれてありがとう。私には出来なかったことだよ」
幸福な夢?
確かに幸福かもしれない。現実の鏡を覗くまでは。
私は釈然としない気持ちで問い返しました。
彼女の……いえ、奥さんの寝顔はあまり幸福そうには見えませんでした。
私のその言葉に、立ち去りかけていた紳士は振り返り、まっすぐに私を見ました。あの何の表情もない顔で。
「……妻は私のすべてでした。私たちが結婚したのは彼女が事故に遭った後なのです。二人で行くはずだった役所に一人で行って、悲しい思いで婚姻届を提出しました。それが彼女に対して私に出来る唯一のことだったから。
……私は彼女を幸福にすると約束したのです。幸福にすると。しかし、結婚してずっと彼女の傍にいることが果たして彼女の為だったのか、それとも何もできない無力な自分をただ慰めるだけの行為だったのか……今ではもう判らなくなってしまいました。
私はさっき、妻の病室であなたをみつけて驚きました。それは知らない人間が病室にいたからではありません。あなたが、私の若い頃によく似ていたからです。奇妙な錯覚に囚われてしまいましたよ」
軽く一礼すると、紳士は足早に立ち去って行きました。また病室に戻るのでしょう。いつか妻が自分をみつけてくれる日を待つために。
何故?
それはきっと、彼もまた幸福な夢が見たいから。
私は長い間、冷たいロビーにひとり、立ち尽くしていました。
次に気が付いた時、私はどこをどう歩いたのか、またあの『乱反射』という店に戻っていました。
例のカウンターの席に座り、目の前にはあの青年がいます。彼は何もかもを見透かしているような透明なまなざしで私を見、やはり前と同じく温かいコーヒーを出してくれました。
「お会いになれましたか?」
青年にそう聞かれて、私は曖昧に頷きました。会えたのか、会えなかったのか、自分でもよく判らなかったのです。
青年は私の顔色ですべてを察したようでした。少し悲しげに微笑むと言いました。
「あなたの選んだことです。満足されたのでは?」
……冷たいことを言うのですね。
私の言葉に青年は微かに首を傾げました。
「僕は言いました。夢は夢であるから美しいのだと。あなたはご存知ないのですね。川はいろんなものを運んできます。良いものも、悪いものの。あるいは人の切実な想いまでも」
不意に頭の奥にゆるゆると流れるあの川の姿が浮かびました。
家庭排水にまみれる、ありふれた都会の川の中に、いくつもの想いや祈り、そして悲しみや憎悪までもがのたうちながら、どろどろと流れていくさまが、その時の私には確かに見えたのです。
それは恐ろしい光景でした。
私はひどいめまいに襲われながら、青年に訴えました。
私はこれからどうしたらいいのでしょう? 彼女は? あの夢は?
青年は気の毒そうに私をみつめ、低い声で言いました。
「夢は夢。現実を知り、落胆している今のあなたに、あの夢は何の意味もなさないものになってしまったはず。
後はあなた次第です。もうあなたがその夢の少女に囚われないと思うなら、これからあなたが煩わされることはなくなるでしょう。そう……いつかあなたが今より大人になった時、疲れて眠る時や、寂しさに苛まされる夜などに、あるいは少女の夢を見るかもしれません……」
彼女の夢が何の意味もなさないもの?
私が、愕然としてつぶやくと、青年はひとつ、首を振ります。
「あなた次第だと申しました。もし、その少女の夢にあなたが何かの意味を求めるのなら……それはつまり、少女の夢にあなたが囚われ続けるということ。僕は忘れることをお勧めしますが……」
そう言い淀むと、彼は沈黙してしまいました。
私は少なからず混乱していました。
現実は見ました。落胆もしました。でも私はまだ、あの少女の細い首筋のやわらかな線を、うっすらといつも微笑んでいるあの桜色の唇を忘れられずにいたのです。
彼女はあの白い部屋でまだ私の訪れを待っている……その思いは確信に近いものでした。
さらに問いかけようとする私を、青年はその透明な瞳で黙らせると、それは逆に恐ろしいくらい優しい声で言いました。
「目が覚めたのならお帰りなさい。僕としてはあなたがこれから夢などに足を取られたりせず、ご自分の住む現実世界を上手く歩いて行かれることを祈るばかりです」
そして青年は微笑みました。
それは男の私ですら見惚れてしまうほどの魅惑的な笑みでしたが、私はすぐに彼の顔から目をそらしてしまいました。何故か、私は怖かったのです。この目の前の好青年に何故、怖いと思うのか……自分でも判りませんでした。
あなたはご存知なのでしょう? 何もかもを。
尚も言い募る私に、青年は黙って肩を竦めました。相変わらず、その透き通った瞳で私をみつめるだけです。私はたまらなくなり、ついに席から立ち上がりました。ようやく判ったのです、彼の怖さの理由が。
それは彼の透明感です。
彼は透明すぎるのです。存在する故に生じる『影』が感じられないのです。それはまるで本当はそこに存在しないのに姿は見える蜃気楼のようです。
あくまでも透明で儚げな存在。その危うさが私の心に恐怖を生むのでしょう。
私は逃げるように出口に向かいました。ドアのノブに手を掛けた時、青年が言いました。
「夢の意味はご自身が決めるのです。何の意味もないと思えば、それはすぐに忘れ去られるただの夢。何かあると意味を探れば夢はたちまち繁殖し、あなたの心を捉えてしまうでしょう。……お気を付けなさい。夢は人の切実なる想いが具現化したもの。想いとはつまり……呪いの別名です。それは……今のあなたならお判りなのではありませんか」
私は肩越しに振り返りました。彼の言葉は私の心に深い影を落としたのです。しかし、青年は何事もなかったようにすぐに目を伏せると洗い物を始めました。無機質な水とグラスの弾ける音がいつまでも耳に残って離れませんでした。
こうして私は店を出て、そしてその後、二度と彼と会うことはありませんでした。気になって『乱反射』という店を何度か探してみたのですが、とうとう行き着くことは出来ませんでした。
あの時の青年がハートヒーラーと呼ばれる人であるということは、先ほどもお話しした通り、随分、後になって知ったことです。
……さあ、これで私の話は終わりです。まだ何か聞きたいことがありますか?
あの夢、ですか? その後、夢を見たか、ということですね?
当時の私は現実を知って落胆し、そして恐れながらも、まだ彼女に未練がありました。ですがあれ以来、少女の夢は珠城さんの忠告が心に引っかかっていたせいか、すっかり見なくなりました。
冷たい男ですよね。恋人を捨てたようなものです。
しかし、あれからいくつかの時間が流れた今頃になって、私はあの夢の続きを見るようになりました。今更と、あなたはお笑いになるでしょうか。
それは心の行き場のない、とても寂しい夜に決まって訪れます。多分、それは彼女への想いなどという甘やかなものではなく、ただの私の現実逃避に他ならないのでしょうが……それでも、彼女はあの時と変わらない優しさで私を迎えてくれます。ごく自然に私の傍にいて、今までずっとそうしてくれていたように優しく微笑みかけてくれます。
私は少女と手を取り合い、語り合い、笑い合いながらよく晴れた日の川辺の道をふたりきりで歩きます。川の流れは和やかで、日の光を映し、優しく揺れています。
私は二人きりの美しい世界で何度も彼女を抱きしめました。
触れたくて触れた彼女の肌。
聞きたくて聞いた彼女の声。
望みはすべて叶えられ、私は……。
「……お気を付けなさい。夢は人の切実なる想いが具現化したもの。想いとはつまり……呪いの別名です。それは……今のあなたならお判りなのではありませんか」
私はいつもその声に起こされます。そして目覚めてそこにあるものは色あせた現実です。それは紛れもない私の世界なのです。
幸福な夢が見たかった。
けれどそれは、目覚めてみればそんな悲しい夢だったのです。
(幸福な夢 おわり)
ええ、確かにあなたにお会いするのは今日が初めてです。でもあなたのお名前だけは一方的にですが、前から存じ上げているので、どうも初めてという気がしないんですよ。
雑誌で……名前は何と言いましたか……ああ、そうそう、『謎工房』でしたね。その雑誌でお名前を拝見しました。ですから、あなたがわざわざ私を訪ねてこられた理由も察しがつきますよ。あなたの目的は珠城さんでしょう? 彼に関わる話を収集している、そういうことですよね?
前もって申し上げておきますが、私が珠城さんと会ったのはほんの二回だけです。しかもそれは偶然の産物でした。
あの当時、私はまだ大学生で、珠城さんのことは何も知りませんでした。珠城さんがハートヒーラー、心の治療師と呼ばれていることも。
……珠城さん、彼は何者なのでしょうね? 生死に関係なく、その迷える魂を救うという。ハートヒーラー、心の治療師、癒す人……彼を形容する言葉は様々です。それ故、とらえどころがない。
我々には見えないものが彼には見えるようですね? 彼は何を見ているのでしょう?
ああ、それはあなたにも判らないのですね。珠城さんをずっと追いかけているあなたさえも判らないというのなら、それは永遠に解けない謎なのかもしれません。きっと、本当の彼を誰も知らないのでしょう。
伝説。
そう言ってしまっても差支えありませんよね。珠城さんにまつわる伝説……何でも彼の元を訪れようと思えば生半可な気持ちでは駄目だ、切実に、心から彼に会いたい、また会わなくてはいけないという状況でなければ、彼の元には辿り着けないという……。
彼と連絡を取りたいと、住所や電話番号を入手すべく奔走する人もいると聞きますが、そんなものあってないようなもの。みつかるわけがありませんよね。
先ほども言いましたが、私はあの当時、珠城さんの存在すら知りませんでした。それでも彼の元に、あの店にたどり着くことができたのは、私の、彼女への想いが本物だったからなのでしょう。そして、その想いはあまりにも危ういものだったから……。
すべてが終わった後、もう一度、珠城さんに会ってみたいと思いました。彼はそう思わせる魅力を持った人でしたから。しかし、もう会うことは叶いませんでした。
記憶にある道を辿ってあの店を探しました。でも、どうしてもみつけることができなかったのです。今、もしもう一度、彼に会えたとしたらどうだろう? そんなことを時々考えます。でも、きっと彼にも今の私を救うことはできないでしょう。……何故って、それは私が救われたいと思っていないからですよ。
あなたにはありませんか? これを続けているといつか身の破滅につながる……それが判っていても、どうしてもやめることができない、そんなことが。
……ああ、すみません。話しが逸れてしまいましたね。では、これからあなたの望む話しをすることにします。その昔に起こった私と彼女の物語をお聞かせしましょう。それをどう解釈されるかは……あなたにお任せします。
☆
当時、私は地方から大学に入学するために上京してきたばかりの田舎者でした。近くに住む親戚の計らいで川辺に建つ新築マンションに入居することができ、それはなかなか快適な新生活の始まりのはず、でした。
引っ越して落ち着く間もなく、おかしなことが起き始めたのです。
おかしなこと。それは『夢』です。
奇妙な夢を見るようになったのです。
新しい生活や学校、人間関係に戸惑うことも多かった頃のことですから、最初のうちは慣れない環境のせいでそんな夢を見るのだろうと思っていました。じき、収まるだろうと。しかし、都会の生活に慣れ始めてもその『夢』は私の元を訪れ続けます。
初めは気味悪く思っていたのですが、しかし気が付くと私はその夢の訪れを心待ちにするようになっていました。いえ、私が待っていたのは夢そのものではなく、夢に登場する儚げな少女のことなのですが。
彼女はいつも窓辺に立っていました。そこは気の遠くなるくらい白く清潔な部屋で、私は気が付くとその部屋の真ん中にぽつんと立っているのです。
どうしてここにいるのか、あるいはいなければならないのか、何も判らないまま、私はそこにいて、大きな窓の傍に立つ少女をみつめ続けていました。
彼女は私を同じくらいの年齢に見えました。小柄なほっそりとした体に白い質素なワンピースをまとい、黒く長い髪を素直に肩先に下ろしていました。白く小さな顔に大きな黒い瞳が印象的な少女です。
彼女は何も言いません。私も何も言いません。ただ、みつめあうだけでした。
みつめあう。
ただ、それだけで不思議と私たちは判り合えたのです。知らない少女なのに何年も一緒にいる恋人同士のように思えたものでした。私はその時、確かに幸福でした。
その短い夢は毎夜、私の元を訪れます。
毎夜、私は彼女とみつめあいました。私たちは恋をしていたのです。……おかしいですか? 夢の中の、現実に存在しない少女と恋に落ちるなんて。でも、私は真剣でした。真剣に恋をして、そのせいで学業も手がつかなくなるほどだったのです。
欲求は募ります。
言葉を交わしたい。彼女に触れたい。彼女を抱きしめたい。自分だけのものにしたい……!
鏡を見るたび、衰えていく自分の姿をそこにみつけました。
体のどこかにある本能が少女の夢に囚われることの危険を声を限りに警告します。その声を確かに聞きながらも、それが正しいと思いながらも、私は少女に恋する気持ちを抑えられずにいました。
私にとって夢の世界の少女が唯一の確かな現実で、現実であるこの世界……つまり、少女のいないこの世界がまるで不確かな夢の世界のようでした。
そのうち、とうとう私は大学に行くこともやめてしまいました。彼女の面影を求めて、ふらふらと街をさ迷い歩く無為な毎日を過ごすようになっていたのです。
そんな生活がひと月も続いたある日のこと、どこをどう歩いたのか、気が付くと私は知らない街角に立っていました。
もう日は傾いて、時はいわゆる逢魔が時です。不意に私はひどい疲労を感じました。立っていることも辛いほどの重たい疲労感でした。
ふらついた私が手をついた壁には、コーヒー色の看板がかかっていました。目をやるとそこには『乱反射』とあります。喫茶店かと思い、私は深く考えずそのドアを押し開けて店内に入りました。中は薄暗く、間接照明の柔らかな光が私の気持ちを和ませてくれました。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうから優しい声がしました。
ぼんやりとしていた私はぎょっとしましたが、しかしその声の主を見て不思議と心は落ち着きました。その声の主は青年でした。優しげな面差しの彼は、どう見ても挙動不審で怪しげな私をきれいな微笑みで迎えてくれたのです。彼はただ佇むだけの私をカウンターの席に招いてくれ、何も言わない私にコーヒーを出してくれました。
「温かい飲み物の方がよろしいですよね?」
私は無言で頷き、コーヒーを一口飲みました。ほろ苦いコーヒーがとてもおいしく、その温かさは心に沁みました。それは久しぶりに感じる癒しでした。私は不意にあふれ出そうになる涙を指で押さえ、ごまかすために青年にあえて話しかけました。
ここはどこですか?
その質問はひどく間の抜けたものだったと思います。しかし、青年は微笑みもそのままに丁寧に応じてくれました。
「ここは『乱反射』というバーです」
あ、すみません。バーならまだ開店前ですよね?
「構いません。どうぞ、ごゆっくり」
あの、私はどうしてここにいるのでしょう?
「それはあなた自身がご存知のはず」
私が知っている?
そう言われて私は、はっとしました。
不意にあの夢の少女の姿が頭に浮かんだのです。そして、その刹那、少女のことをこの目の前にいる知らない青年に話してみたくなりました。彼に彼女の話しをするために、私はここにいるような気がしたのです。
私の気持ちを見透かしたように青年はひとつ頷いてくれました。それをきっかけに、今まで誰にも言えなかった少女の夢を堰を切ったように私は語り始めていました。
そうして、すべてを語り終えた私に青年は言ったのです。
「あなたの望みはなんですか?」
望み?
私は真っ直ぐに彼の目を見、そして淀みなく答えました。私の望みはただひとつ、夢ではなく現実の世界で彼女に会うことだと。
「よろしいのですか」
私の答えを青年は悲しそうに受け取り、やはり悲しそうに言いました。
「夢は夢だからこそ美しいのです。その夢はあなたの成長と共にいつかは消えて懐かしむものになるはずです。今は辛くてもそうなるまで待つことを僕は勧めます」
私は激しく首を振りました。待つなんてできない。
待つことも、夢の中のほんのひと時にしか彼女に会えないことも、すべてが嫌でした。この身を焼き、血すらも焦がしつくすようなこの恋の痛みに私は気が狂わんばかりだというのに。
青年は少し考えているようでした。しばらくして再び口を開いた彼はどこか疲れているように見えました。
「あなたの背後に「流れ」が見えます。これは川。川の流れを追いなさい。あなたの想い人は川の上流にある白い建物の中にいます。……どうしても会いたいと言うのなら僕は止めません。お行きなさい」
今思えば不思議なことに、その時の青年の言葉を少しも疑いませんでした。私は弾かれるように席を立つと、礼も言わず店を飛び出していたのです。
川。
私のマンションを前を流れるあの川のことに違いないと思いました。そうか、あの川が私たちを繋いでいたのだ。
私は歓喜の声を上げて、青年に言われた通り、川の流れを追いました。もう辺りは夜で、足元も危うい暗さでしたが、そんなことに構う心の余裕はありません。川辺の道を何度もつまずきながら、私は走り続けました。
彼女に会えるのだ、もうすぐ! もうすぐ!
どのくらい走ったでしょうか、暗い空に突然、白い建物のシルエットが浮かび上がりました。彼女がいるのはそこに違いない。すぐにその白い建物が病院だと判りましたが、私は何も考えず、病院にたどり着くと裏口から中に入りました。そして、本能に任せて彼女を探したのです。
人の気配のない廊下の一角で私は足を止めました。誰かに呼ばれたような気がしたのです。振り向いた先には病室のドアがありました。私は何の迷いもなく、そのドアを押し開き、中に入りました。
そこは白い部屋でした。あの夢で見たままの。
大きな窓の向こうには星もまばらな夜が広がり、まるで一幅の絵のようにそこにありました。
夢とまるで同じ白い部屋の光景でしたが、しかし、夢と異なっているところもあります。それは少女の姿がないことでした。
私は窓際のベッドに近づきました。
そこに誰かが眠っていたのです。白い寝具の中に長い黒髪が見えました。見覚えのあるあの艶やかな黒髪です。私は高鳴る胸を抑えつつ、手を伸ばしました。その手がもう少しで彼女に届きそうになった時、突然、背後のドアが開いたのです。
私は不測の事態に驚いて、その場を飛びのきました。
その時、はずみで彼女の眠っている寝具を引っ張ってしまいました。私は慌てましたが、しかし、そのせいでそこに眠っている人の顔が見えました。私は開いたドアのことなど忘れて、眠っている人物の顔を覗き込んだのです。
そして……私はそこに呆然と立っていることしか出来ませんでした。何故ならベッドで眠っていたのは私の恋する少女ではなく、私の母親と同年代と思われる見知らぬ中年の婦人だったからです。
ショックのあまり声の出ない私は、よろよろと後ずさりました。自分が何をしたいのか、どうしてここにいるのか、その一瞬で判らなくなってしまったのです。少女を想うあまり、会えなかったこの落胆は大きく、泣き叫びたい衝動に駆られました。
そんな時です。ベッドの婦人が目を開けたのは。それは突然の覚醒でした。ひるむ私を婦人の瞳は一途にみつめます。驚いたことに、彼女の漆黒の瞳は確かにあの少女のものでした。
私は再度、婦人の顔を覗き込みました。どこかに少女の面差しがないか、必死で探しました。その時、不意に彼女の細い腕が伸び、私の手首を掴んだのです。それは女性のものとは思えないほどの強い力で、そして何よりも情熱的でした。しかし、その感触はざらざらと乾燥していて、まるで枯れ枝にでも絡み付かれたようで、私の心には嫌悪感しか浮かんできません。
私の夢に現れたあの少女の手はふっくらとしていて、触ったことがなくともその感触が柔らかくしっとりとしていることは容易に想像がつきます。あの手の持ち主がこの婦人であるはずがありません。私の少女など、どこにもいないのです。
気が付くと私は婦人の手を乱暴に振りほどいていました。
一瞬、彼女の唇が動き、何か言ったようでしたが、私にはその言葉は届きません。婦人はそれを最後にぐったりとして目を閉じてしまいました。
まさか息を引き取ったのではと、おろおろしている私の肩を背後から叩く人がいます。それはさっき、部屋のドアを開けて入ってきた人物でした。
彼は品の良さそうな中年の紳士で、穏やかに私を見返します。彼はそこに立って、一部始終を見ていたはずですが、私の行為を咎めるでもなく、黙って婦人のベッドに近づき、寝具の乱れを整えました。そして、改めて私に向き直りました。
「彼女は深く眠ったようです」
ぎょっとする私に、紳士は微笑みました。
「大丈夫。ただ眠っただけです。心配には及びません。ところで、あなたはどなたで、どうしてここに?」
そのシンプルで当然の質問に私はどぎまぎしてしまいました。
どう説明すればいいのか判らなかったのです。彼から見れば、私は不審な侵入者でしかありません。そんな怪しげな男の怪しげな話を信じてくれるだろうか? ありのままを話してこの紳士は納得してくれるのだろうか?
私は結局、適切な言葉を見つけることができず、ただ俯いてそこに立っていることしか出来ませんでした。
紳士はしばらくそんな私の様子を静かにみつめていましたが、このままでは埒があかないと思ったのでしょう、あくまでも優しい声で再び私に言いました。
「何を聞いても驚きません。話していただけませんか? あなたが何故、私の妻の病室にいるのかを」
私は弾かれるように顔を上げて紳士に問い返しました。
あの人は、あなたの奥さんなのですか?
紳士は頷きました。そして、肯定されたことに私は失望しました。
何がどこでどう狂ってしまったのでしょう。夢の中の少女があの婦人? 婦人はこの紳士の妻?
私は気が付くと、笑っていました。笑いながら泣いていました。若い私には込み上げてくる感情を抑えることが出来なかったのです。
「私に話してください」
紳士がもう一度言いました。それは感情の無い声でした。悲しんでもいない、怒ってもいない、何も無い声でした。
私はだらしなく涙を流しながら、ただ頷いていました。
紳士は紙コップの中のコーヒーを随分、長い間みつめていました。
私の話がショックだったのかと心配になりましたが、ようやく上げた彼の顔には、何故か優しい表情が浮かんでいました。
私と紳士はあの後、病室を出てロビーの隅にあるソファーに落ち着きました。そこでようやく私は紳士に今までのいきさつを話すことが出来たのです。
しばらくして紳士は静かに言いました。
「……次は私が話をする番ですね。私の妻は……十八歳で時間が止まっているのですよ」
時間が止まっている?
私はその言葉の意味が判らず、紳士の顔を見返しました。紳士はそんな私に薄く微笑むと、言葉を続けます。
「私と妻は同い年でしてね、もう随分、昔の話になりますが、若い頃、私たちは、私の仕事が軌道に乗って落ち着いたら結婚しようと約束していました。婚姻届は既に取り寄せていて、署名も済ませていたのです。何かあるたびにそれを眺めては、近い未来に二人で役所に出しに行くことを楽しみに、日々、頑張っていたのです。
彼女が交通事故に遭ったのは、そんな時でした。まだ彼女は十八歳だったのに、その事故により植物状態になってしまいました。
あれから三十年近く彼女は眠り続けています。多分、あなたの言う夢の中の少女は十八歳に頃の妻の姿なのでしょう。不思議なこともあるものです」
あなたはこの夢の話を信じてくれるのですか?
紳士は頷きました。
「妻は年に一度ほどのペースで不意に目覚めるのですよ。ついさっき、あなたもご覧になったでしょう? まあ、目覚めると言ってもそれはごく短い時間で、すぐにまた昏睡状態に戻るのですが。
それでも私は必死に声を掛けます。私が判るかい? 私はここにいるよ、と。しかし、彼女は私を見ません。彼女は……年を取ってしまった私に気が付かないのです。……仕方ありません。彼女の意識は今も十八歳のまま時間が止まっているのですから。彼女の記憶の中には十八歳の頃の私しかいないのです。年を取ってしまった私を受け入れられるわけがありません」
ひとつ息をつくと、紳士はソファーから立ち上がりました。
「十八歳の妻は私ではなく、あなたをみつけたのでしょうね。妻はあなたの手を握った。私のではなく」
何か言いかける私に軽く手をふって遮ると、彼は言いました。
「会いに来てくれてありがとう。妻に幸福な夢を見せてくれてありがとう。私には出来なかったことだよ」
幸福な夢?
確かに幸福かもしれない。現実の鏡を覗くまでは。
私は釈然としない気持ちで問い返しました。
彼女の……いえ、奥さんの寝顔はあまり幸福そうには見えませんでした。
私のその言葉に、立ち去りかけていた紳士は振り返り、まっすぐに私を見ました。あの何の表情もない顔で。
「……妻は私のすべてでした。私たちが結婚したのは彼女が事故に遭った後なのです。二人で行くはずだった役所に一人で行って、悲しい思いで婚姻届を提出しました。それが彼女に対して私に出来る唯一のことだったから。
……私は彼女を幸福にすると約束したのです。幸福にすると。しかし、結婚してずっと彼女の傍にいることが果たして彼女の為だったのか、それとも何もできない無力な自分をただ慰めるだけの行為だったのか……今ではもう判らなくなってしまいました。
私はさっき、妻の病室であなたをみつけて驚きました。それは知らない人間が病室にいたからではありません。あなたが、私の若い頃によく似ていたからです。奇妙な錯覚に囚われてしまいましたよ」
軽く一礼すると、紳士は足早に立ち去って行きました。また病室に戻るのでしょう。いつか妻が自分をみつけてくれる日を待つために。
何故?
それはきっと、彼もまた幸福な夢が見たいから。
私は長い間、冷たいロビーにひとり、立ち尽くしていました。
次に気が付いた時、私はどこをどう歩いたのか、またあの『乱反射』という店に戻っていました。
例のカウンターの席に座り、目の前にはあの青年がいます。彼は何もかもを見透かしているような透明なまなざしで私を見、やはり前と同じく温かいコーヒーを出してくれました。
「お会いになれましたか?」
青年にそう聞かれて、私は曖昧に頷きました。会えたのか、会えなかったのか、自分でもよく判らなかったのです。
青年は私の顔色ですべてを察したようでした。少し悲しげに微笑むと言いました。
「あなたの選んだことです。満足されたのでは?」
……冷たいことを言うのですね。
私の言葉に青年は微かに首を傾げました。
「僕は言いました。夢は夢であるから美しいのだと。あなたはご存知ないのですね。川はいろんなものを運んできます。良いものも、悪いものの。あるいは人の切実な想いまでも」
不意に頭の奥にゆるゆると流れるあの川の姿が浮かびました。
家庭排水にまみれる、ありふれた都会の川の中に、いくつもの想いや祈り、そして悲しみや憎悪までもがのたうちながら、どろどろと流れていくさまが、その時の私には確かに見えたのです。
それは恐ろしい光景でした。
私はひどいめまいに襲われながら、青年に訴えました。
私はこれからどうしたらいいのでしょう? 彼女は? あの夢は?
青年は気の毒そうに私をみつめ、低い声で言いました。
「夢は夢。現実を知り、落胆している今のあなたに、あの夢は何の意味もなさないものになってしまったはず。
後はあなた次第です。もうあなたがその夢の少女に囚われないと思うなら、これからあなたが煩わされることはなくなるでしょう。そう……いつかあなたが今より大人になった時、疲れて眠る時や、寂しさに苛まされる夜などに、あるいは少女の夢を見るかもしれません……」
彼女の夢が何の意味もなさないもの?
私が、愕然としてつぶやくと、青年はひとつ、首を振ります。
「あなた次第だと申しました。もし、その少女の夢にあなたが何かの意味を求めるのなら……それはつまり、少女の夢にあなたが囚われ続けるということ。僕は忘れることをお勧めしますが……」
そう言い淀むと、彼は沈黙してしまいました。
私は少なからず混乱していました。
現実は見ました。落胆もしました。でも私はまだ、あの少女の細い首筋のやわらかな線を、うっすらといつも微笑んでいるあの桜色の唇を忘れられずにいたのです。
彼女はあの白い部屋でまだ私の訪れを待っている……その思いは確信に近いものでした。
さらに問いかけようとする私を、青年はその透明な瞳で黙らせると、それは逆に恐ろしいくらい優しい声で言いました。
「目が覚めたのならお帰りなさい。僕としてはあなたがこれから夢などに足を取られたりせず、ご自分の住む現実世界を上手く歩いて行かれることを祈るばかりです」
そして青年は微笑みました。
それは男の私ですら見惚れてしまうほどの魅惑的な笑みでしたが、私はすぐに彼の顔から目をそらしてしまいました。何故か、私は怖かったのです。この目の前の好青年に何故、怖いと思うのか……自分でも判りませんでした。
あなたはご存知なのでしょう? 何もかもを。
尚も言い募る私に、青年は黙って肩を竦めました。相変わらず、その透き通った瞳で私をみつめるだけです。私はたまらなくなり、ついに席から立ち上がりました。ようやく判ったのです、彼の怖さの理由が。
それは彼の透明感です。
彼は透明すぎるのです。存在する故に生じる『影』が感じられないのです。それはまるで本当はそこに存在しないのに姿は見える蜃気楼のようです。
あくまでも透明で儚げな存在。その危うさが私の心に恐怖を生むのでしょう。
私は逃げるように出口に向かいました。ドアのノブに手を掛けた時、青年が言いました。
「夢の意味はご自身が決めるのです。何の意味もないと思えば、それはすぐに忘れ去られるただの夢。何かあると意味を探れば夢はたちまち繁殖し、あなたの心を捉えてしまうでしょう。……お気を付けなさい。夢は人の切実なる想いが具現化したもの。想いとはつまり……呪いの別名です。それは……今のあなたならお判りなのではありませんか」
私は肩越しに振り返りました。彼の言葉は私の心に深い影を落としたのです。しかし、青年は何事もなかったようにすぐに目を伏せると洗い物を始めました。無機質な水とグラスの弾ける音がいつまでも耳に残って離れませんでした。
こうして私は店を出て、そしてその後、二度と彼と会うことはありませんでした。気になって『乱反射』という店を何度か探してみたのですが、とうとう行き着くことは出来ませんでした。
あの時の青年がハートヒーラーと呼ばれる人であるということは、先ほどもお話しした通り、随分、後になって知ったことです。
……さあ、これで私の話は終わりです。まだ何か聞きたいことがありますか?
あの夢、ですか? その後、夢を見たか、ということですね?
当時の私は現実を知って落胆し、そして恐れながらも、まだ彼女に未練がありました。ですがあれ以来、少女の夢は珠城さんの忠告が心に引っかかっていたせいか、すっかり見なくなりました。
冷たい男ですよね。恋人を捨てたようなものです。
しかし、あれからいくつかの時間が流れた今頃になって、私はあの夢の続きを見るようになりました。今更と、あなたはお笑いになるでしょうか。
それは心の行き場のない、とても寂しい夜に決まって訪れます。多分、それは彼女への想いなどという甘やかなものではなく、ただの私の現実逃避に他ならないのでしょうが……それでも、彼女はあの時と変わらない優しさで私を迎えてくれます。ごく自然に私の傍にいて、今までずっとそうしてくれていたように優しく微笑みかけてくれます。
私は少女と手を取り合い、語り合い、笑い合いながらよく晴れた日の川辺の道をふたりきりで歩きます。川の流れは和やかで、日の光を映し、優しく揺れています。
私は二人きりの美しい世界で何度も彼女を抱きしめました。
触れたくて触れた彼女の肌。
聞きたくて聞いた彼女の声。
望みはすべて叶えられ、私は……。
「……お気を付けなさい。夢は人の切実なる想いが具現化したもの。想いとはつまり……呪いの別名です。それは……今のあなたならお判りなのではありませんか」
私はいつもその声に起こされます。そして目覚めてそこにあるものは色あせた現実です。それは紛れもない私の世界なのです。
幸福な夢が見たかった。
けれどそれは、目覚めてみればそんな悲しい夢だったのです。
(幸福な夢 おわり)