彼女は幽霊が出る、と言った。
 珠城は持ち上げたカップをふと、口元で止めると眉を上げる。
「何が出る、ですって?」
「幽霊、です……」
「ああ、幽霊」
 彼女、小林夏恵(こばやし なつえ)は青い顔を不安そうに両手で覆いながら頷くと、部屋の中をそろそろと見渡した。
「私は生まれてから今までの十九年間、ずっとこの屋敷の中で過ごしてきました。ここしか知らないのです。この屋敷の中が私にとってすべての世界。一番、落ち着く場所なのです。
 なのに……私、最近、おかしいのです。地に足がついていないような不安定な感じで、ふらふらしてしまいますの」
「それはお父様が亡くなられた寂しさのせいなのではありませんか」
「ええ、そうですね。でも、私、父がいないことがこんな大きな喪失感を伴うとは思ってもみませんでした。冷たい娘とお思いになられるでしょうね?」
「いいえ。あなたは優しい娘さんだと僕は思いますよ」
「そんなこと」
 弱々しく顔を上げた彼女の首元に一本の赤黒い痣が浮かんでいるのを珠城は見たが、あえて何も言わず、静かに視線を外した。
「あら」
 夏恵はそこで初めて気が付いたという顔で、向かいに座っている青年……珠城を見た。
「ええっと……珠城さんと仰いましたわね? あなたは……父のお知り合いでしたか?」
「僕の父とあなたのお父様が友人同士なのです。先ほどお話ししましたが?」
 珠城は涼やかに微笑む。その無防備さに夏恵は少したじろいだ。
「……ごめんなさい。忘れるなんて」
「お疲れなのでしょう」
「そうなのかしら……」
 珠城は困惑する様子の夏恵に構わず、言葉を続けた。
「家もご近所だったのですよ。ですがあなたが生まれる前に引っ越して行かれてそれきりです。お父様が亡くなられたということを最近になって聞きまして、遅れませながら参上したというわけです」
「ああ、そうでしたわね。……すみません、私、何だかぼうっとしていて」
「構いませんよ。突然、尋ねた僕が悪いのです。それより、先ほど話されていた幽霊のこと、もう少し詳しく知りたいのですが」
「幽霊?」
 夏恵はきょとんと珠城の顔を見返した。
「……ああ、そんな話もしていましたわね。幽霊に関心がおありになるの?」
「あなたが悩まれているようでしたので」
「私が?」
「僕にできることならなんなりとお申し付けください。あなたの不安を取り除き、安らぎを取り戻して差し上げましょう」
「まあ」
 芝居がかった言い方をする珠城に夏恵は無邪気に笑った。
「勇ましいのね。では、この屋敷に巣食う悪いものでも祓ってくださるのかしら?」
「お望みなら」
「面白い方。……いいですわ。私の話に興味がおありなら、すっかり話して差し上げましょう」
 夏恵は一呼吸置くと、ゆっくりと話し始めた。
「……父が亡くなって一週間ほど経った頃、私の寝室に父が現れましたの」
「それは、つまりお父様の幽霊?」
「ええ。父はベッドに横たわる私をじっとみつめて言うのです。指輪のことを」
「指輪? どういうことでしょう?」
 珠城の問いに彼女は首を横に振った。
「よく判らないのです」
「何の指輪のことかも?」
「それはきっと……今年の誕生日に父からプレゼントされたアクアマリンの指輪のことだとは思うのですが……でもどうしてそれを父が気にするのか」
「判りませんか?」
「あ、いえ」
 少し慌てて、夏恵は付け加えた。
「……あの、私、実は、いつの間にかその指輪を失くしてしまいまして……もしかしたら、父はそのことを怒っているのかもしれません。でも、珠城さん、父は怒りというよりは悲しそうな目で私のことを見ているのです。あの表情の意味が私には判らないのです」
「その指輪を探してみましたか?」
「はい。でも見つかりません。一体、いつどこで失くしてしまったのか見当もつかなくて」
「それでは僕が探してみましょうか? 少しはお役に立てると思いますよ」
「あなたが?」
 夏恵はまっすぐに珠城を見た。珠城もその視線をまっすぐに受け止める。しばらく無言で視線を交わし合った後、夏恵は不意に微笑んだ。
「それは困ります」
「何故ですか?」
「失くした場所として一番、確率が高いのは私の寝室だからです。そこに男性を入れるわけには参りませんから」
「ああ、それは失礼しました」
 恥じ入るように顔を伏せると珠城は丁寧に謝罪した。
「つい好奇心に負けてつまらないことを申しました」
「いいえ。謝ることではありませんわ」
 それから虚ろに視線をさまよわせた後、何事かを考えながら彼女は言った。
「……あなたは……指輪を本当に探すことができるの?」
「ご期待に添えるように努力しますよ」
「そう」
 良家の子女らしい優雅な仕草で不意に彼女は立ち上がると、珠城を改めてみつめた。
「では、探してください。どうぞこちらへ。私の寝室は二階です」
「よろしいので?」
「はい。父の霊を慰めることができるのなら、何をためらうことがありましょう」
 そう言うと夏恵は珠城の反応を待たずに客間を出て、階段へと向かう。珠城は黙って彼女の背中に従った。
「……あなたもご存知ですよね、父の噂」
「はい? 何の噂でしょう?」
「良くない噂、ですわ」
 珠城は無言で顔を上げて、彼女の今にも消えてしまいそうな弱々しい背中をみつめた。
「あなたはその良くない噂を信じているのですか?」
「信じているというより、それが真実なのですから仕方ありません。……父は人を踏み台にして大成した人間です。父のせいで財産を失い、自殺した人もたくさんいると聞きました。ですから、父が亡くなって悲しんだのは私だけだったと思います」
「だとしても、あなたにとっては大切なお父様でしょう」
「家庭的な人ではありませんでした」
 切り込むように夏恵は言った。
「母は死ぬまで苦労していました。私もずっと孤独で……良い夫でも良い父でもなかったのです。でも、おっしゃる通り、私にとってはたった一人の肉親なのです」
 夏恵は小さく息をついた。
「私、生まれつき心臓が悪くて、そのせいで学校というものに行ったことがないのです。教育は父が選んだ家庭教師に教わり、外部との接触はほとんどありませんでした。ですから、お友達というものが私にはいないのです。……父が亡くなって私は本当にひとりきりになってしまいました」
「それはお気の毒です。……お身体の方は大丈夫ですか? 主治医の先生はいらっしゃるのでしょう?」
 夏恵は弱々しく首を振る。
「今は誰もこの屋敷を訪れません」
「誰も? それでは……」
「平気です。最近は以前ほど身体に負担を感じなくなっていますから」
「治ってしまった、と?」
「いえ、そうではないと思います。でも、身体は確かに軽くなりました。決して楽、という感覚ではないのですが」
「指輪をみつけることができたら、きっと楽になると思いますよ」
「……どういう意味でしょうか?」
 踊り場で足を止めると、夏恵は珠城を振り返った。
「何かご存知なのね? あなた……誰? 父親同士が友人なんて嘘ね?」
「……いいでしょう。白状しますよ」
 まっすぐな夏恵のまなざしに珠城は小さく肩を竦めた。
「この期に及んでの嘘は死者への冒涜でしょうから」
「なんですって?」
 驚く夏恵の視線をかわすと、珠城は上着のポケットから封書を取り出した。
「ここに一通の手紙があります。しかし、宛先がないのです」
「え? 宛先のない手紙、ですか? それは一体……」
「あなたのお父様がお書きになったものです」
「父が? その手紙をどうしてあなたが持っているのですか? あなたに宛てた手紙ではないのに?」
「この手紙は僕宛てであり、僕宛てではないのです」
「意味が判らないわ」
 夏恵は困惑して首を横に振った。
「その手紙……本当に父が書いたのですか?」
「はい。ご本人の署名もあります。この手紙に嘘がないことは、娘さんであるあなたが読めばすぐにお判りになると思いますよ。お父様の気持ちがこもっていますから」
「気持ち?」
「この手紙が僕の元に舞い込んで、そして僕自身がこれは僕の範疇の出来事だと判断しました。最後までやらせていただきます」
 呆然と立ち尽くす夏恵を追い越して、珠城は先に進もうとする。それを夏恵は慌てて引き留めた。
「待ってください! 何をしようというの? 帰ってください!」
「あちらの部屋は? ああ、お父様の部屋ですね?」
「だめです! 入らないでください!」 
 珠城は自分の腕を引く夏恵の手を逆に掴んで引き寄せた。そして彼女の耳元で囁くように言う。
「カラスが書き物机に似ているのはなあぜ?」
「……なんですって?」
 突然のことに夏恵はきょとんと珠城の顔を見返した。
「あなた、何を言っているの?」
「ご存じないですか? これはアリスです。不思議の国に迷い込んでしまったアリスという少女のお話に出てくる謎々です。判りますか、答え」
「そんなもの……判るものですか。問題自体が間違っているわ」
「その通りです。問題が間違っていれば正しい答えを導き出せるわけがありません。あなたの失くし物がみつかるように、あなたの探している答えが得られるように、僕はその手伝いをするだけです。……あなたのお父様に頼まれました。間違った問題そのものを訂正しましょう」
 彼は歩き出した。夏恵もまた、珠城に手を引かれるまま黙って歩いた。
 父親の部屋のドアを押し開くと、くすんだ死の匂いが侵入者を追い返すように流れ出してきた。それに構わず、珠城は中に入った。
 そこは書き物机と本棚があるだけの殺風景な部屋だった。奇妙なものはその机の上にあった。何か不吉なものがだらりと垂れさがっている。それは、腕だった。もう動かない腕。そして身体。そして決して開かない瞳。
「……あなたのお父様、ですね?」
 干からびた死体をみつめて珠城はその場にふさわしくない穏やかな声で言った。夏恵はゆっくりと後ずさり、そのまま壁に背中を押しつけた。両手で首の痣をかばうように包み込み、そして喘ぐように言う。
「父が私を……殺そうとしたのです! 私は首を絞める父に何の抵抗もできませんでした。父は……ひどい人です!」
 最後の言葉にすすり泣きが重なった。
 重い空気の中、珠城は死体の、固く握られた手にそっと触れた。解かれそうになかったその拳がするりと開くと、そこから零れ落ちたのは小さな水色の石がはめ込まれた指輪だった。それはきらりと光ると、床に音を立てて落ちる。
「夏恵さん、みつけましたよ。あなたの指輪です」
 指輪を床から拾い上げると大事そうに手のひらに乗せ、珠城はそれを夏恵に向けた。
「さあ、これを見て。そして思い出してください」
「思い出す?」
 夏恵は両手を首に押し当てたまま、必死の形相で珠城と指輪とを交互に見た。まるで発作のような状態が数秒、続いた後、ようやく何か言おうと開きかけた彼女の唇が、その寸前に恐怖の形に変わった。珠城が異変に気が付いた時はもう遅かった。
 それは水だ。
 珠城の手のひらに乗る指輪から、その水色の石からまるで涙のように水があふれ始めていたのだ。
 珠城が行動を起こす前に、指輪はまるで生あるもののように彼の指先を逃れ、すばやく夏恵の足元に転がった。
 あっと夏恵は小さく声を上げる。
 転がり落ちた指輪からあふれ出る水はその勢いを増し、部屋の中はたちまち水で満たされていった。夏恵は足元から這い上がってくる水を、恐怖を湛えた瞳でただただみつめることしか出来ない。
 珠城は予想外の展開に短く息を吐く。
 夏恵さんの負の意識が彼らを呼んでしまったか。しかし今、邪魔をされたら……。
 既に胸元まで迫ってきている忌々しい水をかき分けると、珠城は夏恵の元に急いだ。
 首まで水に浸かって悲鳴を上げている夏恵の腕を掴もうと手を伸ばした時、さっと彼女が水面から消えた。夏恵の後を追おうとした珠城は、しかしそうする前に足を強く引っ張られた。水中に引き込まれながら、彼は足だけではなく腕にも肩にも何かがまとわりついて、自分を深みに連れて行こうとしているのが判った。
 珠城はゆっくりと自分に絡み付いてくるそれらを見る。それは水の色よりも青い青い顔をした亡者たちの姿だった。彼らの目は何か言いたげに虚ろに彷徨っている。
「……あなたたちは、あの人の犠牲になって亡くなってしまった方たちですね」
 珠城は慈愛に満ちた声で彼らに話しかけていた。
「気持ちはお察しします。ですが、彼女を引きずり込むのはやめてくれませんか。あの子はまだ十九年しか生きていないのです。重い病気を患ってこの屋敷の中で孤独に生きてきました。せめて、と僕は思うのです。あなたたちも彼女を助け、そしてあの男……彼女の父親を許すことで上に行けます。もう、彼はここにはいない。あなたたちが何かしなくても行くべき場所に行くしかないのです。……ほら」
 珠城は顔を上げる。その先に満ち満ちる光の世界が見える。
「よく見て。僕が連れて行く」
 おおっとどよめく声がした。
 亡者たちは彼を戒めていた腕を緩め、暖かな光あふれる水面へと憧れの視線を注ぐ。
 珠城は水中を漂う夏恵を優しく抱き上げると、亡者たちを連れて静かに上へと昇り始めた。


 珠城は元の部屋にいた。
 あれだけの水がどこへ消えたのか、今まで起こっていたことが嘘のように何も変わっていなかった。部屋の中は勿論、珠城自身も少しも濡れていない。
 床に転がる指輪をみつけると、珠城はそれを大事そうに拾い上げ、部屋の奥に進む。次の間に続くドアを開けると、白いベッドがすぐに目に入った。その傍らに佇んで、珠城は深いため息をつく。
 そのベッドに横たわっていたのは夏恵だった。彼女が深い眠りについて、もう二度と目覚めないのは変色し始めている肌の色で判った。
 無言のまま、珠城は彼女の胸の上に重ねられている細い指に水色の指輪をはめた。未来を分かち合う相手にするような、丁寧で、そして不器用な手つきで。


 小林辰郎という男が珠城の『乱反射』という名のバーに現れたのは一週間前のことだった。
 男は自分の素性を明かさず、その代わりに一通の手紙を差し出した。珠城は何も書かれていない真っ白な封筒を見て言った。
「これではどなた宛ての手紙か判りませんよ。どこにも届かない。それでよろしいのですか?」
 小林はその言葉に頷いた。
「これはあなたに宛てた手紙でもあり、他の誰かへ宛てた手紙でもあるのです」
「僕宛てであり、他の誰かに宛てた手紙、ですか?」
「ええ」
 苦しそうに咳をすると、小林は話しを続けた。
「私はずっと、ワンマンで生きてきました。誰の意見も受け入れずに。それで成功したのです。ですがその運もとうとう尽きてしまいました。
 私は破産してしまいましてね、一度、転ぶと後は早い。仁徳の無さが祟って誰も助けてくれません。あっという間に奈落の底です。……仕方ありません。無慈悲なことをたくさんしてきましたからね、自業自得です。しかし、そんな私にも気がかりがひとつあります。娘のことです。今年で十九になりました」
「可愛がっておられるのでしょうね」
「そうです、と答えたいところですが、今まで私は仕事にかまけて娘と向かい合っては来ませんでした。きっと、寂しかったことと思います。
 あの子は……生まれつき心臓が悪く、学校に行くのは危険なので優秀な家庭教師を数名雇い、自宅で学習をさせていました。しかし、今考えてみると私はただ、あの子を家に閉じ込めていただけだったのです。外とのつながりのない娘は、友達もおらず、一人きりです。あの子の孤独に気付くのがあまりにも遅かった」
「今からでも取り戻せるのではありませんか?」
「今から?」
 ふっと笑うと、男は言った。
「いいえ、遅すぎました。もう取り戻すことは不可能です。
 ……私は今まで娘の誕生日のプレゼントを人任せにしてきました。あのくらいの年ごろの女の子が喜ぶものを秘書に買って来させていたのです。娘にもそんないい加減さが伝わっていたのでしょう、礼は言うものの、それがどんなに高価なものであっても決して身に着けてはくれませんでした。
 今年の娘の誕生日は破産寸前の時に訪れました。もう自由に何でも買ってやれる余裕はありません。それでも何も知らない娘のために私は何とか指輪を一つ購入しました。安物です。以前の私ならそんな指輪を娘のために買おうなどとは思いもしなかったでしょう。
 暗い気持ちで渡した指輪を、しかし娘はとても喜んでくれたのです。値段などどうでもいい、私が娘のために選んでくれたという事実が嬉しいのだと。そして、とても心配そうに私の仕事や体調のことを尋ねます。家庭教師や家政婦たちの態度で娘なりに異変を察していたのでしょう。私は何も答えられませんでした」
 男は自虐的に笑った。それを悲しそうに珠城はみつめ、静かに言った。
「それで、僕に何のご用でしょうか?」
「……私は以前、『謎工房(なぞこうぼう)』という名の雑誌を見たことがあります。
 そこにある人の奇妙な話しが載っておりました。彼はハートヒーラー……心の治療師と呼ばれる人物で、彼を本当に必要としている人なら誰でも彼に会える、とありました。真摯な気持ちで彼の店『乱反射』という名のバーを探してみれば良い、と。
 ハートヒーラーは生死に関係なく、人の心を救ってくれるのだとか。……どう思いますか? 生死を問わず、ということは、つまり死んでいる者の心を救うというのですよ」
「……生きていても死んでいても、人の心に変わりはありませんから」
 小林はその言葉に弾かれたように顔を上げた。そして、澄んだ目でまっすぐに珠城を見る。
「珠城さん、たったひとつだけ願いを聞いてください。娘を……夏恵を助けて欲しいのです。あの子は屋敷の中に一人取り残されているのです。誰もいない寂しい屋敷の中にまだいるのです。
 私のことはいい。一人で暗く寂しい所へ行きます。ただ、娘は、あの子は違う。あの子に罪はない。何も知らないのです。あの子は孤独から解放されて明るい所へ、安らげる場所に行くべきなのです。……どうか、娘を救い出してください」
「……判りました。お引き受けいたしましょう」
 珠城が頷くと、小林はほっと息をついた。
「何とお礼を言っていいのか……」
「礼など必要としません。……小林さん、ひとつ言ってよろしいですか」
「はい、何でしょうか?」
「あなたはあなたの罪を償わなくてはなりません。その罪をしっかりと自覚してください。……あなたはその手で」
 珠城は不意に、鋭いまなざしを向けた。
「あなたの娘さんを殺しましたね」
 小林は無言で珠城を見返すと、やがて諦めたように頷いた。
「娘は後一年、生きられるかどうかと医者に言われていました。娘の命のリミットは迫っているというのに、私は何もかもを失ってしまいました。娘の治療費すら出せない有様です。死を選ぶことしか考えられませんでした」
「あなたに彼女の人生を断ち切る権利はありません。たとえ、後一日しか生きられないとしても彼女にはその一日を懸命に生きる権利がある。
 ……娘さんについては僕が責任を持って救い出して差し上げます。でも、あなたのことは」
「判っています。私のことは何も考えなくて結構です」
 薄く彼は笑った。そして、ゆっくりと席を立つ。
「私には何もない。あなたにお支払いする報酬も。ただ娘の誕生日祝いの指輪があります。それを受け取ってください」
「お預かりいたしましょう」
 珠城は瞑想するように目を閉じて、胸に手を当てた。
「彼女のために」
「ありがとう。ここに来て良かった。いや、来ることができて良かった、というべきか」
「小林さん」
 ドアに向かって歩き出した男の背中に珠城は声を掛けた。
「ひとつ訂正しましょう」
「訂正?」
「ええ。あなたはさっき、『謎工房』という雑誌を以前見た、と仰いましたが、「以前」ではなく「生前」の間違えではありませんか?」
 一瞬の沈黙の後、不意に小林は微笑んだ。そして、彼をよく知る者が見たらきっと驚くだろう行為をした。自分よりずっと若い珠城に対してこれ以上はないくらい、丁寧に深く頭を下げたのである。そして、そのまま彼の姿はゆっくり溶けるように空中に消えていった。


「夏恵さん、思い出しましたか? あなたは数週間前に既に亡くなっていたのです。あなたのお父様の手によって。でも、あなたはその現実を認めたくなかった。現実を否定して次の朝も目覚めてしまった。……もうあなたはここにいてはいけない。取り残されるあなたをお父様はとても悲しんでおられる」
 珠城はそっと白いシーツを彼女の冷たい身体にかけた。
 しばらくそれをみつめてから、彼はその部屋を出て、隣の部屋にあるもうひとつの死体に近づいた。机にうつ伏せになり、こと切れている男は小林だった。その傍らには小さなガラス瓶が転がり、いく粒かの錠剤がこぼれ落ちている。その傍に小林自身から託された白い手紙を置いた。それには死に至ったいきさつ、娘に対する愛情、そして自分の犠牲になった人々への詫びが書き連ねてあった。
「僕は別に」
 背を向けながら珠城は呟いた。
「カラスが書き物机に似ていてもかまわないのだけど」
『悲惨! 不動産王の哀れな末路、最愛の娘と無理心中! その真相は……!』
 そんな派手な見出しが誌上を騒がせたのは珠城があの屋敷を訪れた数日後のことだった……。


(水の指輪 おわり)