「……え?」
 くしくも少女たちと同じことを言われ、雅人はぎくりとした。
「ど、どうして……」
「そんなお顔をされていましたので」
「は? そんな顔、ですか?」
 うろたえる雅人に珠城はいたずらっぽく笑った。
「冗談ですよ。さ、お入りください」
「あ、でも」
 雅人は戸惑いながらも、目の前の人物を観察した。
 伝説といわれているハートヒーラーと思しきこの人物は、しかし、普通の人に見える。整った顔立ちをしているが、美青年という表現は何か違う気がする。身長は高く、百八十センチは超えていそうだ。軽く後ろに流した黒髪はいかにも柔らかく、触れてみたい衝動にすらかられる。
 とにかく、優しそうな人だ。そう思った途端、雅人は、はっとした。彼の漆黒の瞳に気が付いたのだ。漆黒のはずのその瞳に、透明な水を感じる。あくまでも澄みきった、果てのない広さと深さを湛える海がそこにある。
 怖いな。
 雅人はふとそう思った。恐怖心は確かにある。だが、それと同時に安心感もそこにはあった。怖いと思いながらも、不思議と心は波立たないのだ。
 何だろう、この感じは。
 困惑する雅人に、珠城は優しく微笑んだ。
「どうぞ」
 その笑みに背中を押されて、結局、雅人は店の中に入った。まるで魔法にでもかかったようだ。雅人は勧められるまま、カウンターの席に着いた。
「あ、あの、いいお店ですね」
 一旦、カウンターの奥に姿を消した珠城に聞こえるよう、雅人は少し身を乗り出して言った。返事はない。間を持て余して店の中を見回してみる。店はアンティックな装飾の、落ち着いた雰囲気だ。間接照明の柔らかな光が心を慰める。
 店の奥にグランドピアノが一台置かれていた。あの珠城というマスターが弾くのだろうか。似合いすぎだと、雅人はおかしくなった。
「どうかされましたか、お客さま」
 近い場所から聞こえてくる声に、雅人はぎくりとして顔を向けると、いつの間にかカウンターを挟んだ正面に珠城が立っていた。
「あ……いえ。何でもありません」
「何を差し上げましょうか」
「……はい?」
「お飲み物です。ここはバーですから」
「……あ、そうでした。それじゃあ、ビールを」
「はい。かしこまりました」
 恭しく頭を下げると珠城はグラスを出して慣れた手つきでビールを注ぐ。それをぼんやり眺めながら、雅人は言った。
「……珠城さん、俺はあなたのことを知っています。多分、ガキの頃から」
「それは光栄です」
「あなたはずっと、ここにいるんですか」
「はい」
「どうして?」
「どうして?」
 珠城は雅人の言葉をそのまま繰り返すと、カウンターの上にそっとビールの入ったグラスを置いた。
「理由が必要ですか」
「……いえ。ただ、気になって」
 肩を落とすと雅人は目を伏せた。
「俺はここにいられなくて逃げ出したんです」
「悲しいことでもありましたか」
「……悲しいこと。そう、ですね。悲しくもありましたが、でも、それより怖くて……逃げ出したんです。……俺は千秋に……あの夏祭りの夜から会っていない。俺は怖くて葬式にも行けなかった」
 唐突に雅人は千秋の話しを切り出したが、珠城は問い返すこともなく、穏やかにこう言った。
「では先ず、会いに行ってはいかがでしょう」
「いや、会いに行きたくても、もう、千秋は死んでしまったんです。だから、金魚伝説のあの霊泉に」
 そこで、雅人は慌てて口をつぐんだ。何だ、俺は。豊には信じていないようなことを言ったくせに、金魚伝説をするつもりでいるのか。
 ふと、少女たちの顔と声が浮かんだが、すぐ頭を振ってそれを追い払う。
「金魚伝説、ですか」
 珠城が少し、顔をしかめてつぶやいた。
 その表情を見て、雅人は金魚伝説を口走ったことを後悔した。が、すぐに思い直す。このハートヒーラーなる人物なら、金魚伝説のことを詳しく知っているかもしれない。
 少し身を乗出すと、雅人は尋ねていた。
「あの……金魚伝説とは、あれは一体、何なんですか? 死者に会えるというのは本当のことなんですか?」
「あれは邪道です」
 珠城はきっぱりとした口調で言うと、真直ぐに雅人の目をみつめた。
「そこに亡くなった方々の心はないのですよ。金魚の命と引き換えに、つかの間、死者の魂をこちらの世界に引きずり戻す。強引で厭なやり方だと僕は思います」
「え? 金魚の命を引き換えに?」
「金魚はつまりは生贄なのです」
「生贄ということは、金魚は死んでしまうんですか?」
「はい」
「それは……金魚だって生きているわけだから、可哀想だとは思いますけど……だけど、それはつまり……金魚伝説は本当だってことなんですよね? 死者はよみがえるんですよね?」
「……よみがえるといっても少しの間です。金魚一匹の命を使い切る間だけというわけです」
「それでもいいじゃないですか。その短い時間だけでも、会いたい人に会えるなら……それでもいいと思う人はいますよ」
「やり方が間違っていても……ですか?」
「ええ、そうですよ……!」
 あくまでも穏やかな珠城の声が癇に触る。雅人は思わずムキになって言った。
「やり方が間違っていても、例え、それが他の生き物の命を犠牲にする邪道なことだとしても、死んでしまった人間にわずかな時間だけでも会えるなら……それで、生きている時に伝えられなかったことを伝えることができたり、聞きたかった言葉が聞けるなら、それでいいと思うのが人として当たり前の気持ちですよ。
 ただ、もう一度会いたい。そう思う人だっているはずだ。あなたには判らないのですか? そんな切実な人の心が」
 ハートヒーラーなのに。そう付け足したいのを雅人は寸前でこらえた。そんな雅人の顔を珠城は優しく見返して静かに言った。
「判りません、僕には」
 珠城の声も顔も相変わらず穏やかだったが、深く沈んだ冷たい空気が漂ってくるようで、雅人は、はっとして身を引いた。
「な、何ですか……」
「いいえ。失礼いたしました」
 珠城はその冷たいものを払拭するように甘く微笑むと言った。
「僕はただ、お客さまに気を付けて頂きたいだけなのです」
「気を付けるって……何を?」
「確かに金魚伝説は死者を呼び戻すことが出来ます。しかし、問題は戻ってくる死者が呼んだ人とは限らないところにあるのです」
「……え? それはどういう」
「伝説では戻ってきて欲しい死者のことを一心に想えば必ずその人が戻ってきてくれるということになっていますが、実際には、それは確実なことではないのです。違う者が名前を騙り、成りすましてお客さまの前に現われるかもしれません」
「違う者って……?」
 雅人は恐る恐る尋ねる。
「誰が現れるというのです?」
「怖いですか?」
 じっとみつめられて、雅人は思わず目をそらす。それでも肯定するのが悔しくて、あえて強気で応じた。
「べ、別に怖くありませんよ。そ、それに、それは裏を返せば、会いたい人に会える可能性もあるってことですよね?」
 必死で言う雅人に、珠城は微妙な表情で頷く。
「そうですね。それでお客さまは金魚伝説をやってみようと思われたのですか?」
「え。あ、俺は……」
 雅人は言いよどむ。千秋には会いたい。しかし、会ってどうするのか。雅人は豊に言われたことを、今更ながら思い起こしていた。
『千秋に何か言いたいことがあるのか? 聞きたいことがあるのか? それとも謝りたいのか?』
 そのどれでもない気がしていた。雅人は溜息まじりに珠城に言った。
「……珠城さん。俺、自分が判らないんですよ。……俺はただ、悔いているだけなんです……」
「お客さまはこのような神話をご存知でしょうか。亡くなった妻を連れ戻すために黄泉の国に行ったイザナキの話しを」
 雅人はきょとんと珠城の顔をみつめる。
「えっと……イザナキ……って、古事記の? それなら、子供の頃、児童書で読んだ覚えがあります。でも……内容は詳しくは覚えていませんけど……」
「それはこんなお話しです。……イザナキは死んでしまった美しい妻、イザナミを連れ戻すために、死者の国である黄泉の国に赴きます。
 しかし、イザナミは黄泉の国の食べ物を口にしたため、既に黄泉の国の住人になっていました。それでも愛ゆえに迎えに来てくれたイザナキのためにイザナミは言うのです。帰れるように黄泉神(よもつかみ)にお願いしてみましょう、その間、決して私を見ないでください。しかし、イザナキは待ちきれず、イザナミの姿を見てしまいます。その妻の姿は、ウジがたかり、八柱の雷神を体にまとわり付かせた恐ろしくも醜い姿だったのです。
 恐ろしくなったイザナキは妻を捨て、一目散に逃げ出します。
 イザナミは夫のその仕打ちを悲しみ、そして恥をかかされたと怒り狂います。逃すものかと追いかけて妨害しますが、イザナキは黄泉の国をなんとか逃げ出し、入り口である黄泉津比良坂(よもつひらさか)を岩で塞いでしまうのです。
 こうしてイザナキは、あれほどに愛していたはずの妻との別離を決意するのです」
「ああ、確かそんな話でしたね。……あの、それが?」
「もう少し、話を続けましょう。入り口を塞がれたイザナミは言うのです。『こんなひどい仕打ちをするなんて許せません。この仕返しにあなたの国の人を一日千人ずつ殺してしまいましょう』それを受けて、イザナキは言います。『ならば私は一日に千五百の産屋を建てて、新しい命を生み成せるようにしよう』」
「……それってなんだか迷惑な夫婦喧嘩、ですね。しかも、すごく怖い」
「そうです。とても怖いのです」
 珠城は言葉とは裏腹に、優しい声で言った。
「約束を破ったために大切なものを失ってしまうというお話は世界にたくさんありますね。タブーを犯すと取り返しの付かないことになるという教訓でしょうか」
「あの、つまり、それは……金魚伝説もそうだと言いたいのですか?」
 雅人に問いに、珠城は微笑むだけで応えなかった。少し苛立った雅人は強い口調で言った。
「俺は別に千秋を黄泉の国から連れ戻そうと思っているわけじゃないですよ」
「亡くなった方は、その姿を見られたいと思っているでしょうか」
「え? 姿って」
 雅人は、腐敗した体にウジにたからせた千秋の姿を想像して、その恐ろしさに思わず体を強張らせた。
「お客さま」
 珠城が労わるように声をかける。雅人は恐る恐る顔を上げた。
「……僕が思うに、お客さまが迷っておられるのは、千秋さんにお別れをされていないからではないでしょうか」
「お別れ?」
「はい。お葬式に行かれなかった、と仰っておられたので」
「そうですが……それがなんだって言うんですか」
 雅人の声に、珠城の、漆黒の瞳が真直ぐにこちらを向く。まるで真夜中の海のようなそれに雅人は、はっとする。
 溺れそうだな。
 雅人はどこか卑屈な気持ちでそう思った。
「……お葬式という儀式は死者のためにあるというよりは生者のためにあるのではないかと僕は思います。
 お葬式は死者をこの世からあの世に送るという儀式ですが、その実、送る側の生者が、死者への想いに区切りを付け、その気持ちを整理するためにあるように僕は思うのです。つまり、葬式とは死者を整理整頓するための儀式。そうすることで遺された者は生きていけるのです」
「整理整頓、なんて、なんだか冷たい言い方ですね……」
 露骨に嫌な顔をして雅人は応じた。
 千秋を物のように扱われた気がして気分が悪かった。しかし、珠城はあっさりと言葉を続ける。
「お客さまはその儀式に出られていない。千秋さんにお別れをしていないあなたはまだ、心が残っている。僕はそれが不安でならないのです」
「心を残して何が悪いのですか。俺に千秋を忘れろとでも……」
「お忘れにならなくてもいいのです」
 包み込むように珠城は言った。
「問題なのは、お客さまがどうしたいのか、ご自分でお判りでないことです」
「……何の話、ですか」
 苛立つ雅人に珠城は静かに言った。
「お客さまは千秋さんに何を求めているのですか?」
 求めている?
 雅人は愕然とした。確かに、千秋に対して負い目はある。忘れることも出来ず、この町を逃げ出した。何か言おうとしたが、結局、言葉に出来ずに黙ってしまった。
「……千秋さんのお家に行ってみてはいかがですか。そして千秋さんにお会いください」
 ぎくりとして雅人は珠城を見た。
「……会うって、何を言っているんですか。千秋は死んだんですよ。それも八年も前の話しです。今更、会えと言われても無理ですよ!」
 雅人は勢いよく椅子から立ち上がった。
「俺、帰ります。おいくらですか」
「いえ」
 にこりとして珠城は言った。
「僕のおごりです」
「いや、そういうわけには」
「では、次にお越しの時にお願いします」
「次? でも、あなたには簡単に会えないんでしょう? 会えるかどうかも判らない人に次の約束なんて……」
「お客さまは、もう僕には会いたくなさそうですね?」
 笑いながら言う珠城に、少々、むっとして雅人は投げつけるようにして言った。
「ええ、そうです。俺はあなたにもう会いたくないですよ! 俺がそう思っているんですから、もう会うことはないでしょうよ」
「いいえ。会えますよ。あなたは必ず、僕に会いたいと思います」
「な、何ですか、それ」
 雅人は引きつった笑いを顔に貼り付けて言った。
「その自信はどこから来るんですか……。と、とにかく、俺は帰りますから」
「はい。どうぞ、お気をつけてお帰りください」
 そう言った珠城の声は穏やかだったが、その言葉の端々から冷たい気配が流れてくるのを感じて、雅人はぞくりとする。
 今更ながら怖くなって足早にドアに向かうと外に転がり出た。暗い路地を闇雲に駆け出す。とにかく、早くこの裏通りから抜け出したかった。雅人は決して後ろを振り返らなかった。何かが背後にぴたりと張り付いて来ているようで恐ろしかったのだ。


 ☆
 雅人はまた鳥居の前に立っていた。夏祭りの最終日である今夜も、昨日と変わらず賑わっている。こんな暗い気持ちで祭りに来るのは俺ぐらいのものだろうな、と雅人は自虐的に笑った。
 彼はゆっくりと足を踏み出し、祭りの雑踏の中を歩き始めた。一歩一歩がふわふわする。頼りない足取りだったが、目指す場所は決まっていた。
 雅人は真っ直ぐに霊泉に向う。霊泉の門は昨日と同じように開いていた。その前に、少女二人が立っている。今夜は浴衣姿ではなく、二人ともTシャツにジーパンというラフな服装をしていた。真子が片手に金魚の入ったビニール袋を提げているのが見えたが、特に心は騒がなかった。
「大田さーん」
 真子が先ず気が付いて手を振る。
「来てくれたんですね!」
「こっちこっち! 大田さーん」
 判ってるって。
 雅人はつい、笑ってしまう。相変わらず、賑やかだ。
「こんばんは」
 雅人が彼女たちの前まで来ると、真子と深雪が声を揃えて挨拶をする。雅人も少女たちに挨拶を返すと、早速、本題を切り出した。
「本当に、金魚伝説をするつもりなんだね」
「勿論」
 真子と深雪は目を合わせて真面目に頷いた。
「大田さんもそのつもりなんでしょ?」
 探るような視線に、雅人は笑って頷いた。
「だから、来たんだよ」
「ですよねー」
 にっと笑ったのは深雪だった。彼女は早く始めたいらしく、真子の腕を引いて言った。
「ね、金魚、そろそろ霊泉に放そうよ」
「そうだね。あ、大田さん、いいですか? その、心の準備とか。ええっと、やり方、判ります?」
「うん? やり方って何かあるの?」
「あ、そうですねえ」
 ちらりと深雪は真子と目を合わす。
「そう言われれば、特に無いのかも。ただ会いたい人のことを霊泉に向かって真剣に想うだけ、みたいだから」
「判った。やってみるよ」
 雅人が穏やかにそう応じると、深雪はひとつ頷き、それが合図のように真子が霊泉の前にしゃがんだ。そしてそっと金魚を水の中に放す。金魚は何のためらいもなく輪を描くようにゆったりと泳ぎだした。
「……じゃあ、あたしたち、離れたところにいますから」
「何かあったら呼んでください。あ、あの、無理はしないで下さいね……」
 金魚の様子をしばらく眺めた後、真子と深雪はそう言ってそそくさと霊泉の前から離れて行った。
 ひとりになった雅人はゆっくりと、あの日の千秋のように、少しもたつきながらそこに跪いた。地面のひやりとした感触が足から伝わってくる。
「……千秋、お前は戻ってきてくれるのだろうか」
 霊泉の水面をじっとみつめて、雅人は囁くように言った。
「あの日、お前はここの水を飲んだ。お前が死んだのは、そのせいなのか? ……今更、だけど、俺さ、正直、どうしていいか判らないんだよ。自分が今、こうして霊泉の前に跪いていること自体が不思議なくらいだ。……珠城さんは、金魚伝説は邪道だって言っていたけど、俺はやってみることにしたんだよ。お前を呼び出して、そして、どうなるかはお前に任せようと思うんだ。そう言えばお前は困った顔をするだろうけど、俺はもうそれ以上のことは考えられないんだ。もし、お前が俺を許せないというのなら、罰を与えてくれればいい。一緒にいてくれというのなら連れて行ってくれればいい。俺は抗わないよ……」
 ぴしゃんと水の音がした。金魚が跳ねたのだろうか。雅人は言葉を呑み込んで、じっと目の前の霊泉の水面をみつめた。墨汁のように黒く光っている水がゆるく波立って、そこに何かがいるのが判る。
 金魚? いや、金魚のような小さいものでは、ない?
 ずるりと霊泉の水面が丸く盛り上がった。そこから除くのは鈍く光るふたつの目。それが今、じっと雅人をみつめている。
 ぞくりと背筋に寒気が走った。逃げ出したくなる気持ちを抑えて、雅人は目の前のものに目を凝らした。
「そこにいるのは千秋、か? 返事してくれ、頼むから」
『嬉しいよ、雅人くん』
 優しい声がわんと辺りに響く。それはまさしく千秋のものだった。雅人の中にあった恐怖も警戒心もその一声で消し飛んだ。
「千秋? 千秋だな? もっと何か言ってくれ!」
『……僕と一緒にいてくれる?』
 ああ、いいよ。
 それがお前の望みなら。
 雅人は水面に現れた人の顔らしきものに頷いていた。その刹那、それはずるりと動いた。水の底から人の形をした影のようなものがゆっくりと這い出してくる。
 恐怖で雅人はその場に尻餅を付いた。
 不意に、珠城の話してくれたイザナキの話を思い出す。体中にうじをたからせた醜い千秋の姿が現れることを想像して背中がぞくりとした。
『雅人くん……』
 目を固く閉じ、体を硬直させる雅人の耳元で千秋の囁く声がした。
 千秋?
 恐る恐る目を開けた雅人の目の前には懐かしい人がいた。あの時のまま、優しい面差しの野間千秋だった。
「千秋!」
 思わず叫び、前のめりになる雅人に千秋は微笑んだ。
『雅人くん……。やっと会えたね』
 そう言ってこちらに差し出す千秋の細い手を、雅人は素直に掴んだ。そのまま、千秋に引っ張り上げられ立たされる。至近距離で見る千秋の顔は相変わらず美しく、その唇は甘く微笑んでいた。
『一緒に来てくれるね。もう、僕を避けたりしないよね』
「しない」
 低く短くつぶやくと、雅人はもう一度目を閉じた。眠気に襲われて目を開けていられなくなったのだ。
「眠いよ、千秋……。どうしたんだろう。せっかくお前に会えたのに」
『眠っていいよ。僕がずっと君の傍にいるから。もう何も考えなくていいからね……』
 雅人が力を抜くと、崩れそうになるその体を千秋がしっかりと抱き止めた。
『一緒に行こう。僕と一緒に。いいね?』
 雅人は頷いていた。
 ああ、これで千秋に償えるんだ……。
 心も体も楽になり、雅人の意識が遠のきそうになった時だった。背後から凛とした声が響いた。
「本当にそう思っているのですか」
 その声はまるで風だった。涼やかで清い一陣の風は、その場にたまる暗い空気を一瞬で吹き飛ばした。
 雅人の体を捕まえていた千秋の腕がするりと抜け落ちる。そこではっと意識を取り戻した雅人はすぐに背後に立っている珠城に気付いた。気持ちのよい眠りを邪魔されて、雅人は思わず珠城を睨む。
「あなたは……どうしてここにいるんですか? いつから?」
「ずっと最初から見ていました」
「ずっとって? 何ですか、それは。千秋は……どこに行ったんです? おい、千秋! どこだ!」
 雅人は辺りに首を巡らせて友人の姿を探すが、どこにも千秋の姿はない。しんと静かな夜の景色があるだけだった。
「あなたが千秋をどこかに隠したんですか!」
 珠城に食って掛かる雅人に、珠城はゆるく首を振ると言った。
「千秋さんはここにはいません」
「どうして! さっきまでここに」
「あれは千秋さんではありません」
「何言っているんだよ……」
「僕は言ったはずです。出て来た者が必ずしも本人であるとは限らない、と」
「いや、あれは確かに千秋の声だった。千秋の顔だった……!」
「声や姿は呼び出す人の記憶から盗めばいい。簡単なことです」
「盗む? だ、誰が?」
迷神(まどわしがみ)です」
「……え? 何ですって? 神?」
 聞きなれない言葉に、雅人は顔をしかめたが、珠城は相変わらずの穏やかさで応じた。
「迷神というのは、未練や恨みを残し死んでいった者たちのことです。長い時間をかけ、それらの魂があらゆる事象と融合し、神のような力を得たのでしょう。彼らは常に救済を求めていますから、あなたのように身も心も捧げます、という隙だらけの心と体で近づけば、彼らに引かれるのも無理のないことです」
「引かれるというのは……?」
「この世ならざる世界、つまり、黄泉の国にあなたをお連れする、ということです。そこはずっと深い闇の世界でしょう」
「あ、あなたはそれが判っていて、俺が千秋ではないものに連れて行かれそうになるのをずっと黙って見ていたんですか?」
「はい」
「はいって……。どうしてすぐに助けてくれないんですか? 俺はもう少しで……!」
「それはあなたのお望みになったことなのでは?」
 珠城の言葉に、雅人は居心地悪そうに目を伏せた。その様子に珠城は小さく息を付く。
「とは言え、いくら覚悟をされていても、いざとなれば恐ろしくもなるでしょう。あなたのような方は、考え込みすぎて他が見えなくなり、自分の悲劇性に酔ってしまわれる。少しくらい怖い思いをされた方が、良い気付け薬になるというものです」
「……だから、ぎりぎりまで黙って見ていたんですか」
「はい」
 鮮やかに微笑んだ珠城に、雅人は何も言えない。黙り込む雅人に珠城は言った。
「金魚伝説はあきらめてください。いいですね」
「でも、金魚伝説は死んだ人に会えるって」
 自分でもわがままな子供のようだと思いながら、雅人は珠城に言い募った。
「伝説は本当だって、あなたも言っていたじゃないですか。俺は千秋に会いたいんですよ……。亡くなった人にちゃんと会えた人だっているんでしょう? だから金魚伝説は語り継がれているんでしょう?」
「そうですね、時には彼らも手を貸しましょう。ですが、その反面、欲しいと思うものは力づくで奪っていくのです」
 珠城が不意に霊泉を指差した。
「霊泉をご覧ください。それでも金魚伝説を続けるというのなら、僕はもう止めません」
「え? 霊泉を?」
 そう言って振り返った雅人の目には、霊泉の水面に絡み合い、のたうつ複数の黒い人影が見えた。先ほどとは比べ物にならないくらいの禍々しさが漂っている。
 何だ、これは……。
 後ずさろうとして珠城の体に背中が当たる。彼の冷たい手が雅人の肩を捕まえた。
「まだです。しっかりとご覧なさい。この中にあなたの千秋さんはいらっしゃいますか?」
 雅人の耳元に冷たい気配と共に、珠城の言葉が滑り込んできた。駄々をこねる子供のように嫌だ嫌だと首を振る。一目散にこの場から逃げ出したい。しかし珠城が手を離してくれる気配はなかった。
 そのうちに霊泉の中の、ひとつの人影が顔を上げ、それは助けを求めるように雅人に手を伸ばした。
 その手。
 それは肉が腐って爛れ、黄色く変色した骨が見えている。その指先が(くう)を引っかくようにゆるゆるともがいた。
 雅人はその醜さに、ぐっと息を呑む。
 ……珠城さんが来てくれなかったら、今頃はこの手に捉えられ、彼らの闇の世界に引き込まれていたのか……。
 じわじわと雅人の体に、心に恐怖が染込んできた。
「う……うわあ!」
 たまらず絶叫した時、その手がぐんと雅人目掛けて伸びてきた。
 雅人の首元まで迫った手は、その寸前で動きを止める。
 醜く爛れた手を何の躊躇もなく珠城が掴んでいたのだ。途端にその手は細かな砂と化し、儚く霧散して消えてしまった。すると霊泉を覆っていた禍々しい空気も、水面を覆っていた黒い影も同じように消し飛んだ。
「た、珠城さん……」
「ですから、僕は」
 呆然とする雅人に珠城の声が穏やかに応じた。
「金魚伝説はお勧めしないのですよ……」
 力なく、へなへなと雅人はその場に座り込んだ。
「……珠城さん、俺はどうしたらいいんでしょう」
「あなたはずるい人です。逃げてばかりです。その上、自分の負い目を千秋さんに清算して貰おうとしている」
「でも、俺は本当にどうしたらいいのか判らないんだ……」
「でしたら、何もなさらなくていいのではありませんか」
「……は?」
 ぽかんと雅人は珠城を見上げる。
「どういうこと、ですか?」
「僕はあなたにイザナキの話をしましたね? イザナキは愛していた妻の醜い姿を見て逃げ出した。その時のイザナミの気持ちはどんなものだったでしょうか? きっと、彼女は愛している人に死んで朽ち果てた自分の姿を見られたくはなかったでしょう。いつまでも生きていた頃の美しい自分を思っていて欲しかったはずです」
「お、俺は、千秋がどんな姿をしていたって逃げ出したりなんか」
 しない、と言いかけて、さっき、自分を捕まえようと伸びてきた手の醜さを思い出し、言葉を呑み込んだ。
 千秋もあんな姿をしているのだろうか……。もしそうだとして、俺は冷静に、千秋と向き合えただろうか……。
「千秋さんに会いに行けますか?」
 雅人の心を読んだように珠城が言った。
「金魚伝説などという無理なやり方ではなく、自然な形でお別れを言うべきです。イザナキはイザナミを連れ戻そうと黄泉の国を訪れましたが、それはイザナミの気持ちより自分の気持ちを優先させた行動です。その上、イザナミの変わり果てた姿を覗き見して逃げ出したことで彼女に恥をかかせ、挙句、彼女に『仕返しをしてやる』という呪詛の言葉まで言わせている。……お客さまはもうお判りでしょう。千秋さんに会い、千秋さんの声を聞く場所はここではないのです」
「千秋に会う……」
 惚けたように雅人は、その言葉を繰り返した。
「つまり……千秋の家に行って、千秋の母親に恨み言を言われながら、千秋の遺影を拝ん来いと言うんですね、珠城さんは」
「はい。そうです」
「それで、千秋の声が聞こえるんですか?」
「ここよりは確実に」
「簡単に言いますね……」
 ふっと雅人は笑い、顔を上げると、もうそこに珠城の姿は無かった。闇の中に溶け込んで消えて行ったように、まったく何の気配も感じない。しばらく、その場で呆然としていると明るい声が聞こえてきた。
「大田さーん」
 ばたばたと足音がして少女二人が駆け込んでくる。
「大丈夫ですか?」
 座り込んでいる雅人の傍らに少女たちもしゃがみこみ、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「……ああ、大丈夫だよ」
「良かった。急に座り込んじゃうからどうしたのかと」
「ええっと……君たちには見えたのかな?」
「え? 見えたって……何かあったんですか!」
 途端に二人の顔に喜色が浮かぶ。
「もしかして、死んだ人に会えたとか?」
「そういう質問をするということは、見えていなかったってことだね……」
「何ですか? 何があったか教えてください!」
「いや、何もないよ」
「えー、本当ですか?」
 のろのろと立ち上がった雅人に真子が詰め寄ってきた。それに優しく雅人は言う。
「本当に何もなかったよ。ほら、金魚も元気に泳いでいるだろ」
 言われて少女たちは霊泉を見る。確かに金魚は何事もなかったように、ゆったりと尾ひれを動かし水中を泳いでいた。
「……そうだけど、でも」
「金魚を回収して、帰ろう」
「もう、大田さんってば! ずるい!」
「何で話してくれないんですか? 会えたんですか? どうなんですか?」
 口々に不平を言い出す少女たちに雅人は言った。
「会いたい人にはこれから歩いて会いに行くことにしたんだよ」
 少女たちはぽかんとお互いの顔をみつめ合った。