「ど、どうしたの……?」
さっきの沈黙が若干この空間に残っているらしく、なんとなくしゃべりづらい雰囲気が糸を引いていた。
そのせいで、僕の言葉にもどこか迷いが生まれてしまう。
「この入部届にサインすれば、私も文芸部の部員として活動することができるんだよね?」
「う、うん。そうだけど……」
ただの紙切れに名前を書いて、それを先生に提出するだけなのに。
涼野さんの言い方だと、何かものすごく大きく、重要なことのように聞こえてくるのはなぜだろうか。
「そっか、そっか……」
何度も何度も、僕の言ったことを嚙みしめるかのように、涼野さんは小さく頷く。
「じゃあ、今から私も文芸部の一員として活動していいんだよね?」
「ど、どうぞ……」
「やったぁ!」
僕が少し押され気味に首を縦に振ると、涼野さんはワンオクターブ上がった声を出して、その場でぴょんぴょんと跳ねる。
「それじゃあ失礼しま~す」
彼女は勢いそのままに、長机にしまわれているパイプ椅子を引くと、鞄を持ったままそれに飛び乗った。
長年使われてすらいなかったイスなだけあって、涼野さんが座った瞬間に埃が中に舞い上がる。
「うわぁ……なにこれ~……」
埃が宙に浮いている中、大きく息を吸い込んでしまったのだろう。涼野さんは思いっきりせき込み始めてしまった。
「君ってもしかして掃除するの苦手だったりする……?」
口元を押さえ、半分涙目になりながら、涼野さんは僕の方を見る。
「そんなことないよ。ここには週一回来るくらいだから、そんなに頻繁に掃除なんてしないだけだよ。それに、僕はどちらかといえばきれい好きな方だ」
これから一応同じ部員として活動する仲間……なのだから、このあたりのことははっきりさせておきたいところだった。
いきなり『掃除ができない人』として認識されてしまうのは僕にとってはかなり耐え難いことだから。
「ふぅーん、そうなんだ……」
涼野さんは、僕の話をどこか横耳で聞くようにしていて、なにやら自分の鞄をごそごそと漁っている。
自分から話を振っておいてその態度はいかがなものかと思ってしまう。
「よし、あったあった……」
涼野さんはB6サイズのメモ帳を取り出すと、最初の数ページをぱらぱらとめくったところで止め、手の平で折り目を付ける。
「何をしているの……?」
今度はボールペンを手にして何やらそこに文字を書き込んでいる彼女に尋ねる。
「まぁ……日記みたいな?」
「へぇ、日記なんて書いてるんだ」
小学生や中学生の長期休暇のときに出された一行日記がふと頭をよぎる。
そう考えて見ると、宿題として書いた日記以外に、僕が自分から進んでその日にあったことを丁寧に書き記したのはいつが最後なのだろうかと考え込んでしまう。
「ちょっと、今絶対高校生にもなって日記なんてまだまだ子供だね~なんて考えてたでしょ」
「べ、別にそんなことなんて全然思ってないよ」
特段当たっているわけではないけれど、かといって的外れのことを言っているわけでもないから、少しばかり反応に困ってしまう。
「どうだか……。私って、案外人の考えていることがわかったりしちゃうんだよね。だから、嘘をついても、それがなんとなく分かっちゃうのよ」
「そ、そうなんだ……。なんか……大変だね」
それはそれであまりうれしくない感性だな、と僕は思う。
人間は本音と建前をうまく使い分けて生きている。
決してその人のすべてが正直な部分でできているなんてことはあり得ない話だ。
どんなに清廉潔白と言われていようが、集団の長としてまとめる立場にある人であろうが、どこかで必ず建前を混ぜている。
逆説的に、その区別を分からないようにさせることができて、それをコントロールすることができているから、人間はその人に信頼を寄せ、ついて行くのだと思う。
でも、今僕の目の前に座っている彼女――涼野綾夏という女の子は、何となくではあるものの、その区別が分かってしまうのだという。
つまり、本当に信頼することができる人に巡り合うことができれば、その感性というのはあってよかったと思うことができるだろう。
でも、それに辿り着くまでには、きっと何百何千という嘘と向き合わなくてはいけないことだろう。
「だからさ――」
少し語調を強めて、彼女が言う。
「君だけは……嘘で塗り固めた言葉を発しないで、本音を語ってほしい」
彼女の言葉は、強かった。
どこか、縋るような。
まるで、もう逃げ場がなくなってしまってもう後がないような――。
心の底から、それを望んでいるように僕の耳には聞こえた。
「わかったよ」
彼女の心の叫びに、僕は小さくそう返した。
「ありがとう」
涼野さんは納得したようで柔らかくほほ笑むと、一瞬夕日が差し込む窓際に目をやる。
でも、すぐに何か思いついたように口を開く。
「そういえば、まだお互いに自己紹介してなかったね。改めまして、今日から文芸部員になりました、涼野綾夏です。よろしくね」
「涼野さんの名前はもうさっきから何度も聞いているからもう覚えちゃってるよ。僕は藤木蓮。一応この部の部長をして――」
「――ちょっと待って」
涼野さんは急に口を挟んで僕の言葉をシャットアウトする。
「涼野さん……?」
「その『涼野さん』っていうのやめにしない?」
「え……どういうこと?」
涼野さんの言っていることを脳内で処理するのに、数秒の時間を要してしまった。
それくらい今の発言の意味が僕にとっては理解不能だった。
「だから、そのままの意味だよ。せっかく同じ部活なのに、お互い苗字で呼び合うっていうのも、何だか味気ない気がしない……?」
そこで僕が「いや、全然味気なくなんかないよ」なんて言うことができたら、この後の展開はがらりと変わって来ただろうに。
しかし、そんな僕の小さな考えは一瞬にして消え去ってしまった。
なぜなら、涼野さんが「NO」とは言わせないといわんばかりの強い眼差しでこちらをじっと見つめていたからだ。
「つ、つまりどうしろと……?」
結局そう言わざるを得なかった。
今の僕にはあの力のこもった眼力に勝てる気がしなかったのだ。
「つまりも要するにもなくて、お互いに名前で呼び合えばいいのよ!」
「それって本気で言ってる?」
今の彼女を見ればそんなこと一目瞭然だったけど、一応念のためそう切り返してみる。
「本気も本気よ」
このとおり、彼女は一切妥協する気はないようだ。
「言いたいことは分かったけど……どうして名前呼びにそこまでこだわるの?」
別に、仲良くするだけなら呼び方なんてどうでもいいはずだ。
逆に、呼び方ひとつで変わってしまう関係性だったら、それは本当に仲が良いといえるのだろうか。
「私、名字で呼ばれると、その人と距離を感じるのよ。なんて言うか、心の距離って言うのかな……。あぁ、この人とは表面上でしか打ち解けられてないんだなって」
でも、どうやら彼女はそうは思ってはいないらしい。
「じゃあ、それを僕に求めるってこと?」
「当たり前じゃない。だって同じ部活なんだもん!」
同じ部活だからという理由だけで普通そうはならないだろうと思いつつも、これに反抗し続けてしまったら、日が暮れてしまうかもしれない。
「わ、わかったよ……。でも、それはせめてここにいる時だけにしてほしい。教室とか周りに人がいるときだとなんか恥ずかしいからさ」
「へぇー、それは二人っきりとの時だけの特別なことってことでいいのね」
「そ、そうじゃないからっ! そんなこと言うんだったら、僕は下の名前で何て呼ばないぞ」
「噓噓! 嘘だって……」
僕は恥ずかしさのあまり、彼女はそんな僕の顔を見て面白がっているのだろう。お互いに顔を赤らめて、正反対の表情を浮かべる。
「でも――本音を言ってくれて嬉しかったよ。ありがとう、蓮くん」
それでも、魅惑的な笑みを浮かべる彼女――綾夏は、夕日に照らされているせいか、さっきよりも魅力的に映った。
さっきの沈黙が若干この空間に残っているらしく、なんとなくしゃべりづらい雰囲気が糸を引いていた。
そのせいで、僕の言葉にもどこか迷いが生まれてしまう。
「この入部届にサインすれば、私も文芸部の部員として活動することができるんだよね?」
「う、うん。そうだけど……」
ただの紙切れに名前を書いて、それを先生に提出するだけなのに。
涼野さんの言い方だと、何かものすごく大きく、重要なことのように聞こえてくるのはなぜだろうか。
「そっか、そっか……」
何度も何度も、僕の言ったことを嚙みしめるかのように、涼野さんは小さく頷く。
「じゃあ、今から私も文芸部の一員として活動していいんだよね?」
「ど、どうぞ……」
「やったぁ!」
僕が少し押され気味に首を縦に振ると、涼野さんはワンオクターブ上がった声を出して、その場でぴょんぴょんと跳ねる。
「それじゃあ失礼しま~す」
彼女は勢いそのままに、長机にしまわれているパイプ椅子を引くと、鞄を持ったままそれに飛び乗った。
長年使われてすらいなかったイスなだけあって、涼野さんが座った瞬間に埃が中に舞い上がる。
「うわぁ……なにこれ~……」
埃が宙に浮いている中、大きく息を吸い込んでしまったのだろう。涼野さんは思いっきりせき込み始めてしまった。
「君ってもしかして掃除するの苦手だったりする……?」
口元を押さえ、半分涙目になりながら、涼野さんは僕の方を見る。
「そんなことないよ。ここには週一回来るくらいだから、そんなに頻繁に掃除なんてしないだけだよ。それに、僕はどちらかといえばきれい好きな方だ」
これから一応同じ部員として活動する仲間……なのだから、このあたりのことははっきりさせておきたいところだった。
いきなり『掃除ができない人』として認識されてしまうのは僕にとってはかなり耐え難いことだから。
「ふぅーん、そうなんだ……」
涼野さんは、僕の話をどこか横耳で聞くようにしていて、なにやら自分の鞄をごそごそと漁っている。
自分から話を振っておいてその態度はいかがなものかと思ってしまう。
「よし、あったあった……」
涼野さんはB6サイズのメモ帳を取り出すと、最初の数ページをぱらぱらとめくったところで止め、手の平で折り目を付ける。
「何をしているの……?」
今度はボールペンを手にして何やらそこに文字を書き込んでいる彼女に尋ねる。
「まぁ……日記みたいな?」
「へぇ、日記なんて書いてるんだ」
小学生や中学生の長期休暇のときに出された一行日記がふと頭をよぎる。
そう考えて見ると、宿題として書いた日記以外に、僕が自分から進んでその日にあったことを丁寧に書き記したのはいつが最後なのだろうかと考え込んでしまう。
「ちょっと、今絶対高校生にもなって日記なんてまだまだ子供だね~なんて考えてたでしょ」
「べ、別にそんなことなんて全然思ってないよ」
特段当たっているわけではないけれど、かといって的外れのことを言っているわけでもないから、少しばかり反応に困ってしまう。
「どうだか……。私って、案外人の考えていることがわかったりしちゃうんだよね。だから、嘘をついても、それがなんとなく分かっちゃうのよ」
「そ、そうなんだ……。なんか……大変だね」
それはそれであまりうれしくない感性だな、と僕は思う。
人間は本音と建前をうまく使い分けて生きている。
決してその人のすべてが正直な部分でできているなんてことはあり得ない話だ。
どんなに清廉潔白と言われていようが、集団の長としてまとめる立場にある人であろうが、どこかで必ず建前を混ぜている。
逆説的に、その区別を分からないようにさせることができて、それをコントロールすることができているから、人間はその人に信頼を寄せ、ついて行くのだと思う。
でも、今僕の目の前に座っている彼女――涼野綾夏という女の子は、何となくではあるものの、その区別が分かってしまうのだという。
つまり、本当に信頼することができる人に巡り合うことができれば、その感性というのはあってよかったと思うことができるだろう。
でも、それに辿り着くまでには、きっと何百何千という嘘と向き合わなくてはいけないことだろう。
「だからさ――」
少し語調を強めて、彼女が言う。
「君だけは……嘘で塗り固めた言葉を発しないで、本音を語ってほしい」
彼女の言葉は、強かった。
どこか、縋るような。
まるで、もう逃げ場がなくなってしまってもう後がないような――。
心の底から、それを望んでいるように僕の耳には聞こえた。
「わかったよ」
彼女の心の叫びに、僕は小さくそう返した。
「ありがとう」
涼野さんは納得したようで柔らかくほほ笑むと、一瞬夕日が差し込む窓際に目をやる。
でも、すぐに何か思いついたように口を開く。
「そういえば、まだお互いに自己紹介してなかったね。改めまして、今日から文芸部員になりました、涼野綾夏です。よろしくね」
「涼野さんの名前はもうさっきから何度も聞いているからもう覚えちゃってるよ。僕は藤木蓮。一応この部の部長をして――」
「――ちょっと待って」
涼野さんは急に口を挟んで僕の言葉をシャットアウトする。
「涼野さん……?」
「その『涼野さん』っていうのやめにしない?」
「え……どういうこと?」
涼野さんの言っていることを脳内で処理するのに、数秒の時間を要してしまった。
それくらい今の発言の意味が僕にとっては理解不能だった。
「だから、そのままの意味だよ。せっかく同じ部活なのに、お互い苗字で呼び合うっていうのも、何だか味気ない気がしない……?」
そこで僕が「いや、全然味気なくなんかないよ」なんて言うことができたら、この後の展開はがらりと変わって来ただろうに。
しかし、そんな僕の小さな考えは一瞬にして消え去ってしまった。
なぜなら、涼野さんが「NO」とは言わせないといわんばかりの強い眼差しでこちらをじっと見つめていたからだ。
「つ、つまりどうしろと……?」
結局そう言わざるを得なかった。
今の僕にはあの力のこもった眼力に勝てる気がしなかったのだ。
「つまりも要するにもなくて、お互いに名前で呼び合えばいいのよ!」
「それって本気で言ってる?」
今の彼女を見ればそんなこと一目瞭然だったけど、一応念のためそう切り返してみる。
「本気も本気よ」
このとおり、彼女は一切妥協する気はないようだ。
「言いたいことは分かったけど……どうして名前呼びにそこまでこだわるの?」
別に、仲良くするだけなら呼び方なんてどうでもいいはずだ。
逆に、呼び方ひとつで変わってしまう関係性だったら、それは本当に仲が良いといえるのだろうか。
「私、名字で呼ばれると、その人と距離を感じるのよ。なんて言うか、心の距離って言うのかな……。あぁ、この人とは表面上でしか打ち解けられてないんだなって」
でも、どうやら彼女はそうは思ってはいないらしい。
「じゃあ、それを僕に求めるってこと?」
「当たり前じゃない。だって同じ部活なんだもん!」
同じ部活だからという理由だけで普通そうはならないだろうと思いつつも、これに反抗し続けてしまったら、日が暮れてしまうかもしれない。
「わ、わかったよ……。でも、それはせめてここにいる時だけにしてほしい。教室とか周りに人がいるときだとなんか恥ずかしいからさ」
「へぇー、それは二人っきりとの時だけの特別なことってことでいいのね」
「そ、そうじゃないからっ! そんなこと言うんだったら、僕は下の名前で何て呼ばないぞ」
「噓噓! 嘘だって……」
僕は恥ずかしさのあまり、彼女はそんな僕の顔を見て面白がっているのだろう。お互いに顔を赤らめて、正反対の表情を浮かべる。
「でも――本音を言ってくれて嬉しかったよ。ありがとう、蓮くん」
それでも、魅惑的な笑みを浮かべる彼女――綾夏は、夕日に照らされているせいか、さっきよりも魅力的に映った。