仲良くなるどころか、むしろ涼野さんへの疑心感が強まってしまったけど、僕は気を取り直して、人の姿がまばらになった廊下を歩いて行く。
上履きが廊下と接するときに鳴るカランコロンという音は、昼間では決して聞くことができない。
だから、部室に寄るときは、こうして少しわざと足音を大きくしたりして、その反響音を一人で楽しんでいたりする。
第二校舎へと足を踏み入れると、人の気配はさっきよりも薄れ、もう周りには誰もいなくなってしまったかのように感じる。
第一校舎は、各学年の教室が下から上までぎっしりと詰まっているから、朝から夕方まで活気が満ち溢れている。
一方の第二校舎は、実験室だったり、そのための準備室など、移動教室で使われることがほとんどだから、普段から人の出入りは相対的に少なくなっている。
放課後ともなれば、もはや無人と言っても過言ではない。
僕は、そんなほとんど無人の校舎の中にひっそりとしている図書室の隣、『図書準備室』という札が掲げられている部屋の前で足を止めると、鞄から小さなカギを取り出して、鍵穴に差し込む。
以前に比べて建付けが悪くなってしまったドアを、両手に少し力を込めて横にスライドさせる。
すると、会議で使われるような長机とパイプ椅子が待ち構えていた。
西日に照らされて、空気中の埃がキラキラと浮かび上がってくる光景が、僕の視界に飛び込んでくる。
ここが、僕が所属している『文芸部』の部室だ。
床にカバンを置いてゆっくりとパイプ椅子に腰掛ける。
「ふぅ……」
僕は軽く目を瞑り、大きく深呼吸をする。
学校というコミュニティの中で、一人になれる場所というのは本当に貴重なものであると、僕はつくづく感じている。
たとえ一人になろうとしても、その先には必ず誰かがいる。
昇降口は行きかう人のオンパレード。
廊下は各コミュニティを繋いでいる大動脈。
階段は駆け上がる運動部のトレーニング場所。
唯一の頼みの綱である屋上でさえも、カップル御用達の単身御法度スポット。
こんな風に、学校の至る所に僕以外の誰かがいる。
たとえそこにいる人が、自分のことを気にすることなくいたとしても、人というのは無意識的に周りからの反応を伺い、自分がどう見られているのかを気にしてしまう。
素の自分を見せることに羞恥を覚えて、躊躇う。
そして、その結果、少しでも他人に自分をよく見せようと、重く使い勝手の悪い窮屈なベールで全身を覆う。
そうすれば、一時的に精神的な安寧と優越感に浸ることができるかもしれない。
しかし、それによってできた自分は、本来の自分とは遠くかけ離れた存在となり変わっていて、もはやそれを自分自身と認めることはできない。
だって、いつかは重くのしかかった衣装に押しつぶされて、本来の自分失われてしまうから。
でも、そんな窮屈な空間にも、例外が存在しているのは確かなことである。
それが、この文芸部の部室なのだ。
一応文芸部とは謳っているものの、部員は僕含めてたった二人しかいない。
しかも、もう一人は形式的な部員ときている。
僕の通う岸浜高校では、校則で「部活動をするためには、最低二人以上いなければならない」と定められている。
先輩たちの代はそれでも部活動をするだけの人は十分にいたのだけど、僕たちの代は他に部員が入って来ることがなかったから、本来であれば今年の三月末時点で廃部の予定だった。
ところが、この学校の生徒会長で、小学校の時からの付き合いがある永田真澄に、ダメもとでお願いしてみたところ、なんとそれを承諾してくれたのだ。
でも、彼女は普段生徒会の仕事でかなり忙しいらしく、本当にただの数の補填という形式的なものでよければということを付言した。
それでも僕は嬉しかった。
一つの部を残すためだけに、校則で規定されている部の存続要件の二人を満たすためだけに、形式的とはいっても、それに協力してくれたからだ。
そして現在。一度確認のためにここに来てもらって以来、本当に永田はこの場所に足を踏み入れることはなかった。
だから、実質的に、この文芸部の活動は、僕一人に左右されているのだった。
僕は閉じていた瞳を開くと、最終盤を迎えたところで読み止まっている文庫本に手を伸ばし、そのしおりを取って文字列に目を落としていく。
最後の最後で大どんでん返しが起きることがあるから、小説のクライマックスは本当に興奮する。自分なりの考えてきたものが、こうだと確信した結末が、たったの数行で根底から覆されてしまうからだ。
そんなときは、作者への畏敬の念とともに、驚き、悲しみ、感動諸々の感情を大きく爆発させる。
だからこそ、それを自由に、誰の目も気にすることなく伸び伸びとするには、この場所以外にぴったりな場所を、僕は知らない。
最後のページをめくり終えて一呼吸挟んでから、僕はパイプ椅子を再び滑らせ、本をもって立ち上がる。
そのまま一直線に文庫本の背表紙がずらりと並ぶ本棚へと向かう。
この部室に備えられている大きな本棚は、歴代の先輩たちが残していった名作の数々が置かれている。
端の方はすでに最後に手に取られてから何年もたっているのか、うっすらと埃をかぶっていて、それをオブジェと言ってもある程度の人は信じてしまうかもしれない。
でも、僕は毎日ここに来るわけではない。多くて、週に二回くらいだろうか。
気になったり読みたくなったりした本があれば、ここに寄って、この大きな本棚から取り出して帰るのが、僕の中でのお決まりの流れだった。
何か特別な活動をするということはなく、ただただ本を自由に読み漁ることのできる図書館のような感覚だった。
今日も、これから読もうとする本を決め、それを本棚から引っ張り出すと、ブックカバーに取り付ける。
これから始まる物語のスタートラインに立ち、わくわくしながら変える支度を始めた――そのときだった。
ほとんど無音だった空間に、何やら軽やかな足跡が聞こえてきた。
僕は動かす手を止めて、じっと耳を澄ませる。
それは、他の部活の生徒でも、見回りの先生のものでもなさそうだ。
しばらく遠くに響く足音に注意を向けていると、それは遠ざかるどころか、どんどんとこちらの方に近づいて来ているのが分かった。
一体何事かと半分恐怖すら感じ始める僕のことなどいざ知らず、部室の前でぴたりと足音が止まる。
ほんの数秒の間をあけてから、建付けが悪くなっていたはずのドアががらりと勢いよく開けられる。
そして、一人の少女が姿を現した。
上履きが廊下と接するときに鳴るカランコロンという音は、昼間では決して聞くことができない。
だから、部室に寄るときは、こうして少しわざと足音を大きくしたりして、その反響音を一人で楽しんでいたりする。
第二校舎へと足を踏み入れると、人の気配はさっきよりも薄れ、もう周りには誰もいなくなってしまったかのように感じる。
第一校舎は、各学年の教室が下から上までぎっしりと詰まっているから、朝から夕方まで活気が満ち溢れている。
一方の第二校舎は、実験室だったり、そのための準備室など、移動教室で使われることがほとんどだから、普段から人の出入りは相対的に少なくなっている。
放課後ともなれば、もはや無人と言っても過言ではない。
僕は、そんなほとんど無人の校舎の中にひっそりとしている図書室の隣、『図書準備室』という札が掲げられている部屋の前で足を止めると、鞄から小さなカギを取り出して、鍵穴に差し込む。
以前に比べて建付けが悪くなってしまったドアを、両手に少し力を込めて横にスライドさせる。
すると、会議で使われるような長机とパイプ椅子が待ち構えていた。
西日に照らされて、空気中の埃がキラキラと浮かび上がってくる光景が、僕の視界に飛び込んでくる。
ここが、僕が所属している『文芸部』の部室だ。
床にカバンを置いてゆっくりとパイプ椅子に腰掛ける。
「ふぅ……」
僕は軽く目を瞑り、大きく深呼吸をする。
学校というコミュニティの中で、一人になれる場所というのは本当に貴重なものであると、僕はつくづく感じている。
たとえ一人になろうとしても、その先には必ず誰かがいる。
昇降口は行きかう人のオンパレード。
廊下は各コミュニティを繋いでいる大動脈。
階段は駆け上がる運動部のトレーニング場所。
唯一の頼みの綱である屋上でさえも、カップル御用達の単身御法度スポット。
こんな風に、学校の至る所に僕以外の誰かがいる。
たとえそこにいる人が、自分のことを気にすることなくいたとしても、人というのは無意識的に周りからの反応を伺い、自分がどう見られているのかを気にしてしまう。
素の自分を見せることに羞恥を覚えて、躊躇う。
そして、その結果、少しでも他人に自分をよく見せようと、重く使い勝手の悪い窮屈なベールで全身を覆う。
そうすれば、一時的に精神的な安寧と優越感に浸ることができるかもしれない。
しかし、それによってできた自分は、本来の自分とは遠くかけ離れた存在となり変わっていて、もはやそれを自分自身と認めることはできない。
だって、いつかは重くのしかかった衣装に押しつぶされて、本来の自分失われてしまうから。
でも、そんな窮屈な空間にも、例外が存在しているのは確かなことである。
それが、この文芸部の部室なのだ。
一応文芸部とは謳っているものの、部員は僕含めてたった二人しかいない。
しかも、もう一人は形式的な部員ときている。
僕の通う岸浜高校では、校則で「部活動をするためには、最低二人以上いなければならない」と定められている。
先輩たちの代はそれでも部活動をするだけの人は十分にいたのだけど、僕たちの代は他に部員が入って来ることがなかったから、本来であれば今年の三月末時点で廃部の予定だった。
ところが、この学校の生徒会長で、小学校の時からの付き合いがある永田真澄に、ダメもとでお願いしてみたところ、なんとそれを承諾してくれたのだ。
でも、彼女は普段生徒会の仕事でかなり忙しいらしく、本当にただの数の補填という形式的なものでよければということを付言した。
それでも僕は嬉しかった。
一つの部を残すためだけに、校則で規定されている部の存続要件の二人を満たすためだけに、形式的とはいっても、それに協力してくれたからだ。
そして現在。一度確認のためにここに来てもらって以来、本当に永田はこの場所に足を踏み入れることはなかった。
だから、実質的に、この文芸部の活動は、僕一人に左右されているのだった。
僕は閉じていた瞳を開くと、最終盤を迎えたところで読み止まっている文庫本に手を伸ばし、そのしおりを取って文字列に目を落としていく。
最後の最後で大どんでん返しが起きることがあるから、小説のクライマックスは本当に興奮する。自分なりの考えてきたものが、こうだと確信した結末が、たったの数行で根底から覆されてしまうからだ。
そんなときは、作者への畏敬の念とともに、驚き、悲しみ、感動諸々の感情を大きく爆発させる。
だからこそ、それを自由に、誰の目も気にすることなく伸び伸びとするには、この場所以外にぴったりな場所を、僕は知らない。
最後のページをめくり終えて一呼吸挟んでから、僕はパイプ椅子を再び滑らせ、本をもって立ち上がる。
そのまま一直線に文庫本の背表紙がずらりと並ぶ本棚へと向かう。
この部室に備えられている大きな本棚は、歴代の先輩たちが残していった名作の数々が置かれている。
端の方はすでに最後に手に取られてから何年もたっているのか、うっすらと埃をかぶっていて、それをオブジェと言ってもある程度の人は信じてしまうかもしれない。
でも、僕は毎日ここに来るわけではない。多くて、週に二回くらいだろうか。
気になったり読みたくなったりした本があれば、ここに寄って、この大きな本棚から取り出して帰るのが、僕の中でのお決まりの流れだった。
何か特別な活動をするということはなく、ただただ本を自由に読み漁ることのできる図書館のような感覚だった。
今日も、これから読もうとする本を決め、それを本棚から引っ張り出すと、ブックカバーに取り付ける。
これから始まる物語のスタートラインに立ち、わくわくしながら変える支度を始めた――そのときだった。
ほとんど無音だった空間に、何やら軽やかな足跡が聞こえてきた。
僕は動かす手を止めて、じっと耳を澄ませる。
それは、他の部活の生徒でも、見回りの先生のものでもなさそうだ。
しばらく遠くに響く足音に注意を向けていると、それは遠ざかるどころか、どんどんとこちらの方に近づいて来ているのが分かった。
一体何事かと半分恐怖すら感じ始める僕のことなどいざ知らず、部室の前でぴたりと足音が止まる。
ほんの数秒の間をあけてから、建付けが悪くなっていたはずのドアががらりと勢いよく開けられる。
そして、一人の少女が姿を現した。