そうである可能性が高いのは紛れもなくそうであったのだけど。
 逆にそうであるからこそ彼女でなくあってほしいと、強く思っていたのだけど。

 僕の必死な願いは、されど小さくちっぽけな願いは、現実というものの無慈悲さにあっけなく飲み込まれて行ってしまった。

 そこに立っているのは間違いなく涼野綾夏。
 僕とつい数日前まで海水浴やら夏祭りやらであんなにはしゃいでいた涼野綾夏。
 そんな彼女が、点滴の管を伸ばしながら、痛々しい姿で立っている。

 「…………」

 僕は声がのどに詰まってしまって何も発することができなくなっていた。
 人というのはたった数日間でそこまで変化してしまうのかと。

 やつれきったその姿は、僕が最後に見た綾夏の面影は少しも残っておらず、かろうじて同一人物であると判別できるくらいだった。

 綾夏はこちらの方に視線を向けていたけど、きっと僕がこんなところにいるなんてこれっぽっちも思っていないだろうから、きっと僕の存在には気づいていないだろう。
 むしろ今ここにいることを綾夏に知られてはいけない――なぜかそんな気がして、これ以上彼女を見ることができなかった。

 「蓮、お待た――」

 「母さん、静かにっ!」

 母さんが会計から帰ってきたのだろう。
 僕の名前を呼ぶけど、今はそれは一番まずいことだった。

 「ど、どうしたの……」

 さっきまでうなだれるようにしていたはずの息子が、少しの時間見ていないだけでこれほどはっきりとしているのだから、驚かないはずがない。
 でも、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。

 「ごめんね母さん。でも今はちょっと僕の名前を言うのはやめてほしい」

 「そ、そうなの……? でも、あなたがそこまで言うなら……」

 母さんは分からないなりにも頷いてくれて、病院の敷地を出るまではお互いに言葉を交わすことなく移動した。


 それから数日は家で休養を取った。
 体調は日に日によくなっていくのが分かったけど、ふとしたときには必ずあの病院での綾夏の立ち姿が脳裏にフラッシュバックする。

 一体綾夏に何があったのか――。

 あの日から綾夏に全く連絡が付かなかったのは、きっと入院していたからなのだろう。

 だとしても、入院していても携帯電話くらいは使えるはずじゃないのか?
 それとも、ただ単純に電源を切り続けていただけなのか?

 様々な予測と憶測が僕の頭の中で飛び交っていく。
 でもそれらは所詮僕の頭の中で考え出された可能性の一つなのであり、どれが正解かを僕が勝手に決めるわけにはいかない。いや、決めてはいけないのだ。

 でも、どうしても気になった僕は、もう一度綾夏とのトークルームを開く。
 そして、未だに既読の付かないメッセージの下に再度送る。

 「綾夏、元気か?」

 本当はもっといろいろなことを書きたかった。

 最近部活に顔見せないけど、何やってるんだ――って。
 僕一人で文集進めているけど、綾夏はいつ来るんだ――って。
 このままじゃ文化祭までに間に合わないぞ――って。
 既読スルーなんてひどいじゃないか――って。

 そんな書き出したらきりのない思いを、その六文字に全て乗せて送る。
 そろそろ既読くらいしてくれるだろう、と。

 僕は何時間も自分の携帯電話とにらめっこをした。
 眠くなって頭がこっくんこっくんと船を漕いでも、僕はその画面を見続けた。

 そうしているうちに、気付いたらカーテンの向こう側から淡い光が差し込んできた。
 結局寝ずに夜を明かしてしまった。
 生まれて初めてかもしれない。
 でも、ずっと彼女からの返信を待っていたから、不思議と眠気はあまりやってこない。

 しかし、やはり綾夏からの返信が来るどころか既読すらつかなかった。

 僕は一体彼女に何を期待していたのだろうか。
 勝手に期待して、返信が来ないからといって勝手に裏切られたなんて思って。
 そんなのただの自己中心的で傲慢なことではないか……。
 その日は何に対してもやる気が起きず、一日中ベッドの上で過ごしていた。


 翌日。
 僕は体調的には何も問題はなくなったから、今日からまた文集作りへと向かうことにした。
 いつもの学校、そしていつもの第二校舎を通って、いつもの部室へと足を踏み入れる。

 夏風邪をひいてから大体二週間弱外の空気から遮断されていたこの教室は、熱気でこもっているはずなのに、どこかひんやりとした空気を感じる。室温とは違う、何かを。

 まずは窓を全開にして空気を入れ替えながら、ほうきとちりとりで床に堆積した埃を拾い上げていく。

 耳を塞ぎたくなるようなセミの声が次々と入って来るけど、ちっとも孤独感を埋め合わせてくれることはなかった。
 静寂よりかはもちろん音がある方が気が紛れていいのかもしれないけど、やはり何か物足りない。

 音の大きさだけではない、心に呼びかけるような音が欲しい。
 それはここに置いてある文庫本のどんな名シーンでも、琴線に触れるようなフレーズでもない。
 やっぱり、涼野綾夏の声でなければならないのだと。

 「――あぁ、綾夏のうるさくて耳障りな声が聞きたいな……」

 気付いたらそんなことを口走っていた。
 自分で口にしたのにもかかわらず、何だか情けない気分になってきた。

 「――誰の声がうるさくて耳障りだっていうのよ!」

 最初は幻聴だと思った。
 とうとうそこまで来てしまったのかと。

 いくら綾夏の声が聞きたいからといって、頭の中でそれを創り出してしまうあたりがもう精神的に追い詰められている証拠なのだろうか……。

 「――ちょっと、無視するなんてひどいじゃない!」

 「――えっ……?」
 
 声のした方に振り返る。

 すると、そこには幻聴でも幻覚でもない、涼野綾夏本人が立っていたのだった。