今日は緑涼会があるからと、普段よりも支度に時間がかかった。慈佳や宮女らも、妃嬪ほどでないといえ髪に飾りをつけている。

 刻限が迫ると嘉音らは髙祥殿に向かった。
 中庭は既に準備が終えてあり、花器に活けられた花が飾られている。まるでここが星辰苑になったかのような草花の賑わいだ。また髙祥殿中庭には小さな池もあり、冷涼な気を与えている。
 中央には敷物があり、端には大家や妃嬪らのために設けられた席がある。見晴らしのよいところに四妃の席がつくらえ、凌貴妃はそこにいた。嘉音は昭容の位を与えられているため、九嬪にあたる。四妃ほどではないが、それなりに良い席だ。
 嘉音の隣には同じく九嬪の者たちが座る。(りゅう)充儀(じゅうぎ)の姿を見つけ、嘉音は声をかけた。

「劉充儀。今日は良い天気に恵まれましたね」

 和やかに声をかけたつもりでいた。だが、劉充儀は嘉音と目を合わせるなり、何事もなかったかのように顔を背け、返答はない。

「……劉充儀?」

 その異様な様子に嘉音がもう一度声をかける。それでも劉充儀は引き結んだ唇を開こうとはしなかった。

(無視されている? どうしてかしら)

 劉充儀と最後にあったのは、宮に招かれた日だ。その時は、何事もなく、劉充儀の機嫌を損ねるような発言もしていなかったと記憶している。なぜこのような態度を取るのか、嘉音は見当もつかなかった。

 そこへやってきたのが()才人(さいじん)だった。見知った顔を見つけて安心したらしい。

「ああ、劉充儀。ここにいましたか――」

 呉才人はそう言いかけたが、視界に嘉音を捉えたらしく、そこで息を呑んだ。表情はみるみると青くなる。嘉音がここにいなかったかのように視線を外す。

「呉才人、行きましょう」

 劉充儀にとっては助け船だったのだろう。呉才人に声をかけ、そそくさとその場を離れる。それはまるで嘉音を避けるように。

(……なるほど)

 二人の動きから、この状況を把握する。
 あらためて見渡せば、妃嬪は嘉音と目を合わせようとしていない。近くにいる者も、息を潜めて怯えている。嘉音に声をかけられないようにと願っているのが伝わった。

 そして何より――凌貴妃だ。彼女は振り返り、嘉音の様子を眺めている。扇で口元を隠しているがおそらく嗤っているのだろう。

(一人になった私を眺めて楽しんでいるのね)

 呉才人や劉充儀にも、嘉音と接しないように脅しをかけたのだろう。さらに他の妃嬪にも根回しをし、孤立させるのだ。妃嬪が集う緑涼会は格好の場である。凌貴妃の言に従うか薛昭容に着くか、妃嬪らはこの場でそれを示さなければならない。

 これに慈佳も気づいたのだろう。そっと耳打ちをする。

「薛昭容。誰かが仕組んでいるのかもしれませんね」
「そうね。孤立したところで私は構わないけれど――」

 嘉音はちらりと呉才人と劉充儀を見る。特に呉才人は青ざめていた。時折、凌貴妃の方を見て、反応を伺っているようだ。
 様々な思惑絡む後宮といえ、これでは息苦しいだろう。

「強いられている妃嬪が可哀想だわ……これ以上、何事もなければよいけれど」
「ええ……恙なく終わるよう、願うしかありません」

 緑涼会はこれから始まる。嫌な予感はありながらも、嘉音はそこに居続けるしかなかった。


 緑涼会は妃嬪らがそれぞれの芸を披露する場でもある。それぞれが舞や歌を披露していく。特に良き舞手として知られる呉才人の舞は美しかった。髙祥殿に添えた花ともよく合う。
 本来はここに大家がいて、彼の寵愛を得るべく競い合うところだが、今日は空席となっている。芸事の披露もあっさりとしたものである。

(私はそういったことには向いていないから、呉才人や劉充儀が羨ましいわ)

 呉才人に負けず劣らず、劉充儀の舞も素晴らしいと噂に聞く。おそらく劉充儀も披露するのだろう。無視されていたとしても彼女の舞を見るのを楽しみにしていた。
 その時だった。

「薛昭容は何を披露なさるの?」

 声をあげたのは(たん)昭儀(しょうぎ)だ。彼女は凌貴妃を慕っているので、今回声をあげたのは薛昭容を貶めるためだろう。
 あたりは嘉音の動向を窺うように、しんと静かになっていた。

「いえ、私は――」
「あらあら。薛昭容とあろう方が、このような場で披露できる芸もないと?」

 逃げ道を断つように湛昭儀が続ける。つまりは、この場で嘉音に芸事の披露をさせたいのだろう。嘉音がそういったものに疎いことを知り、恥をかかせるために舞台にあげようとしているのだ。

「湛昭儀。そのような無理強いはよくないですよ……でも、大家の寵を得ている薛昭容がどのような芸を披露なさるのかは私も気になりますね。大家にしかお見せしたくないというのでしたら仕方ないことだとは思いますが」

 これは凌貴妃が言った。表向きは湛昭儀をなだめているものの、その言は嘉音を追い詰めるものである。
 こうなれば引くことはできない。意を決し、舞台にあがるしかないのかと考えていた時だった。

「大家が参られました」

 宦官が告げた。妃嬪らは慌ててその方を向き、長揖する。
 髙祥殿からやってきた大家は妃嬪らを見渡した後、誰にも声をかけず席につく。そのそばに葛公喩が着く。

(天雷……来たのね)

 嘉音としては助かったところだ。大家が来るのが少しでも遅れていれば逃げられず舞台に立たされていただろう。ほっと胸をなで下ろす。

「芸事の披露もよいものだけど、そろそろ涼みたいところだねえ」

 公喩が言った。この場でも物怖じせず大家に話しかけている。
 どうやらここからは花や草、池などを愛でる場になるようだ。公喩の言葉を合図に妃嬪が立ち上がる。大家は腰掛けたまま動かない。天雷であると知られないようにしているのだろう。

 嘉音は少し悩んだものの、池の方へと向かった。嘉音が動くと他の妃嬪は逃げるように去っていく。

(黄金の鯉……風禮国からの贈りものと聞いたわね)

 その小さな池を、黄金に塗られた鯉が悠然と泳ぐ。水の中はさぞ気持ちよいことだろう。
 他のところにも移りたいが、嘉音が行けば妃嬪らは避けるのだろう。彼女らを思うと動かない方が良いように思えた。
 だが――そうして池を眺めていた時である。

 ぴちゃりと、何かが跳ねた音がした。

(水音? 鯉が跳ねたわけでもないのに)

 違和感を抱き、あたりを見渡す。そばには慈佳と、白李宮から連れてきた一人の宮女がいた。他の妃嬪らは草花を眺めている。誰かが池に落とし物をしたわけでもなさそうだ。
 そして池に視線を戻す。しかし、あれほど元気に泳いでいた鯉の動きがゆっくりしたものに変わる。ひれや尾はだんだんと動かなくなり、ついに――

「ひいっ」

 慈佳が声をあげた。鯉がぷかりと水面に浮いてきたのだ。白い腹を見せて浮く、その姿は魚らしさを欠いた不自然なものだった。

「し、死んでいる……?」

 嘉音が呟く。その頃には慈佳の悲鳴を聞きつけ、宦官や衛士が集まってきた。彼らは池を覗き、顔をしかめる。

「なんてことだ。黄金鯉が」
「先帝が大事にされていたというのに」
「不吉の兆しかもしれぬ」

 死した鯉を眺め、それぞれが呟く。突如このようなことが起きたのだ、妃嬪らもざわついている。公喩もやってきたが、彼は何も言わず、真剣な顔をして池を眺めていた。

「このようなことが起きたとなれば祓いが必要かもしれない」
「緑涼会は中止にすべきだ。警備を強化しよう」
「これは――第四皇子の幽鬼(ゆうれい)でしょう」

 凜とした声で告げたのは凌貴妃だった。彼女の言に、ざわついていた中庭は水を打たれ静まり返る。
 凌貴妃は池の方へと歩み寄りながら告げた。

「第四皇子の幽鬼が出ると噂を聞きます。このように華やかな場ですもの、幽鬼が羨むのも当然のこと」

 そう言いながら、彼女の視線がこちらに向けられた。嘉音がどのような反応をするか試しているのだろう。
 だが嘉音より先に動いたのは公喩だった。

「どうしてこれが幽鬼の仕業だと?」
「たびたび目撃されているのですよ。髙祥殿に立ち入る姿や星辰苑に入る姿、第四皇子が最後に住まわれたという兒楽(じらく)(きゅう)のあたりで見ると、よく噂を聞きますね」
「目撃されたからといって、これを幽鬼の仕業と決めつけるのは尚早じゃないかな」

 第四皇子の幽鬼は呉才人や劉充儀も語っていた。凌貴妃の言う通り、よく聞く話なのかもしれなかった。異を唱えるのは公喩だけで、妃嬪や宦官らは驚きもせず、納得した様子でいる。

(兒楽宮……第四皇子が最後に住んでいた場所……)

 その名を覚えておかなければならないと嘉音は考えた。そのことに夢中で、周囲への警戒が薄れていた。彼女の背後に湛昭儀がいることも気づいていない。

(何か……おかしな気がする。凌貴妃がこれを第四皇子の幽鬼だと語ったこと。その直後に私の様子を伺っていたこと……)

 そうして考えこんでいる時だった。

 とん、と体に何かが当たった。さほど強く押されたわけではなかったが、物思いに耽る嘉音はそれを予期せず、体がふらついた。

(あ――)

 体勢を崩し、受け身を取ろうと手を伸ばす。その先には鯉の死体が浮かぶ池があった。水深がそこまで深くないことはわかっている。手をつけばよいだろうと安易なことを考えていた。
 だが、聞こえてきたのは予想と反する者の声だった。

「薛昭容! だめよ、その水に触れては――」

 女人の声。

(凌貴妃? どうして)

 嘉音がそれに驚き、その方を見ると共に、別の者が体を引いた。

 ぐいと引っ張られ、水に触れることはなかった。厚い胸元がすぐ近くにある。嘉音を引き寄せるようにして助けたのだろう。見上げれば葛公喩がそこにいた。

「……危なかったね」

 公喩が安堵の息をつく。

「君は随分と水遊びが好きなようで」
「あ……ありがとうございます」
「気にしなくて良いとも。しかし気をつけた方がいいね、いつまた、誰ぞに落とされるかもわからない――ねえ、湛昭儀?」

 公喩はそう言って、湛昭儀の方を睨めつけた。彼女は視線を泳がせている
が、位置からしても彼女が嘉音にぶつかったのだろう。
 おそらく公喩は目撃している。だから湛昭儀の名前を出したのだろう。他にも衛士が見ていたかもしれない。追及がはじまる前にと、嘉音は告げた。

「いえ。湛昭儀は関係ありません」
「っ……君は、また……」
「私が考えごとをしてふらついてしまっただけです。公喩殿、助けていただきありがとうございました」

 これに葛公喩は動揺の色を隠しきれなかった。彼は飄々とした態度をよくとるが、珍しく苛立ちが現れている。嘉音がどうして湛昭儀を庇うのか理解できないのだろう。

(湛昭儀にも理由があるのかもしれない。この場でことを大きくするのだけは避けたい)

 葛公喩は嘉音の手首を掴んだまま。その力は強くなっていく。ぎりぎりと肌が傷んだ。

「君は……どうして……」

 彼の苛立ちが痛みとなり、ついに耐えきれず嘉音が声をあげようとしたところで――周囲にいた宦官が、一歩後退り頭を垂れた。嘉音、そして公喩もやってきたその人物を見上げる。

「……大家」

 彼は冷ややかに嘉音を見つめていた。公喩も大家がやってきたことに驚き、手首を掴む力を緩めた。

「薛昭容。こちらへ」

 そう告げると同時に、大家が嘉音の手を取る。

「薛昭容を白李宮に連れて行く」

 妃嬪や宮女、宦官らが一斉に拱手する。
 振り返らず歩き始めた大家を引き止められるものはいない。嘉音も大家に手を引かれて連れ出される格好となってしまった。白李宮の宮女らは慌てて後を追ってきたが、それ以外のものは髙祥殿に残されたままだった。


 白李宮に戻ると、大家――天雷はすぐに人払いをした。
 ここまで天雷は一言も語らなかった。ちらりと見上げた表情は強ばっている。そこに怒りが潜んでいるようにも見えた。

「天雷、どうしたの」

 嘉音が問うも天雷は答えない。部屋に入るなりその場から動かず、俯いている。その異質な雰囲気が恐ろしく感じた。

「天雷ってば。ねえ、私の話を――」

 聞いているの、と問いかけたものは飲みこんだ。顔の横を風が通り抜ける。視界は薄暗くなり、圧迫感がある。見れば天雷の腕が視界の端にあった。おそらくは嘉音の後ろにある壁に手をついているのだろう。

「……どう、したの」

 眼前にある天雷が恐ろしく、声が震えた。
 苛立ちと悔しさをこめたようなまなざしが向けられている。それは嘉音を射貫くように、飢えた獣のような荒々しさを秘めていた。
 普段穏やかに微笑む天雷がこのような顔をするなど知らなかった。驚く嘉音の身に、影が落ちる。

「っ――て、んら……」

 急に影が落ち、咄嗟に目を瞑れば、唇に柔らかなものが押しつけられた。それが彼の唇であると気づいたのは、吐息を間近に感じたためだ。
 口づけと呼ぶにはほど遠く、怒りを混ぜ、貪るように唇が重ねられる。呼吸が乱れ、声をあげることすらままならない。重ね合わせた唇に隙間が生じるも、逃げ道を塞ぐように天雷が貪る。

 好いた者がいて、口づけをして――それは幸せなことだろうと嘉音は思う。憧れた時もあった。けれどこれは違う。伝わってくるのは天雷の怒りや悲しみといった負の感情だ。

 なすがままにされていた嘉音だったが、ようやく解放されると腰が抜けた。その場にすとんと座りこみ、体を震わせながら天雷を見上げる。

「……怒って、いるのね?」
「そうだと答えたら……嘉音様はどうされますか?」
「私、天雷がどうして怒っているのかわからないもの」

 天雷はやるせない顔をし、深くため息を吐いた。

「俺は、俺自身に怒っています。嘉音様を守ると誓っておきながら、あなたが転びそうになった時、すぐに駆けつけることができなかった」

 悔しそうに呟く。天雷は、嘉音の手に触れていた。それは先ほど、公喩に手首を掴まれた方の腕だ。手首には赤い跡が残っている。

「公喩が羨ましい。あなたを助け、抱きしめている。あなたを守るため宦官になると誓ったのにこれでは違う。俺は何も守れていない」
「そんなことないわ。私、天雷にたくさん助けられてきたもの」
「俺は何も出来ていません。黙って見守るだけ――だから、嫉妬したんです。あなたを堂々と助けることの出来る公喩を妬ましいと思った。いますぐにあなたを抱きしめ、自分だけのものにしたかった」

 そう言って、天雷が顔をあげた。いまにも泣き出しそうな顔をして、嘉音を見つめている。

「こんな嫉妬をするなど浅ましいですね。申し訳ありません。自制できずあのように触れてしまうのですから、嘉音様もきっと、俺のことを嫌いになったでしょう」

 その表情が切なく、胸に焼き付く。荒々しい口づけは、彼の苛立ちが膨らんだ結果なのだろう。突然のことに驚いたが、理由を知ればそれすら愛おしく思えてしまう。

「嫌いになんて、絶対にならない」

 嘉音は告げた。

「驚いたけれど……でも天雷に触れられて幸せだったの。だから嫌いになんてならない。私が好きなのはあなただけよ」
「……嘉音様」
「だからお願い。こちらを向いて」

 立ち上がり、天雷に向けて手を伸ばす。彼の頬に触れれば温かく、幸福が感じられた。

「先ほどのやりなおしをして。もう一度、口づけをしてくれたら、それでいいから」

 天雷は驚いたような顔をし、しかしすぐにいつもの笑みを浮かべて頷いた。今度は優しく、慈しむように影が落ちる。唇は先ほどと変わらぬ柔らかさで、しかし全身に染み渡るような穏やかな熱を秘めている。

(天雷……ずっとこの時間が続けばいいのに)

 唇が離れて瞳を開けば、そこにいるのは大家の(かんばせ)

(元の体に戻れば嬉しい、けれど、供に居られることができたら……)

 距離が近づき、接すれば接するほど、叶わぬ夢を描いてしまう。
 昔に、母が語っていた言葉を思い出した。

(『恋など存在せず。思慕など成らず。諦めて生きるしかない。この世は悲しいものだから』――でも諦めるなど、私にできるのかしら)

 恋も思慕もここにある。相思相愛の喜びを一度味わってしまったのだ。それが消えた時、諦めて生きることができるだろうか。いまの嘉音には想像もつかなかった。