池に落ちたこともあり、慈佳はしばらく白李宮で休むことを勧めていた。体も温まれば害はなく、風の邪が入りこんだ感じもないので、薛嘉音は部屋に引きこもりぼんやりと庭を眺めるのみである。
(天雷の体はどこにあるのかしら)
天雷の体は見つからない。宮城の外などは天雷や葛公喩が探しているだろう。嘉音は妃嬪であり宮城から外に出られない。嘉音が捜索できるとすれば後宮内だけだ。
「薛昭容、薛家からお祝いが届いていますよ」
慈佳がやってきた。手には薛家から贈られた豪奢な花器と絹がある。突然そういった品が贈られたので嘉音は首を傾げた。これに慈佳が和やかに微笑み、答える。
「大家の渡りがあったと伝わったのでしょう。娘が大家に召されるのはよいことですもの」
慈佳に続き宮女らは他の品々も運んでくる。すべてが薛家からと思いがたい。
「こちらは関才人からの品。こちらは湛昭儀からですね」
「どうして他の妃嬪からも届いたの?」
「これも薛昭容に大家の渡りがあったからですよ」
事もなげに慈佳が言う。つまりは、大家の寵愛が移ったと考え、薛嘉音に取り入ろうとしているのだろう。寵妃になったと見ればころりと態度を変えるなど、嘉音はこれを快く思わなかった。こうして皆が取り入ろうと画策するほど、薛昭容の元に大家が渡っていることが知られていると示しているようだ。
「それから……これはお伝えしていいのか悩ましいのですが」
慈佳は表情を曇らせ、困惑気味に言った。
「凌貴妃からも届いております。ただその……中身をどのように判断してよいのか……」
「凌貴妃から? 気にしないで、教えて」
「ええ……では」
慈佳が合図をすると、待っていたらしい宮女が匣を持って入ってきた。宮女は匣を遠ざけるように持ち、顔もしかめている。中によくないものが入っていることは嘉音にもわかった。
「開けてちょうだい」
その言葉に宮女が匣を開ける。蓋を開けた瞬間、むわりと嫌なにおいが広がった。腐卵臭、それから血の匂いも。
「……鶏の、頭」
中には切断された鶏の頭が入っていた。ぎょろりと剥いた目が恐ろしい。
慈佳ら宮女は妃嬪に渡す前に中身を改める。嘉音に見せてよいものか慈佳が躊躇った理由がよくわかった。
「昨日の見舞いかと思ったのですが、まさかこんな惨いものを……」
「よほど私のことを嫌っているのでしょうね」
嘉音はため息を吐く。ここまでするほど、凌貴妃は嘉音を嫌っているようだ。
(大家の寵愛が移ったからと嫉妬を抱く気持ちはわかるけれど……物事には限度がある)
池に落ちたことは助けてもらえたからよかった。この贈り物だって不快感を植え付ける程度。しかし恐ろしいのはこれがひどくなった時だ。命が危ぶまれるような大事に発展しないよう願うのみである。
そして嘉音だけではない。嘉音がいるこの宮――白李宮の者に危害を及ぼすようであれば対策を講じなければならない。
「おや。薛昭容は鶏の頭がお好きなのか」
その時、嘉音でも慈佳や宮女でもない声が聞こえた。慌ててその方を見れば、葛公喩がいる。
「公喩殿、どうして白李宮に」
「うん? ちゃんと挨拶をして入ったよ。薛昭容に呼ばれたと嘘はついたけれど、きっと許してもらえるだろう」
慈佳が呆れているが、公喩は無視して匣を覗きこむ。
「……凌貴妃もすごいねえ。僕なら名を伏せて贈るのに」
「贈らない方がよいと思いますよ」
「だが嫌がらせとしてはよいだろう――ふむ、祥雲も厄介な性格の女を好いたものだ」
ここで慈佳や宮女らが下がった。慈佳は茶の用意をしにいったらしい。公喩は椅子に腰掛ける。薛昭容の許可得ずおかまいなしだ。
「公喩殿は大家とも親しくされていたのですね」
嘉音が問う。公喩は頷いた。
「まあね。僕は幼い頃から華鏡国にいる。風禮国としては、王位継承権のない皇子の僕を厄介だと思ったんだろうさ。だから祥雲は幼い頃からよく知っている」
「幼い頃から異国でひとりなんて、大変ですね」
「そんなことはない。華鏡国が好きだからね、のびのびと好きにさせてもらっている。それに比べて風禮国はだめだ、古いしきたりに縛られていて、どんどん腐っていく」
公喩がのびのびと過ごしているのは容易に想像できた。嘉音は苦笑する。
「先帝もよくしてくれてね。お気に入りの植物を育てたいと話したら、渋々ながらも後宮への出入りを許してくれたさ」
「星辰苑に植えてある植物ですか?」
「そう。あれは僕が持ってきたものでね、魂泉草や紫毒葉……風禮国にしかない植物ばかりだよ。特に魂泉草は肌に良いと聞くからね、君も使ってみるかい?」
「毒があるのでしょう? 肌に良いと言われても恐ろしく感じます」
「少量ならば毒だって薬だ。量を間違えなければいい。魂泉草は量を間違えれば九泉に渡るそうだけどね」
「量を誤れば死に至るなんて……公喩殿は恐ろしくないのでしょうか?」
「もちろん恐ろしいとも! だがそれがいい。いつ毒を盛られるかわからない身だからね、そういった方面に明るくいたいものさ。祥雲も同じ考えを持っていてね、二人で毒草談義をよくしたよ」
それはそれで恐ろしい気もする。もっと良い話題があるのではないかと思うが。
「しかしそれも飽いてしまってね。植物を育て続けるのも難儀なものだ」
「いまも育てているのでは?」
「あれは名残だ。面倒だから僕はやめてしまったよ。いまは妃嬪が僕の代わりに育てているはずだ。それこそ、君に鶏の頭を贈った妃が」
すぐにその顔が浮かぶ。
(凌貴妃が育てている……なるほど、だからあの場所に詳しかったのね)
そんな話題はさておき、気になるのは公喩がここにきた理由だ。慈佳が戻ってくる前に嘉音はそのことに触れる。
「今日はどうして白李宮へ? 天雷の体探しでしょうか」
「面白そうだから探してみようかと思ってね。それでせっかくだから君の顔を見ていこうかと」
「私もご一緒できればよかったのですが、慈佳が今日は休めというので」
「だろうね。無事だからよかったものの、池に落ちるなど大事だ。女官がそのように勧めるのもわかる」
嘉音としては無理を通しても出かけ、天雷の体探しをしたいところだったが、宮女らをむやみに心配させることは好ましくない。
ここは後宮であり、女官や宮女らは妃嬪に仕えている。嘉音が下手な振る舞いをすれば彼女たちが責を負うことも考えられる。そして彼女らが責を負うとなれば、命を奪われることだってあるのだ。宮城において、宮女の命など価値がないにも等しい。
「しかし君はよくわからないね。宮女や凌貴妃といった人たちまで庇おうとする」
「ここは閉塞的な場ですから鬱屈としています。せめて私の周りだけは、優しくありたいと思っています」
「薛家でもそうだったんだろう? 下男の彼に唯一優しく接していたのが君だったとか」
すると公喩は真剣な面持ちになった。几に肘をつき、庭の方を眺めながら語る。
「奴婢に優しく接するなど妃嬪らしくない考えだ。風禮国じゃきっと生きていけない。宮女や奴婢は、貴顕なる者の遊びの延長として首が落ちるほど命が軽い」
「風禮国はそうなのですか?」
「少なくともね。嫁いだ公主は民から搾取し贅をむさぼる。卑賤なる者の命など無価値に等しいよ」
「……それは、悲しいですね」
「風禮国に混ざれば、きっと君が抱く優しさだって塵となる。きっと生きていけない」
そこで公喩はため息を吐いた。しかし物憂げな表情はため息と共に一瞬で消え、こちらに向き直った時にはいつものようにへらりとした顔つきに戻っていた。
「ところで君、天雷のことをどう想っているのかな?」
「わ、私は……その……」
「うんうん。そうやって赤面しているのが答えというものだ」
何の準備もしていなかったので急に問われて、戸惑ってしまった。恥じらいは顔に出ていたらしく、嘉音が答えなくとも公喩は納得したらしい。
「僕は彼の苦労を知っているからね……長く結ばれないとしても、奇跡のようなひとときだけだとしても、天雷が報われればいいと思うよ」
「……そう、ですね」
こうして公喩の話を聞くたび、嘉音の知らない天雷がいるような心地になってしまう。公喩が揶揄い気味に話すから余計に、寂寥が生じてしまう。
「薛家の屋敷を出たのにも理由がある――その話を聞いてみればいい。何なら僕の名前を出したとしても」
「いいのですか?」
「もちろん。そうでもしなければ、あの男は一歩引いた位置から動こうとしないだろう。見守るだけでよいなど、消極的なことばかり言うから」
そう言って、公喩は立ち上がった。ちょうど慈佳が茶を持ってきたところだったが、公喩は片手をあげて「茶は必要ないよ」と告げる。
「大家が通う妃嬪の顔を拝もうと思っただけだ。僕はもう行くよ」
去り際、公喩はちらりとこちらを見る。
「……薛昭容。優しさだけでは傷つくこともあるからね。凌貴妃には気を付けた方がいい」
彼はそう言い残し、白李宮から去っていった。
***
数日後のことである。薛嘉音は白李宮から出ていた。
(簡単に見つかるのなら苦労はしないんだろうけど)
天雷の体を見つけることができないかと後宮内を歩き回ってみたのだが、体どころかそういった話さえ出てこない。
「緑涼会が近いので慌ただしいのでしょうね」
慈佳が言った。確かに宦官や女官たちとよくすれ違う。
緑涼会とは緑葉の季に行われる催しだ。髙祥殿の中庭で行われ、美しい植物を並べた中で舞や歌などの芸事を披露する。
渡りのない妃嬪にとっては、大家と接する数少ない行事でもある。だがいままでの大家はこういった行事を好ましく思わず欠席することが多い。欠席しないとあってもほんの少し顔を出す程度、それも凌貴妃に声をかけて去るといった徹底ぶりだ。芸事に自信がある妃嬪にとっては活躍の場を削がれたに近く、活気のない後宮になっていくのも仕方の無いことではあった。
「桃蓮宮が見えてきましたね」
慈佳の言に顔をあげれば、桃蓮宮が見えてきた頃だった。桃蓮宮とは凌貴妃に与えられた宮である。
「この宮だけ新しいのね」
「大家は皇太子の頃から凌貴妃を慕っていましたからね。帝位に着いた後、凌貴妃のために宮を建て直しています。凌家でしたら家柄も申し分なく、御子さえ生まれればいずれ皇后の位に就くのではないかと思っていましたが……」
しかし凌貴妃が懐妊することはなく、大家も嘉音の元に通っている。事情を知らない者が見れば大家の寵愛が移ったと捉えるだろう。だからか、桃蓮宮を見上げる慈佳の瞳には、一片の同情が混ざっていた。
(大家はそれほど凌貴妃を愛していたのね……)
切ない気持ちがこみあげる。桃蓮宮に大家の輿が着くのは、ここしばらく見ていなかった。
嘉音らは、桃蓮宮を過ぎ、星辰苑の方へと向かう。
何か情報が得られるかもしれないとあたりを見渡しながら歩く。その様子に気づいた慈佳が言った。
「薛昭容。何かお探しですか?」
「ええ、少し……」
天雷の体を探していると言えず、言葉を濁す。
しかし慈佳は慈佳なりに、嘉音の胸中を推し量ろうとしていたのだろう。声をひそめて、嘉音に告げた。
「天雷殿をお探しでしょうか?」
その単語が鼓膜をくすぐり、嘉音は咄嗟に慈佳を見やる。天雷と大家のことを気づかれたか、と冷や汗をかいたが、それはすぐに消えた。
「あれ以来まったく来ないので、私も気にしていました」
「……そうね。天雷はどこに行ったのかしら」
「他の宦官にも尋ねましたが、天雷殿は急に消えてしまったそうです。どのような理由があるのかまでは教えてくれませんでした。箝口令が敷かれているのかもしれません」
天雷がうまいこと立ち回ったのだろう。嘉音と公喩以外には、大家の中身が天雷であると知られていないようで安堵する。
「天雷殿を最後に目撃したのは、桃蓮宮に向かう大家の供をしていた時だそうです」
「……桃蓮宮に?」
「ええ。あの日は桃蓮宮に大家の輿がありましたから……ほら、突然大家が白李宮を尋ねてきた日ですよ」
慈佳に促され思い出す。約束をしたのに待っていても天雷がこなかった日、二人が入れ替わってしまった日だ。
(やはりあの日、天雷は桃蓮宮にいたのね。いったいなにがあったのだろう)
入れ替わるきっかけとして何が起きたのかは天雷も頑なに語ろうとしない。嘉音や公喩にも明かす気配はなかった。
(……私、天雷のことをよく知らないのかもしれない)
嘉音は天雷のことをよくわかっているつもりでいた。薛家の屋敷にいた頃を知っているからだ。あの頃は、彼がどんな働きをし、どのような物を好み、どのような書を読むかまで知っていた。
しかし最近の天雷は違う。彼は何かを隠している。その片鱗を知るたび、天雷との距離が離れていくような気がしてしまう。
(天雷のことをもっと知りたいのに)
そう考えているうちに、一行は星辰苑に着いた。日が傾き始めた頃で暑く、星辰苑には誰もいないと考えていたが――亭を見やれば人影がある。
「あれは……」
嘉音と同じく、その人影に気づいたらしい慈佳が息を呑む。
亭にいるのは凌貴妃だった。なぜか供は近くにいない。
(……様子が、違う)
凌貴妃は凜とした女性という印象があったが、いまは違う。物思いに耽り、沈んでいるのが感じ取れる。
「……声をかけてきます」
嘉音が言うと、すぐに慈佳が動いた。
「おやめになった方がよいのでは……先日の贈り物などもございますし……」
凌貴妃から届けられた鶏の頭は記憶に新しい。嫌がらせとして贈ってきたことはわかっている。だが、いまの凌貴妃を一人にしておくのは嫌だった。
嘉音は亭に寄る。近づくと、凌貴妃もこちらに気がついた。どうやら泣いていたらしく慌てて袖で目元を拭っている。それでも目は赤かった。
(一人でここで泣いていたのかしら)
けれど一人になりたくて供を遠ざけたのだろう。そうしてここで泣いていたのだと思えば胸が痛む。
どれだけのことをされても、嘉音は凌貴妃のことを憎めなかった。彼女は大家と天雷が入れ替わってしまったことを知らない。それは急に寵愛を欠いたように見えるだろう。彼女が抱く切なさを想像すれば、嘉音を恨むのも仕方の無いことだ。
亭に嘉音が入ったところで、凌貴妃がこちらを向いた。
「……薛昭容ね。そっとしておいて欲しいのだけれど」
凌貴妃は高圧的な態度を取っていたが、しかし脆くも思えた。嘉音は引かず、彼女の元に寄る。
「凌貴妃に伺いたいことがあります」
「何かしら」
「以前、桃蓮宮に大家が参られたことがあったと思います。その日に何があったのかをお聞かせ頂きたいのです」
「大家がいらしたのは一度や二度じゃないもの、たくさんあるから覚えてないわ」
「銀五鐘の前後、大家と共に天雷という宦官が向かったと思います。本当に、ご存知ありませんか?」
天雷が語ろうとしない出来事について、凌貴妃から情報を得られるのではないかと考えたのだ。
凌貴妃は天雷の名を聞いたところで、わずかに反応を示した。何かを考えこんでいる。その機を逃さず、嘉音がたたみかける。
「その宦官、天雷はその日以来行方がわかっていません。ですから凌貴妃であれば何か知っているのではないかと――」
「宦官……天雷……まさか」
凌貴妃が嘉音の方を向いた。
「あなた、大家から何を聞いたの?」
「え……」
「しらばっくれても無駄よ。あなたは聞いたのね。ねえ、大家は何と仰っていたの? どうしてあなたにその話をしたの?」
どういうわけか凌貴妃は急に態度を変え、嘉音に詰め寄った。嘉音の肩を掴み、ゆさゆさと揺すっている。
(やはり、あの日に何かがあった……天雷が語らない理由は凌貴妃のため?)
二人のやりとりを見ていたのは後ろに控えていた慈佳だ。嘉音を守るべく飛び出そうとしていたが、嘉音は控えているよう合図を出した。
「私は何も聞いていません」
「嘘よ。でなければ、どうしてこのことを――」
「何もわからないから、聞いています。私はあの宦官を探しているので」
凌貴妃はぐっと唇を噛みしめた。そして嘉音から手を離す。彼女は数歩後ろにさがると、怒りに燃えた瞳をむき出しにして告げた。
「信じない。絶対に信じない。あなた、大家に命じられて探っているのでしょう? 絶対に許さない」
ただ、天雷の行方を問いかけただけなのに。
凌貴妃の態度は一変し、強くこちらを睨みつけている。眼力だけで人を殺すことができると、信じてしまいそうなほど強く、恨みがこもっている。
「薛昭容に忠告するわ。あなたもいずれ、私のようになる」
弱々しい声で凌貴妃が言う。
「どれだけ一緒ににいたところで、相手のすべては手に入らない。いずれ移り変わる。美しく、若い者が現われればそちらに流れてしまうのよ。だから、あなたが選ばれているだけ」
鋭く睨まれる。彼女の中にくすぶる嫉妬の炎は、いまだごうごうと燃えているようだ。
「あなたがどのようにして大家に取り入ったのか、大家からどんな話を聞いているのかはわからない――私から大家を奪ったこと、いずれ後悔する日が来るでしょう」
「……凌貴妃」
「あなただって私と同じ道を辿る。あの日と同じように、あなただって得たくなる」
嘉音を罵る凌貴妃の態度に、呆気にとられて動けなかった。凌貴妃が切ない立場にあると考えていたが、彼女の胸中を推し量ったところでわかりあうことはできないのかもしれない。嘉音と凌貴妃の仲が交わることはないのだと現実を突きつけられているようだった。
凌貴妃が歩いていく。嘉音は引き止めることもできなかった。去り際、嘉音の隣を通り過ぎる時に、甘い香りにのって冷ややかな言葉が届く。
「薛昭容。あなたを追い出してやる」
その言葉が持つ残酷さに、嘉音は振り返ることさえできなかった。その場に足が縫い付けられたようで動けず、恐怖に息が急く。
(やっぱりあの日に、大家と天雷の体が入れ替わってしまうようなことがあったのね)
凌貴妃の様子からその確信を得る。しかし肝心の、天雷の体の行方についてはいまだわからないままだった。
夜になって、天雷がやってきた。慈佳らが下がり、二人になったところで天雷が口を開く。
「嘉音様、あれから変わりはありませんか? 先日は池に落ちていますし、体調を崩していなければいいのですが」
「大丈夫よ。心配しないで」
「前回は公喩がいたので落ち着かなかったでしょう。今日は俺だけですから安心してください」
「天雷は公喩殿と親しいのね」
「それなりに、ですね。面倒な気性なのでなるべくなら遠ざけておきたいですが、腐れ縁なのでそうも行かなくて」
「ふふ。でも天雷も楽しそうに公喩殿と話していたわ」
天雷が寝台に腰掛けたので嘉音も隣に座った。
「先日も公喩がこちらに来たと聞きました。何でも凌貴妃から嫌がらせを受けていたとか」
「ええ。でも気にしないで」
そう告げるも、天雷はまだ嘉音のことを案じているようだった。表情が暗い。
彼を安心させるべく、その両手を優しく握りしめる。
「何をされても私は平気よ」
「ですが心配です。嘉音様が傷つくようなことがあれば俺は……」
「自分でどうしようもなくなったら助けを求めるわ。ほら、池に落ちた時だって公喩殿が助けてくれたでしょう」
「……俺ではなく公喩ですか」
しかしその言は、天雷にとってあまり面白くないものだったらしい。彼は不機嫌に顔をしかめている。それに気づいた嘉音は慌てて訂正する。
「ほら、前に助けてくれたのが公喩殿だったでしょう。だから名前をあげただけよ」
「……」
「そ、そういえば、今度緑涼会があるのよね。天雷はどうするの?」
話題を変えようと思いついたのが緑涼会だった。これに天雷は険しい表情を緩める。
「欠席したいところですがそれは難しいので、例年通り少し顔を出そうかと。大家もいままでそうなさっていたので」
「じゃあ天雷にも会えるのね」
「妃嬪に挨拶はせず、早々に戻る予定です。長居して、大家の中身が俺だと知られてはいけませんから」
後日行われる緑涼会で、言葉は交わせなくとも天雷に会うことができるのだろう。嘉音はほっと息をつく。
「俺の体は依然として見つかりません。こうなると宮城を出て都にいるのも考えにくいですね」
「じゃあどこかに隠れている?」
「かもしれません。探してはいますが、なかなか」
嘉音も天雷も、体がどこにあるのかを探している。早く見付かってほしいと思う。しかし躊躇いもあった。
「……天雷は、早く元の体に戻りたい?」
嘉音が聞いた。天雷はすぐ答えられず、しばしの間を置いてから複雑そうに呟く。
「そう……ですね。戻りたいかもしれません。でも戻りたくない気持ちもあります」
「宦官でいるより、大家でいる方が幸せ?」
「難しいことを聞きますね。俺はどちらでも構いません。ですが――」
そこで天雷が、嘉音の方を向いた。そっと手を差し伸べ、嘉音の頬に触れる。
「堂々と、嘉音様と一緒にいられる。だから大家でいるのは嫌ではありません」
「……前回、公喩殿と天雷が来た時に話していたけれど、天雷の好きな人って私?」
あの時に聞いた言葉はなかなか忘れられず、頭に残っていた。次に会う時聞いてみようと考えていたのである。
まっすぐに彼を見つめて問えば、天雷はわずかに頬を赤らめ、それから苦笑した。
「公喩のせいですね。あいつは余計なことばかり言うので」
「私にとっては余計なことじゃないわ。とっても気になる話だもの」
「困りましたね。そればかりは内密にしておきたかったのですが」
少し悩んでいたようだが、天雷は何かを思いついたらしく自らの膝を二度軽く叩いた。
「嘉音様が俺の膝に座ってくれるのならば言うかもしれませんね」
「ど、どうして? 話ならここでも出来るでしょう。近すぎるわよ」
「すみません。俺は声が小さいので、近くに来て頂かなければお伝えすることができませんから」
天雷はいつものように微笑んでいるが、嘉音の反応を楽しんでいるようでもあった。意地悪な男である。嘉音の問いに困惑した仕返しをしているのかもしれない。
嘉音にとって、相手は天雷といえ男である。ましてや膝に座るなど。恥じらいが生じたが、そうしなければ彼は語ろうとしないのだろう。頬が熱くなるのを感じながら、その膝に跨がった。
「こちらを向いてくださいね。嘉音様のお顔を確かめながら伝えたいので」
「……天雷っていじわるね」
「嘉音様にはそのように見えるのかもしれませんが、俺はいつも通りですよ」
彼の膝に腰を下ろすも、見上げればすぐ近くに天雷がいる。顔は大家のものといえ、口調や振る舞いのおかげで天雷だと認識してしまう。目が合えば彼は穏やかに微笑んでいたが、嘉音の心臓はいまにも破裂しそうなほど急き、平常心を保つのがやっとだった。
「本当に美しくなられて」
「こ、こんなに近くにいるのだから、そういうことを言われると照れてしまうわ」
「顔が赤い嘉音様も、いつもと違う美しさがありますよ」
天雷が嘉音の手を取る。手の甲を優しく撫でた後、自らの口元へと運んだ。
「嘉音様をお慕いしています。あなたのことが、どうしようもないほどに好きです」
手の甲に、唇が落ちる。人肌より少し熱く、柔らかな感触が肌に張り付いた。それは心地よく、このまま溶けてしまいたくなる。高揚感、幸福。そういった良きものが彼の唇から贈られているようだった。
「天雷……私も、あなたのことが好きよ」
「嬉しいです。嘉音様がそのように想っていてくださったなど」
穏やかに言葉を交わしている裏で、心は弾むような心地だった。天雷がそばにいる。天雷と想いが通じている。幸せが溢れて泣きそうになる。泣いてしまえば、きっと天雷は動揺するのだろうが。
けれど喜びを表に出せない理由を、二人はよくわかっていた。
彼の膝も、唇も、天雷のものではない。下男の頃に荒れた指先と異なる、大家の綺麗な手だ。
高揚感に現実が忍び寄る。想いが通じたところで、その先に光はないのだ。交わす視線に切なさが混じっていく。
「こうして伝え、触れることが許されるのはいまだけなのでしょう」
元の体に戻ってしまえば。二人の距離が近づくたび、その言葉に苦しめられていく。
いまの天雷は大家の体にある。元に戻れば、宦官と妃の立場になり、結ばれることはない。
天雷は切なげに目を細めた後、嘉音の頬を優しく撫でた。この時の感触を記憶に刻み込むように。
「奇跡とはまったくその通りですね。この体にならなければ、嘉音様に想いを伝え、想いを聞くことができなかった」
「……戻らないと、いけないのかしら」
願わくば、戻らないでほしい。ずっとこのままでいてほしい。
けれど脳裏によぎるは凌貴妃だ。大家と天雷が入れ替わったことによって、凌貴妃は被害を受けている。彼女は今日も独り寝の寂しさに泣いているのかもしれない。
「戻っても、嘉音様を想い続けますよ。そのために宦官になったのですから」
天雷が微笑んだ。
そういえば宦官になった理由を聞いていない。薛家を出た理由を聞いてみればよいと公喩が話していた。そのことを思いだし、問う。
「天雷は、どうして薛家の屋敷を出て行ったの?」
「気になりますか?」
「公喩殿にね、天雷が薛家を出た理由を聞いた方がいいと言われたの」
すると天雷は小さな声で「公喩、また余計な話を」と呟き、ため息をついた。
きらきらと瞳を輝かせて話を待つ嘉音から逃れるのは難しいと悟ったようで、天雷は語った。
「薛家の屋敷を出て行ったのは、あなたのためです」
「私のため?」
「ええ。嘉音様が宮城に召されるかもしれないと教えてくれたでしょう。それを聞いた後、奥様の様子を伺いましたが回避するのは難しいようだったので、それならお側にいられるようにと屋敷を出て行きました」
「じゃあ……あなたが宦官になったのは私のせい……」
宦官になるということは簡単なことではない。華鏡国の宦官に求められるのは二つ。知識量のある賢い者であり、男の『性』を欠いたものであること。負担が大きいのは後者だ。
宦官は後宮に出入りする。しかし後宮にいるは帝の妃嬪らだ。万が一にも妃嬪に傷をつけてはならず、そのために宦官は『性』を欠く。体に傷をつけることであり、一度それを行えば男性に戻れないのだ。宦官になるための処置は肉体に大きな負担を与える、命を落とす者もいるという。
天雷はそれを承知の上、後宮に立ち入ることができる宦官の道を選んだのだ。しかし嘉音に余計な責を負わせたくないと思ったのか、彼は苦笑して言を足す。
「もし嘉音様が何も言わずに宮城に召されたとしても、同じ道を辿ったと思います。俺はあなたを探して、宮城にいるとわかれば忍びこむ手段を探し、そうしてあなたの傍にいようとしたでしょう。嘉音様のことが好きだから、自分で選んだことです。宦官になったことに後悔はありません」
それほどに天雷は嘉音のことを思っていたのだ。言葉ではなく行動に、彼の想いが込められている。それに気づけば、胸の奥が切なくなる。衝動にかられ、嘉音は天雷を抱きしめた。
「……天雷」
天雷と会えずにいた二年は、嘉音にとってつらいものだった。このまま死んでもいいとさえ思う日があった。
しかし天雷は、いずれ後宮に送られてくるだろう嘉音のために動いていたのだ。妃と宦官であれば結ばれないというのに、体を傷つけてでも傍にいようと考えていた。
彼の想いの深さに触れ、涙が落ちる。このまま彼を抱きしめて時間が止まったのならどれだけ幸せだろう。
「俺が、はじめて薛家の屋敷に行った時を覚えていますか?」
天雷が穏やかに聞いた。嘉音は頷く。
「俺は姉に連れられ、薛家の屋敷に行きました。あの頃は幼かったので、これからこの屋敷に仕える――仕事をするということが恐ろしく感じていました。誰かの下で仕えるなど経験がなかったので」
「懐かしいわね。私が七歳、天雷が八歳の頃だったかしら」
「はい。その後すぐに姉が亡くなり、俺だけが残りました。でも嘉音様がそばにいてくださったのです。その時の言葉を覚えていますか?」
「覚えて……いないかも」
嘉音の頭を優しく撫でながら、天雷が語る。昔を思い出しているのか、くすりと小さく笑った。
「『私があなたの姉様になる。あなたは私の弟ね』と宣言したのですよ。おかしなものですね、年齢なら俺の方が上なのに弟になるなんて」
「そ、そんなこともあったかもしれないわね……」
「でも嬉しく思いました。あの屋敷では嘉音様以外みな厳しかったので、そのように声をかけてくださることが幸せでした。それ以降も、嘉音様がことあるごとに話しかけてくるので、姉を失った俺を心配しているのだとわかりましたよ」
「大事な肉親を欠いたらひとりぼっちになるもの。私も、母様が亡くなった時にそれがわかったわ。あの時の天雷はこんな苦しみを抱いたのだとわかったの」
「苦しみ……はわかりません」
撫でていた手はぴたりと止まる。天雷は珍しく表情を失い、何かを考えているようだった。その様子が気になり彼を見やれば、ごまかすように天雷が微笑んだ。
「嘉音様がそばにいたので、そういったものは忘れてしまいました」
「天雷……」
「俺は嘉音様を愛しています。あなたが、俺のことを弟にすると宣言していたことを忘れていて安心しました。いまさら弟のようだと言われても、この気持ちを変えることはできません」
そう言い終えたところで、嘉音の体がふわりと浮いた。天雷が持ち上げたのだ。
何事かと驚くも、それは長く続かず、天雷の隣に着いた。膝に座る前と同じ位置に戻ったのである。
距離が開けば、先ほどまで近くにあった体温を失い、寒く感じる。寂しく思いながら首を傾げる。天雷は苦笑した。
「あまりにも嘉音様が可愛らしいので、これでおしまいです」
「どういうこと?」
「近くにいればいるほど触れたくなってしまいますので、衝動に駆られる前に自制しようかと」
あっさりと天雷は言ってのけたが、それは嘉音の羞恥心をじゅうぶんに煽った。意味を悟り、嘉音の顔がいままで以上に赤くなる。逃げるように視線を外した。
「……本当に、奇跡かもしれませんね」
天雷が呟いた。その言に寂寥を感じ、天雷へと視線を移す。
「この入れ替わりは、想いを伝えるための奇跡だったのかもしれません。結ばれなくとも、この思い出さえあれば、俺はこの先も幸せに生きていける」
結ばれることはないのだと、嘉音も天雷も諦めている。お互いの立場によって隔てられていた距離が、奇跡によって近づいただけ。しかしそれもいつか終わる。彼が宦官に戻れば、二度と交わることはないぐらい離れるのだから。
***
(天雷の体はどこにあるのかしら)
天雷の体は見つからない。宮城の外などは天雷や葛公喩が探しているだろう。嘉音は妃嬪であり宮城から外に出られない。嘉音が捜索できるとすれば後宮内だけだ。
「薛昭容、薛家からお祝いが届いていますよ」
慈佳がやってきた。手には薛家から贈られた豪奢な花器と絹がある。突然そういった品が贈られたので嘉音は首を傾げた。これに慈佳が和やかに微笑み、答える。
「大家の渡りがあったと伝わったのでしょう。娘が大家に召されるのはよいことですもの」
慈佳に続き宮女らは他の品々も運んでくる。すべてが薛家からと思いがたい。
「こちらは関才人からの品。こちらは湛昭儀からですね」
「どうして他の妃嬪からも届いたの?」
「これも薛昭容に大家の渡りがあったからですよ」
事もなげに慈佳が言う。つまりは、大家の寵愛が移ったと考え、薛嘉音に取り入ろうとしているのだろう。寵妃になったと見ればころりと態度を変えるなど、嘉音はこれを快く思わなかった。こうして皆が取り入ろうと画策するほど、薛昭容の元に大家が渡っていることが知られていると示しているようだ。
「それから……これはお伝えしていいのか悩ましいのですが」
慈佳は表情を曇らせ、困惑気味に言った。
「凌貴妃からも届いております。ただその……中身をどのように判断してよいのか……」
「凌貴妃から? 気にしないで、教えて」
「ええ……では」
慈佳が合図をすると、待っていたらしい宮女が匣を持って入ってきた。宮女は匣を遠ざけるように持ち、顔もしかめている。中によくないものが入っていることは嘉音にもわかった。
「開けてちょうだい」
その言葉に宮女が匣を開ける。蓋を開けた瞬間、むわりと嫌なにおいが広がった。腐卵臭、それから血の匂いも。
「……鶏の、頭」
中には切断された鶏の頭が入っていた。ぎょろりと剥いた目が恐ろしい。
慈佳ら宮女は妃嬪に渡す前に中身を改める。嘉音に見せてよいものか慈佳が躊躇った理由がよくわかった。
「昨日の見舞いかと思ったのですが、まさかこんな惨いものを……」
「よほど私のことを嫌っているのでしょうね」
嘉音はため息を吐く。ここまでするほど、凌貴妃は嘉音を嫌っているようだ。
(大家の寵愛が移ったからと嫉妬を抱く気持ちはわかるけれど……物事には限度がある)
池に落ちたことは助けてもらえたからよかった。この贈り物だって不快感を植え付ける程度。しかし恐ろしいのはこれがひどくなった時だ。命が危ぶまれるような大事に発展しないよう願うのみである。
そして嘉音だけではない。嘉音がいるこの宮――白李宮の者に危害を及ぼすようであれば対策を講じなければならない。
「おや。薛昭容は鶏の頭がお好きなのか」
その時、嘉音でも慈佳や宮女でもない声が聞こえた。慌ててその方を見れば、葛公喩がいる。
「公喩殿、どうして白李宮に」
「うん? ちゃんと挨拶をして入ったよ。薛昭容に呼ばれたと嘘はついたけれど、きっと許してもらえるだろう」
慈佳が呆れているが、公喩は無視して匣を覗きこむ。
「……凌貴妃もすごいねえ。僕なら名を伏せて贈るのに」
「贈らない方がよいと思いますよ」
「だが嫌がらせとしてはよいだろう――ふむ、祥雲も厄介な性格の女を好いたものだ」
ここで慈佳や宮女らが下がった。慈佳は茶の用意をしにいったらしい。公喩は椅子に腰掛ける。薛昭容の許可得ずおかまいなしだ。
「公喩殿は大家とも親しくされていたのですね」
嘉音が問う。公喩は頷いた。
「まあね。僕は幼い頃から華鏡国にいる。風禮国としては、王位継承権のない皇子の僕を厄介だと思ったんだろうさ。だから祥雲は幼い頃からよく知っている」
「幼い頃から異国でひとりなんて、大変ですね」
「そんなことはない。華鏡国が好きだからね、のびのびと好きにさせてもらっている。それに比べて風禮国はだめだ、古いしきたりに縛られていて、どんどん腐っていく」
公喩がのびのびと過ごしているのは容易に想像できた。嘉音は苦笑する。
「先帝もよくしてくれてね。お気に入りの植物を育てたいと話したら、渋々ながらも後宮への出入りを許してくれたさ」
「星辰苑に植えてある植物ですか?」
「そう。あれは僕が持ってきたものでね、魂泉草や紫毒葉……風禮国にしかない植物ばかりだよ。特に魂泉草は肌に良いと聞くからね、君も使ってみるかい?」
「毒があるのでしょう? 肌に良いと言われても恐ろしく感じます」
「少量ならば毒だって薬だ。量を間違えなければいい。魂泉草は量を間違えれば九泉に渡るそうだけどね」
「量を誤れば死に至るなんて……公喩殿は恐ろしくないのでしょうか?」
「もちろん恐ろしいとも! だがそれがいい。いつ毒を盛られるかわからない身だからね、そういった方面に明るくいたいものさ。祥雲も同じ考えを持っていてね、二人で毒草談義をよくしたよ」
それはそれで恐ろしい気もする。もっと良い話題があるのではないかと思うが。
「しかしそれも飽いてしまってね。植物を育て続けるのも難儀なものだ」
「いまも育てているのでは?」
「あれは名残だ。面倒だから僕はやめてしまったよ。いまは妃嬪が僕の代わりに育てているはずだ。それこそ、君に鶏の頭を贈った妃が」
すぐにその顔が浮かぶ。
(凌貴妃が育てている……なるほど、だからあの場所に詳しかったのね)
そんな話題はさておき、気になるのは公喩がここにきた理由だ。慈佳が戻ってくる前に嘉音はそのことに触れる。
「今日はどうして白李宮へ? 天雷の体探しでしょうか」
「面白そうだから探してみようかと思ってね。それでせっかくだから君の顔を見ていこうかと」
「私もご一緒できればよかったのですが、慈佳が今日は休めというので」
「だろうね。無事だからよかったものの、池に落ちるなど大事だ。女官がそのように勧めるのもわかる」
嘉音としては無理を通しても出かけ、天雷の体探しをしたいところだったが、宮女らをむやみに心配させることは好ましくない。
ここは後宮であり、女官や宮女らは妃嬪に仕えている。嘉音が下手な振る舞いをすれば彼女たちが責を負うことも考えられる。そして彼女らが責を負うとなれば、命を奪われることだってあるのだ。宮城において、宮女の命など価値がないにも等しい。
「しかし君はよくわからないね。宮女や凌貴妃といった人たちまで庇おうとする」
「ここは閉塞的な場ですから鬱屈としています。せめて私の周りだけは、優しくありたいと思っています」
「薛家でもそうだったんだろう? 下男の彼に唯一優しく接していたのが君だったとか」
すると公喩は真剣な面持ちになった。几に肘をつき、庭の方を眺めながら語る。
「奴婢に優しく接するなど妃嬪らしくない考えだ。風禮国じゃきっと生きていけない。宮女や奴婢は、貴顕なる者の遊びの延長として首が落ちるほど命が軽い」
「風禮国はそうなのですか?」
「少なくともね。嫁いだ公主は民から搾取し贅をむさぼる。卑賤なる者の命など無価値に等しいよ」
「……それは、悲しいですね」
「風禮国に混ざれば、きっと君が抱く優しさだって塵となる。きっと生きていけない」
そこで公喩はため息を吐いた。しかし物憂げな表情はため息と共に一瞬で消え、こちらに向き直った時にはいつものようにへらりとした顔つきに戻っていた。
「ところで君、天雷のことをどう想っているのかな?」
「わ、私は……その……」
「うんうん。そうやって赤面しているのが答えというものだ」
何の準備もしていなかったので急に問われて、戸惑ってしまった。恥じらいは顔に出ていたらしく、嘉音が答えなくとも公喩は納得したらしい。
「僕は彼の苦労を知っているからね……長く結ばれないとしても、奇跡のようなひとときだけだとしても、天雷が報われればいいと思うよ」
「……そう、ですね」
こうして公喩の話を聞くたび、嘉音の知らない天雷がいるような心地になってしまう。公喩が揶揄い気味に話すから余計に、寂寥が生じてしまう。
「薛家の屋敷を出たのにも理由がある――その話を聞いてみればいい。何なら僕の名前を出したとしても」
「いいのですか?」
「もちろん。そうでもしなければ、あの男は一歩引いた位置から動こうとしないだろう。見守るだけでよいなど、消極的なことばかり言うから」
そう言って、公喩は立ち上がった。ちょうど慈佳が茶を持ってきたところだったが、公喩は片手をあげて「茶は必要ないよ」と告げる。
「大家が通う妃嬪の顔を拝もうと思っただけだ。僕はもう行くよ」
去り際、公喩はちらりとこちらを見る。
「……薛昭容。優しさだけでは傷つくこともあるからね。凌貴妃には気を付けた方がいい」
彼はそう言い残し、白李宮から去っていった。
***
数日後のことである。薛嘉音は白李宮から出ていた。
(簡単に見つかるのなら苦労はしないんだろうけど)
天雷の体を見つけることができないかと後宮内を歩き回ってみたのだが、体どころかそういった話さえ出てこない。
「緑涼会が近いので慌ただしいのでしょうね」
慈佳が言った。確かに宦官や女官たちとよくすれ違う。
緑涼会とは緑葉の季に行われる催しだ。髙祥殿の中庭で行われ、美しい植物を並べた中で舞や歌などの芸事を披露する。
渡りのない妃嬪にとっては、大家と接する数少ない行事でもある。だがいままでの大家はこういった行事を好ましく思わず欠席することが多い。欠席しないとあってもほんの少し顔を出す程度、それも凌貴妃に声をかけて去るといった徹底ぶりだ。芸事に自信がある妃嬪にとっては活躍の場を削がれたに近く、活気のない後宮になっていくのも仕方の無いことではあった。
「桃蓮宮が見えてきましたね」
慈佳の言に顔をあげれば、桃蓮宮が見えてきた頃だった。桃蓮宮とは凌貴妃に与えられた宮である。
「この宮だけ新しいのね」
「大家は皇太子の頃から凌貴妃を慕っていましたからね。帝位に着いた後、凌貴妃のために宮を建て直しています。凌家でしたら家柄も申し分なく、御子さえ生まれればいずれ皇后の位に就くのではないかと思っていましたが……」
しかし凌貴妃が懐妊することはなく、大家も嘉音の元に通っている。事情を知らない者が見れば大家の寵愛が移ったと捉えるだろう。だからか、桃蓮宮を見上げる慈佳の瞳には、一片の同情が混ざっていた。
(大家はそれほど凌貴妃を愛していたのね……)
切ない気持ちがこみあげる。桃蓮宮に大家の輿が着くのは、ここしばらく見ていなかった。
嘉音らは、桃蓮宮を過ぎ、星辰苑の方へと向かう。
何か情報が得られるかもしれないとあたりを見渡しながら歩く。その様子に気づいた慈佳が言った。
「薛昭容。何かお探しですか?」
「ええ、少し……」
天雷の体を探していると言えず、言葉を濁す。
しかし慈佳は慈佳なりに、嘉音の胸中を推し量ろうとしていたのだろう。声をひそめて、嘉音に告げた。
「天雷殿をお探しでしょうか?」
その単語が鼓膜をくすぐり、嘉音は咄嗟に慈佳を見やる。天雷と大家のことを気づかれたか、と冷や汗をかいたが、それはすぐに消えた。
「あれ以来まったく来ないので、私も気にしていました」
「……そうね。天雷はどこに行ったのかしら」
「他の宦官にも尋ねましたが、天雷殿は急に消えてしまったそうです。どのような理由があるのかまでは教えてくれませんでした。箝口令が敷かれているのかもしれません」
天雷がうまいこと立ち回ったのだろう。嘉音と公喩以外には、大家の中身が天雷であると知られていないようで安堵する。
「天雷殿を最後に目撃したのは、桃蓮宮に向かう大家の供をしていた時だそうです」
「……桃蓮宮に?」
「ええ。あの日は桃蓮宮に大家の輿がありましたから……ほら、突然大家が白李宮を尋ねてきた日ですよ」
慈佳に促され思い出す。約束をしたのに待っていても天雷がこなかった日、二人が入れ替わってしまった日だ。
(やはりあの日、天雷は桃蓮宮にいたのね。いったいなにがあったのだろう)
入れ替わるきっかけとして何が起きたのかは天雷も頑なに語ろうとしない。嘉音や公喩にも明かす気配はなかった。
(……私、天雷のことをよく知らないのかもしれない)
嘉音は天雷のことをよくわかっているつもりでいた。薛家の屋敷にいた頃を知っているからだ。あの頃は、彼がどんな働きをし、どのような物を好み、どのような書を読むかまで知っていた。
しかし最近の天雷は違う。彼は何かを隠している。その片鱗を知るたび、天雷との距離が離れていくような気がしてしまう。
(天雷のことをもっと知りたいのに)
そう考えているうちに、一行は星辰苑に着いた。日が傾き始めた頃で暑く、星辰苑には誰もいないと考えていたが――亭を見やれば人影がある。
「あれは……」
嘉音と同じく、その人影に気づいたらしい慈佳が息を呑む。
亭にいるのは凌貴妃だった。なぜか供は近くにいない。
(……様子が、違う)
凌貴妃は凜とした女性という印象があったが、いまは違う。物思いに耽り、沈んでいるのが感じ取れる。
「……声をかけてきます」
嘉音が言うと、すぐに慈佳が動いた。
「おやめになった方がよいのでは……先日の贈り物などもございますし……」
凌貴妃から届けられた鶏の頭は記憶に新しい。嫌がらせとして贈ってきたことはわかっている。だが、いまの凌貴妃を一人にしておくのは嫌だった。
嘉音は亭に寄る。近づくと、凌貴妃もこちらに気がついた。どうやら泣いていたらしく慌てて袖で目元を拭っている。それでも目は赤かった。
(一人でここで泣いていたのかしら)
けれど一人になりたくて供を遠ざけたのだろう。そうしてここで泣いていたのだと思えば胸が痛む。
どれだけのことをされても、嘉音は凌貴妃のことを憎めなかった。彼女は大家と天雷が入れ替わってしまったことを知らない。それは急に寵愛を欠いたように見えるだろう。彼女が抱く切なさを想像すれば、嘉音を恨むのも仕方の無いことだ。
亭に嘉音が入ったところで、凌貴妃がこちらを向いた。
「……薛昭容ね。そっとしておいて欲しいのだけれど」
凌貴妃は高圧的な態度を取っていたが、しかし脆くも思えた。嘉音は引かず、彼女の元に寄る。
「凌貴妃に伺いたいことがあります」
「何かしら」
「以前、桃蓮宮に大家が参られたことがあったと思います。その日に何があったのかをお聞かせ頂きたいのです」
「大家がいらしたのは一度や二度じゃないもの、たくさんあるから覚えてないわ」
「銀五鐘の前後、大家と共に天雷という宦官が向かったと思います。本当に、ご存知ありませんか?」
天雷が語ろうとしない出来事について、凌貴妃から情報を得られるのではないかと考えたのだ。
凌貴妃は天雷の名を聞いたところで、わずかに反応を示した。何かを考えこんでいる。その機を逃さず、嘉音がたたみかける。
「その宦官、天雷はその日以来行方がわかっていません。ですから凌貴妃であれば何か知っているのではないかと――」
「宦官……天雷……まさか」
凌貴妃が嘉音の方を向いた。
「あなた、大家から何を聞いたの?」
「え……」
「しらばっくれても無駄よ。あなたは聞いたのね。ねえ、大家は何と仰っていたの? どうしてあなたにその話をしたの?」
どういうわけか凌貴妃は急に態度を変え、嘉音に詰め寄った。嘉音の肩を掴み、ゆさゆさと揺すっている。
(やはり、あの日に何かがあった……天雷が語らない理由は凌貴妃のため?)
二人のやりとりを見ていたのは後ろに控えていた慈佳だ。嘉音を守るべく飛び出そうとしていたが、嘉音は控えているよう合図を出した。
「私は何も聞いていません」
「嘘よ。でなければ、どうしてこのことを――」
「何もわからないから、聞いています。私はあの宦官を探しているので」
凌貴妃はぐっと唇を噛みしめた。そして嘉音から手を離す。彼女は数歩後ろにさがると、怒りに燃えた瞳をむき出しにして告げた。
「信じない。絶対に信じない。あなた、大家に命じられて探っているのでしょう? 絶対に許さない」
ただ、天雷の行方を問いかけただけなのに。
凌貴妃の態度は一変し、強くこちらを睨みつけている。眼力だけで人を殺すことができると、信じてしまいそうなほど強く、恨みがこもっている。
「薛昭容に忠告するわ。あなたもいずれ、私のようになる」
弱々しい声で凌貴妃が言う。
「どれだけ一緒ににいたところで、相手のすべては手に入らない。いずれ移り変わる。美しく、若い者が現われればそちらに流れてしまうのよ。だから、あなたが選ばれているだけ」
鋭く睨まれる。彼女の中にくすぶる嫉妬の炎は、いまだごうごうと燃えているようだ。
「あなたがどのようにして大家に取り入ったのか、大家からどんな話を聞いているのかはわからない――私から大家を奪ったこと、いずれ後悔する日が来るでしょう」
「……凌貴妃」
「あなただって私と同じ道を辿る。あの日と同じように、あなただって得たくなる」
嘉音を罵る凌貴妃の態度に、呆気にとられて動けなかった。凌貴妃が切ない立場にあると考えていたが、彼女の胸中を推し量ったところでわかりあうことはできないのかもしれない。嘉音と凌貴妃の仲が交わることはないのだと現実を突きつけられているようだった。
凌貴妃が歩いていく。嘉音は引き止めることもできなかった。去り際、嘉音の隣を通り過ぎる時に、甘い香りにのって冷ややかな言葉が届く。
「薛昭容。あなたを追い出してやる」
その言葉が持つ残酷さに、嘉音は振り返ることさえできなかった。その場に足が縫い付けられたようで動けず、恐怖に息が急く。
(やっぱりあの日に、大家と天雷の体が入れ替わってしまうようなことがあったのね)
凌貴妃の様子からその確信を得る。しかし肝心の、天雷の体の行方についてはいまだわからないままだった。
夜になって、天雷がやってきた。慈佳らが下がり、二人になったところで天雷が口を開く。
「嘉音様、あれから変わりはありませんか? 先日は池に落ちていますし、体調を崩していなければいいのですが」
「大丈夫よ。心配しないで」
「前回は公喩がいたので落ち着かなかったでしょう。今日は俺だけですから安心してください」
「天雷は公喩殿と親しいのね」
「それなりに、ですね。面倒な気性なのでなるべくなら遠ざけておきたいですが、腐れ縁なのでそうも行かなくて」
「ふふ。でも天雷も楽しそうに公喩殿と話していたわ」
天雷が寝台に腰掛けたので嘉音も隣に座った。
「先日も公喩がこちらに来たと聞きました。何でも凌貴妃から嫌がらせを受けていたとか」
「ええ。でも気にしないで」
そう告げるも、天雷はまだ嘉音のことを案じているようだった。表情が暗い。
彼を安心させるべく、その両手を優しく握りしめる。
「何をされても私は平気よ」
「ですが心配です。嘉音様が傷つくようなことがあれば俺は……」
「自分でどうしようもなくなったら助けを求めるわ。ほら、池に落ちた時だって公喩殿が助けてくれたでしょう」
「……俺ではなく公喩ですか」
しかしその言は、天雷にとってあまり面白くないものだったらしい。彼は不機嫌に顔をしかめている。それに気づいた嘉音は慌てて訂正する。
「ほら、前に助けてくれたのが公喩殿だったでしょう。だから名前をあげただけよ」
「……」
「そ、そういえば、今度緑涼会があるのよね。天雷はどうするの?」
話題を変えようと思いついたのが緑涼会だった。これに天雷は険しい表情を緩める。
「欠席したいところですがそれは難しいので、例年通り少し顔を出そうかと。大家もいままでそうなさっていたので」
「じゃあ天雷にも会えるのね」
「妃嬪に挨拶はせず、早々に戻る予定です。長居して、大家の中身が俺だと知られてはいけませんから」
後日行われる緑涼会で、言葉は交わせなくとも天雷に会うことができるのだろう。嘉音はほっと息をつく。
「俺の体は依然として見つかりません。こうなると宮城を出て都にいるのも考えにくいですね」
「じゃあどこかに隠れている?」
「かもしれません。探してはいますが、なかなか」
嘉音も天雷も、体がどこにあるのかを探している。早く見付かってほしいと思う。しかし躊躇いもあった。
「……天雷は、早く元の体に戻りたい?」
嘉音が聞いた。天雷はすぐ答えられず、しばしの間を置いてから複雑そうに呟く。
「そう……ですね。戻りたいかもしれません。でも戻りたくない気持ちもあります」
「宦官でいるより、大家でいる方が幸せ?」
「難しいことを聞きますね。俺はどちらでも構いません。ですが――」
そこで天雷が、嘉音の方を向いた。そっと手を差し伸べ、嘉音の頬に触れる。
「堂々と、嘉音様と一緒にいられる。だから大家でいるのは嫌ではありません」
「……前回、公喩殿と天雷が来た時に話していたけれど、天雷の好きな人って私?」
あの時に聞いた言葉はなかなか忘れられず、頭に残っていた。次に会う時聞いてみようと考えていたのである。
まっすぐに彼を見つめて問えば、天雷はわずかに頬を赤らめ、それから苦笑した。
「公喩のせいですね。あいつは余計なことばかり言うので」
「私にとっては余計なことじゃないわ。とっても気になる話だもの」
「困りましたね。そればかりは内密にしておきたかったのですが」
少し悩んでいたようだが、天雷は何かを思いついたらしく自らの膝を二度軽く叩いた。
「嘉音様が俺の膝に座ってくれるのならば言うかもしれませんね」
「ど、どうして? 話ならここでも出来るでしょう。近すぎるわよ」
「すみません。俺は声が小さいので、近くに来て頂かなければお伝えすることができませんから」
天雷はいつものように微笑んでいるが、嘉音の反応を楽しんでいるようでもあった。意地悪な男である。嘉音の問いに困惑した仕返しをしているのかもしれない。
嘉音にとって、相手は天雷といえ男である。ましてや膝に座るなど。恥じらいが生じたが、そうしなければ彼は語ろうとしないのだろう。頬が熱くなるのを感じながら、その膝に跨がった。
「こちらを向いてくださいね。嘉音様のお顔を確かめながら伝えたいので」
「……天雷っていじわるね」
「嘉音様にはそのように見えるのかもしれませんが、俺はいつも通りですよ」
彼の膝に腰を下ろすも、見上げればすぐ近くに天雷がいる。顔は大家のものといえ、口調や振る舞いのおかげで天雷だと認識してしまう。目が合えば彼は穏やかに微笑んでいたが、嘉音の心臓はいまにも破裂しそうなほど急き、平常心を保つのがやっとだった。
「本当に美しくなられて」
「こ、こんなに近くにいるのだから、そういうことを言われると照れてしまうわ」
「顔が赤い嘉音様も、いつもと違う美しさがありますよ」
天雷が嘉音の手を取る。手の甲を優しく撫でた後、自らの口元へと運んだ。
「嘉音様をお慕いしています。あなたのことが、どうしようもないほどに好きです」
手の甲に、唇が落ちる。人肌より少し熱く、柔らかな感触が肌に張り付いた。それは心地よく、このまま溶けてしまいたくなる。高揚感、幸福。そういった良きものが彼の唇から贈られているようだった。
「天雷……私も、あなたのことが好きよ」
「嬉しいです。嘉音様がそのように想っていてくださったなど」
穏やかに言葉を交わしている裏で、心は弾むような心地だった。天雷がそばにいる。天雷と想いが通じている。幸せが溢れて泣きそうになる。泣いてしまえば、きっと天雷は動揺するのだろうが。
けれど喜びを表に出せない理由を、二人はよくわかっていた。
彼の膝も、唇も、天雷のものではない。下男の頃に荒れた指先と異なる、大家の綺麗な手だ。
高揚感に現実が忍び寄る。想いが通じたところで、その先に光はないのだ。交わす視線に切なさが混じっていく。
「こうして伝え、触れることが許されるのはいまだけなのでしょう」
元の体に戻ってしまえば。二人の距離が近づくたび、その言葉に苦しめられていく。
いまの天雷は大家の体にある。元に戻れば、宦官と妃の立場になり、結ばれることはない。
天雷は切なげに目を細めた後、嘉音の頬を優しく撫でた。この時の感触を記憶に刻み込むように。
「奇跡とはまったくその通りですね。この体にならなければ、嘉音様に想いを伝え、想いを聞くことができなかった」
「……戻らないと、いけないのかしら」
願わくば、戻らないでほしい。ずっとこのままでいてほしい。
けれど脳裏によぎるは凌貴妃だ。大家と天雷が入れ替わったことによって、凌貴妃は被害を受けている。彼女は今日も独り寝の寂しさに泣いているのかもしれない。
「戻っても、嘉音様を想い続けますよ。そのために宦官になったのですから」
天雷が微笑んだ。
そういえば宦官になった理由を聞いていない。薛家を出た理由を聞いてみればよいと公喩が話していた。そのことを思いだし、問う。
「天雷は、どうして薛家の屋敷を出て行ったの?」
「気になりますか?」
「公喩殿にね、天雷が薛家を出た理由を聞いた方がいいと言われたの」
すると天雷は小さな声で「公喩、また余計な話を」と呟き、ため息をついた。
きらきらと瞳を輝かせて話を待つ嘉音から逃れるのは難しいと悟ったようで、天雷は語った。
「薛家の屋敷を出て行ったのは、あなたのためです」
「私のため?」
「ええ。嘉音様が宮城に召されるかもしれないと教えてくれたでしょう。それを聞いた後、奥様の様子を伺いましたが回避するのは難しいようだったので、それならお側にいられるようにと屋敷を出て行きました」
「じゃあ……あなたが宦官になったのは私のせい……」
宦官になるということは簡単なことではない。華鏡国の宦官に求められるのは二つ。知識量のある賢い者であり、男の『性』を欠いたものであること。負担が大きいのは後者だ。
宦官は後宮に出入りする。しかし後宮にいるは帝の妃嬪らだ。万が一にも妃嬪に傷をつけてはならず、そのために宦官は『性』を欠く。体に傷をつけることであり、一度それを行えば男性に戻れないのだ。宦官になるための処置は肉体に大きな負担を与える、命を落とす者もいるという。
天雷はそれを承知の上、後宮に立ち入ることができる宦官の道を選んだのだ。しかし嘉音に余計な責を負わせたくないと思ったのか、彼は苦笑して言を足す。
「もし嘉音様が何も言わずに宮城に召されたとしても、同じ道を辿ったと思います。俺はあなたを探して、宮城にいるとわかれば忍びこむ手段を探し、そうしてあなたの傍にいようとしたでしょう。嘉音様のことが好きだから、自分で選んだことです。宦官になったことに後悔はありません」
それほどに天雷は嘉音のことを思っていたのだ。言葉ではなく行動に、彼の想いが込められている。それに気づけば、胸の奥が切なくなる。衝動にかられ、嘉音は天雷を抱きしめた。
「……天雷」
天雷と会えずにいた二年は、嘉音にとってつらいものだった。このまま死んでもいいとさえ思う日があった。
しかし天雷は、いずれ後宮に送られてくるだろう嘉音のために動いていたのだ。妃と宦官であれば結ばれないというのに、体を傷つけてでも傍にいようと考えていた。
彼の想いの深さに触れ、涙が落ちる。このまま彼を抱きしめて時間が止まったのならどれだけ幸せだろう。
「俺が、はじめて薛家の屋敷に行った時を覚えていますか?」
天雷が穏やかに聞いた。嘉音は頷く。
「俺は姉に連れられ、薛家の屋敷に行きました。あの頃は幼かったので、これからこの屋敷に仕える――仕事をするということが恐ろしく感じていました。誰かの下で仕えるなど経験がなかったので」
「懐かしいわね。私が七歳、天雷が八歳の頃だったかしら」
「はい。その後すぐに姉が亡くなり、俺だけが残りました。でも嘉音様がそばにいてくださったのです。その時の言葉を覚えていますか?」
「覚えて……いないかも」
嘉音の頭を優しく撫でながら、天雷が語る。昔を思い出しているのか、くすりと小さく笑った。
「『私があなたの姉様になる。あなたは私の弟ね』と宣言したのですよ。おかしなものですね、年齢なら俺の方が上なのに弟になるなんて」
「そ、そんなこともあったかもしれないわね……」
「でも嬉しく思いました。あの屋敷では嘉音様以外みな厳しかったので、そのように声をかけてくださることが幸せでした。それ以降も、嘉音様がことあるごとに話しかけてくるので、姉を失った俺を心配しているのだとわかりましたよ」
「大事な肉親を欠いたらひとりぼっちになるもの。私も、母様が亡くなった時にそれがわかったわ。あの時の天雷はこんな苦しみを抱いたのだとわかったの」
「苦しみ……はわかりません」
撫でていた手はぴたりと止まる。天雷は珍しく表情を失い、何かを考えているようだった。その様子が気になり彼を見やれば、ごまかすように天雷が微笑んだ。
「嘉音様がそばにいたので、そういったものは忘れてしまいました」
「天雷……」
「俺は嘉音様を愛しています。あなたが、俺のことを弟にすると宣言していたことを忘れていて安心しました。いまさら弟のようだと言われても、この気持ちを変えることはできません」
そう言い終えたところで、嘉音の体がふわりと浮いた。天雷が持ち上げたのだ。
何事かと驚くも、それは長く続かず、天雷の隣に着いた。膝に座る前と同じ位置に戻ったのである。
距離が開けば、先ほどまで近くにあった体温を失い、寒く感じる。寂しく思いながら首を傾げる。天雷は苦笑した。
「あまりにも嘉音様が可愛らしいので、これでおしまいです」
「どういうこと?」
「近くにいればいるほど触れたくなってしまいますので、衝動に駆られる前に自制しようかと」
あっさりと天雷は言ってのけたが、それは嘉音の羞恥心をじゅうぶんに煽った。意味を悟り、嘉音の顔がいままで以上に赤くなる。逃げるように視線を外した。
「……本当に、奇跡かもしれませんね」
天雷が呟いた。その言に寂寥を感じ、天雷へと視線を移す。
「この入れ替わりは、想いを伝えるための奇跡だったのかもしれません。結ばれなくとも、この思い出さえあれば、俺はこの先も幸せに生きていける」
結ばれることはないのだと、嘉音も天雷も諦めている。お互いの立場によって隔てられていた距離が、奇跡によって近づいただけ。しかしそれもいつか終わる。彼が宦官に戻れば、二度と交わることはないぐらい離れるのだから。
***