翌日になると髙祥殿から遣いが来ていた。前日話していた通り、嘉音を髙祥殿に招くという内容である。

 迎えが来る銀二鐘(十四時)が近づいてきた頃だ。慈佳が嘉音の元にやってきた。慈佳は困惑気味に言う。

「嘉音様。桃蓮宮の宮女がきておりまして、星辰苑に嘉音様の耳飾りが見つかったとか」
「私の耳飾りがどうして……知らないうちに落としていたのかしら」

 耳飾りは先日もつけていたが、厨子(ずし)に戻している。落とした覚えはない。

 嘉音は、こういった貴重な品を扱う時、自分が行うことを心がけている。女官や宮女に任せ、万が一に紛失してしまえば大事(おおごと)になる。女官や宮女が妃嬪の品を紛失した責を問われることもあるのだ。そのようなことに巻き込んでしまいたくないと、必ず自分で行い、それが出来ぬ時でもせめて立ち会うようにしていた。
 だからこそ、耳飾りの紛失に心当たりがなかった。不審に思いながら厨子を開く。

「確かに、ひとつ、珊瑚の耳飾りがない」

 珊瑚の耳飾りがひとつ欠けている。慈佳も厨子を覗き、それを確かめた。

「星辰苑にあったとのことですから、そこで落としたのかもしれませんね。桃蓮宮の宮女が報せてくれてよかったです」
「再び無くす前に取りにいかないと。星辰苑にあったのよね?」
「はい。見つけてくださった凌貴妃も星辰苑にいるそうです」

 凌貴妃の名に嘉音は顔をしかめた。良い印象がないので、なるべくなら遠ざけて過ごしたいところだ。
 しかし耳飾りを見つけてもらったお礼を伝えなければ。

「いまから星辰苑に行っても、銀二鐘までには戻れる――急ぎましょう」

 嘉音は宮女らを連れ、急ぎ星辰苑に向かった。


 星辰苑に着くと、池近くの亭に凌貴妃がいた。

(苦手なのよね……でも避けてはいられない)

 足がすくみそうだったが、意を決して凌貴妃の元に向かう。
 彼女も嘉音がやってきたことに気づいたらしい。だが目を合わせるなり、微笑んだ。

「……貴妃様にご挨拶申し上げます」
「こんにちは、薛昭容。良い天気ですわね」

 頑なな態度を取るものだと想定していたので嘉音は虚を突かれた。まるで別人かのように凌貴妃は微笑み、嘉音に声をかけている。

「耳飾りを見つけて頂いたそうで……見つけて頂きありがとうございます」
「やはり薛昭容の耳飾りだったのね。以前ここで会った時につけていたから覚えていたのよ」
「覚えて頂けたなんて光栄です」
「みなが珊瑚を気に入っているからあちこちにあるけれど、あなたのは印象に強くて覚えていたの」

 これには違和感があった。

(この耳飾りは目立つ特徴はなく、みなが持っているのと変わらないと思う。どうして私のだけ覚えていたのだろう)

 疑問は生じるも凌貴妃にそれを問う間はない。凌貴妃はたおやかに笑みを浮かべると、嘉音を手招いた。

「せっかくですもの、近くにいらして」

 隣へ来い、という意味だろう。早々に戻りたいところだが凌貴妃に呼ばれている手前言いにくい。慈佳に声をかけてもらい下がりたいところだが、その慈佳は桃蓮宮の宮女から耳飾りを受け取っているところだ。そして宮女らは、嘉音と凌貴妃に気遣ったのか少し離れた位置で控えている。

(少しなら、迎えがくるまでに間に合うはず)

 嘉音は頷き、凌貴妃の隣に立った。
 凌貴妃は美しいだけでなく芳しい香りがする。みずみずしい花を思わせるようだ。

(そういえば凌貴妃はよく星辰苑に来ているけれど、この場所が好きなのかしら)

 嘉音は凌貴妃の方を向き、問う。

「貴妃様はよくこちらにいらっしゃいますね」
「ええ。花や緑がたくさんあるでしょう? 大家にもここは良いと勧められて、すっかりお気に入りに」

 天雷になる前の大家もこの星辰苑を好んでいたのだろう。

 嘉音はじっくりとあたりを見渡す。目の前には池があり、それを超えると高木が植えられた茂みがある。そこだけ土が盛られていて、小さな山のようになっている。陽が当たりにくいのか、じめついているようで、周囲と異なる植物が植えられていた。

「あの奥は何が植えられているのでしょう」
「風禮国の植物だそうよ。風禮の第二皇子が持ってきてここに植えているの」
「風禮国の第二皇子……ですか」

 嘉音はこれを知らなかった。それに気づいたらしく、凌貴妃が開いた扇で口元を隠しながら告げる。

「あら。薛昭容ともあろう方がご存じなかったとは」
「申し訳ありません……こういった話に疎いもので」
「構いませんよ。後宮のことなど、入りたての者にはわからないものね」

 するり、と目が細められる。扇で口元を隠したのは、表情を隠すためだろう。

「華鏡国と風禮国は友好関係を結んでいるでしょう。互いの国の皇子を交換しているの――いわば人質みたいなものね。我が国からは公主(ひめ)を、こちらに来ているのは風禮国の第二皇子よ。あの植物はその第二皇子が植えたもの。日陰で湿度のある場所でないと育たないらしく、星辰苑が最適な環境。だから先帝が特別に許可を与えたのよ。彼だけはここに立ち入ることができる」

 その話を聞きながら不思議な植物を見る。しかし池に阻まれているので近づけない。小さな花のつぼみが見えた。

「でも近づいてはだめよ。あれは毒があるそうだから」
「毒……恐ろしいですね」
「だからわかりやすいように土を盛っているの。ここに毒草が植えられているとわかりやすいでしょう?」

 そうなれば毒が植えてあってもわかりやすい。星辰苑には大家や妃嬪がよく通うが、これならば誰が来ても避けられるだろう。

 そうして見渡し、気づいた。

(慈佳はどこ?)

 慈佳や宮女がいない。距離を取っているといえ近くにいたはずだ。白李宮だけでなく桃蓮宮の宮女らも見当たらなかった。

「ねえ。薛昭容」

 声をかけられ、凌貴妃の方を向く。その表情は扇で隠されているものの、先ほどまでの穏やかな空気が失せていることがわかった。

「大家に愛想を振りまくよりも宮城のことを勉強なさってはいかが?」

 その声音が冷えている。腹の底が震え上がるような、冷徹な気を纏っていた。

(凌貴妃は大家のことを愛しているから、寵愛が移ったのだと考えているのね)

 思えば彼女の言は『自分の方が大家に愛されている』と主張するようなものが多かった。星辰苑を勧められたことや、珊瑚の歩揺を頂いたこと。そこには必ず大家の単語が混ざる。
 大家に愛想を振りまく、というのは最近嘉音の元に大家が渡っているため、そのように考えたのだろう。

(でも違う。中身は天雷だから……凌貴妃はそれを知らないだけ)

 悲しいすれ違いだ。中身が大家であったのなら凌貴妃は変わらず寵を受けていたのかもしれない。伝えたいが天雷を思うと伝えられない。

 しかし嘉音が動くよりも早く、凌貴妃が告げた。

「大人しくした方が身のためよ」

 その言葉が嘉音の鼓膜を揺らした瞬間だった。
 何かにどん、と体を押された。突然強く押され、体がよろめく。

(あ――まさか)

 視界がぐらりと傾き、落ちていく。凌貴妃が扇の裏で笑っているのが見えた。

 大きな水音が星辰苑に響く。池から跳ね上がった水はあちこちに飛んだ。

「きゃああああ。誰か、誰か!」

 凌貴妃が叫ぶ。動揺したふりをし、扇を落とす。

「薛昭容が池に落ちたわ。誰かきて!」

 助けを求めながらも彼女は手を差し伸べようとしない。
 池に落とされた嘉音はもがくだけだ。

(どうしよう。この池、深い)

 手足をばたつかせるが、足がつく気配はない。この池は見た目よりも深く作られているようだ。さらに厄介なのが襦裙だ。水を吸って重たく、うまく身動きがとれない。池のふちに手をかけても体を持ち上げることはできず、泥によって滑って再び池に落ちるだけだ。

(助けて……誰か……苦しい……)

 いまになって後悔する。油断しなけれよかった。凌貴妃は最初からこのつもりでいたのだろう。池のそばに招かれて寄ってしまった自分が憎い。

 もがけなければ身が沈む。しかし体力はつきかけ、手や足を動かすことさえ億劫だ。
 慈佳ら宮女はどこへ行ったのだろう。彼女らが戻ってくる様子はない。凌貴妃はいるが叫ぶばかりでこちらを助けようとはしていなかった。

(天雷……助けて)

 水面に顔をあげることもできず、池の水を飲んでしまう。喉が苦しい。これ以上顔をあげていられない。諦めかけた――その時だった。

「落ち着け! 暴れるな!」

 男の声がした。そして池の中に布が投げ込まれる。

「それを掴め。僕が引き上げる!」

 よく見ればそれは帯だった。男物の帯らしい。嘉音は両手でそれを掴んだ。

「よし、いい子だ。そのまま頑張るんだ」

 ずるりと帯が引き上げられる。水を含んだ襦裙が重たかったが、これを手放せばまた池に落ちてしまう。嘉音は懸命にしがみつくしかなかった。

 嘉音が完全に引き上げられると、騒ぎを聞きつけ戻ってきたらしく慈佳や宮女が戻ってきていた。

「薛昭容!」
「……あ……私は……無事、だから」

 咳き込みながらも返事をする。水を飲んだ程度で他に外傷はない。とはいえ、あのまま池にいればいずれ力尽きていただろう。

(怖い……私は死ぬところだった……?)

 風が当たれば冷たく、さらに恐怖心も混ざって、体ががたがたと震える。おそるおそる見れば、凌貴妃はさめざめと泣いていた。

「ああ、薛昭容が落ちてしまわれた時はどうしようかと……無事でよかったわ……」

 突き落としたのは凌貴妃でないといえ、彼女は嘉音を助けようとはしなかった。

(凌貴妃は、こうなることをわかっていたのね)

 池に突き落とされることを知っていたのだろう。おそらく協力者がいた。嘉音を突き落とした者と宮女らを遠く離した者。

 そこへあの男が近寄った。嘉音を池から引き上げた男だ。

「無事かな? 痛いところはある?」
「すぐに引き上げて頂いたので平気です……助けて頂きありがとうございま――」

 そう言いかけて、言葉が詰まる。彼をどこかで見たことがある。
 異国風の装束に、目鼻立ちはくっきりとしてここらで見かける顔とは少し違う。瞳の色素は薄いが肌の色が濃く茶色がかっている。彼の姿は珍しいので覚えていた。

 彼も嘉音を知っているらしく、こちらを覗きこむ。近づけば、彼の纏う香の、焼け付くような甘ったるさが鼻についた。

「うん? 君はどこかで会ったことがあるね……違ったら申し訳ないが、君は薛家のお嬢さんかな」
「確かに私は薛嘉音ですが……」

 すると彼は、ぱあっと表情を明るくさせた。

「なるほど。君があの時の娘か。覚えてないかい、二年前、占師が屋敷を訪ねただろう?」
「あ! あの時の……」

 嘉音もようやく思い出した。彼は天雷がいなくなった日に尋ねてきた占師だ。(かつ)公喩(こうゆ)と名乗っていた。嘉音とは数言交わしたのみだったが、独特な容貌だったので覚えていた。

「ふむ。見たところ外傷はなさそうだね。体が冷えているから早く温めた方がいい。念のため医官を呼んだ方がいいかな」

 慈佳が呼んだらしい衛士が駆けつけてきた。どうやら白李宮まで運んでくれるらしい。助かったことで気が抜けたのか、どっと疲れが押し寄せてくる。歩いて帰る気力はなく、衛士らが運んでくれることはありがたかった。

 しかし心残りは公喩にお礼を告げていないことだ。

「あの、私――」
「ああ。お礼は次会った時に聞くよ。すぐに会えるだろうから」

 公喩はそう言って、ひらひらと手を振った。颯爽と歩いて行く。どうやら星辰苑を出て行くようだ。

(どうして占師がここにいたのかしら)

 公喩のことは気になったが、深く考えるほどの元気は残っていなかった。


 白李宮に戻るとすぐに医官がやってきた。診てもらったが、引き上げられるのが早かったことが幸いし、体を温める薬湯を処方され、しばらく休むよう告げられるだけで済んだ。

 天雷がやってきたのは陽が暮れた頃だった。

「嘉音様、ご無事ですか!?」

 部屋に入るなり天雷は、伏せる嘉音の元へと駆けてきた。事前に大家の見舞いが伝えられていたので、慈佳や宮女らは席を外している。

「平気よ。池に落ちちゃっただけだから」
「本当に? 痛いところはありませんか? 少しでも違和感があれば言ってください。医官を増やすようにすることも――」
「大丈夫だから落ち着いて。体を温めて休めば良いとのことだから、天雷も心配しないで」
「ですが……」

 天雷は表情を曇らせていた。
 これ以上心配をかけてはなるまいと嘉音は身を起こす。薬湯の効果があったのか体が熱く、疲労も感じられない。嘉音はにっこりと微笑んだ。

「今日約束していたのにごめんなさい。私が出かけなければよかった」
「いえ。大丈夫です。既に話は聞いていますから」
「聞いている? 慈佳が話したの?」

 これに天雷は首を横に振った。

「迎えに向かわせた者から今回の件について伺っています――入ってください」

 天雷が扉に向けて声をかける。部屋の外で合図を待っていたらしく、すぐに扉が開いた。
 現われたのは葛公喩だった。先ほどと変わらぬ様子で、にこにこと笑みを浮かべている。

「あなたは先ほどの……! 助けて頂き、ありがとうございました」
「いやいや。近くにいて、ちょうどよかったよ」

 二人のやりとりに天雷は首を傾げていた。

「嘉音様。この男に会うのは今日が初めてのはずでは?」
「ううん。二年前にもお会いしているの。薛家の屋敷に来ていたのよ」
「……なるほど」

 天雷が公喩の方を見る。嘉音に向けるものと異なり、かすかな敵意が込められているようだった。しかし公喩はにたりと笑ってそれをかわす。

「そう睨まないでくれ。偶然だから仕方ないだろう。何も噂の『嘉音様』を取って食べようとしたわけじゃあない。それに今日だって、僕がいたから助けることができただろう?」
「それには感謝しています。ですが、余計なことは言わない方がいいと思いますよ」
「ははっ、恐ろしいな。彼女のことになるとあの天雷も鬼のようだ」

 どうやら天雷と公喩も知り合いのようだ。しかし、大家の体に入っているというのに、公喩が『天雷』と呼んだことが気になる。これについてはすぐ、天雷が教えてくれた。

「既にご存知だとは思いますが、彼は葛公喩。古くからの知り合いなんです。この姿でも中身は俺であること、彼には話しています」
「僕の場合は、話を聞く前に中身が天雷だとわかったけれどね!」

 得意げに公喩が語る。この状況を共有できる者が増えたことはありがたい。

「詳しい者というのは公喩のことです。この件を相談するため彼を呼んでいました。白李宮に迎えに行ってもらう予定だったのですが……」
「あのようなことが起きていたからな、仕方ない。うん。星辰苑に寄り道してよかった」
「……公喩、寄り道していたんですね」

 はあ、と天雷がため息を吐く。公喩は飄々としていて反省の色は見当たらない。

「何やら妃嬪が集まっているから何事かと思ってね。しばらく隠れて様子を見ていたんだ――天雷、そのような目を向けちゃいけない。僕は不審者ではないからね。不用心なほど池に近づいていたから嫌な予感がしただけだ」

(ということは、公喩殿は私が池に落ちる直前を見ていたのね)

 嘉音が息を呑む。公喩は変わらず、その時の様子を語り続けていた。

「そこで、亭に潜んでいた宮女が駆け出していってね。そして薛昭容を――」
「待って!」

 声をあげ、公喩の語りを遮った。

「違うの。私が自分で落ちただけ」
「は? 君は何を言っている。あの時君は――」
「本当に違うの。信じて。天雷」

 嘉音としては、星辰苑での場面を語られたくなかった。公喩は、嘉音が誰かに突き落とされて池に落ちたことを目撃しているだろう。凌貴妃があえて助けなかったことも見ているかもしれない。

(でも凌貴妃は……大家のことが好きで、嫉妬をしただけだと思う)

 このことが知れ渡れば、凌貴妃に何らかの罰が与えられるかもしれない。凌貴妃は大家の中身が天雷になってしまったことを知らないだけなのだ。

 好きな人が突然失われたつらさは嘉音も知っている。二年前に天雷が去り、後宮で再会するまでの間は鬱屈とした日々だった。凌貴妃も同じように苦しんでいるのかもしれない。その矛先が嘉音に向けられただけだ。

 ここで凌貴妃の名を出したくなかった。公喩は呆れ顔をしているが、それでも引けない。
 嘉音はじいと公喩を睨みつける。やがて根負けしたらしく、公喩はため息をついた。

「だ、そうだ。これ以上言えば、優しく情け深い薛昭容の怒りを買いそうだから、僕は何も言わないよ」
「……嘉音様、本当にいいんですか?」

 天雷に問われ、嘉音はしっかりと頷く。

「やれやれ。女人の考えることはわからないよ。ともかく、僕が池に落ちた彼女を助けたというわけだ。天雷、感謝してくれていいんだぞ」
「公喩も時には役に立ちますね」
「なんだその言い草は。ここは僕を褒め称える場面だろうに」

 二人は楽しそうに話しているが、嘉音はそんな天雷を見ることが初めてだった。

(本当に公喩殿と親しいのね)

 天雷があのように毒を混ぜた物言いをするのは初めて聞く。それを嘉音に向けたことはなく、嘉音が見ているかぎりだが薛家の者たちにこのような態度を取っていたことはない。それを葛公喩は引き出せているのだろう。

(古くからの知り合いだと言っていたけれどどうしてだろう。それに公喩殿は男性なのに、どうして後宮にいたのかしら)

 公喩がいなければ危うかったといえ、なぜ星辰苑にいたのかが気になる。後宮は女人の園であり、帝と宦官以外の男性は入ることができない。そして公喩はどこから見ても男性だ。

「あの、公喩殿」

 嘉音が問う。公喩がこちらを向いた。

「公喩殿はどのようにして後宮に入れたのでしょう」
「うん? 髙祥殿を出て、祥華(しょうか)(もん)を通って後宮に入ったよ。それ以外に門はないだろうさ」
「いえ。そうではなく、男性がどうして後宮に入れたのかと……」

 ここでようやく嘉音の疑問に気づいたらしい。公喩は「なるほど」と頷いた。そしてわざとらしく胸を張り、答える。

「それは僕が風禮国の皇子だからだ!」
「そうは見えませんけどね」

 公喩が得意げに語ったのでその鼻を折るように、天雷が呟く。

 後宮への立ち入りを特別に許された第二皇子とは公喩のこと。ならば星辰苑にいたのも納得がいく。独特の風貌は風禮国のものだろう。

「気づかず申し訳ありません。ずっと占師だと思っていました」
「あの時は身分を隠さなければならなかったからね。それに占師というのも嘘じゃない。僕はそういった『人智を超えた神秘なるもの』が大好きだから」

 人智を超えた神秘なるもの、と言われてもなかなか思いつかない。返答に困り視線を泳がすと天雷の姿が目に入った。大家の体に入りこむという、常識を越えたこの状況。ここでようやく天雷が彼を呼んだ理由について、嘉音も理解した。

「さて。お互いの紹介も済んだところで本題に入りましょう」

 天雷が切り出す。公喩が頷いた。

「僕も天雷から聞いた時は信じられなかったよ。他人の体に意識が入るなど面白い。とはいえ話せば話すほど天雷に違いないし、外見は祥雲(しょううん)だ」

 祥雲とは大家の名である。民はおろか、妃嬪でさえその名を声に出すことは不遜にあたるのだが、慣れた口調で語るところから公喩は許されているようだ。

「公喩、思い当たるものがあると話していましたよね。それを話してもらえますか?」
「もちろん。我が国、風禮国には『魂箱互換』という伝承があってね。簡単にいえば魂が入れ替わるという話だ」
「魂が入れ替わる? どういうことでしょうか」

 嘉音が問うと、公喩は「わかりやすく話そうか」と言って立ち上がった。
 部屋に飾ってあった花器を二つ、(つくえ)に置く。ひとつは朱雀を描かれた花器、もうひとつは亀が描かれた花器だ。今日は朱雀の花器に花を活けていた。これを引き抜き、それぞれの花器に花を分ける。

「例えば、この器が体、花が魂だとする。このふたつが揃っていないと人間は動けない。体は魂の容れ物であり、魂は体を動かすものだからね。ここに二人の人間がいると思えばいい」

 すると公喩はふたつの花器から花を引き抜いた。そして、亀柄の花器にさしていた花を朱雀の花器に移す。朱雀の花器にあった花は、亀柄の花器にさした。

「けれどこのように、魂が別の体に移動することがある。体が入れ替わる、ということだ」
「入れ替わる……なるほど、それで『魂箱互換』」
「肉体は魂を閉じ込める箱みたいなものだと、風禮の者は考えたのだろうね。まさしく『人智を超えた神秘なるもの』だ。面白い伝承だよ」

 魂が別の体に入る。まさしく天雷と同じ状態だ。

「『魂箱互換』では二人の兄弟がでてくる。兄には相思相愛の女人がいたけれど、彼女は弟と結婚させられてしまう。兄と結婚出来なかったことに嘆いた彼女は自死を試みるが、それを察した兄の魂が弟の体に入りこむ――そうして彼女の死を止めた、という話だ」
「俺の現状と似ていますね。俺の魂が大家の体に入りこんだ、というのはありえます」

 天雷は納得しているようだが、嘉音は気にかかるものがあった。

「入れ替わりだとしたら……天雷の体はどこにいったのかしら。それに大家の魂も」

 花器の例えでいえば、大家という朱雀の花器に、天雷という亀の花がさしてある。しかし朱雀の花器にさしてあっただろう花は見当たらず、亀の花を飾っていただろう花器もない。
 これに公喩も首を傾げた。

「そうだね。僕もそれが気になるところだ。入れ替わった理由はもちろんだが、天雷の体がどこに消えたのかも気になる。どこぞを徘徊していれば困ったものだ」
「徘徊していればいまごろ騒ぎになっているでしょう」

 天雷が苦笑した。宦官の体がうろつくなど後宮にそのような話は出ていない。

「内侍省では俺がいなくなったことになっています。公にはしていませんが、衛士や宦官らには天雷を見つければ報告するよう伝えていますよ」
「ではこのあたりにいないということか。宮城を出てしまった可能性があるねぇ」
「入れ替わって日も経っていますからね」
「はは。もしかしたら隠れているかもしれないよ。君は隠れるのが上手だから」

 そう言ってけたけたと笑う公喩を、天雷が鋭く睨みつけた。公喩は視線に気づき「しまった」と言って、手で口元を押さえる。
 二人のやりとりが何を意味しているのかは嘉音にはわからなかった。天雷がすぐに話をはじめてしまったためだ。

「公喩、俺の体が見付からなくとも元に戻れば解決するのでは? 俺がどこに隠れていたとしても、その体に俺が戻れば問題はないでしょう。自分で歩いて後宮まで戻ればいいだけです」
「確かにその通りだけど、肝心の『元の体に戻る術』がわからないからね。そもそも君はどうして入れ替わったんだ。その日に何があったのか話してもらわないとわからないよ」
「それは……」

 公喩に問われるも、天雷は表情を曇らせ、うつむいてしまった。嘉音が聞いた時も天雷は口を閉ざしている。知られたくないことがあるのかもしれない。

「それは僕にも、話せないことかな?」

 なかなか答えようとしないのを見かねて、公喩が訊いた。

「……すみません。俺からは言えません」
「では質問を変えよう。入れ替わるようなことが起きた時、そこに祥雲はいた?」

 天雷は逡巡した後、頷いた。

「大家も一緒でした」
「ふむ。それは答えられるのか。では他に誰がいた?」
「……すみません。これ以上は」

 声音はどんどん弱くなる。天雷もこれ以上は語れないのだろう。
 その意を汲んだ公喩は問いかけをやめ、顎に手を添えて何かを考えこんでしまった。しばらく思案して結論が出たらしく、真剣な顔をして言う。

「僕の推測だけど、大家がいた場面で入れ替わっているのだから、元に戻るためにも大家がいなければならないだろう。体と魂、それぞれが揃わなければ解決しないだろうね。それらを揃えて、入れ替わった際に起きたことを再現する――解決のために考えられるのはそれぐらいだね」
「そんな……」

 今日で元に戻れるものだと思っていたのだ。公喩の話に嘉音は言葉を欠いてしまった。解決するためには天雷の体を探さなければならない。

(どうして天雷は語りたくないのだろう。誰かを庇おうとしている?)

 嘉音、公喩に対しても語ろうとはしない。だが天雷の体がどうなったのかは気にしているらしい。そして大家が同席していたことも明かしていた。

(あの日、大家の輿は桃蓮宮にあった……桃蓮宮で何か起きた?)

 桃蓮宮といえば凌貴妃の宮だ。輿があったことから大家は間違いなくそこにいただろう。そして大家が同席していたと証言した天雷も、そこにいたと考えられる。
 天雷の表情は暗い。眺めていても彼の心の内は読み取れないためもどかしい。嘉音の視線に気づいたらしい天雷は顔をあげた。

「でも俺も、自分の体がどうなったのかは気になります。大家の魂が入っているのか、それとも……」
「そうだねえ。あらぬ騒ぎになる前に探した方が良いね。元に戻るとしても君の体は必要だ」

 何が起きて入れ替わったのかはわからないままだが、現状の確認とこれからやるべきことは見えてきた。

 話がまとまったところで天雷が長く息を吐く。話の切れ目を悟った嘉音が声をあげた。

「天雷は大家と入れ替わっているでしょう? 凌貴妃の元へは渡らないの?」

 寵妃だった凌貴妃のもとに大家が通っていない。この事実は既に後宮に広まり、みなは動揺している。凌貴妃自身もそうだろう。だから、最近よく大家が渡っている嘉音に嫉妬し、池に落としたのだと考えていた。

(凌貴妃だって理解できず、寂しいはずよ)

 池に落としたり難癖をつけたりといった振る舞いは認められないが、彼女の胸中を考えれば同情心がわく。大家の中身が天雷であると明かせないにしても、彼女の元に行くことはできるのではないかと考えたのだ。
 しかし天雷は顔をしかめていた。

「……凌貴妃と接触することは、あまり考えたくないですね」
「どうして。いままで大家は凌貴妃の元に通っていたじゃない」
「だからこそ、凌貴妃は大家のことをよく知っている。中身が入れ替わっていると気づくことも考えられます。急に桃蓮宮に行かなくなったとしても、そのうちにみんな慣れるでしょう」

 慣れるとはどういうことか。この疑問に公喩が答えた。

「寵愛は移り変わるものだからね。騒ぎ立てるのも最初だけ、そのうち皆が慣れてくる。宮城での暮らしとはそういうものだよ」
「そんな……」
「しかし……薛昭容の様子を見る限り、天雷は随分と奥手らしい」

 公喩はにたりと笑みを浮かべながら天雷に言う。

「せっかく『宦官ではない』体が手に入ったのだから、もう少し積極的になればどうだろう」

 その言が意図するところを嘉音はあまり理解できなかった。だが天雷にはじゅうぶん伝わったらしい。彼は勢いよく公喩の方を振り返る。顔がひきつっていた。

「それはどういう意味でしょうか」
「なに、その通りだよ。君は何のために宮城にきたんだ。それも宦官になってまで」
「公喩! それ以上は――」

 遮るように天雷が言った。この焦燥が公喩の狙いだったらしい。

「おやおや。では僕が話してしまおうか。君が宮城に()()()()()理由を」

 彼の言に気になるところがあり、嘉音は首を傾げた。

(戻ってきた……ってどういうこと?)

 嘉音が知るは、薛家の下男であった天雷だけだ。しかしそれ以前となれば嘉音にもわからない。それに、公喩とどのようにして知り合ったのかもわからない。宦官になって知り合ったという関係でもなさそうだ。

(……私、天雷のことを知っているようで、あまり知らないのね)

 入れ替わるようなことが起きた日、何があったのかを語ってはくれない。口を閉ざしてしまうのも信頼されていないと示しているようで寂しいところがある。

 嘉音が抱く寂寥(せきりょう)を知らない公喩は「訊いておくれ、薛昭容」と指名して、仰々しく語っていた。

「彼はねえ、ある人を待ち構えるために、無理を通して宦官になったのさ。結ばれなくともそばにいたいからと理由をつけ、来てはならない場所に忍びこむほどだ」
「……公喩、お願いですから黙ってください」
「いいや黙ってなどいられぬ。天雷は大事なものを前にすれば後ずさる傾向があるからね、見守るだけでいいなど健気なことを言って物陰からじいと眺めるような君のために、こうして僕が伝えているんだとも」

 天雷は呆れ、頭を抱えていた。小さな声で「だから公喩を連れてきたくなかった」とぼやいている。

「これは天が与えた好機かもしれないぞ」

 公喩は、がっしりと天雷の肩を掴んだ。ゆさゆさとその身を揺さぶられても天雷は呆れ顔のまま、抵抗する気力も欠いているらしい。

「異なる肉体だろうが、中身は天雷だ。その立場を与えられたのも意味があるはず。宦官の姿に戻ってしまえば結ばれないのだから、いまのうちだ」
「……はあ」
「好いた者を見守るためなどしおらしいことを言わず、たまには手を伸ばしてみればいい。そうでなければ薛昭容にも気づいてもらえんぞ」
「俺としては、この空気を公喩にも気づいてほしいですね……落ち着いてください、お願いですから」
「落ち着いてなどいられるか! あれほど僕に『嘉音様』の話を聞かせていたくせ、いざ彼女と会えばこの振る舞いだ。どうせ君のことだから、ここに来ても『顔が見たくなっただけ』などと言って格好つけているのだろう。それでは体の持ち主である祥雲だって嘆くとも」

 天雷が全身の疲労をたっぷりと含ませたようなため息を吐いた。天雷が公喩を苦手とし、彼を厄介な男だと語った理由がわかる気がした。

(好いた者……薛昭容と言っていたけれど……彼も私のことを想っているのならとても嬉しいわ)

 二人のやりとりを微笑ましく眺めていれば、胸の奥がふつふつと歓喜にわく。公喩がぽろりと漏らした言を聞き逃すなどしない。天雷が隠しているものに触れたような気がした。

 天雷はというと、かすかに頬を赤らめてはいるが、平静を装ってこちらに向いた。

「嘉音様、騒がしくてすみません」
「いいの。見ているだけでも楽しいから」
「俺たちはそろそろ戻りますね」

 すると会話を聞いたらしい公喩が割りこんだ。

「明日も来ればいいだろう。この機がどれほど続くかわからないのだぞ。なあに、祥雲には後で謝ればいい。祥雲だって知っているのだろう?」
「公喩は黙っていてくださいね」

 天雷は咳払いをした。公喩は不満そうにしていたが、意を汲み、口を閉ざす。

「また伺います。公喩がいては長く話ができませんから」
「わかった。天雷がくるのを待っているわね」

 このやりとりに公喩は不満を抱いていたらしく「君はもっと言えないのか」「がつんと押さねば伝わるまい」等と責めていたが、天雷は公喩の体を引きずるようにして部屋を出て行った。

 皆が去ると、急にしんと静かになる。部屋を広く感じ、出て行ったばかりだというのに天雷の存在が恋しくなる。

(天が与えた好機……そうかもしれない)

 それは天雷に向けた公喩の言葉だったが、嘉音の心にも深く刺さっていた。

 帝の妃である嘉音と、宦官である天雷。これは結ばれないものが許されるべく、天が与えた好機なのかもしれない。

(天雷の体を見つけないといけない。わかっているけれど、この日々が続いたら幸せなのに)

 だがこれはいずれ終わりがくる。天雷が元の体に戻る時が来るのだろう。天雷を助けたいと思う反面、この不可思議な状態が長く続いてほしいと願ってしまう。

 複雑な想いを抱いていると、見送りを終えたらしい慈佳がやってきた。薛嘉音ではなく薛昭容として微笑み、慈佳を出迎えた。