目覚めもよく、気分もよい。そのような朝を迎えたのはいつ以来だろう。

大家(ターチャ)になってしまったことは気になるけれど、天雷(てんらい)と話せただけで嬉しい)

 二年ぶりに二人でじっくりと話せたのだ。白李(はくり)(きゅう)では慈佳(じけい)がいたので話しづらく、宦官と妃という立場であれば周囲の目を気にしなければならない。それが二人きりであったので気兼ねなく話ができた。

 (せつ)嘉音(かおん)の機嫌がよいことに慈佳が気づいた。嘉音の髪を結い上げていた慈佳は驚いたように言う。

「今日は嘉音様も機嫌がよさそうでなによりです。昨夜、大家がいらっしゃる前はあんなに落ちこんでいたというのに」

 大家の中身が天雷だとは口が裂けても言えない。知らぬ者は鬱屈としていたのが突然機嫌良くなったと捉えるのだろう。慈佳もその一人で、嘉音の様子に安堵している。

「きっと嘉音様は大家に気に入られたのでしょうね。安心いたしました」
「気に入られたのかはわからないけれど……でもそうね、昨夜はお会いできてよかった」

 白李宮の宮女らも朝から掃除や庭手入れと忙しく、いつもより気合いを入れているように見える。彼女らにとって仕える宮が大家を迎えるのは光栄なこと。ここでは大家のお越しがない宮が多いのだ。

 しかし慈佳は少しばかり違った。

「ですが、今日は(りょう)貴妃(きひ)の元に行くのでしょうね」

 そう断言してしまうのが気になって、嘉音は問う。

「どうして?」
「大家は凌貴妃を寵愛していますからね。昨晩は白李宮にお越しになりましたが、おそらく凌貴妃が断ったためでしょう。凌貴妃以外の妃嬪の宮を訪ねたのは、昨晩が初めてのことです。二度は続かないと私は考えています」

 慈佳は女官として長く勤めているので、嘉音よりも後宮事情に詳しい。浮き足立つ宮女らと異なり、冷静な見方をしているのは大家が凌貴妃だけを愛する場面を見てきているからだ。

(大家の寵妃……か)

 凌貴妃はどこまで知っているのだろうか。気になったものの、凌貴妃に出会った星辰苑での出来事がある。できることなら関わらずに過ごしたい。

 そこへ宮女がやってきた。

「薛昭容。(りゅう)充儀(じゅうぎ)からお誘いを頂いております。()才人(さいじん)もいらっしゃるそうが、どうなさいますか」

 星辰(せいしん)(えん)での出来事は記憶に新しい。劉充儀は呉才人を励まそうとしているのだろう。そう考え、嘉音は頷いた。

「行くと返事をして」

 揖礼した後、宮女が去っていく。


 金十一鐘(十一時)になり、嘉音は(りゅう)充儀(じゅうぎ)の宮に向かった。既に呉才人も着いている。

「良い香りの茶葉が手に入ったの。みんなで飲みましょう」

 劉充儀が言う通り、茉莉花(ジャスミン)のよい香りがする。(つくえ)には茶だけでなく、饅頭や桜桃(さくらんぼ)など、菓子や果物もあった。三人の小さな茶会だ。
 それぞれが軽く挨拶をしたところで、劉充儀が嘉音に聞いた。

「ねえ。薛昭容の宮に大家が渡られたというのは本当なの?」

 昨晩のことだが、どうやら話は随分と広まっているらしい。劉充儀だけでなく呉才人も知っているようだった。

「私も薛昭容に声がかかったと聞きました。ですが大家は貴妃様を寵愛しているでしょう? この噂は本当なのか聞きたかったの」
「そうそう。あれだけ私たちの前にでず、凌貴妃ばかりの大家がどうしてかしら。何か特別なことをしたの?」

 すっかり質問攻めだ。確かに昨晩大家は来ている。だが中身が天雷なので、嘉音が大家に選ばれたわけではない。どう答えたらよいものか悩ましい。

「昨晩はお越しになっていたけれど……」

 そう話すと劉充儀が吃驚の声をあげた。

「本当なのね! すごいわ、おめでとう」
「おめでとうございます」

 賛辞を送られても複雑なところだ。かといって天雷のことを話すわけにもいかない。

(隠し通すのも大変だ……)

 曖昧に笑ってごまかす。これ以上質問されたらどうしようかと悩むも杞憂に終わった。話題が移る。

「でも……大丈夫なのかしら」

 呉才人が物憂げに言った。

「私たちでさえ知っているのだから、貴妃様の耳にも入っているでしょう。薛昭容に苛立ちをぶつけなければよいのだけど」
「そうね。昨日でさえあの様子だから、少し心配だわ」
「これまで貴妃様が寵愛されてきたでしょう。なのに初めて貴妃様以外の妃嬪を選んだ。そういう時って()()()()()が起こるじゃない?」
「悲しいこと?」

 嘉音が聞いた。呉才人が語るものに心当たりがなかったからだ。
 そもそも嘉音は薛家にいた頃から、宮城の出来事をあまり知らなかった。父である(せつ)大建(だいけん)が武芸一筋の身で、女人の園に疎かったこともある。さらに庶子ということもあって、他家の娘との交流もなかった。

 首を傾げる嘉音に答えたのは劉充儀だ。「あら、疎いのね」と驚いた後、嘉音のために説明する。

「後宮は女の園でしょう? そりゃもう、どろどろとした陰謀が渦巻いているのよ。昔は特に、謀りによる不審な死があったとか」
「妃嬪の死はよくあることだと私の父が言っていたわ。後宮から注文が入っても、品が用意出来る頃にはその妃嬪が死んでいる、なんて」
「……恐ろしい話ね」

 嘉音が疎いことに気づいたらしく、二人は面白がって話しているようだ。劉充儀の瞳が爛々としている。

「宮城はそういった死が多いから幽鬼(ゆうれい)がでると言われているのよ」
「幽鬼?」
「死んでいる人がさも生きているように徘徊するのですって。体が透けているだの宙を浮いているだの、襲いかかってきたと話した衛士もいるそうよ」

 これに呉才人が「うう、怖い」と言って開いた扇で顔を隠した。嘉音もごくりと息を呑む。
 恐ろしい話ではあるが、想像してみれば、死んでいるはずがそのように彷徨うなど可哀想な話である。死してなお安楽の地に至れないのだ。もしも自分がそのようになったら――そう考えると背に冷たいものをあてられるような心地になる。

「それは九泉(めいど)に渡れなかった、ということよね……可哀想な話」
「未練があるから彷徨っているのではないかという噂よ。いま話題になっている第四皇子だって、あの死に方では浮かばれないでしょうし」
「第四皇子? 聞いたことないわ」
「大家のご兄弟よ。病を患って亡くなってしまったの、薛昭容はご存知ない?」

 嘉音は頷いた。先帝には何人かの皇子がいたのは聞いたことがあったが、その人数であるとか死因だとか、そういったものは知らなかった。

「八歳だというのに、流行り病を患って隔離されていたの。そのまま外に出られず亡くなったけれど、病がうつってはいけないから最期に誰も立ち会えなかったんですって。きっと外に出たいと未練を抱えているから、幽鬼となって宮城を彷徨っているのよ。ああ、可哀想に」

 楽しい茶会になるはずが、陰鬱とした気が満ちていく。
 後宮は華やかな場所だと思っていたが、妃嬪の不審死だの幽鬼だのきな臭い話が多い。それらを知らなかったことも嘉音の気が滅入る要因の一つだった。後宮事情に疎かったのだと再認識させられる。

 暗い面持ちの嘉音をよそに、劉充儀と呉才人は話を続けていた。話題は友好関係にある風禮国へと移っている。
 華鏡国と風禮国は現在は友好関係にあり、交易も盛んに行われている。風禮国独自の品は多く市井に出回り、後宮でも珊瑚の装飾品のほか、茶や菓子など、風禮国の文化が流行っていた。

「呉才人は風禮国へ行ったことがあるの?」

 劉充儀が聞いた。

「ええ、一度だけ」
「どんな国なの? 果てには砂だらけの地があると聞くけれど」
「そこまでは行ったことがないわ。長く滞在できなかったから少し見ただけよ。そうだわ、お父様から風禮国の織物を頂いたの。細かな刺繍が入っていて素敵なのよ。今度、私の宮まで見にいらして」
「まあ! ぜひ拝見したいわ。風禮国の織物なんて素敵よ。その時は薛昭容も一緒に伺いましょうね」

 劉充儀は風禮国の話に瞳を輝かせている。彼女ほど風禮国に憧れは抱いていないが、嘉音もにっこりと微笑んで頷いた。


 茶会が終わり、劉充儀の宮を出る。白李宮と呉才人の宮は近い位置にあるので、途中まで同じ道を行く。嘉音の隣や後ろには慈佳らといった白李宮付きの者が並んでいた。

(今日は天気もよいから、外に出る妃嬪も多いでしょうね)

 特に星辰苑は風の通りがよく木陰もあるので心地よい。池があるので冷涼感を味わえる。茶会の誘いがなければ嘉音も星辰苑に出ていたかもしれない。
 そう考えていると、こちらにやってくる妃嬪の列が見えた。嘉音と同じく、宮女を連れて散策に出ていたのだろう。

(あれは……凌貴妃かしら)

 透き通るような肌と美しい体。凌貴妃だ。嘉音が凌貴妃に気づくと同時に、彼女もこちらを見た。
 瞬間、鋭くその瞳が細められる。距離はあるというのに、彼女が嫌悪感をむきだしにしていることが伝わってくる。眼光は、呉才人ではなく嘉音に向けられていた。近づくのが怖くなり、自然とその足を止めてしまう。

「……薛昭容」

 呉才人が小声で名を呼んだ。呉才人も凌貴妃のことに気づいているのだろう。嘉音の身を案じる声音だ。
 凌貴妃は変わらず、敵意をこめて嘉音を睨みつけている。その態度を取る理由はわからない。

 そのうちに凌貴妃は角を曲がって行った。その方向には凌貴妃の宮である桃蓮(とうれん)(きゅう)がある。歩いてきたところから察するに、星辰苑に出かけ、宮に戻るところなのかもしれなかった。

 凌貴妃の姿が消えたのを確かめてから、呉才人が詰めた息を吐いた。

「薛昭容……お気をつけくださいね」

 名は出さなかったが、凌貴妃に気をつけろと言いたかったのだろう。その意を汲み、嘉音は頷く。

 しかし凌貴妃がこちらに敵意を向けてくる理由がわからない。苛立っていたのだろうか。嘉音が考えこんでいると、呉才人が見抜いたかのように言った。

「大家が薛昭容の元に渡ったことは、貴妃様もご存知なのでしょう――ですから、お気をつけください。後宮は何が起こるかわかりません」
「……ええ」

 呉才人の忠告を受け取り、反芻する。

 呉才人や劉充儀でさえ、昨晩大家が来ていたことを知っているのだ。凌貴妃の耳にも当然入るだろう。

(でも中身は天雷だから……大家とは言えない)

 寵愛が移ったのではなく、大家の中身が違うだけなのだ。
 胸中は複雑で、頭が痛くなる。鬱屈とした気持ちに支配されそうだ。


 そうして嘉音が白李宮に戻れば、帰りを待っていたかのように宮女が駆けてきた。

「薛昭容。今晩、大家がお越しになるそうです」

 宮女はにこやかだった。仕える妃嬪が選ばれたことを誇らしげに思っている。それを聞いた慈佳も喜んでいた。

(今日も天雷に会えるのね)

 天雷に会えるとわかれば、夜が待ち遠しくなる。昨晩は湯に垂らした香油さえ疎ましく感じたが、今日は違う。彼に会えるとわかれば心臓が早鐘を打ち、早く陽が沈んでほしいと願ってしまうほど。



 夜、月が煌々と輝く頃に天雷がやってきた。
 帝のふりをして険しい顔をしていたのが、二人になればゆるりと緊張が解ける。気心しれた者と会えたことで楽になったのだろう。

「疲れているみたいね、大丈夫?」

 長く息をつく姿に疲労を感じ取り、嘉音が声をかけた。天雷は寝台に腰掛けたかと思うとそのまま倒れ込み、天井を仰いでいる。

「慣れないことばかりですからね。この状態を隠すのも大変です」
「突然大家になったんだもの、慣れなくて当然よ」

 天雷が身を起こし、座り直す。

 昨日は隣に腰掛けていたが、今日は彼の前に立っていた。どうも緊張してしまう。昨日の囁きはまだ耳に残っている。近くにいれば顔が火照ってしまいそうだ。それを押し隠すように、嘉音は話を続ける。

「二日連続でここに来て、何か言われない?」
「平気です。今日は行かないのかと内常侍に問われたほどですから。行かないのもまた疑われてしまいます」
「そうね……急にどこも行かなくなれば確かに疑われる」
「ですから嘉音様の元にしようと。俺も嘉音様に会いたかったので」

 事もなげに天雷は言う。会いたかった、と言われれば嬉しいが、複雑な気分にもなる。

(私は天雷が好きだから嬉しいけれど……天雷はきっと、違うのよね)

 嘉音だって天雷に会いたいと考えていた。けれどそこには思慕が混ざっている。その言葉を口にするには勇気が必要だ。
 しかし天雷はさらりと言ってのけたので、そこに混ざる感情は、嘉音の好意と異なるように思えてしまう。

「それから明日ですが、」

 嘉音の胸中を知らず、天雷が言う。

「前に話した『詳しそうな者』が明日来るので、嘉音様もお呼びしますね」
「わかったわ。それで解決するといいのだけど」
「どうでしょう。まずは話を聞いてみなければ。銀鐘(午後)の頃になると思います、その時は迎えを出しますね」

 現在の天雷は不可思議な状況にある。大家の体になっているという、常識では考えられないものが起きているのだ。詳しい者に聞き、解決する策が出ることを願うしかない。

(どんな人なのかしら。そういった者に詳しいとなれば、仙人とか? 寺院にいる方もありえそうね)

 明日のことで頭を巡らせていたが、ふと気づけば天雷がこちらを見つめている。目が合うなり、天雷はにこりと微笑んだ。

「隣に座らないのですか?」
「え、ええ……」

 胸中にある妙な気まずさを見抜かれた気がして、ぎくりと体が震えた。けれど天雷は平然とし、普段と変わらぬ笑みを浮かべている。

「そこにいられては話がしにくいので、こちらに来てください」
「……でも」
「ほら、こっちに」

 なかなか動こうとしないので、ついに天雷が動く。嘉音の手を引き、隣に腰掛けさせた。

 距離が近い。無理に引き寄せられたこともあり、天雷の体にぴたりとくっついている。衣を着ているのに彼の体温が伝わってくるようで、羞恥心がこみあげた。

「嘉音様は良い香りがしますね」

 天雷が言った。それと同時に嘉音の首元に顔を寄せている。
 良い香りとは麝香(じゃこう)のことだろう。帝の渡りがあるからと湯浴みをさせられ、慈佳は湯に香油を垂らしていた。仕上げに練り香まで塗りこんでいる。どれも風禮国から取り寄せた貴重な麝香を使っている。

「甘い、良い香りです。嘉音様によく似合う」
「ちょ、ちょっと、天雷……!」

 天雷はその香りを嗅ぐように、嘉音の首元に顔を埋めた。ときおりひくひくと鼻が動く。その呼気がくすぐったく、嘉音は身を捩らせて抵抗しようとしたが――すぐに手を押さえられてしまった。

(大きな手……力も強い)

 こうなれば抵抗はできない。逃げられないとなれば恥ずかしくなる。天雷の接近を敏感に感じ取り、心臓が騒ぎ立てていた。

「嘉音様が大家を迎える時はこの香りがするのですね……少し、妬けてしまいます」
「違うの、これは――」
「あなたがこのような香りをさせていれば誰だって触れたくなりますよ」

 つ、と首筋をなぞられる。その指先が柔らかく肌に食いこみ、嘉音は目を瞑った。
 これ以上に羞恥心を煽られてしまえば頭がおかしくなりそうだ。

 しかしそこで、彼はぴたりと動きを止めた。

「……この手は、俺じゃない」

 彼の掠れた声が聞こえた気がした。驚きに目を開ければ、拘束が緩められる。

「ふふ。からかいすぎましたね」

 天雷は距離を取り、楽しそうにしている。先ほどのひとり言は沈痛な響きだったが、それが嘘のように彼は笑顔だ。

「ま、またからかったのね……」
「嘉音様があまりにも可愛らしくて、いじわるしたくなるのです。まだ顔が赤くなっていますよ」
「もう! からかうなんてひどいわ!」

 そう言いながらも、内心ではこの距離を寂しく感じていた。近くにいればいるほど恥じらいが生じて苦しいのに、離れれば寂しいと思う。矛盾しているのは嘉音もわかっている。

 嘉音は複雑な気分だというのに、天雷は普段と変わらない。その差が悔しくて、彼の胸を数度叩く。力は込めていないので痛みはないだろう。天雷は苦笑していた。

「許してください。明日には元に戻れるかもしれませんから、こうして嘉音様を共に居られるのも最後かもしれませんよ」

 それを聞いて、嘉音がぴたりと動きを止める。

「……最後なの?」
「どうなるかはわかりませんが、俺が宦官に戻ればこのように会うことも減るでしょう。嘉音様は大家の妃嬪。こうして二人きりで会えるのは、俺が大家の体に入っているからです」
「そう……よね……」
「いつ最後となるかわかりませんから。嘉音様に会うときはいつだって、これが最後の心持ちでいます」

 わかっていたことではある。こうして会っても、その顔は天雷ではない。元に戻ってしまえば大家がここに来ることはなくなる。天雷と嘉音も、宦官と妃嬪という、容易には会えない関係に戻ってしまうのだ。

(元に戻ってほしいけれど、会えなくなるのはいや……どうしたらいいのだろう)

 天雷を見上げる。彼は穏やかに微笑み、なだめるように嘉音の頭を撫でた。

「大丈夫です。俺はどんな立場にいようとも、嘉音様の味方ですから」

 それでも不安は拭えない。嘉音はうつむくことしかできなかった。

***