華鏡国の都――そこは牆壁に囲まれた都城となっていて、北部には帝の居所である宮城が構えられている。宮城の奥には帝の妃嬪らが生活する場があり、帝と選ばれた者以外は立ち入れぬ女の園となっていた。
二年の歳月が流れた頃、薛嘉音の姿は後宮にあった。
天雷が行方知れずとなった後、薛大建は後宮に送る娘を嘉音に決めた。そこから二年の期間を経て宮廷所作を学び、美を磨き、ついに後宮に送られたのである。
妃嬪には位があるが、大建はよほど上手く手を回したようで、嘉音は昭容の位が与えられた。
(手を回したところで帝の寵愛を得ることもないのに)
帝より賜った白李宮にて嘉音は物憂げに息を吐いた。
花が咲き誇る季となり、庭は牡丹が咲いている。しかしわざわざ庭に出て花を愛でる気力もなく、嘉音はぼんやりと外を眺めているだけだった。
「嘉音様、今日もご気分が優れないようですね」
嘉音に声をかけたのは白李宮付きの女官である慈佳だ。はじめは『薛昭容』と呼んでいたのだが、堅苦しいのはあわず、他者がいない時は嘉音と呼ぶようにお願いしている。
「牡丹が気になるのでしたら、あとで見にいきましょうか?」
「……外に出ても疲れるだけだから」
華鏡国の後宮は至る所に花が植えてある。牡丹以外にも、見頃を迎えた花が咲いているだろう。しかし外に出る気にはなれなかった。
これは今日に限った話ではなく、二年前からあらゆるものへの関心を欠いていた。以前は季の移り変わりを楽しみ、特に黄櫨の紅葉が楽しみだった。いまではそれが些細なことに思え、高揚感は生じない。天雷が去り、心が死んでしまったかのようだ。
慈佳はこういった様子にも慣れているようだった。慈佳曰く、他の妃嬪も嘉音と同じように無気力だという。入宮したとて、帝はひとりしか寵愛しない。本来の後宮とは帝の寵を求め、妃嬪らが美や芸にて競い合う。だが寵妃に傾いているため今さら美や芸を磨いたところで敵わないと、みな諦めているのだ。そう知っていても娘を入宮させるのは、貴顕なる家にとっては地位を守るため必要なこと。
この後宮は先帝の頃に比べれば妃嬪の数がかなり少ない。それほど後宮入りを希望する娘もなく、帝も他の娘を求めていないということだ。薛大建のようなものでも容易に手を回せるほどである。
「気になることがあればいつでもお申し付けくださいね。それと――」
茶を置きながら、慈佳が言う。
「のちほど内侍省から宦官がひとり、こちらに来るようです」
嘉音は顔をあげた。内侍省に所属する宦官は後宮入りが許されている。この宮にも彼らがきたことはあるので特段珍しい話ではない。しかし今日は引っかかった。嘉音が反応を示したことに気づき、慈佳が続ける。
「定期的に妃嬪の宮を回るのですよ。白李宮に来るのは銀二鐘の頃ですね」
「大家が凌貴妃の宮ばかり行くから、宦官が尻拭いをするのね」
「まあ、そのようなものです」
慈佳が苦笑した。
「ご機嫌伺いですよ。でもそれが彼らの仕事でもありますから」
「凌貴妃以外の報告をしたところで、大家は気にもとめないと思うけど」
棘のある物言いをするも慈佳は曖昧に笑ってそれをやりすごしている。女官や宮女たちはこういったことに慣れていた。
大家――つまり帝は、凌貴妃ばかりを愛でている。皇太子の頃から凌芳香に惚れこみ、他の娘には目もくれなかったという。即位後は他が諫めようとも聞かず、寵妃に貴妃の位を与え、現在も凌貴妃の宮ばかり通っていた。
後宮は広い。娘らが入宮したところで必ず大家にお目見えできるとは限らない。入宮時の式典があるが、凌貴妃に夢中である大家は顔を出すことさえしなかった。
飛び抜けた容姿や芸があるなど、誇れるものがあれば大家の目にとまる可能性もあるが、凌貴妃は花が恥じらうほどの美しさを持ち、ひとたび舞えば観ている者すべてを魅了するのだという。これに勝る人間は華鏡国にいないとまで伝えられていた。
後宮に入れども大家の寵を得るどころか、目通りすら難しい。このような状況に疲弊する妃嬪は少なくない。
(私はもう、諦めているから)
嘉音は諦念の理由が他の妃嬪と違っていた。大家と会えなくたって構わない。天雷が屋敷を去った時からこの人生を諦めている。薛家のため後宮に送られることになるのも、いまさらどうでもよいことだった。
(天雷……私はいまでもあなたに会いたい。もっと探すことができていたらよかったのに)
天雷の捜索ができなかったことを悔やんでいる。叶うならば、屋敷の外へ出て、都や山の奥深くまで探したかった。失踪した後は薛大建も血眼になって探していたが、ある日突然捜索をやめてしまった。最後まで天雷を探すべきと主張していた嘉音に、大建は諦めるよう諭し、以降は天雷の話題をすることさえ禁じられた。さらに入宮を控えているからと理由をつけ、嘉音に外出禁止を命じたのである。
(せめてどこかで生きていればいい。生きてさえいてくれれば私は――)
天雷は下男に置くのが勿体ないほど賢い男だった。書を貸せば嘉音よりも深く読み入り、一度読んだだけで覚えてしまう。科挙に挑む者は必ず覚えねばならない経典もあっさりと覚えてしまったほどだ。下男の生まれでなければ、その知能を用いてよい暮らしができていただろう。
それに、彼は薛家の屋敷で生き抜く器用さがあった。薛夫人は気難しい人で、その子らも同様の性格だった。さらに一部の使用人はずる賢く、他の人に仕事を押しつけることもあった。そういった事柄を天雷は器用にかわしていた。
そういった要素から彼が生きていることを願ってしまう。彼をよく知るからこそ、死んでしまったなどと思いたくなかった。
嘉音は再び外の花を見つめた。庭にでたところで、後宮の外に出られるわけではない。空を見上げるぐらいしか出来ることはないのだろう。見上げたところで視界の端には宮や殿の屋根が入りこむ。逃げる場所はなく、いつだって現実は迫ってくる。母がどれだけ空を見上げても、黄櫨の葉が映り込んでいたように。
鐘が鳴っている。その音と数から銀二鐘だ。慈佳が話していたとおり、その刻になると宦官がやってきた。
嘉音も応接用の間に移動した。まもなく慈佳が宦官を連れてここにくるだろう。面倒ではあるが対応しなければならない。
扉が開く。袍を着た男がやってきた。宦官を示す鼠水色をしている。彼は嘉音の前に来るなり拱手し、頭を垂れた。
「薛昭容にご挨拶申し上げます」
嘉音はちらりと彼を見る。
(え――)
足からはじまり腰、肩――その視線が上がっていくにつれ、胸がざわついた。
(見たことがある。まさか)
荒れて骨張った手。同年代の男に比べれば背丈は高く、腕も長い。それは忘れたくても忘れられない記憶と一致していた。
はっと息を呑み、その顔を見やる。
「あ、あなたは――」
気づけば立ち上がっていた。その宦官が天雷と同じ顔をしていたためである。
精悍な顔つきになっていた。天雷は元々顔立ちが綺麗だったこともあり、汚れや傷のない綺麗な袍はよく似合っている。
「あなたは天雷ね……そうでしょう?」
問うと、彼は穏やかに微笑んだ。天雷は笑うと頬が少しくぼむのだが、目の前にいる宦官も同じであった。
「嘉音様、お久しぶりです。覚えていてくださって光栄です」
「ああ、よかった……あなた、生きていたのね!」
生きていてくれればと何度願ったことか。歓喜に視界が滲む。いまにも涙が落ちてしまいそうなほどだ。
叶うならばいますぐに天雷の元へ飛びこみ、その身を抱きしめたかった。それが出来ないのはここに慈佳がいるためだ。彼女は嘉音と天雷が顔見知りであったことに驚いていた。
「あら。薛昭容の知り合いでしたか」
「え、ええ。天雷は――」
言い淀んだのは、天雷のことを案じたためだ。
ここは宮城だ。薛家の下男だった天雷がどうしてここにいる。それに彼は失踪していたのだ、下男であった過去を伏せているかもしれない。
「昔に知り合ったの。久しく会えていなかったから、懐かしくて」
そう話すと慈佳の表情が明るくなった。
「よほど会いたい知り合いだったのでしょうね。薛昭容の明るい表情を見るのは初めてです」
「薛昭容は塞ぎ込んでいたのですか?」
天雷が問う。慈佳は頷いた。
「入宮してからというもの塞ぎ込んでおりました。物憂げに庭の方を眺めてばかりで。外に出た方がよいと勧めても、出たくないと仰っていたのです」
「なるほど。それはよくないでしょう」
話を聞き終えると天雷がこちらに向き直る。彼は昔のように触れこそしなかったものの、嘉音をなだめるように柔らかな声音で告げた。
「後宮での暮らしに慣れるには時間がかかります。だからといって塞ぎ込んでいては病を身のうちに呼び寄せてしまいます。もしよければ、私が話し相手になりますよ」
この提案に、嘉音よりも早く飛びついたのが慈佳だった。
「それはよいことです。旧知の方と話せば、陰鬱した気も晴らせましょう」
「……い、いいの?」
おそるおそる嘉音が問う。帝以外の男性と接することが罪のように思えたためだ。しかし天雷はあっさりと頷く。
「私は宦官の天雷。そのためにここにいます」
胸が弾んだ。止まっていた時間が動き出したかのように、心臓が急いている。
(天雷がいる。生きている。後宮にいれば彼に会える!)
世界が一気に色を取り戻し、この二年間忘れていた高揚感が生じている。この暮らしに何の期待も抱けずにいたのが一転していた。
「久しぶりの再会となれば積もる話もあるでしょう。お二人で話す時間を作りましょうか?」
「いいの? ぜひ天雷と話したいわ」
慈佳の提案に、嘉音が食い気味に答えた。その良き反応に慈佳はより微笑んだ。それほど、嘉音が塞ぎ込んでいたことを心配していたのだろう。
「天雷殿はいかがでしょう?」
「私も構いません。夕刻――銀五鐘であれば時間がとれるので、その頃に」
慈佳の計らいのなんとありがたいことか。天雷と話ができると思えば天にも昇る心地だ。
その後、他の宮を回らなければならないとのことで、すぐに天雷は去ってしまった。しかし嘉音の表情は明るい。
「嘉音様は、再会がよほど嬉しかったのですね」
「ええ。ずっと会いたかった知り合いなの」
「それはようございました。長く時間がとれるように致しますね」
後宮に閉じ込められるような生活だと思っていた。何年もこの暮らしに耐えると思えば気が滅入るような。しかし今は心が華やいでいる。
(たとえ結ばれなかったとしても、天雷に会えるだけでいい)
天雷がいるだけで、この場所が幸福に満ちていく。
だが、銀六鐘となっても彼が来る気配はなかった。約束の時間はとうに過ぎている。高いところにあったはずの陽は、身を低めて紅色に燃えていた。
「……天雷、遅いのね」
庭を眺めていた嘉音が呟く。慈佳も沈んだ面持ちで答えた。
「きっと忙しいのでしょう。遅くなったとしても、きっといらっしゃいますよ」
「でも銀六鐘になってしまったわ」
彼が来るのが待ち遠しくて庭ばかり眺めてしまう。特に天雷については、二年前のことがある。ふらりと消えてしまうのではないかと怖くなった。
「もしかすると桃蓮宮かもしれませんね」
「桃蓮宮というと……凌貴妃の宮かしら」
「ええ。少し前でしたが、大家の輿が桃蓮宮にあるのを見ましたから。それで天雷殿も忙しいのかもしれません」
嘉音には白李宮が与えられたのと同じように、凌貴妃には桃蓮宮が与えられている。寵愛を示すように、大家のいる髙祥殿に最も近い宮だ。
(大家が桃蓮宮から戻ったら、天雷もここに来るかしら)
桃蓮宮が気になったが、ここからは見えない。
そうして天雷の来訪を待つも、陽が沈んで夜になっても、彼は来なかった。
「……天雷は来なかったわね」
「きっと忙しかったのでしょう。でも同じ場所にいるのですから、急がずともまた会えますよ」
慈佳に励まされるのも、今日何度目になるかわからない。
(明日は会えるかしら)
ここまで夜が更ければ天雷が来ることもない。嘉音はため息をつき、立ち上がろうとした――その時である。
「慈佳様、大変です!」
慌ただしい音と共に宮女が数名やってきた。女官である慈佳を呼びにきたらしい。ここに嘉音がいると知らずにいたらしく、目を合わせるなり彼女らは慌てて拱手した。
「何事ですか?」
慈佳が問う。
「そ、その……大家が宮の前に……」
「大家が? 何の報せもきていないのにどうして」
「私たちにもわかりません。それに様子がおかしいのです。一人でここへいらっしゃって、足元も覚束ないご様子で」
帝が妃嬪の宮を尋ねる時は事前に報せが入る。特に夜の来訪となれば妃嬪の支度もいるためだ。しかし白李宮にそのような報せはきていない。
それに供をつけず、一人で出歩くなどあまり聞かない話だ。宮女が語った大家の様子も気になる。
「様子を見て参ります」
「私も行くわ」
嫌な予感がしていた。行かなければ後悔する気がした。慈佳としては、嘉音に残ってもらいたかったのだろう。だが頑なな意志を感じ取ったのか、早々に諦めて告げる。
「わかりました。ですが、不審者が近くにいるとも限りません。何かあればすぐにお逃げくださいね」
「ええ。わかってる――急ぎましょう」
慈佳と共に向かう。
宮女らが話した通り、宮の入り口――数段の階に人影があった。それは階にもたれかかるようにして倒れている。
召し物が宦官と異なる。宮の入り口にある篝火の明かりを、腰に佩いた剣がぎらりと跳ね返していた。剣の意匠は位の高さを示しているようでもあった。
その姿を確かめた慈佳は彼の正体を速やかに判断したのだろう。血相を変え、宮女に叫ぶ。
「髙祥殿へ遣いを! 急いで!」
髙祥殿となれば、この者は大家だ。周囲はさらに緊張感が増す。
ばたばたと駆け回る音。震えて動けない宮女もいる。
慌ただしい中、嘉音はまじまじとその人物を眺めていた。
(彼が……華鏡国の帝)
後宮に入っても目通りは叶わなかったので、今日初めて見る。端正な顔立ちをした若い男だ。その瞳は苦しげに伏せられている。見たところ外傷はなく、血が流れている様子もなかった。だがどうして倒れているのだろう。
気になって彼に近寄る。嘉音が身を屈め、彼に手を伸ばそうとした時だった。
「……っ、か」
その瞳が、ぱちりと開いた。額に汗を浮かべ、呼気も荒い。彼は嘉音の姿を捉えると、身を震わせながらこちらに手を伸ばした。
乾いた唇が動く。しかし声は掠れて、近くにいる嘉音にしか聞き取れないほどの声量だ。
「か、嘉音……俺は……」
大家はそう言った。嘉音の名を口にした。
(『薛昭容』ではなく『嘉音』と呼んだ……どうして大家が)
凌貴妃を寵愛している帝なのだ、入宮した妃嬪の名など興味を持たず、覚えることもしなかっただろう。それがどういうわけか、嘉音のことを知っている。
こちらに伸ばしかけた大家の手はがくりと落ちた。再び意識を失い、瞳も伏せらている。
「嘉音様、お下がりください!」
慈佳に促され、後ずさる。
少し離れたところから眺めるも、彼と会った覚えはない。名を教えたこともない。
報せもなく白李宮にやってきた理由も心当たりがなかった。近くで何者かに襲われたのだろか。だが外傷が見当たらないため考えにくい。
(……嫌な予感がする)
胸の奥がざわざわと急いている。床が抜けて地の底へ落ちていくような不安が胸中に渦巻く。
まもなくして衛士が駆けつけた。やはりこの人物は大家であるらしく、早々に運ばれていく。しかし駆けつけた宦官の中に、天雷の姿はなかった。
(天雷は……忙しいのかもしれない)
ここで会えたとしてもゆっくり話すような時間はない。せめて一目でもその姿を見られればよかったのだが。
その後、大家を発見した宮女や介抱にあたった慈佳は吏部に聴取されることとなり、白李宮が静けさを取り戻すには数日がかかった。
***
二年の歳月が流れた頃、薛嘉音の姿は後宮にあった。
天雷が行方知れずとなった後、薛大建は後宮に送る娘を嘉音に決めた。そこから二年の期間を経て宮廷所作を学び、美を磨き、ついに後宮に送られたのである。
妃嬪には位があるが、大建はよほど上手く手を回したようで、嘉音は昭容の位が与えられた。
(手を回したところで帝の寵愛を得ることもないのに)
帝より賜った白李宮にて嘉音は物憂げに息を吐いた。
花が咲き誇る季となり、庭は牡丹が咲いている。しかしわざわざ庭に出て花を愛でる気力もなく、嘉音はぼんやりと外を眺めているだけだった。
「嘉音様、今日もご気分が優れないようですね」
嘉音に声をかけたのは白李宮付きの女官である慈佳だ。はじめは『薛昭容』と呼んでいたのだが、堅苦しいのはあわず、他者がいない時は嘉音と呼ぶようにお願いしている。
「牡丹が気になるのでしたら、あとで見にいきましょうか?」
「……外に出ても疲れるだけだから」
華鏡国の後宮は至る所に花が植えてある。牡丹以外にも、見頃を迎えた花が咲いているだろう。しかし外に出る気にはなれなかった。
これは今日に限った話ではなく、二年前からあらゆるものへの関心を欠いていた。以前は季の移り変わりを楽しみ、特に黄櫨の紅葉が楽しみだった。いまではそれが些細なことに思え、高揚感は生じない。天雷が去り、心が死んでしまったかのようだ。
慈佳はこういった様子にも慣れているようだった。慈佳曰く、他の妃嬪も嘉音と同じように無気力だという。入宮したとて、帝はひとりしか寵愛しない。本来の後宮とは帝の寵を求め、妃嬪らが美や芸にて競い合う。だが寵妃に傾いているため今さら美や芸を磨いたところで敵わないと、みな諦めているのだ。そう知っていても娘を入宮させるのは、貴顕なる家にとっては地位を守るため必要なこと。
この後宮は先帝の頃に比べれば妃嬪の数がかなり少ない。それほど後宮入りを希望する娘もなく、帝も他の娘を求めていないということだ。薛大建のようなものでも容易に手を回せるほどである。
「気になることがあればいつでもお申し付けくださいね。それと――」
茶を置きながら、慈佳が言う。
「のちほど内侍省から宦官がひとり、こちらに来るようです」
嘉音は顔をあげた。内侍省に所属する宦官は後宮入りが許されている。この宮にも彼らがきたことはあるので特段珍しい話ではない。しかし今日は引っかかった。嘉音が反応を示したことに気づき、慈佳が続ける。
「定期的に妃嬪の宮を回るのですよ。白李宮に来るのは銀二鐘の頃ですね」
「大家が凌貴妃の宮ばかり行くから、宦官が尻拭いをするのね」
「まあ、そのようなものです」
慈佳が苦笑した。
「ご機嫌伺いですよ。でもそれが彼らの仕事でもありますから」
「凌貴妃以外の報告をしたところで、大家は気にもとめないと思うけど」
棘のある物言いをするも慈佳は曖昧に笑ってそれをやりすごしている。女官や宮女たちはこういったことに慣れていた。
大家――つまり帝は、凌貴妃ばかりを愛でている。皇太子の頃から凌芳香に惚れこみ、他の娘には目もくれなかったという。即位後は他が諫めようとも聞かず、寵妃に貴妃の位を与え、現在も凌貴妃の宮ばかり通っていた。
後宮は広い。娘らが入宮したところで必ず大家にお目見えできるとは限らない。入宮時の式典があるが、凌貴妃に夢中である大家は顔を出すことさえしなかった。
飛び抜けた容姿や芸があるなど、誇れるものがあれば大家の目にとまる可能性もあるが、凌貴妃は花が恥じらうほどの美しさを持ち、ひとたび舞えば観ている者すべてを魅了するのだという。これに勝る人間は華鏡国にいないとまで伝えられていた。
後宮に入れども大家の寵を得るどころか、目通りすら難しい。このような状況に疲弊する妃嬪は少なくない。
(私はもう、諦めているから)
嘉音は諦念の理由が他の妃嬪と違っていた。大家と会えなくたって構わない。天雷が屋敷を去った時からこの人生を諦めている。薛家のため後宮に送られることになるのも、いまさらどうでもよいことだった。
(天雷……私はいまでもあなたに会いたい。もっと探すことができていたらよかったのに)
天雷の捜索ができなかったことを悔やんでいる。叶うならば、屋敷の外へ出て、都や山の奥深くまで探したかった。失踪した後は薛大建も血眼になって探していたが、ある日突然捜索をやめてしまった。最後まで天雷を探すべきと主張していた嘉音に、大建は諦めるよう諭し、以降は天雷の話題をすることさえ禁じられた。さらに入宮を控えているからと理由をつけ、嘉音に外出禁止を命じたのである。
(せめてどこかで生きていればいい。生きてさえいてくれれば私は――)
天雷は下男に置くのが勿体ないほど賢い男だった。書を貸せば嘉音よりも深く読み入り、一度読んだだけで覚えてしまう。科挙に挑む者は必ず覚えねばならない経典もあっさりと覚えてしまったほどだ。下男の生まれでなければ、その知能を用いてよい暮らしができていただろう。
それに、彼は薛家の屋敷で生き抜く器用さがあった。薛夫人は気難しい人で、その子らも同様の性格だった。さらに一部の使用人はずる賢く、他の人に仕事を押しつけることもあった。そういった事柄を天雷は器用にかわしていた。
そういった要素から彼が生きていることを願ってしまう。彼をよく知るからこそ、死んでしまったなどと思いたくなかった。
嘉音は再び外の花を見つめた。庭にでたところで、後宮の外に出られるわけではない。空を見上げるぐらいしか出来ることはないのだろう。見上げたところで視界の端には宮や殿の屋根が入りこむ。逃げる場所はなく、いつだって現実は迫ってくる。母がどれだけ空を見上げても、黄櫨の葉が映り込んでいたように。
鐘が鳴っている。その音と数から銀二鐘だ。慈佳が話していたとおり、その刻になると宦官がやってきた。
嘉音も応接用の間に移動した。まもなく慈佳が宦官を連れてここにくるだろう。面倒ではあるが対応しなければならない。
扉が開く。袍を着た男がやってきた。宦官を示す鼠水色をしている。彼は嘉音の前に来るなり拱手し、頭を垂れた。
「薛昭容にご挨拶申し上げます」
嘉音はちらりと彼を見る。
(え――)
足からはじまり腰、肩――その視線が上がっていくにつれ、胸がざわついた。
(見たことがある。まさか)
荒れて骨張った手。同年代の男に比べれば背丈は高く、腕も長い。それは忘れたくても忘れられない記憶と一致していた。
はっと息を呑み、その顔を見やる。
「あ、あなたは――」
気づけば立ち上がっていた。その宦官が天雷と同じ顔をしていたためである。
精悍な顔つきになっていた。天雷は元々顔立ちが綺麗だったこともあり、汚れや傷のない綺麗な袍はよく似合っている。
「あなたは天雷ね……そうでしょう?」
問うと、彼は穏やかに微笑んだ。天雷は笑うと頬が少しくぼむのだが、目の前にいる宦官も同じであった。
「嘉音様、お久しぶりです。覚えていてくださって光栄です」
「ああ、よかった……あなた、生きていたのね!」
生きていてくれればと何度願ったことか。歓喜に視界が滲む。いまにも涙が落ちてしまいそうなほどだ。
叶うならばいますぐに天雷の元へ飛びこみ、その身を抱きしめたかった。それが出来ないのはここに慈佳がいるためだ。彼女は嘉音と天雷が顔見知りであったことに驚いていた。
「あら。薛昭容の知り合いでしたか」
「え、ええ。天雷は――」
言い淀んだのは、天雷のことを案じたためだ。
ここは宮城だ。薛家の下男だった天雷がどうしてここにいる。それに彼は失踪していたのだ、下男であった過去を伏せているかもしれない。
「昔に知り合ったの。久しく会えていなかったから、懐かしくて」
そう話すと慈佳の表情が明るくなった。
「よほど会いたい知り合いだったのでしょうね。薛昭容の明るい表情を見るのは初めてです」
「薛昭容は塞ぎ込んでいたのですか?」
天雷が問う。慈佳は頷いた。
「入宮してからというもの塞ぎ込んでおりました。物憂げに庭の方を眺めてばかりで。外に出た方がよいと勧めても、出たくないと仰っていたのです」
「なるほど。それはよくないでしょう」
話を聞き終えると天雷がこちらに向き直る。彼は昔のように触れこそしなかったものの、嘉音をなだめるように柔らかな声音で告げた。
「後宮での暮らしに慣れるには時間がかかります。だからといって塞ぎ込んでいては病を身のうちに呼び寄せてしまいます。もしよければ、私が話し相手になりますよ」
この提案に、嘉音よりも早く飛びついたのが慈佳だった。
「それはよいことです。旧知の方と話せば、陰鬱した気も晴らせましょう」
「……い、いいの?」
おそるおそる嘉音が問う。帝以外の男性と接することが罪のように思えたためだ。しかし天雷はあっさりと頷く。
「私は宦官の天雷。そのためにここにいます」
胸が弾んだ。止まっていた時間が動き出したかのように、心臓が急いている。
(天雷がいる。生きている。後宮にいれば彼に会える!)
世界が一気に色を取り戻し、この二年間忘れていた高揚感が生じている。この暮らしに何の期待も抱けずにいたのが一転していた。
「久しぶりの再会となれば積もる話もあるでしょう。お二人で話す時間を作りましょうか?」
「いいの? ぜひ天雷と話したいわ」
慈佳の提案に、嘉音が食い気味に答えた。その良き反応に慈佳はより微笑んだ。それほど、嘉音が塞ぎ込んでいたことを心配していたのだろう。
「天雷殿はいかがでしょう?」
「私も構いません。夕刻――銀五鐘であれば時間がとれるので、その頃に」
慈佳の計らいのなんとありがたいことか。天雷と話ができると思えば天にも昇る心地だ。
その後、他の宮を回らなければならないとのことで、すぐに天雷は去ってしまった。しかし嘉音の表情は明るい。
「嘉音様は、再会がよほど嬉しかったのですね」
「ええ。ずっと会いたかった知り合いなの」
「それはようございました。長く時間がとれるように致しますね」
後宮に閉じ込められるような生活だと思っていた。何年もこの暮らしに耐えると思えば気が滅入るような。しかし今は心が華やいでいる。
(たとえ結ばれなかったとしても、天雷に会えるだけでいい)
天雷がいるだけで、この場所が幸福に満ちていく。
だが、銀六鐘となっても彼が来る気配はなかった。約束の時間はとうに過ぎている。高いところにあったはずの陽は、身を低めて紅色に燃えていた。
「……天雷、遅いのね」
庭を眺めていた嘉音が呟く。慈佳も沈んだ面持ちで答えた。
「きっと忙しいのでしょう。遅くなったとしても、きっといらっしゃいますよ」
「でも銀六鐘になってしまったわ」
彼が来るのが待ち遠しくて庭ばかり眺めてしまう。特に天雷については、二年前のことがある。ふらりと消えてしまうのではないかと怖くなった。
「もしかすると桃蓮宮かもしれませんね」
「桃蓮宮というと……凌貴妃の宮かしら」
「ええ。少し前でしたが、大家の輿が桃蓮宮にあるのを見ましたから。それで天雷殿も忙しいのかもしれません」
嘉音には白李宮が与えられたのと同じように、凌貴妃には桃蓮宮が与えられている。寵愛を示すように、大家のいる髙祥殿に最も近い宮だ。
(大家が桃蓮宮から戻ったら、天雷もここに来るかしら)
桃蓮宮が気になったが、ここからは見えない。
そうして天雷の来訪を待つも、陽が沈んで夜になっても、彼は来なかった。
「……天雷は来なかったわね」
「きっと忙しかったのでしょう。でも同じ場所にいるのですから、急がずともまた会えますよ」
慈佳に励まされるのも、今日何度目になるかわからない。
(明日は会えるかしら)
ここまで夜が更ければ天雷が来ることもない。嘉音はため息をつき、立ち上がろうとした――その時である。
「慈佳様、大変です!」
慌ただしい音と共に宮女が数名やってきた。女官である慈佳を呼びにきたらしい。ここに嘉音がいると知らずにいたらしく、目を合わせるなり彼女らは慌てて拱手した。
「何事ですか?」
慈佳が問う。
「そ、その……大家が宮の前に……」
「大家が? 何の報せもきていないのにどうして」
「私たちにもわかりません。それに様子がおかしいのです。一人でここへいらっしゃって、足元も覚束ないご様子で」
帝が妃嬪の宮を尋ねる時は事前に報せが入る。特に夜の来訪となれば妃嬪の支度もいるためだ。しかし白李宮にそのような報せはきていない。
それに供をつけず、一人で出歩くなどあまり聞かない話だ。宮女が語った大家の様子も気になる。
「様子を見て参ります」
「私も行くわ」
嫌な予感がしていた。行かなければ後悔する気がした。慈佳としては、嘉音に残ってもらいたかったのだろう。だが頑なな意志を感じ取ったのか、早々に諦めて告げる。
「わかりました。ですが、不審者が近くにいるとも限りません。何かあればすぐにお逃げくださいね」
「ええ。わかってる――急ぎましょう」
慈佳と共に向かう。
宮女らが話した通り、宮の入り口――数段の階に人影があった。それは階にもたれかかるようにして倒れている。
召し物が宦官と異なる。宮の入り口にある篝火の明かりを、腰に佩いた剣がぎらりと跳ね返していた。剣の意匠は位の高さを示しているようでもあった。
その姿を確かめた慈佳は彼の正体を速やかに判断したのだろう。血相を変え、宮女に叫ぶ。
「髙祥殿へ遣いを! 急いで!」
髙祥殿となれば、この者は大家だ。周囲はさらに緊張感が増す。
ばたばたと駆け回る音。震えて動けない宮女もいる。
慌ただしい中、嘉音はまじまじとその人物を眺めていた。
(彼が……華鏡国の帝)
後宮に入っても目通りは叶わなかったので、今日初めて見る。端正な顔立ちをした若い男だ。その瞳は苦しげに伏せられている。見たところ外傷はなく、血が流れている様子もなかった。だがどうして倒れているのだろう。
気になって彼に近寄る。嘉音が身を屈め、彼に手を伸ばそうとした時だった。
「……っ、か」
その瞳が、ぱちりと開いた。額に汗を浮かべ、呼気も荒い。彼は嘉音の姿を捉えると、身を震わせながらこちらに手を伸ばした。
乾いた唇が動く。しかし声は掠れて、近くにいる嘉音にしか聞き取れないほどの声量だ。
「か、嘉音……俺は……」
大家はそう言った。嘉音の名を口にした。
(『薛昭容』ではなく『嘉音』と呼んだ……どうして大家が)
凌貴妃を寵愛している帝なのだ、入宮した妃嬪の名など興味を持たず、覚えることもしなかっただろう。それがどういうわけか、嘉音のことを知っている。
こちらに伸ばしかけた大家の手はがくりと落ちた。再び意識を失い、瞳も伏せらている。
「嘉音様、お下がりください!」
慈佳に促され、後ずさる。
少し離れたところから眺めるも、彼と会った覚えはない。名を教えたこともない。
報せもなく白李宮にやってきた理由も心当たりがなかった。近くで何者かに襲われたのだろか。だが外傷が見当たらないため考えにくい。
(……嫌な予感がする)
胸の奥がざわざわと急いている。床が抜けて地の底へ落ちていくような不安が胸中に渦巻く。
まもなくして衛士が駆けつけた。やはりこの人物は大家であるらしく、早々に運ばれていく。しかし駆けつけた宦官の中に、天雷の姿はなかった。
(天雷は……忙しいのかもしれない)
ここで会えたとしてもゆっくり話すような時間はない。せめて一目でもその姿を見られればよかったのだが。
その後、大家を発見した宮女や介抱にあたった慈佳は吏部に聴取されることとなり、白李宮が静けさを取り戻すには数日がかかった。
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