昨今は風禮国(ふうらいこく)との取引が増え、宮城や都で風禮国文化が流行しているのもあり、荷を積んだ馬車はよく行き交っている。
 一台の馬車があった。これは(かつ)公喩(こうゆ)のもので、先帝に依頼し、通行許可を得ている。馬車は宮城を出たところで待っていた。公喩は布でくるんだ大きな荷物を抱え、そこに近づいた。

「公喩殿、これは?」

 馭者(ぎょしゃ)は特別な依頼があると公喩から聞いていたが、それが何であるかを知らなかった。大きなもの、それも布で包んだものと予想外なものが登場し、首を傾げる。

「ああ、気にせず。ただし丁重に扱ってほしいね。中身は人だから」
「ひ、人……!? 公喩殿はいったいなにを持ってきたんです。お願いですから騒ぎになるようなものはやめてくださいね」
「ははっ、大丈夫さ。その時は一緒に首を斬られよう」
「勘弁してください!」

 布で包まれ運ばれたのは(せつ)昭容(しょうよう)こと(せつ)嘉音(かおん)だ。魂泉草を飲ませたので仮死状態に陥っている。
 彼女が警戒して一口しか飲まないことを想定していたので、毒は少し濃いめに抽出した。いずれ目が覚めるだろうが、毒を中和させる蘇生薬を飲ませた方が早く仮死状態を脱する。解脱症状も少ない。もちろん、蘇生薬も用意してある。

 彼女のことが欲しいと気づいたのは緑涼会の時だ。以前から彼女が周囲に向ける優しさは目を見張るものがあった。だがそれが、陰謀渦巻く己の国を変えてくれるかもしれないと考えるように至ったのである。

 天雷と嘉音が互いに想い合っていたことは知っている。特に天雷は不遇の生まれを経て、幸せに触れたのだ。公喩は天雷のことも良き友と思っている。だが、嘉音のことを知るにつれ、天秤は大きく傾いてしまった。奪いたいほどに、嘉音に興味を持ってしまった。

「……この国にいるよりも、僕の国で暮らそう。君もいずれ僕を好きになる」

 馭者が支度をしている間に、公喩は嘉音に触れてそう囁いた。頬に触れると恐ろしいほど冷えている。風禮国に着く前に、宮城から離れたところで蘇生薬を飲ませた方がよいだろう。

「公喩殿、すぐ出発されますか」
「そうだね。余計な者が気づく前に出ようか」
「では乗ってください」

 馬車に乗りこむ前に、振り返り、華鏡国の宮城を見上げる。

 今頃は(じょ)祥雲(しょううん)こと大家(ターチャ)が、(りょう)貴妃(きひ)と睦まじくしているだろう。薛昭容がいなくなったことにも興味を向けないはずだ。

 だからこの計画はうまくいく。馬車が動き、宮城を出て都を走る。都を出る門さえくぐれば――あとは失敗する要因が見つからない。そこまで着けば公喩の勝ちだ。

「それでは出発しますよ」

 公喩が乗りこむと馭者が言った。馬に合図を送りいざ動き――というところで、公喩は確かに、その声を聞いた。

「待て!」

 それは馬に乗り、宮城から駆けてきたらしい。馬車から降りた葛公喩はその姿を確かめ、舌打ちをした。

「大家……ううん、でも祥雲なのか天雷なのかはわからないねえ」

 困った、とばかりに額をぽりぽりとかいて呟く。そう言いながらも公喩の頭で答えは出ていた。
 大家は公喩の前まで来ると、馬を下りた。怒りに目は血走り、息巻いている。

「公喩! なぜこんなことをしたんです!」
「なるほど。これは予想外だね、天雷がここにくるとは――となればあれか。祥雲が体を譲ったのだろう。天雷と薛昭容が幸せになるよう粋なことをしたわけだ」

 すぐさま状況を判断し、公喩が呟く。それは当たっていたのだが、天雷は答えなかった。
 天雷の視線は馬車に向けられる。馭者がひとり、そして中には布で包まれた大きな荷。それが嘉音かもしれないと察した。

「あの荷を検めます」
「おやおや、それは拒否したいところだ。大事な荷物だからね、君に渡すわけにはいかない」

 ぎらりと、天雷が睨みつける。その手は腰に佩いた剣に伸びていた。

「……嘉音様をどこへ連れて行く」

 嘉音を連れていったのが公喩だと確信を持っている。となればあの荷は、薛嘉音に違いない。ねじ伏せるような殺気を纏い、公喩に問う。

 公喩は珍しく、その表情を険しくさせていた。飄々とし、笑顔を絶やさないような彼が、鋭く瞳を細めて大家を睨み返している。その眼力にこめられた威圧感はさすが風禮国の皇子と言わんばかりだ。

「どこへって、聞かずともわかるだろうさ。風禮国だよ。彼女が愛した天雷は死んだのだから、僕が連れて行ってもいいだろう」
「それは嘉音様も承知してのことか?」
「どうだろ。あとで聞いてみるよ」

 嘉音が連れ去られたことは、天雷も既にわかっている。あの後、桃蓮宮の宮女が公喩に命じられて茶器を用意したと明かしていた。残っていた茶器を調べれば、独特のにおいがあった。嫌なほど覚えている、魂泉草のにおいだ。つまり嘉音は、公喩に毒を盛られたのだ。

「それで、君は何をしにきたの? 僕の見送り?」
「ふざけるな! 俺は嘉音様を連れ戻しにきた」
「やめなよ。せっかく天雷は死んだと思いこんでいるんだから、再会なんてしてもらったら僕が困る」

 茶化したように公喩が言うので、余計に苛立った。話し合ったところで平行線だ。天雷は華鏡剣を引き抜き、構える。

「……それでも連れて行くというのなら、斬っても構わない」
「風禮国の皇子を手に掛けたら大問題になるよ。いいの?」
「祥雲にこの国と体を託された。いまは俺が大家だ。だから――愛した人を守り抜く力がある」

 地面を蹴り、公喩の元へと駆け寄る。天雷が動いたので、公喩も剣を引き抜き構えた。

 互いの剣がかみ合い、きん、と耳障りな音が響く。天雷は渾身の力を込めて剣を振り下ろしたが、公喩はそれを剣で受け止めてしまった。力の押し合いとなっても埒が明かないので、天雷は一歩後ろにさがり、剣を構え直す。

「天雷! 君はこの国に、薛嘉音を置いて良いと思うのか?」

 公喩も剣を構え直し、そう聞いた。それに答える前に天雷が飛びこんでくる。

「この華鏡国やこの後宮は悲しみが満ちている。それは君が一番知っているはずだろう。そこに薛嘉音を置いて守れるのか」
「守れるとも。俺はその力を託された。だから守ってみせる」

 剣を打ち合いながら、言葉を交わす。
 切っ先が掠め、頬に血が流れた。それでも天雷は拭わず、剣を握りしめたまま。

「僕も薛嘉音を好きだと言ったら、どうする」
「――っ、それは、」

 そこで一瞬、天雷の気迫が緩んだ。おそらく、公喩が嘉音を好いていると想定していなかったのだろう。驚きに、瞳が揺れていた。

 だが我を取り戻し、一歩踏みこむ。剣をなぎ払うと、公喩の裳を割いた。

「……それでも渡しません」
「へえ?」
「嘉音様は俺のものです。相手が公喩だろうと、絶対に譲れません。俺が一番、嘉音様を愛している。この世の誰にも負けない」

 再び天雷が剣を振るう。公喩もその動きを見極めていた。剣の刃でそれを受ける――が、受け流すことはできず、天雷の力に押され負けた。

 公喩の手から離れた剣が地面に落ちる。視線だけを動かして、それを確かめた後、公喩は両手をあげた。

「まいったよ」

 これ以上は敵わない、という意味を込めて手をあげる。

「昔は、君に剣技で負けたことはなかったのにね」
「……俺も、勝てると思っていませんでした。頭を使うことは得意でも、こういったことはあまり好きではないので」

 にたりと笑みを浮かべ、天雷が馬車に向かう。公喩はすっかり戦意喪失し、諦めていた。地面に落ちた剣を拾い上げるが、それを向ける気はない。

「これが祥雲のままだったなら、僕は薛昭容を連れ去ることができたのだろうね」
「どうでしょう。公喩が思っているよりも嘉音様は強いお方です。きっと風禮国から逃げ出していたことでしょうね」
「だろうなあ。華鏡国よりも風禮国の方がひどいから」

 けたけたと笑い、公喩は懐から包みを取り出した。それを天雷に向けて放り投げる。

「蘇生薬だよ。早く飲ませてあげた方がいい」

 それを受け取り、天雷は公喩を見る。まだ彼は公喩を睨みつけていた。

「俺は嘉音様ほど優しくない。だから公喩を許すことはありません。ですが――」

 剣を受けた時にわかったことがあった。

 公喩は賭けていたのだろう。祥雲がその体のままであれば、本気で風禮国に連れて行くつもりだった。けれど祥雲が天雷に体を譲ったのなら、天雷に返すつもりでいたのだろう。

 幼い頃の記憶だが、公喩は剣技に秀でている。薬学の知識だけでなく、風禮国の伝統である剣舞を心得ていたからだ。本気の公喩ならばおそらく敵わなかっただろう。

「……天雷。今度はその奇跡を、手放さないようにね」

 公喩は切なげに微笑み、そう言った。天雷は深く頷いた後、馬車に乗りこむ。布をとるとやはり眠った薛嘉音がいた。安堵の息をつき、その頬に触れる。死人のように冷えてはいるが、ゆっくりだが脈がある。蘇生薬を飲ませれば目を醒ますだろう。

「嘉音様……迎えにきましたよ」

 本当は、消える直前にひどく悔やんだ。
 これで最後だと何度も告げていたくせ、嘉音と共にいればいるほど離れがたくなる。得てしまった幸福の味を、いまさら手放すことができなかった。

 もう一度、嘉音に会いたくてたまらなかった。
 もう一度、奇跡が起きてほしいと願ってしまった。

 天雷は嘉音を抱え、馬に乗る。急ぎ、白李宮へと向かった。

***

 あの日の、薛家の庭だ。眼前にあるは空と、黄櫨(こうろ)の木。
 後宮から出ていないのだから薛家にいるわけがない。そして季も違う。肌を刺す空気は冬の季が来る前の、葉が色づく美しい頃だ。
 薛嘉音が一歩踏み出す。だが足音はしない。屋敷はあるが人の声がしない。そこは不思議な空間だった。
 空を見上げれば黄櫨の木が映り込む。久しぶりの動作に懐かしさを感じていると、屋敷の方から人がやってきた。その姿を視界に捉え、嘉音は息を呑む。

(あれは……私?)

 そこにいるのはもう一人の嘉音だった。だが二年前の嘉音である。屋敷から駆けてきた過去の嘉音は泣きそうな顔をしていた。黄櫨の木に手をかけ、荒い呼吸を整えている。
 過去の嘉音は、現在の嘉音に気づいていない。すぐ近くにいるというのに、こちらを気にしている様子がなかった。

(これは私の夢、なのかしら。昔の、私たちの関係が動き出す前の……)

 夢だと思えば納得する。この景色、この日をよく覚えているからだ。薛家の娘を後宮に送るという計画を知ってしまった日。この後に天雷がやってきて、そのことを話すのだ。
 翌日には天雷がいなくなってしまうため、この日が二人にとって最後の平穏だった。翌日から離ればなれになり、二年後に再会するも悲痛な別れが待っている。

 それを知っている嘉音は唇を噛みしめた。幸福という池のふちに立たされているような心地だ。まもなく足を滑らせ、悲しい定めに身を投じていくのだから。
 じいと過去の嘉音を眺めていると、彼女は黄櫨の木に額をかけ、呟いた。

「……どうしたら、結ばれるのかしら」

 そのひとりごとは、天雷と結ばれる術を探してのことだろう。だが見つからない。逃げ出す提案さえ、この時の嘉音には出来なかったのだから。

「奇跡でも起きない限り、きっと結ばれないのよ」

 過去の嘉音が、深くため息をついた。涙を隠すように、目元をこする。弱々しく震えた声がもう一度、呟く。

「恋など存在せず。思慕など成らず。諦めて生きるしかない。この世は悲しいものだから」

 それは母が残した言葉だ。今の嘉音も、時折思い返す。
 つらい生涯であった母が、何度もそれを語り、黄櫨(こうろ)を見上げていた。好いた人がいたとしてもきっと叶わなかったのだろう。諦めるしかなかったのかもしれない。

(……この日の、黄櫨は赤く美しかった)

 燃えるように赤い黄櫨の葉。終わりを迎える前の赤はひときわ美しく、心に残る。まもなく枯れてしまうから覚えていてもらうために美しい色を纏うのだろう。
 恋も似ている。美しく燃えても、終わりがくる。
 母がこの場所を好む理由がよくわかる。

(でも私は……諦めたくない)

 けれど、諦念に空を見上げるだけで終わりになどしたくない。それならば空を見上げず、ずっと彼の姿を探し続ける。
 そう誓って、視線を戻す。遠くの方から足音が聞こえてきた。おそらく天雷だ。嘉音を探してここにやってくるのだろう。

 若き頃の天雷の姿を確かめようと振り返り――しかしそれはできなかった。地に足がついているはずが、水の中にいるように揺れている。体が上手く動かせない。
 もやがかかるように、視界が白んでいく。

(天雷……)

 夢の中でさえ、彼の姿を見ることは叶わなかった。

***

「……様」

 声が聞こえた。その声に引きずられるように、意識が少しずつ解けていく。
 それが天雷の声であるような気がした。けれど天雷は死んでいる。期待したところでもう、遅いのだ。

「嘉音様……どうか、目を醒ましてください」

 もう一度、鼓膜を揺らす。声は大家のものだが、その口調は馴染みのあるもの。

 ついに確かめたい気持ちになり、重たいまぶたをこじ開ける。瞳を開けば部屋の眩しさに目が眩み、そしてこちらを覗きこむ大家がいた。

「あれ、私は……」

 意識が戻ると、少し遅れて記憶が鮮明になっていく。意識を失う直前、公喩と共にいたはずだ。彼が不穏な言を残していた。共に風禮国に行こうと話していたはずである。

 だがこの部屋は見覚えがある、白李宮のものだ。大家がいて、その奥には慈佳や白李宮の宮女も揃っている。

「これは……どういうこと」

 嘉音が問うと、目を醒ましたことに宮女らが喜んでいた。慈佳もこちらに駆け寄り、嘉音の目覚めを確かめている。

「ああ、よかった……薛昭容が目を醒ましました」
「私、桃蓮宮にいたはずよね。どうして白李宮に戻ってきたのかしら」
「薛昭容がなかなか戻られないので探しにでたのですよ。すると桃蓮宮にいた大家が話を聞きつけ、薛昭容を連れて戻ってきてくださったのです」

 それに嘉音は首を傾げた。おそらく公喩がいたはずだ。だがその名前はついに出てくることがなく、慈佳は喜びに顔を綻ばせている。

「さあ、他の者にも伝えてまいります! 私たちはこれで失礼しますね」

 慈佳が言うと他の宮女らも部屋を出て行く。扉が閉まっても歓喜の声が廊下から聞こえていた。
 その声が鎮まってようやく、大家が口を開く。この部屋には大家と嘉音の二人しか残っていなかった。

「大家、その……助けていただき……」

 相手は大家、徐祥雲だ。助けていただいたことを礼を伝えるため、身を起こし、拱手する。

 だがそれは遮られた。拱手するつもりが、うまくできない。飛びこんでくるように、大家に抱きしめられたからだ。

「嘉音様、目覚められて本当によかった」

 大家は確かに、そう言った。その口調は祥雲ではない。となれば思い当たる人物はひとり――その名前を思い浮かべると、同時に唱えていた。

「天雷。あなた、天雷なの?」
「はい。祥雲の体ではありますが、俺は天雷です」
「ど、どうして……だってあなたの魂は消えて、祥雲殿の魂に戻ったのでは……」
「兄に託されました。この国と体、ふたつのものを託し、消えていったのです」

 わずかな時間ではあったが、嘉音は祥雲とも接することができた。その際、天雷に戻るなどは言っていなかった。予想外の出来事である。

「祥雲様が消えてしまったのなら……凌貴妃はきっと……」

 嘉音は呆然としていた。この再会は嬉しいが、それによって傷つく者もいる。
 ここは後宮であり、帝にはたくさんの妃嬪がいる。寵愛が永遠に続くとは限らない。そんな大家を深く愛してしまったが故に、凌貴妃は心中を企てたのだろう。
 祥雲が天雷に体を譲ったとなれば、凌貴妃の悲しみはいかほどだろう。嘉音は天雷が消えた後の苦しみを知っている。あれと同じものを、いま噛みしめているのだと思えば、哀れに思えてしまった。

「私ね、天雷が隠していた日の話を聞いたの。祥雲様と共に桃蓮宮へ行って、入れ替わりが起きた日に何があったのかを知ったわ」

 天雷はうつむき、嘉音の言を聞き入っている。

「天雷が明かしてくれなかった理由、わかる気がしたの。あなたは二人を守ろうとしたのね」
「……はい。俺が喋ってしまえば凌貴妃の立場が危うくなる。そうなればこの体が祥雲に戻った時、祥雲が悲しむと思いました」

 もしも天雷がその日に何があったのかを語っていれば、凌貴妃は大家を陥れたとして捕らえられていただろう。大家に毒を飲ませるなど大罪だ。処刑されていたっておかしくはない。そうなれば祥雲がこの体に戻った時、愛する者が死んでいることに絶望しただろう。

「母は違えど、俺にとっての祥雲は良くしてくれた大事な兄です。宦官になって戻ってきたというのに昔と変わらず可愛がってくれるぐらいに」
「……だから、大家をかばって毒を飲んだのね」
「はい。それに凌貴妃にも恩がありました。あの方も、宮城にいた頃の俺を、弟のように可愛がってくださったので」

 天雷にとって、祥雲と凌貴妃は二人とも大切な存在だったのだ。咄嗟に庇った理由がわかる。そして、この件について嘉音に明かせなかったことも。

「……凌貴妃はどうしているかしら」

 嘉音はそれが心配だった。凶行にでることはもうないだろうが、彼女にとって大切な存在である祥雲を欠いたのである。
 沈痛な面持ちの嘉音に対し、天雷は暗い表情をしていなかった。

「凌貴妃の胸中はわかりません。ですが、俺は彼女に託されました」
「何を託されたの?」
「奇跡が不変の愛に至る所を見せてほしい、と」

 凌貴妃が手に入れようとした不変の愛。変わらないもの。
 それを凌貴妃は得ることができなかったが、その代わり天雷に託したのだろう。天雷と嘉音が、不変なる愛に至ってほしいと。

「でも驚きましたよ」

 天雷がため息をつく。

「この体で目覚めても、嘉音様はいなくなっていたのですよ。公喩に連れ去られるところだったんです」
「あ……そういえば、私は毒を飲まされたはず……でもいまは体が動くわ」
「魂泉草の対となる蘇生薬を飲ませました。だから毒は中和されています」
「では天雷が私を助けてくれたのね。本当にありがとう」

 天雷が来てくれなければ今頃風禮国に連れて行かれたのだろう。もしも天雷が来なかったらと想像し、身震いがした。

 葛公喩を嫌っているわけではない。良い人だと思っている。しかし風禮国へ連れて行かれることはいやだった。この華鏡国は嘉音にとって大切な場所だ。天雷と出会い、想いを通じた場所である。捨てるなどできるわけがない。

 天雷は意地悪く微笑み、嘉音の頬を撫でた。

「いくら公喩といえ男ですからね、このようなことになっては困るので、隙を見せてはいけません」
「ごめんなさい……まさか毒を盛るなんて思っていなかったの」
「そうでしょうね。ですから今後は警戒してください。嘉音様のように美しい方ならば、いつ攫われてもおかしくありません」
「それは言い過ぎよ」
「とにかく。嘉音様をお助けするのは大変でしたよ。剣まで握って公喩と競い合ったんです――この意味が、わかりますか」

 問われるも、その意味するところがわからず、嘉音は首を傾げた。その反応を見やり、天雷の細い指先が嘉音の唇を撫でる。

「そのように可愛い仕草をしてもだめですよ。ご褒美をください」
「ご、ご褒美って……再会したばかりなのに」
「再び会えたからですよ。生きて戻ってきたのだと、嘉音様に教えていただかなくてはなりませんから」

 つまり口づけをしろと強請っているのだ。その意味に気づくと、嘉音の顔がみるみる朱に染まる。視線を合わせていられず、嘉音はうつむいた。

「……では、目を瞑ってちょうだい」
「ええ。わかりました」

 天雷が瞳を伏せたのを確かめてから、顔を寄せる。唇を重ねる瞬間、嘉音も瞳を伏せた。
 柔らかな唇。祥雲の体であっても、ここにいるのが天雷だと思うだけで心が歓喜に震える。すれ違う立場を乗り越えられた奇跡だ。どのような体であったとしても天雷がいるだけでいいと思うほど、この男を好いてしまった。離れたくないと願うほど、愛してしまった。

 重ねた唇が離れていく。おそるおそる瞳を開けば、にっこりと微笑む天雷と目が合った。

「目を瞑ってと言ったのに」
「直前までは瞑っていましたよ。嘉音様があまりにも可愛らしいので確かめてしまいたくなりました」
「天雷は意地悪ね」

 けれど唇に残る熱は、互いが生きていることを示している。奇跡が、叶っている。
 天雷はもう一度、嘉音を強く抱きしめた。嘉音もそれに答え、彼の胸に顔を埋める。

「これからはどうするの? 天雷が大家になるの?」
「そうですね。二度目の奇跡を得たがために、この国を背負うことになりそうです。これは大変ですね」
「なら堂々と会えるのね。やはり薛昭容が寵妃だと噂されてしまうわ」
「良いと思います」

 天雷がくすりと笑った。

「嘉音様を寵妃にできるなんて最上の幸福です。あなたに不変の愛を捧げましょう」

 言葉を交わし、もう一度見つめ合う。次の口づけはどちらともなく行われ、瞳を伏せることはもう、なかった。

 窓の外からは、苑にある高木の葉がちらちらと見えている。風に揺らされたその葉は色あせず生き生きと輝く緑色をした黄櫨だ。
 その葉が朱に染まっても、二人の胸に抱く恋が色あせることはない。二度目の奇跡は一瞬で消えず、長く続くことを示している。



 その後。華鏡国の帝である徐祥雲は、雷帝と名を改め広く知られるようになる。彼は民や人を思う善良な帝であり、望まずに妃嬪になった娘や若き頃を宮城に捧げる宮女らを多く解放した。そのため彼の後宮は過去に比べれば規模が小さかったものの、どの妃嬪らも幸福を噛みしめていたという。

 雷帝は一途に、一人の妃を想い続け、どんな時も隣に置いた。
 寵妃の名は――薛嘉音。
 二人の間に、二度の奇跡が起きていたことはわずかな人しか知らない。

<了>