桃蓮(とうれん)(きゅう)は突然の来訪に騒いでいた。(かつ)公喩(こうゆ)(せつ)昭容(しょうよう)だけでなく、大家(ターチャ)がきているのである。寵妃であった(りょう)貴妃(きひ)は連日大家を迎えることもあったが、それは過去の話だ。ここしばらく来ていなかった大家の輿が着いたことで宮女らは大騒ぎである。

 そうして部屋に揃う。凌貴妃は険しい顔をし、大家を見つめていた。

「……今さら、何の用です。それに薛昭容を連れてくるなど」

 凌貴妃は(せつ)嘉音(かおん)が同席していることを訝しんでいた。だが大家がすぐさま答える。

「私が同席を命じた」
「なぜです」
「彼女にはこの件で迷惑をかけている。ことの顛末を聞くに相応しいと考えたまでだ」

 大家はにたりと笑みを浮かべ、手をあげる。この合図に葛公喩が動き、薬湯の入った杯を二つ、(つくえ)に置いた。

「あの日、私は凌貴妃に呼ばれて、宦官の天雷(てんらい)と共に桃蓮宮にきた。そこでお前は風禮国(ふうらいこく)の秘薬があると行って薬湯を持ってきたが……芳香(ほうか)、覚えているな?」
「……ええ」

 芳香とは凌貴妃のことだ。彼女の名は(りょう)芳香(ほうか)と言う。
 大家は運ばれてきた薬湯を眺め、苦く笑った。薬湯は()えた匂いを放ち、色も濁っている。

「私はな、この薬湯の正体に気づいた。過去に用いられた毒は必ず調べ、耐性をつけるようにしている。今回の薬湯は魂泉草(こんせんそう)が用いられているとわかった」
「……魂泉草とは星辰苑(せいしんえん)で育てられているものですね。風禮国から持ち込んできた毒草だと」
「うむ。これは以前、弟である(じょ)髙慧(こうけい)に盛られた毒だ。同じ手を私に使ってくることもあるからと、少量ずつ服用して耐性をつけている」

 これは天雷からも聞いたことがある。第四皇子の徐髙慧は、継承権争いに巻き込まれ毒を盛られていた。その毒がこの魂泉草だろう。
 兄にあたる徐祥雲とて、いつ毒を盛られるかわからない立場だ。星辰苑で育てた毒草はそういった毒への耐性や知識をつけるためでもある。つまり魂泉草は祥雲には効かなかった。

「あの時の濃さと同じにしてあるが、お前は量を誤ったのだろう。これほど濃く抽出してしまえば、耐性のない者ならば体が麻痺して動かなくなり、いずれ呼吸が止まる。だが私は魂泉草への耐性をつけている。たとえ濃く抽出した毒といえ、飲んだところで死には至らない。意識を手放したとしてもいずれ目が覚めると考えていた」

 大家は薬湯から視線を外す。次にその視線が向けられたのは几挟んで対面にいる凌貴妃だった。

「お前は言っていたな。『本当に凌貴妃を愛し、他の妃嬪に気が移らないと証明するためにお互いにこれを飲もう』と」
「大家は、これに毒が入っていると、存じ上げていたのですね」
「そうだとも。だがこれしか、証明する術がないと思った。私には耐性があるから飲んだとて大丈夫だろうと、思ったまでだ――だが、誤算があった。その場に宦官の天雷を連れてきていたことだ」

 嘉音は息を飲む。天雷は徐髙慧である。この毒を盛られた経験があるのだ。

「天雷は色々と事情があり、この毒を知っている。だからこれが魂泉草だと気づいたのだろう。私が飲む前に、天雷が薬湯を奪った」
「天雷が……!?」

 咄嗟に声をあげた嘉音に、大家がしっかりと頷く。その場面にいただろう凌貴妃も否定せずにいたことから、天雷が飲んだことに違いはないようだ。

「私が耐性をつけたことを天雷は知らなかったのだ。私の命を守らねばと焦ったのだろうな」
「そんな……ひどすぎる……でも大家はどうして、白李宮の(きざはし)に倒れていたのでしょう。毒を飲んでいたのかと思いました」
「飲んだとも――その理由は、芳香が知っているはずだ」
「……ええ。大家は私の器を奪い、すべて飲み干しました。私が飲むはずであったそれは大家に奪われ、手元に毒湯は残りませんとも」
「私は耐性があるからな。飲んだところで死に至らないと確信していた。だが芳香に飲ませれば命が失われる。だから私がすべて飲み干し、芳香の自害を止めたのだ」

 大家に問われるが、凌貴妃は答えなかった。

 つまり、凌貴妃は大家と心中(しんじゅう)しようと二つの薬湯を用意したのだ。だがこれが毒だと気づいた天雷は大家を守るために、大家の分を飲んで倒れた。大家は凌貴妃の自害を止めるべく、彼女の杯を奪い、毒をあおった。

「さてそこからの話、だな」

 大家は咳払いをひとつする。

「どういうわけかはわからぬが、私は天雷と魂が入れ替わっていた」

 この発言に、凌貴妃が目を見開いた。冗談のような話を、しかし真剣な顔をして話しているのだから信じがたいだろう。

「ど、どういうわけでしょうか……」
「ううむ。これをどう説明すればよいやら。だが本当のことなのだ。今朝までの私は、すべて天雷によるところだ」
「では、あの日以来、大家が白李宮に通うようになったのは……」
「それも天雷だ。彼は薛昭容と親しくしている、彼女ならば頼れると考えたのだろうな」
「そ、そんな……では私が薛昭容にしてきたことは……」

 凌貴妃は愕然とし、項垂れた。そのそばに嘉音が駆け寄り、肩にそっと触れる。

「宮女を脅したことや他の者に恐怖を与えたことは許したくありません。けれど、凌貴妃も事情があったのだと思います。大家と天雷が入れ替わっているなど想像もできなかったでしょう」
「私はあなたにひどいことをしたというのに」
「私のことはいいのです、それよりもあなたに命じられて動いていた宮女たちに謝罪を」

 そしてもうひとつ気になること。
 大家の代わりに毒を飲んだ天雷の、その後だ。

「そして……天雷のことを、教えてくれませんか」

 嘉音が問う。いまさら彼の死は覆せないが、天雷に関するすべてのことは知っておきたかった。
 凌貴妃はじっと嘉音を見つめていたが、やがてその瞳が潤んだ。目端に溜まった涙が頬を伝い落ちても、凌貴妃は拭おうとしない。彼女の唇が動き紡がれた低い声は、贖罪が込められているようだった。

「……私は……私はある目的があって、大家に近づいていたのです」

 凌貴妃が語る。それは大家も初めて聞くことらしく、口を噤んで聞き入っていた。

「私には弟がいました。けれど幼くして病で死んでしまった。失意の頃に父に連れられ宮城でお会いしたのが第四皇子の徐髙慧でした。幼い私にとって弟のようだったあの子が、ひっそりと死んでしまった。誰にも看取られず、孤独の中で消えてしまったのです」
「兒楽宮に通っていたのはそのためですね」
「そうよ。髙慧が死んでしまったなんて信じたくない。本当の死因を曝いてみせる。そう思って、父に頼みこみ、大家の妃嬪となった――はずだった」

 凌貴妃は幼い頃、宮城にきては皇子らと遊んでいたという。そこで祥雲や髙慧と知り合ったのだろう。凌貴妃よりも幼い髙慧を可愛がり、弟のように扱っていたのだろう。それが突然、それも不可解な死を迎えたのだ。実際には宮城を出て薛家に向かっているのだが、凌貴妃はそれを知らない。死因を突き止めようと躍起になったのだろう。

「髙慧の死因を探るつもりで大家と接していたのに、寵妃になり情報を引き出そうと思っていたのに……けれど、私は」

 そこで、両手で顔を覆った。指の隙間から涙が伝い漏れていく。涙混じりの声で凌貴妃が叫んだ。

「私は、大家のことを愛してしまった。髙慧のことを探るなどと言いながら、大家に情を抱き、それは止められなくなってしまった」
「……芳香」

 大家が切なげに呟く。

 大家は幼い頃から凌貴妃に焦がれていたのだろう。皇太子の頃に嫁としてまず選んだのが凌貴妃だった。帝位についても凌貴妃を、四妃で最も位の高い『貴妃』に押し上げている。凌貴妃を守るため、毒と知りながら彼女の分を飲むほどだ。その想いの深さがうかがい知れる。

「いくら接していても髙慧の死因は明かされることがなく、日が過ぎていく。さらに後宮は次々と若く美しい娘が集まる。私は髙慧の死因を知ることのないまま、いずれ大家の寵愛が移るのだと焦りました」

「なるほど。それで、心中を試みたのか」
「せめてどちらかは得たいと思ったのです。ならばせめて、大家から永遠の寵愛を得られるよう、互いに死を迎えようと」
「だが死したのは天雷だったと」
「ええ。毒を飲んだ後、大家と宦官は意識を失いました。宦官はその後に死んでしまったので、私たちは死んでしまった宦官の処理を行いました」

 そうして埋めたのが、星辰苑だろう。毒草が植えられているあたりは人が立ち寄らない。一度掘り返し、天雷の遺体を埋めて、もう一度土を盛ったのだ。

「彼の遺体を埋めた後に戻ってきたら大家の姿はありませんでした。見晴らせていた宮女の目をかいくぐり外へ出たのでしょう」
「その時にはもう、天雷になっていましたね。私のいる白李宮に彼が来ています」

 凌貴妃は知らないが、結果として彼女が命を奪った天雷の正体は、徐髙慧である。彼女はそれに気づかぬまま、死因を探るつもりで、手を下してしまったのだ。
 こうして全容を知れば、天雷が語ろうとしなかった理由がわかる。彼は大家と凌貴妃を守ろうとしたのだ。彼にとって兄にあたる大家と、幼き頃姉のように接してくれた凌貴妃の二人を、悲しいすれ違いから守りたかったのだろう。

「……薛昭容」

 そのことに気づくと涙がこぼれていた。葛公喩に声をかけられるも、涙は止まりそうにない。

 隠され続けていた桃蓮宮の一件はこれで判明した。顔を伏せ泣き崩れる凌貴妃を、大家が切なげに見つめている。葛公喩は嘉音に耳打ちをした。

「少し、二人にさせよう。話はこれで終わりだから」
「……わかりました」

 二人の間に漂う空気を壊さぬよう、そっと席を立つ。


 部屋を出ると、公喩に手招きをされ、別室に移った。事前にこれを予測していたらしく、宮女に命じて茶器など支度が整っていた。
 嘉音は椅子に腰掛け、息を吐く。気持ちを静めようとするも、まだ涙は止まってはくれなかった。

「どう。真相を知った感想は?」
「……天雷がこれを語らなかったのは、二人の愛を守るためだったのですね……」
「うんうん、涙ぐましい。やはりあの男は優しくいい男すぎる」
「でも私は……天雷に会えないことがとても寂しい、です」

 天雷が死んだことをまだ受け入れたくない。いまもどこかで生きていてほしいと願う。それを思うとまた涙がこぼれ落ちた。徐祥雲の想いや凌貴妃の真意を知ったことは大きいが、天雷がここにいない悲しみの方が大きい。

 沈む嘉音を見かね、公喩が茶を入れた。茶器は宮女が用意してくれている。他国とはいえ皇子に茶を淹れてもらうなど、とんでもないことだ。慌てて立ち上がろうとした嘉音に、公喩が微笑む

「いいよ。疲れている時は甘えるといい。それに僕は、こういうのが得意だから」
「では、お言葉に甘えて……」

 入れてもらったお茶は、香りがあまりしない。茶は綺麗なほど透き通っていて、口をつけてみれば清涼感がある。喉や鼻がすうと、通るような味だ。
 この独特の味は初めてだ。これまでの人生で飲んだことのない茶だ。珍しいものもあるものだと驚いていると、公喩が言った。

「それ、不思議だろう? 風禮国の茶なんだ」
「初めて飲みました。喉に沁みて、涼しくなるというか……」
「そう。次は舌が麻痺し、そして顔全体に広がる」

 彼の言う通り、清涼感は次第に広がっていく。だがおかしなことに、その清涼感は違和感へと変わっていく。喉が別物になったかのように、感覚がない。

 不思議だと手で喉を触れてみるが、手の感覚さえわからなくなっていた。手の方は感覚がある。喉は触られている感じがしない。

「……のど……おかし……こえ、が……」

 咳き込み違和感を確かめたいのだが、麻痺は舌から顔全体に広がってきたため、それさえうまくできない。
 痺れるような感覚は全身に広がり、ついには椅子から落ちていた。体勢を崩し、床に落ちかけたところを公喩に担ぎ上げられる。

「……うん、よかった」
「な、にを……こ、れは……」
「これが魂泉草だよ。量を誤ればわかりやすい臭いやよどみを生じる。たとえば凌貴妃が用意したもののように。けれど適量を守れば、命を落とさず、仮死状態で留めることもできる。九泉(めいど)に渡ったようで、けれど戻ってくることから『魂泉草』と名付けられたのさ」

 つまり――毒だ。葛公喩は嘉音に毒を飲ませたのだ。茶器を用意していたのもこのためだろう。あらかじめ計画されていたのだと知るが、既に体は動かず、かろうじて意識を保っているだけの状態である。

「得意だ、と言っただろう。僕は祥雲よりも毒に詳しいからね。こういったのはお手の物だ」
「な……ぜ……わたし、を」
「そうだね、気になるだろうさ」

 公喩はそう言って、嘉音を抱き上げ直す。嘉音の眼前には、公喩の冷えた笑みだけがうつっていた。

「君はひどく優しい。その優しさによって、今回は助かったとしても、いずれ怨恨渦巻く後宮に殺される。でも僕は――君が気になるんだ」
「……」
「僕は君が好きだよ。どれだけひどい仕打ちを受けても優しさの信条を貫く君に惚れ、天雷から奪ってしまいたいと思った。凌貴妃と似たようなものだ、賭けたんだよ。天雷を失った君がここで茶を飲んでくれたら、連れて行こうと決めていた――この博打に、僕は勝った」

 ここは天雷と共に過ごした華鏡国。彼がいなくなったとしてもこの地を離れることはしたくなかった。
 嘉音はわずかに残っていた力を振り絞り、公喩の手を振り払った。

「おっと。強情だね」

 だが、全身を覆う痺れの方が強く、あっけなく公喩に遮られてしまった。抵抗は虚しく終わってしまったのだ。

「君だって、天雷がいないのならば新しい地の方がいいだろう。大丈夫だ、彼のことなんてすぐに忘れるよ」

 忘れるなどしたくない。できるわけがない。
 しかしこれ以上の抵抗はできず、視界はじわじわと黒くなり、意識が薄れていく。

(天雷、助けて)

 声をあげたいけれど喉は動かず、手も動かせず。救いを求めて思い浮かべたその顔も、すでに死んでいる。
 手詰まりだ、と自覚した。この状況を脱する方法が思い浮かばない。

「薛嘉音。僕と共に、風禮国に行こう」

 その言を契機に、意識がぷつりと途切れた。
 まるで絶望の底に落ちていくように、体が重たく落ちていく。

***

 その頃の大家と凌貴妃である。大家こと徐祥雲はあることを決意していた。

「芳香、これから話すことをよく聞いてほしい」

 部屋から嘉音と葛公喩がいなくなったことには気づいている。だから、二人が揃っていては明かせぬ話に触れることができるのだ。

「私は、天雷にこの身を譲ると決めている」
「な、なぜ!? 宦官ではなく、大家が死ぬということでしょう。どうしてそのようなことを……」
「天雷に詫びたいのだ。あやつは、私の弟――徐髙慧だから」

 その名に、凌貴妃は目を見開いた。死んでいると思われていた髙慧が、なぜ天雷なのか、理解ができなかったのだろう。

「髙慧は……死んだのでは……」
「髙慧は命を狙われていた。病だと伝えているが、実際は毒を盛られたためだ」

 そう言って、大家はうつむく。幼い髙慧に魂泉草の毒を盛り、命を狙った者の心当たりが彼にはあった。

「それを仕掛けたのは私の母だ。帝位を継ぐのが髙慧にならぬよう手を回している」
「どうして、そう言い切れるのです?」
「……見たからだ。母が毒を盛るよう命じたところを」

 徐祥雲と徐髙慧は異母兄弟だ。妃嬪にとって子が皇太子として選ばれるのはこの上ない栄誉である。子を帝位につかせるための争いが行われていたのだ。そこで祥雲の母がとった行動が、髙慧を殺めることだった。
 だが当時の祥雲は幼く、それを知っても止めることはできなかったのだろう。実際にこの計画は行われ、髙慧は毒により生死の境を彷徨っている。

「髙慧は一命を取り留めた。だが再び毒を盛られるとも限らない。そこで死んだことにして宮城の外に逃がしたらしい。芳香が不審な死因だと疑ったのは当然のこと、そもそもあれは死んでいないのだから」
「そ……そんな……」
「当時の者らが画策し、髙慧は天雷と名を変え、薛家にいたようだ。下男として過ごしていたらしい。だがある者のために宦官を志し、宮城へやってきた」
「薛家……ああ、それで薛昭容と天雷が知り合っていたのですね」

 大家は頷き、それを認めた。

 この頃の話は、彼が宦官として宮城にきた後に交わしている。祥雲は内侍省にいた天雷が髙慧に似ていると気づいた。葛公喩の言もあり、彼が髙慧だと知るなり、常に彼をそばにおいた。幼い頃も大層可愛がったが、再会した後も彼を厚遇で迎えたのである。

「あれは随分と苦労してきたようだ。毒によって体を壊し、両親と名を捨てて宮城を出て、下男として働き、好いた者のために『性』を捨てて宦官になり……あげればきりがないほど、ひどい話だな」
「……髙慧は、苦労してきたのですね」
「ああ。だが髙慧は感謝していた。私の代わりに死に、体が入れ替わるとひどい目にあったにも関わらず、好いた者と共にいることができたこの期間が、奇跡だと喜んでいた」

 凌貴妃にも話が見えてきた。
 髙慧こと天雷の好いた者とは薛昭容だ。だから彼は白李宮に通ったのだ。そして薛昭容も天雷のことを好いている。天雷の死に涙したあの表情は、凌貴妃のよく知るものだった。

「私は、髙慧にずっと詫びたかった」

 祥雲が呟く。

「才ならば髙慧の方が優れている。生まれた順、生んだ母が異なるだけだ。よほど髙慧の方が相応しい。なのに私の母によって住処を追われ、名を失い、つらい生を歩んだのだ。私はあやつに、光あたる道を返してやりたい」

 不安げなまなざしを送る凌貴妃に、祥雲が微笑んだ。細く美しい指先を優しく握りしめる。

「私はじゅうぶん、幸せだった。芳香という宝物に触れることができたのだから」
「……大家」
「私のことを愛した故の心中だと知った時は嬉しかったとも。それほどまでに芳香に愛されたのだから悔いはない――ならば髙慧に、この体を贈りたいのだ。そうすればあやつは、身を削ってまで見守ろうとした者と添い遂げられることだろう」

 凌貴妃はうつむき、しばらく考えていた。だが顔をあげた時には迷いが晴れたような、すっきりとした様子だ。

「私は止められません。大家のご意向に従います。私も彼にはひどいことをしましたから、それで贖罪になるのであれば」
「まったくだ。我々は髙慧にひどいことばかりしているな」
「ええ……私も、髙慧の死の謎を解き明かそうとし、取り返しのつかないことをしてしまいました」

 互いに笑い合う。微笑んではいるが、互いにその瞳は潤んでいる。既に覚悟を決め、これから起こる別れを迎えようとしていた。
 他者がいないのを良いことに、二人が抱き合う。最後のわずかな時を噛みしめ、切なげに瞳が揺れている。

「私は芳香に出会えて幸福だった」
「大家。私もでございます」
「天雷と薛昭容の道のりが幸せであることを祈ろう。そして芳香のことも」

 背に回した腕に強く力をこめる。この体は明日になれば別のものになる。徐祥雲としていられるのはいまだけだ。

「けして、忘れなど致しません。あなたをお慕いしておりました」
「ありがとう、芳香。君は私の幸福だった。どうか天雷の今後を、助けてやってほしい」

 祥雲が瞳を伏せる。その後、彼の体が力なく落ち、床に伏した。

 祥雲は、最初から天雷に体を譲るつもりでいたのだろう。だがその前に凌貴妃に別れを告げたかったのかもしれない。
 凌貴妃はじっと、彼の体を眺めていた。本当に別人になれるのか、その疑念が晴れる時を待っていたのである。


 そうして――しばしの刻が立った。

 宮女に命じ、寝台に運んでいた大家の体がぴくりと動いた。ずっとそばで見守っていた凌貴妃はその変化に気づきたじろぐ。

「大家……気がつかれましたか」
「……凌貴妃……どうして、俺は……」

 その口調から察するに天雷だろう。彼はなぜ自分が祥雲の体に戻ってきたのかわからず、手を開いたり閉じたりと動かし、確かめている。

 凌貴妃は天雷が髙慧であることを知っていたが、そのことには触れなかった。これまでつらい人生を送ってきただろう天雷に余計な足枷をつけたくない。永遠に、知らぬふりをするつもりでいる。

 彼に気づかれないよう、小さく息を吐いた。
 潔く別れは告げたものの、祥雲が消えてしまったことへの寂寥が残っている。
 実のところ、髙慧への贖罪はあれど、入れ替わりなど起きずに、祥雲が目覚めればよいと願ってしまった気持ちもある。
 しかし目覚めた彼の口調が天雷であったことから、その期待は霧散した。祥雲とはもう会えないのだと覚悟を決める。まなじりが熱く、視界が滲んだが、それを堪えて、彼に告げた。

「……徐祥雲は体を譲ると言い残し、消えました」
「な……どうしてそんなことを!? 消えるのは俺でよかったのに」

 動揺した姿に、凌貴妃はこっそりと微笑む。
 ここにいるのが髙慧であると考えれば、その成長を嬉しく感じる。
 兄のために毒薬を飲み、好いた者のために宮城に戻る。宮城を追われ不遇の生を歩んだだろうに、彼が持つ信念は凜々しく、誇り高い。

「徐祥雲から言伝を預かっております――『その体はやる。だから幸福を得よ』と」
「……っ、祥雲……!」

 天雷にとっては予想外の展開だった。
 兄を守るために命を捧げ、あの場で死ぬのだと覚悟していたのだ。それがまさか、入れ替わりという奇跡で嘉音と共にいられるなど思ってもいなかった。
 凌貴妃から言伝を受けたといえ、この現状が信じがたく、動揺を隠しきれない。

「どうして……俺なんかを……」
「天雷……いえ、大家」

 凌貴妃は柔らかく微笑んだ後、拱手し、頭を下げた。眼前にいる者が大家だと示すように。

「どうぞ、薛昭容を迎えにいってください。あなたはこれより華鏡国の皇帝、徐祥雲です」

 凌貴妃の表情に後悔は感じられない。天雷が知らぬ間に祥雲と語り、彼らなりの結論に至ったのだろう。

 そうなると思い浮かぶのが嘉音だった。彼女は天雷が死んだと考えているだろう。急ぎこのことを伝えなければ――天雷がこの部屋を出ようと振り返った時である。

「こちらに薛昭容はいらっしゃいますか」

 聞き覚えのある声が扉を叩いた。天雷がすぐさま扉を開く。そこにいたのは白李宮の宮女、慈佳(じけい)だった。慈佳はここに大家がいると想定していなかったようで、すぐさま長揖を取る。その慌てようから、天雷は嫌な予感を抱いていた。

「白李宮の女官だったな。急ぐほど何かあったのか」
「そ、それが……薛昭容がまだ戻られないので……」

 これに天雷は眉根を寄せる。その後ろにいる凌貴妃も首を傾げていた。

「薛昭容と公喩は途中で部屋を出て行ったのよ。だから、白李宮に戻ったのだと思っていたけれど」
「いえ、まだ戻られていません」

 凌貴妃が告げるが、すぐさま慈佳が否定した。どちらにもいないとなると、嘉音はどこへ消えたのか。そこへ桃蓮宮の宮女がやってきて告げた。

「薛昭容でしたら随分前に見かけました。具合が悪くなったからと葛公喩殿が運んでおりました。意識なく、ぐったりとしていましたね」
「おかしいですね。それであればとっくに白李宮に戻ってきているはずが……」
「葛公喩が運んだ……戻ってきていない……まさか!」

 慈佳の言に確信を持つ。嘉音は公喩に連れ去られたのかもしれない。
 その結論に至ったのは天雷だけでなく、凌貴妃もだった。表情を険しくさせた凌貴妃が告げる。

「大家……どうか、薛昭容をお助けください」

 彼女はその場に膝をつき、頭を垂れた。

「現在の大家が『奇跡』によってもたらされたものであることを私は知っています。ならばその奇跡の結末を、私に教えていただきたいのです」

 凌貴妃の手は震えている。慈佳は話がわからないといった様子をしていたが、天雷にはじゅうぶん伝わった。
 祥雲が体を譲り、天雷になった。その奇跡がどのような結末に至るのかを知りたいと彼女は語っているのだ。

「私は不変の愛を手に入れようと心中を試み、このような結果となりました。ですから大家――あなたの奇跡が不変の愛に辿り着くところを見せていただきたいのです」
「……凌貴妃」
「必ず、薛昭容を取り戻しください」

 これに天雷はしっかりと頷いた。そして駆け出す。

 ここで彼女に会えなければ、何のためにこの生を得たというのか。
 急ぎ、葛公喩を追わなければならない。彼が都を出てしまえば追いにくくなってしまう。その前にどうしても彼の元に辿り着かなければならなかった。