「嵐、ですかね」
不安げに庭を眺めていた慈佳が言った。昼頃は風が強いだけだったが、銀六鐘を過ぎてからは雨が降り出し、夜が濃くなるのに合わせ雨の勢いが増していった。少し外に出れば、叩きつけるように雨が降っているのだという。髙祥殿に行った宮女がずぶ濡れで帰ってきたので相当ひどい天気のようだ。
薛嘉音も外を眺めていた。今日は大家の渡りがない。この天候であるから、出ようとすれば周囲に止められることだろう。
「この風で、花が散らないといいけれど」
「今日は早めにお休みになられては。これほど強い風ですから、明日には収まりましょう。目を醒ます頃には気持ちよい青空になっているかもしれませんよ」
嘉音は頷き、その提案に従うことにした。
雨風は強く、雲が不機嫌な音を鳴らしている。銀鐘から金鐘へと変わる深い夜、嵐というのもあって各宮の篝火は消えている。宮の中にある吊り灯籠の明かりがぼんやりと外に漏れている程度の暗さだ。華やかな宮城も夜になれば墨で塗りつぶしたようになっている。
その頃に、それは現れた。
部屋に、誰かが踏み入れている。床についた嘉音の元へ足音を消して忍び寄る。
(やはり……きたのね)
その者がくることを嘉音は予想していた。
なぜ幽鬼による様々なことが起こったのか。後宮に幽鬼がいると周りに信じ込ませるのは、この先に起こす出来事を幽鬼の仕業にして隠すためだ。
(桃蓮宮が襲われ、次は白李宮に幽鬼の予兆が出る。そうして私が襲われても、幽鬼の仕業だと周囲は考える。幽鬼騒ぎは私を襲っても犯人を幽鬼にして隠すためのもの)
侵入者は薛嘉音が寝ていると考えたのだろう。忍び寄り、近づく。手にしているのは匕首だ。
その者が嘉音の近くで足を止める。匕首を振り上げた瞬間、嘉音は瞳を開いた。
「――待っていましたよ」
嘉音が声をかけたので侵入者は驚いたのだろう。振り上げた手がぴたりと止まり、数歩ほど後退りをしていた。
夜に慣れていたといえその者の顔はうっすらとしか見えず、判別は難しい。嘉音が身を起こし、確かめようとした時――一瞬ほど外が明るく光った。その閃光と共に、轟音が響き渡る。雷だ。耳の奥がきんと痛むほどの音量だったので、近いところに落ちたらしい。
その雷が、その者の顏を照らした。そこにいたのは『人の顔を見た』と厨で泣いていた宮女である。
「異音をおこしたのも、池に毒葉を投げ入れたのも、すべてあなたがやったことね」
「あ……わ、私は……」
「人の顔が見えるといったのも嘘よ。第四皇子の幽鬼がいると騒ぎ立て、その呪いが白李宮に向いていると触れ回り、私を殺そうとした。そうすれば私が殺されても幽鬼の仕業にできるから。そうでしょう?」
彼女は計画の失敗を悟り、その場に膝をつき、体を震わせていた。手から匕首は落ちている。それを確かめた後、嘉音は宮女の元に寄った。
「話して。どうしてそのようなことをしようと思ったのか、教えてほしいの」
「せ、薛昭容……」
「あなたがしたことはよくないことだけれど、理由があるのなら知りたい。それがわかればあなたを許せるかもしれないから」
風雨の音が強く、部屋にも響いている。その音に混ざり、ぽたりと、雨のような水滴が宮女の頬から落ちた。
「故郷の……家族が……言う通りにしていれば、母に薬を送ってくれると……」
「そう……大切な家族を人質に取られてしまえば、つらいわね……」
「幽鬼騒ぎだけでなく、薛昭容を呼び出すための契機を作るため、珊瑚の耳飾りを盗んだのも私でございます……申し訳ありません」
嘉音が星辰苑の池に落とされた時は、珊瑚の耳飾りが紛失したと報され向かっている。それもこの宮女が厨子から持ち出したのだろう。
そして白李宮の幽鬼騒ぎ。おそらくは先に、池に毒葉を投げ入れ、次に笊にいれた硬豆や小石を転がし異音をたてる。最後に厨へ行き、わざと泣き叫んだのだろう。駆けつけた人たちに『人の顔を見た。第四皇子の幽鬼だ』と伝えれば、緑涼会での出来事もあるため、幽鬼の印象が強く残る。
だが一箇所、幽鬼の騒ぎがありながら、彼女が関与していない場所がある。
(彼女が自ら騒ぎを起こせないのは桃蓮宮だけ)
桃蓮宮もまた、幽鬼が出たと噂が出ている。最初に不審な音が聞こえたと話が出たのもこの場所だ。
(幽鬼は存在しない。第四皇子は身を隠して生きているのだから)
そうなれば桃蓮宮での出来事も怪しくなる。桃蓮宮で起きたものが、同じように白李宮でも起きているのだから――嘉音はその名を口にした。
「あなたに命じたのは、凌貴妃ね?」
確信を持って問う。
宮女の瞳が揺れていた。もはや逃げ道はなく、はらはらと涙が落ちていく。彼女は床に頭をこすりつけ、弱々しい声でそれを認めた。
夜が深くなり、それぞれの宮も静まり返る。雨は止んだが、風はまだ強い。風の音だけが宵闇を支配しているかのようだ。
兒楽宮に、宮女の姿があった。彼女は白李宮付きの宮女だが、元は桃蓮宮付きだった。彼女のように元は桃蓮宮にいながら、他の妃嬪の宮に移動した宮女は多い。凌貴妃がそれを好んだのである。今回のような時、内部から情報を得ることができ、内部から騒動を起こすことができる。いわば密偵の役目だ。
「……凌貴妃」
いつも通りの刻限に、凌貴妃が現れた。
兒楽宮は忌避されているため他の者が来ない場所である。密談を交わすには最適な場であった。凌貴妃は親しい女官をひとり連れてきていたが、その者も今回の計画をよく知っている。女官の協力を得て、深夜に宮を抜け出してきていたのだ。
揖礼する宮女を睨めつけ、凌貴妃が問う。
「計画はどうなりました。薛昭容は口を割りましたか」
「……いえ」
宮女が顔をあげた。それを合図に、潜んでいた嘉音が飛び出した。
「口を割る、とはどういうことでしょうか」
嘉音が声をかけると凌貴妃と女官が慌てて振り返る。闖入者の登場に、ひどく狼狽えていた。
「な……なぜ……薛昭容がここに」
「幽鬼騒ぎを究明すべく来ております。凌貴妃をお待ちしておりました」
裏に凌貴妃がいるかもしれないと想定はしていた。
今回の宮女が起こせない事件は桃蓮宮で起きたことだけ。しかし第四皇子の幽鬼は存在しないため、必ず誰かが起こしている。桃蓮宮での出来事は鮮明に伝えられ、まるで幽鬼が行う騒ぎの見本を示すようでもあった。だが、凌貴妃が存じているかどうかは確信が持てずにいた。それを明かしたのが宮女だ。彼女は凌貴妃に命じられたと明かしている。
凌貴妃が命じたとなれば、池の毒葉も納得がいく。彼女は星辰苑の管理を任され、葛公喩が作った風禮国の毒葉にも詳しい。紫毒葉を投げ入れると思いつくに至ったのも腑に落ちる。
しかし見えないのは彼女の真意だ。本当に大家の寵愛がうつったから嘉音を襲ったのか、それとも別の意図があるのか。それを知りたい。
すると、凌貴妃は高圧的な態度を取り戻し、嘉音の前に寄った。
「ちょうどよかった。私もあなたから聞きたかったのですよ――薛昭容、大家に何を吹き込まれました?」
「吹き込まれる? 見当がつきませんが」
「とぼけないでちょうだい。あなた、どこまで大家から聞いたの」
強く、風が吹く。それでも臆さず、凌貴妃は嘉音を睨めつけていた。
「あの日の夜、桃蓮宮から逃げ出した大家が白李宮の階で倒れていたと聞いたわ。その後からあなたは寵愛を得ている。何か聞いたのでしょう?」
「……私は何も聞いていません」
「嘘よ。あなたは聞いているはず。私が何をしたのかも知っていて、白を切っているのでしょう」
入れ替わった日のことを指しているのだろう。だが天雷は頑なに語ろうとしないので、何が起きたのかはわからない。
「大家は何も話していません。けれど、私は何が起きたのか知りたいのです。だからあなたと話すためにここに来ています」
彼女の真意が知りたい。しかし凌貴妃の冷えた心には届かない。
何とか伝える術はないものか。嘉音はこれまでの凌貴妃とのやりとりを思い返す。
(大家の寵愛を得ていた凌貴妃……彼女の言動にはいつも大家の名前や、彼に関するものが絡められている。まるで自分は愛されていると示すように)
ただ唯一、彼女が大家の名を口にしない場面があった。大家に関わらない行動。
(兒楽宮に百合の花……凌貴妃がここにきていたのはどうしてだろう。自ら第四皇子の幽鬼と騒ぎをおこしたくせに、ここに花を供えていた)
それを思い出し、顔をあげる。嘉音は臆さずに凌貴妃を見据えて、問う。
「凌貴妃は、第四皇子の幽鬼を信じていましたか」
「……」
「ここで第四皇子に百合の花を捧げているのを見ました。けれどあなたは、その名を騙った騒ぎを起こしている」
この問いに、凌貴妃は答えなかった。高圧的な態度は一瞬にして霧散し、弱った表情に変わる。
「……私だって、髙慧の名を使いたくなかった」
凌貴妃が言う。泣くように、小さな声で。
「けれどそれしか術がなかったの。そうでなければ、やらなければならないことを忘れ、また愚かなことをしてしまうかもしれない。それに彼の名前を出せば、大家が徐髙慧が死んだ真相を教えてくれるかもしれないと期待したのよ」
徐髙慧とは第四皇子の名だ。つまり、天雷のことである。
しかし天雷は彼女に出自を伏せていただろう。嘉音にさえ明かしていないのだから。
(つまり凌貴妃は、徐髙慧が死んだ理由を探りたかった?)
徐髙慧は死んだ扱いにし、身分を隠して薛家の下男となっていた。だが、それを凌貴妃は知らず、この不思議な死に理由があるはずと独自の考えに至っているのだ。
「でも、私は大家を――」
そう言いかけたところで、慌ただしい足音が聞こえた。
「薛昭容!」
慈佳の声がして、振り返る。
慈佳にはここへ来ることを伝えていた。供をすると申し出てくれたが、人数は少ない方がよいと判断して残してきた。だがその慈佳が、血相を変えてここに来ている。
何か、いやなことが起きたのだろうか。息を呑む嘉音に、慈佳が告げた。
「遺体が……見つかりました」
宦官の遺体。その単語に凍りついたかのように動けなくなる。
違う人であってほしいと願う気持ちも叶わず、無情にその名が告げられた。
「天雷殿が、遺体となって発見されました」
***
昨晩の嵐が与えた影響は大きかった。暴風雨により都には被害が多く、宮城でも倒れた木の報告があがっている。
そのひとつに星辰苑もあった。雷が落ちて高木が倒れた先にあったのは、風禮国から持ってきた毒花だ。そこは毒花があると示すように土が盛られている。雨に打たれ水分をたっぷりと含んだ土は脆く、倒れてきた高木によって崩れたのだ。
その中から出てきたのが宦官、天雷の遺体だった。
白李宮に戻り、報告を聞いた薛昭容のそばに慈佳がついていた。天雷は、塞ぎ込んでいた嘉音が明るさを取り戻した存在だ。また来ると約束していた場に慈佳も同席している。その約束果たされないまま行方不明となり、こうして遺体で発見されたのだ。
「薛昭容……」
慈佳が声をかけるも、嘉音は答えられなかった。青ざめ、体を震わせている。
(どうして遺体で……)
どれほど探しても見つからないのは、彼の体が隠されていたためだ。それも何度も通った星辰苑という馴染みの場所に。
大家と入れ替わっている。つまり、天雷の体に大家の魂があると思っていたのだ。それがいよいよ崩された。
(では天雷はどうなるの。元に戻れないということ?)
頭が痛い。考えても先が見えない。
宦官の遺体は既に運ばれ、嘉音が見ることは叶わない。おそらく大家は確かめているだろう。天雷は今頃、自分の体と対面しているのかもしれなかった。
思い浮かぶのは、薛家にいた頃だ。高く伸びた背や、荒れた指先。そういったものが失われていく。
(天雷……どうしたらいいの……)
恐ろしいのは遺体が見つかった時に、天雷の魂も失われていることだ。
嘉音が知らぬ間に入れ替わっている状態が解消し、天雷が消えていたら――いますぐに大家に会い、中身が天雷のままであるか確かめたいほどだ。
そう考えていると、宮女がやってきた。拱手した後、慈佳に耳打ちをする。それを聞いた慈佳は困惑し、おそるおそると言った様子で嘉音に訊いた。
「今晩、大家がいらっしゃるそうです。どうされますか? もしおつらいようでしたら、今晩は――」
慈佳は嘉音の意を汲んでくれたのだろう。だが、嘉音は咄嗟に顔をあげ、遮るように言った。
「本当ね? 大家がいらっしゃるのね?」
「え、ええ……」
「待っているわ。いつでもいいから……お願い、早く大家に会いたいの」
急変した嘉音の態度に、慈佳は首を傾げていたが、普段通り大家を迎える支度が進められた。
銀鐘が鳴り響く夜。その者は白李宮にやってきた。
着くと人払いをし、嘉音と二人きりになる。その顏は大家のものである。嘉音はただじっと、彼の言を待った。どちらの魂が入っているのか見極めるために。
「……嘉音様」
大家――天雷はそう切り出した。そのような呼び方をするのは天雷だ。嘉音はほっと息をつき、胸をなで下ろす。
「よかった。あなたではなく、徐祥雲殿に戻っていたらどうしようかと思っていたの」
「ということは、嘉音様も俺の遺体が見つかった件を聞いたのですね」
嘉音は頷く。
「遺体を見てはいないけれど、天雷の遺体だったと聞いたわ」
「俺も確かめてきました。間違いなく、あの死体は俺ですね」
「ではどうなるのかしら。天雷は元の体に戻れないということ? 大家の魂はどこへいったの?」
疑問ばかりが浮かぶ。天雷が遺体になっているなど想像もしていなかったのだ。体が見つかれば元に戻れると思っていた。
だが動揺しているのは嘉音だけだった。天雷は変わらず普段通りだ。まるで自分の死体が見つかるとわかっていたかのように。
「嘉音様、お話があります」
天雷はそう言って、嘉音の前に立つ。慈しむように柔らかく嘉音を見つめたと思いきや、そっと肩に触れる。
それから――彼は微笑んだ。穏やかに、しかし一滴の悲しさを混ぜたように。
「お別れを言いに来ました」
彼の言に、嘉音は息を呑む。どうしてお別れなんて、と言葉が頭に浮かぶも、声に発することはできなかった。それさえできなくなるほど、思考は固まり、体がうまく動かせない。
「明日、祥雲に体を返します」
「か、えす……って……どうして……」
「元は祥雲の体でしたから。それに、兄の魂がどこにあるのかも知っていたんです」
そう言って、天雷は自分の胸を軽く叩いた。
「魂はここにいるのだろうなと、予想はついていました」
「天雷は、自分の体が既に死んでいることを知っていたの?」
「生死の判断はできていません。最後の記憶から、死んでいる可能性が高いとは思っていました。遺体でさえ自分の体が見つかれば、俺は元に戻れる。祥雲の魂も、この体のどこかで俺が出て行くのを待っていることでしょう。だから出て行きます」
「元に戻るって……あなたの体は死んでいるのよ……」
「ええ。魂の行き先である体は死んでいますから、元に戻れば俺の魂も死ぬことでしょう」
目眩がする。白李宮にきた大家が天雷であったことに喜んだのは一瞬にして崩れ、深い悲しみに落ちてしまったかのように。
天雷が言うことは正しい。この体の持ち主は徐祥雲つまり大家である。元の持ち主に返すのが一番よいだろう。この不可思議な状況も解決される。
だが天雷の体は死んでいるのだ。戻っても生き返ることはない。一生、会えなくなるのだ。
彼はそれを承知している。だから別れを告げにきているのだ。
「徐祥雲はある事情から凌貴妃との対話を望んでいるはずです。この入れ替わりについても彼女に明かした方がよいと判断していますから、嘉音様にも同席してもらえれば。公喩にも話してありますよ。すべての段取りは整えてありますから。あとは公喩に――」
「天雷、待って」
次々と話を進めていく天雷に対し、嘉音は理解が追いついていない。明日には会えなくなると受け入れられなかった。
「戻らなければ、ならないの?」
「……はい」
「私はいやよ。天雷に会えなくなるなんていや。それならば元に戻らず、このままでいて」
涙が落ちる。次々に湧いては頬を滑り落ち、拭うことさえできない。
天雷に会えるのが今宵限りなど信じることができず、彼の体を抱きしめる。縋るように腕を回して、どこにも行けないようにしてしまいたい。
「私、天雷が好きよ。あなたがいなくなるのは耐えられない。妃と大家でなくても、妃と宦官でも、何でもいいの。結ばれなくてもいい。あなたが生きていてくれればいいの」
「……嘉音様」
「消えないで。死なないで。そばにいて。お願いよ」
天雷が失踪した後の二年間は地獄のようだった。生きたところで何の幸福も得られず、ただ時間に流されていくだけ。彼がどこかで生きていることを願う日々だった。
それが後宮にて再会できた時は幸せでたまらなかった。あの地獄の二年も無ではなかったのだと喜んだ。妃と偽りの大家という立場になり、想いが通じたのは奇跡だ。このままずっと彼と共にいたいと願うほどに。
死んでしまえば、二度と会えなくなる。彼の体はとうに死んでいる。
「いなくならないで……消えないで……私のそばにいて」
すがりつき、泣く。
この体が徐祥雲のものだとわかっていても、天雷への想いが勝る。ただ彼に、生きていて欲しい。
その胸元に顔を埋め泣いていると、優しく頭を撫でられた。天雷だ。確かめるように見上げれば、悲しげな微笑みがそこにある。
「俺も、嘉音様をお慕いしています。きっと、あなたが想像する以上に、あなたを愛しています。できることならばこのまま傍にいて、あなたを眺めていたい」
「天雷……」
「あなたを想うたびに、胸の奥が苦しくなるんです。あなたが微笑めば俺まで幸せな気持ちに満ちる。たまにいたずらをしてあなたを困らせてみたくなる。この世にいる誰よりも、嘉音様を愛している自信がありますよ」
そう告げ、嘉音を抱きしめる。その腕は強く、手放したくないと叫んでいるようでもあった。
「ではこのまま、戻らなければいいのよ。お願いよ、天雷。死なないでほしいの」
「……できません」
強く抱きしめられ、伝わってくるのは彼の悲しみだ。
「この体は兄のもの。徐祥雲に返します――今夜が最後です。だからお別れの前に、嘉音様を抱きしめたかった。そうすればきっと、あなたを想って死ねるから」
嘘であってほしいと願っても、現実は迫り来る。立場の異なる二人が混ざり合えた奇跡は、ついに終わりを迎えようとしていた。
揺れた蝋燭の火に、嘉音は二年前のことを思い出していた。
後宮入りのことを天雷に明かす時は、このような未来を想像していなかった。あの話をして天雷が失踪することさえ想像していなかった。
ただあの日、唯一の後悔がある。彼に言えなかった言葉が、ひとつだけ、残っている。
「ねえ、天雷」
嘉音が言う。
「二年前の日にね、『二人で逃げましょう』って言いたくて、でも言えなかったの」
「どうして言わなかったんですか?」
「天雷が私のことを好いているかわからなかったの。断られたらきっと悲しくなる。あの頃の私は、天雷のことが好きでも、想いを伝える勇気がなかったのね」
「あの頃から、俺は嘉音様のことが好きでしたよ」
「告げていたら、未来は変わっていたのかしら。私たちは逃げ出して、幸せに生きていたのかしら」
天雷はしばし口を閉ざした。おそらくその未来を想像しているのだろう。その後に苦笑し、嘉音の頭を優しく撫でた。
「俺は、いまの方が幸せですよ」
「どうして」
「奇跡が起きて、嘉音様と結ばれた。それが一時だとしても構いません。これが俺にとって一番の幸せです」
朝日がのぼれば、奇跡は終わりを迎える。
ぎゅっと強く抱きしめれば、同じように天雷も抱きしめ返す。その存在が、まもなく消えてしまうなど信じたくなかった。
『恋など存在せず。思慕など成らず。諦めて生きるしかない。この世は悲しいものだから』
母の言葉がよぎった。
(想いは成らず、成ったとしても消えてしまう……お母様もこんな苦しみを抱いたのかしら)
深く想うものを諦めることは難しい。半身をもがれるような痛みだ。その痛みを抱えて生き続ける世は、きっと悲しいものだろう。
「……私、諦めたくないの」
まもなく訪れる別れの悲しみに耐えられず、知らずのうちに、呟いていた。
「祥雲様に戻って欲しいと願う人が多いことはわかっている。きっと凌貴妃だってそう。天雷のままであることを望むのは私だけかもしれない。それでも私はあなたを諦められない」
「……嘉音様」
「天雷が消えてしまっても諦めずにあなたを探す。奇跡が終わってしまっても、私はあなたを想い続ける」
これは、夢だ。恋い焦がれていたから奇跡が起きて、結ばれる夢を見たのだ。そうわかっていても諦めたくない。術があるのなら朝日がのぼっても夜になっても彼に会いたいと願う。
「……嘉音様と逃げ出すことができたら、きっと幸せだったでしょう」
天雷がそう言った。嘉音を抱きしめる腕の力が一段と強くなる。逃げ出す道を選べないことは二人ともわかっている。嘉音を包む腕が天雷のものではないからだ。
「俺が消えるその瞬間まで、このままでいさせてください。この幸福の中で消えたいのです」
どうかこの奇跡が終わらないでほしいと願い、目を瞑る。
嘉音もそして天雷も、流れゆくこの時を惜しんでいた。
***
東の空に陽がのぼり、朝を報せる金鐘が鳴る。
ぱちりと瞳を開いた嘉音は、隣で眠る者の顔を確かめた。嘉音が起きたことで彼も気がついたらしい、瞼がゆっくりと開き、視線が嘉音に向けられる。
「てんら――」
天雷、と呼びかけたその言は、宙に消えていった。
「……薛昭容だな」
天雷と異なる呼び方。それは奇跡の終焉を示している。
「髙慧から話は聞いている。迷惑をかけたな」
「あの、天雷は……」
「去っていった」
その言に、嘉音の表情が凍りつく。覚悟はしていたが、いざ目の前で起きると耐えがたい。視界が滲み、涙がこぼれ落ちそうになる。
大家もそれに気づいたらしく、嘉音の目元に触れ、落ちかけた涙を拭った。
「……すまなかった。私のせいで髙慧と薛昭容を苦しめてしまったな」
「いえ、感謝しております。そのおかげで、結ばれるはずのない私たちが、一時でも共にいられたのですから」
「そうか……髙慧、いまは天雷だったか。あやつもそう言っていた」
「天雷も、同じことを?」
嘉音の問いに大家が頷く。
「私はずっとあの体にいたが眠っていたからな、それを起こしてくれたのが髙慧だ。ここに至るまでの話と、私の体で動き回ったことを詫びられた。だが奇跡のように幸せだったと感謝を述べていた――あやつを巻き込んだのはこちらなのにな」
「巻き込んだとはいったい? なぜ二人が入れ替わったのでしょうか」
「ふむ。薛昭容には明かしてもよいだろう。あの日、私は――」
大家がそう言いかけたところで、扉が叩かれた。今晩は白李宮にて過ごすと告げている。朝に迎えがくるよう手配していたのかもしれない。
そうしてやってきたのは葛公喩だった。彼も天雷から話を聞いていたのだろう。入るなり長揖し、大家に告げる。
「徐祥雲。迎えにきたよ」
「ああ、そうだったな。お前がくると聞いていた。となれば、話をしにいかねばならないな」
そう言って、大家は嘉音に視線を送る。
「薛昭容も共に――桃蓮宮に行く」
その表情に天雷の面影は微塵も感じられない。彼はもう、消えていた。
不安げに庭を眺めていた慈佳が言った。昼頃は風が強いだけだったが、銀六鐘を過ぎてからは雨が降り出し、夜が濃くなるのに合わせ雨の勢いが増していった。少し外に出れば、叩きつけるように雨が降っているのだという。髙祥殿に行った宮女がずぶ濡れで帰ってきたので相当ひどい天気のようだ。
薛嘉音も外を眺めていた。今日は大家の渡りがない。この天候であるから、出ようとすれば周囲に止められることだろう。
「この風で、花が散らないといいけれど」
「今日は早めにお休みになられては。これほど強い風ですから、明日には収まりましょう。目を醒ます頃には気持ちよい青空になっているかもしれませんよ」
嘉音は頷き、その提案に従うことにした。
雨風は強く、雲が不機嫌な音を鳴らしている。銀鐘から金鐘へと変わる深い夜、嵐というのもあって各宮の篝火は消えている。宮の中にある吊り灯籠の明かりがぼんやりと外に漏れている程度の暗さだ。華やかな宮城も夜になれば墨で塗りつぶしたようになっている。
その頃に、それは現れた。
部屋に、誰かが踏み入れている。床についた嘉音の元へ足音を消して忍び寄る。
(やはり……きたのね)
その者がくることを嘉音は予想していた。
なぜ幽鬼による様々なことが起こったのか。後宮に幽鬼がいると周りに信じ込ませるのは、この先に起こす出来事を幽鬼の仕業にして隠すためだ。
(桃蓮宮が襲われ、次は白李宮に幽鬼の予兆が出る。そうして私が襲われても、幽鬼の仕業だと周囲は考える。幽鬼騒ぎは私を襲っても犯人を幽鬼にして隠すためのもの)
侵入者は薛嘉音が寝ていると考えたのだろう。忍び寄り、近づく。手にしているのは匕首だ。
その者が嘉音の近くで足を止める。匕首を振り上げた瞬間、嘉音は瞳を開いた。
「――待っていましたよ」
嘉音が声をかけたので侵入者は驚いたのだろう。振り上げた手がぴたりと止まり、数歩ほど後退りをしていた。
夜に慣れていたといえその者の顔はうっすらとしか見えず、判別は難しい。嘉音が身を起こし、確かめようとした時――一瞬ほど外が明るく光った。その閃光と共に、轟音が響き渡る。雷だ。耳の奥がきんと痛むほどの音量だったので、近いところに落ちたらしい。
その雷が、その者の顏を照らした。そこにいたのは『人の顔を見た』と厨で泣いていた宮女である。
「異音をおこしたのも、池に毒葉を投げ入れたのも、すべてあなたがやったことね」
「あ……わ、私は……」
「人の顔が見えるといったのも嘘よ。第四皇子の幽鬼がいると騒ぎ立て、その呪いが白李宮に向いていると触れ回り、私を殺そうとした。そうすれば私が殺されても幽鬼の仕業にできるから。そうでしょう?」
彼女は計画の失敗を悟り、その場に膝をつき、体を震わせていた。手から匕首は落ちている。それを確かめた後、嘉音は宮女の元に寄った。
「話して。どうしてそのようなことをしようと思ったのか、教えてほしいの」
「せ、薛昭容……」
「あなたがしたことはよくないことだけれど、理由があるのなら知りたい。それがわかればあなたを許せるかもしれないから」
風雨の音が強く、部屋にも響いている。その音に混ざり、ぽたりと、雨のような水滴が宮女の頬から落ちた。
「故郷の……家族が……言う通りにしていれば、母に薬を送ってくれると……」
「そう……大切な家族を人質に取られてしまえば、つらいわね……」
「幽鬼騒ぎだけでなく、薛昭容を呼び出すための契機を作るため、珊瑚の耳飾りを盗んだのも私でございます……申し訳ありません」
嘉音が星辰苑の池に落とされた時は、珊瑚の耳飾りが紛失したと報され向かっている。それもこの宮女が厨子から持ち出したのだろう。
そして白李宮の幽鬼騒ぎ。おそらくは先に、池に毒葉を投げ入れ、次に笊にいれた硬豆や小石を転がし異音をたてる。最後に厨へ行き、わざと泣き叫んだのだろう。駆けつけた人たちに『人の顔を見た。第四皇子の幽鬼だ』と伝えれば、緑涼会での出来事もあるため、幽鬼の印象が強く残る。
だが一箇所、幽鬼の騒ぎがありながら、彼女が関与していない場所がある。
(彼女が自ら騒ぎを起こせないのは桃蓮宮だけ)
桃蓮宮もまた、幽鬼が出たと噂が出ている。最初に不審な音が聞こえたと話が出たのもこの場所だ。
(幽鬼は存在しない。第四皇子は身を隠して生きているのだから)
そうなれば桃蓮宮での出来事も怪しくなる。桃蓮宮で起きたものが、同じように白李宮でも起きているのだから――嘉音はその名を口にした。
「あなたに命じたのは、凌貴妃ね?」
確信を持って問う。
宮女の瞳が揺れていた。もはや逃げ道はなく、はらはらと涙が落ちていく。彼女は床に頭をこすりつけ、弱々しい声でそれを認めた。
夜が深くなり、それぞれの宮も静まり返る。雨は止んだが、風はまだ強い。風の音だけが宵闇を支配しているかのようだ。
兒楽宮に、宮女の姿があった。彼女は白李宮付きの宮女だが、元は桃蓮宮付きだった。彼女のように元は桃蓮宮にいながら、他の妃嬪の宮に移動した宮女は多い。凌貴妃がそれを好んだのである。今回のような時、内部から情報を得ることができ、内部から騒動を起こすことができる。いわば密偵の役目だ。
「……凌貴妃」
いつも通りの刻限に、凌貴妃が現れた。
兒楽宮は忌避されているため他の者が来ない場所である。密談を交わすには最適な場であった。凌貴妃は親しい女官をひとり連れてきていたが、その者も今回の計画をよく知っている。女官の協力を得て、深夜に宮を抜け出してきていたのだ。
揖礼する宮女を睨めつけ、凌貴妃が問う。
「計画はどうなりました。薛昭容は口を割りましたか」
「……いえ」
宮女が顔をあげた。それを合図に、潜んでいた嘉音が飛び出した。
「口を割る、とはどういうことでしょうか」
嘉音が声をかけると凌貴妃と女官が慌てて振り返る。闖入者の登場に、ひどく狼狽えていた。
「な……なぜ……薛昭容がここに」
「幽鬼騒ぎを究明すべく来ております。凌貴妃をお待ちしておりました」
裏に凌貴妃がいるかもしれないと想定はしていた。
今回の宮女が起こせない事件は桃蓮宮で起きたことだけ。しかし第四皇子の幽鬼は存在しないため、必ず誰かが起こしている。桃蓮宮での出来事は鮮明に伝えられ、まるで幽鬼が行う騒ぎの見本を示すようでもあった。だが、凌貴妃が存じているかどうかは確信が持てずにいた。それを明かしたのが宮女だ。彼女は凌貴妃に命じられたと明かしている。
凌貴妃が命じたとなれば、池の毒葉も納得がいく。彼女は星辰苑の管理を任され、葛公喩が作った風禮国の毒葉にも詳しい。紫毒葉を投げ入れると思いつくに至ったのも腑に落ちる。
しかし見えないのは彼女の真意だ。本当に大家の寵愛がうつったから嘉音を襲ったのか、それとも別の意図があるのか。それを知りたい。
すると、凌貴妃は高圧的な態度を取り戻し、嘉音の前に寄った。
「ちょうどよかった。私もあなたから聞きたかったのですよ――薛昭容、大家に何を吹き込まれました?」
「吹き込まれる? 見当がつきませんが」
「とぼけないでちょうだい。あなた、どこまで大家から聞いたの」
強く、風が吹く。それでも臆さず、凌貴妃は嘉音を睨めつけていた。
「あの日の夜、桃蓮宮から逃げ出した大家が白李宮の階で倒れていたと聞いたわ。その後からあなたは寵愛を得ている。何か聞いたのでしょう?」
「……私は何も聞いていません」
「嘘よ。あなたは聞いているはず。私が何をしたのかも知っていて、白を切っているのでしょう」
入れ替わった日のことを指しているのだろう。だが天雷は頑なに語ろうとしないので、何が起きたのかはわからない。
「大家は何も話していません。けれど、私は何が起きたのか知りたいのです。だからあなたと話すためにここに来ています」
彼女の真意が知りたい。しかし凌貴妃の冷えた心には届かない。
何とか伝える術はないものか。嘉音はこれまでの凌貴妃とのやりとりを思い返す。
(大家の寵愛を得ていた凌貴妃……彼女の言動にはいつも大家の名前や、彼に関するものが絡められている。まるで自分は愛されていると示すように)
ただ唯一、彼女が大家の名を口にしない場面があった。大家に関わらない行動。
(兒楽宮に百合の花……凌貴妃がここにきていたのはどうしてだろう。自ら第四皇子の幽鬼と騒ぎをおこしたくせに、ここに花を供えていた)
それを思い出し、顔をあげる。嘉音は臆さずに凌貴妃を見据えて、問う。
「凌貴妃は、第四皇子の幽鬼を信じていましたか」
「……」
「ここで第四皇子に百合の花を捧げているのを見ました。けれどあなたは、その名を騙った騒ぎを起こしている」
この問いに、凌貴妃は答えなかった。高圧的な態度は一瞬にして霧散し、弱った表情に変わる。
「……私だって、髙慧の名を使いたくなかった」
凌貴妃が言う。泣くように、小さな声で。
「けれどそれしか術がなかったの。そうでなければ、やらなければならないことを忘れ、また愚かなことをしてしまうかもしれない。それに彼の名前を出せば、大家が徐髙慧が死んだ真相を教えてくれるかもしれないと期待したのよ」
徐髙慧とは第四皇子の名だ。つまり、天雷のことである。
しかし天雷は彼女に出自を伏せていただろう。嘉音にさえ明かしていないのだから。
(つまり凌貴妃は、徐髙慧が死んだ理由を探りたかった?)
徐髙慧は死んだ扱いにし、身分を隠して薛家の下男となっていた。だが、それを凌貴妃は知らず、この不思議な死に理由があるはずと独自の考えに至っているのだ。
「でも、私は大家を――」
そう言いかけたところで、慌ただしい足音が聞こえた。
「薛昭容!」
慈佳の声がして、振り返る。
慈佳にはここへ来ることを伝えていた。供をすると申し出てくれたが、人数は少ない方がよいと判断して残してきた。だがその慈佳が、血相を変えてここに来ている。
何か、いやなことが起きたのだろうか。息を呑む嘉音に、慈佳が告げた。
「遺体が……見つかりました」
宦官の遺体。その単語に凍りついたかのように動けなくなる。
違う人であってほしいと願う気持ちも叶わず、無情にその名が告げられた。
「天雷殿が、遺体となって発見されました」
***
昨晩の嵐が与えた影響は大きかった。暴風雨により都には被害が多く、宮城でも倒れた木の報告があがっている。
そのひとつに星辰苑もあった。雷が落ちて高木が倒れた先にあったのは、風禮国から持ってきた毒花だ。そこは毒花があると示すように土が盛られている。雨に打たれ水分をたっぷりと含んだ土は脆く、倒れてきた高木によって崩れたのだ。
その中から出てきたのが宦官、天雷の遺体だった。
白李宮に戻り、報告を聞いた薛昭容のそばに慈佳がついていた。天雷は、塞ぎ込んでいた嘉音が明るさを取り戻した存在だ。また来ると約束していた場に慈佳も同席している。その約束果たされないまま行方不明となり、こうして遺体で発見されたのだ。
「薛昭容……」
慈佳が声をかけるも、嘉音は答えられなかった。青ざめ、体を震わせている。
(どうして遺体で……)
どれほど探しても見つからないのは、彼の体が隠されていたためだ。それも何度も通った星辰苑という馴染みの場所に。
大家と入れ替わっている。つまり、天雷の体に大家の魂があると思っていたのだ。それがいよいよ崩された。
(では天雷はどうなるの。元に戻れないということ?)
頭が痛い。考えても先が見えない。
宦官の遺体は既に運ばれ、嘉音が見ることは叶わない。おそらく大家は確かめているだろう。天雷は今頃、自分の体と対面しているのかもしれなかった。
思い浮かぶのは、薛家にいた頃だ。高く伸びた背や、荒れた指先。そういったものが失われていく。
(天雷……どうしたらいいの……)
恐ろしいのは遺体が見つかった時に、天雷の魂も失われていることだ。
嘉音が知らぬ間に入れ替わっている状態が解消し、天雷が消えていたら――いますぐに大家に会い、中身が天雷のままであるか確かめたいほどだ。
そう考えていると、宮女がやってきた。拱手した後、慈佳に耳打ちをする。それを聞いた慈佳は困惑し、おそるおそると言った様子で嘉音に訊いた。
「今晩、大家がいらっしゃるそうです。どうされますか? もしおつらいようでしたら、今晩は――」
慈佳は嘉音の意を汲んでくれたのだろう。だが、嘉音は咄嗟に顔をあげ、遮るように言った。
「本当ね? 大家がいらっしゃるのね?」
「え、ええ……」
「待っているわ。いつでもいいから……お願い、早く大家に会いたいの」
急変した嘉音の態度に、慈佳は首を傾げていたが、普段通り大家を迎える支度が進められた。
銀鐘が鳴り響く夜。その者は白李宮にやってきた。
着くと人払いをし、嘉音と二人きりになる。その顏は大家のものである。嘉音はただじっと、彼の言を待った。どちらの魂が入っているのか見極めるために。
「……嘉音様」
大家――天雷はそう切り出した。そのような呼び方をするのは天雷だ。嘉音はほっと息をつき、胸をなで下ろす。
「よかった。あなたではなく、徐祥雲殿に戻っていたらどうしようかと思っていたの」
「ということは、嘉音様も俺の遺体が見つかった件を聞いたのですね」
嘉音は頷く。
「遺体を見てはいないけれど、天雷の遺体だったと聞いたわ」
「俺も確かめてきました。間違いなく、あの死体は俺ですね」
「ではどうなるのかしら。天雷は元の体に戻れないということ? 大家の魂はどこへいったの?」
疑問ばかりが浮かぶ。天雷が遺体になっているなど想像もしていなかったのだ。体が見つかれば元に戻れると思っていた。
だが動揺しているのは嘉音だけだった。天雷は変わらず普段通りだ。まるで自分の死体が見つかるとわかっていたかのように。
「嘉音様、お話があります」
天雷はそう言って、嘉音の前に立つ。慈しむように柔らかく嘉音を見つめたと思いきや、そっと肩に触れる。
それから――彼は微笑んだ。穏やかに、しかし一滴の悲しさを混ぜたように。
「お別れを言いに来ました」
彼の言に、嘉音は息を呑む。どうしてお別れなんて、と言葉が頭に浮かぶも、声に発することはできなかった。それさえできなくなるほど、思考は固まり、体がうまく動かせない。
「明日、祥雲に体を返します」
「か、えす……って……どうして……」
「元は祥雲の体でしたから。それに、兄の魂がどこにあるのかも知っていたんです」
そう言って、天雷は自分の胸を軽く叩いた。
「魂はここにいるのだろうなと、予想はついていました」
「天雷は、自分の体が既に死んでいることを知っていたの?」
「生死の判断はできていません。最後の記憶から、死んでいる可能性が高いとは思っていました。遺体でさえ自分の体が見つかれば、俺は元に戻れる。祥雲の魂も、この体のどこかで俺が出て行くのを待っていることでしょう。だから出て行きます」
「元に戻るって……あなたの体は死んでいるのよ……」
「ええ。魂の行き先である体は死んでいますから、元に戻れば俺の魂も死ぬことでしょう」
目眩がする。白李宮にきた大家が天雷であったことに喜んだのは一瞬にして崩れ、深い悲しみに落ちてしまったかのように。
天雷が言うことは正しい。この体の持ち主は徐祥雲つまり大家である。元の持ち主に返すのが一番よいだろう。この不可思議な状況も解決される。
だが天雷の体は死んでいるのだ。戻っても生き返ることはない。一生、会えなくなるのだ。
彼はそれを承知している。だから別れを告げにきているのだ。
「徐祥雲はある事情から凌貴妃との対話を望んでいるはずです。この入れ替わりについても彼女に明かした方がよいと判断していますから、嘉音様にも同席してもらえれば。公喩にも話してありますよ。すべての段取りは整えてありますから。あとは公喩に――」
「天雷、待って」
次々と話を進めていく天雷に対し、嘉音は理解が追いついていない。明日には会えなくなると受け入れられなかった。
「戻らなければ、ならないの?」
「……はい」
「私はいやよ。天雷に会えなくなるなんていや。それならば元に戻らず、このままでいて」
涙が落ちる。次々に湧いては頬を滑り落ち、拭うことさえできない。
天雷に会えるのが今宵限りなど信じることができず、彼の体を抱きしめる。縋るように腕を回して、どこにも行けないようにしてしまいたい。
「私、天雷が好きよ。あなたがいなくなるのは耐えられない。妃と大家でなくても、妃と宦官でも、何でもいいの。結ばれなくてもいい。あなたが生きていてくれればいいの」
「……嘉音様」
「消えないで。死なないで。そばにいて。お願いよ」
天雷が失踪した後の二年間は地獄のようだった。生きたところで何の幸福も得られず、ただ時間に流されていくだけ。彼がどこかで生きていることを願う日々だった。
それが後宮にて再会できた時は幸せでたまらなかった。あの地獄の二年も無ではなかったのだと喜んだ。妃と偽りの大家という立場になり、想いが通じたのは奇跡だ。このままずっと彼と共にいたいと願うほどに。
死んでしまえば、二度と会えなくなる。彼の体はとうに死んでいる。
「いなくならないで……消えないで……私のそばにいて」
すがりつき、泣く。
この体が徐祥雲のものだとわかっていても、天雷への想いが勝る。ただ彼に、生きていて欲しい。
その胸元に顔を埋め泣いていると、優しく頭を撫でられた。天雷だ。確かめるように見上げれば、悲しげな微笑みがそこにある。
「俺も、嘉音様をお慕いしています。きっと、あなたが想像する以上に、あなたを愛しています。できることならばこのまま傍にいて、あなたを眺めていたい」
「天雷……」
「あなたを想うたびに、胸の奥が苦しくなるんです。あなたが微笑めば俺まで幸せな気持ちに満ちる。たまにいたずらをしてあなたを困らせてみたくなる。この世にいる誰よりも、嘉音様を愛している自信がありますよ」
そう告げ、嘉音を抱きしめる。その腕は強く、手放したくないと叫んでいるようでもあった。
「ではこのまま、戻らなければいいのよ。お願いよ、天雷。死なないでほしいの」
「……できません」
強く抱きしめられ、伝わってくるのは彼の悲しみだ。
「この体は兄のもの。徐祥雲に返します――今夜が最後です。だからお別れの前に、嘉音様を抱きしめたかった。そうすればきっと、あなたを想って死ねるから」
嘘であってほしいと願っても、現実は迫り来る。立場の異なる二人が混ざり合えた奇跡は、ついに終わりを迎えようとしていた。
揺れた蝋燭の火に、嘉音は二年前のことを思い出していた。
後宮入りのことを天雷に明かす時は、このような未来を想像していなかった。あの話をして天雷が失踪することさえ想像していなかった。
ただあの日、唯一の後悔がある。彼に言えなかった言葉が、ひとつだけ、残っている。
「ねえ、天雷」
嘉音が言う。
「二年前の日にね、『二人で逃げましょう』って言いたくて、でも言えなかったの」
「どうして言わなかったんですか?」
「天雷が私のことを好いているかわからなかったの。断られたらきっと悲しくなる。あの頃の私は、天雷のことが好きでも、想いを伝える勇気がなかったのね」
「あの頃から、俺は嘉音様のことが好きでしたよ」
「告げていたら、未来は変わっていたのかしら。私たちは逃げ出して、幸せに生きていたのかしら」
天雷はしばし口を閉ざした。おそらくその未来を想像しているのだろう。その後に苦笑し、嘉音の頭を優しく撫でた。
「俺は、いまの方が幸せですよ」
「どうして」
「奇跡が起きて、嘉音様と結ばれた。それが一時だとしても構いません。これが俺にとって一番の幸せです」
朝日がのぼれば、奇跡は終わりを迎える。
ぎゅっと強く抱きしめれば、同じように天雷も抱きしめ返す。その存在が、まもなく消えてしまうなど信じたくなかった。
『恋など存在せず。思慕など成らず。諦めて生きるしかない。この世は悲しいものだから』
母の言葉がよぎった。
(想いは成らず、成ったとしても消えてしまう……お母様もこんな苦しみを抱いたのかしら)
深く想うものを諦めることは難しい。半身をもがれるような痛みだ。その痛みを抱えて生き続ける世は、きっと悲しいものだろう。
「……私、諦めたくないの」
まもなく訪れる別れの悲しみに耐えられず、知らずのうちに、呟いていた。
「祥雲様に戻って欲しいと願う人が多いことはわかっている。きっと凌貴妃だってそう。天雷のままであることを望むのは私だけかもしれない。それでも私はあなたを諦められない」
「……嘉音様」
「天雷が消えてしまっても諦めずにあなたを探す。奇跡が終わってしまっても、私はあなたを想い続ける」
これは、夢だ。恋い焦がれていたから奇跡が起きて、結ばれる夢を見たのだ。そうわかっていても諦めたくない。術があるのなら朝日がのぼっても夜になっても彼に会いたいと願う。
「……嘉音様と逃げ出すことができたら、きっと幸せだったでしょう」
天雷がそう言った。嘉音を抱きしめる腕の力が一段と強くなる。逃げ出す道を選べないことは二人ともわかっている。嘉音を包む腕が天雷のものではないからだ。
「俺が消えるその瞬間まで、このままでいさせてください。この幸福の中で消えたいのです」
どうかこの奇跡が終わらないでほしいと願い、目を瞑る。
嘉音もそして天雷も、流れゆくこの時を惜しんでいた。
***
東の空に陽がのぼり、朝を報せる金鐘が鳴る。
ぱちりと瞳を開いた嘉音は、隣で眠る者の顔を確かめた。嘉音が起きたことで彼も気がついたらしい、瞼がゆっくりと開き、視線が嘉音に向けられる。
「てんら――」
天雷、と呼びかけたその言は、宙に消えていった。
「……薛昭容だな」
天雷と異なる呼び方。それは奇跡の終焉を示している。
「髙慧から話は聞いている。迷惑をかけたな」
「あの、天雷は……」
「去っていった」
その言に、嘉音の表情が凍りつく。覚悟はしていたが、いざ目の前で起きると耐えがたい。視界が滲み、涙がこぼれ落ちそうになる。
大家もそれに気づいたらしく、嘉音の目元に触れ、落ちかけた涙を拭った。
「……すまなかった。私のせいで髙慧と薛昭容を苦しめてしまったな」
「いえ、感謝しております。そのおかげで、結ばれるはずのない私たちが、一時でも共にいられたのですから」
「そうか……髙慧、いまは天雷だったか。あやつもそう言っていた」
「天雷も、同じことを?」
嘉音の問いに大家が頷く。
「私はずっとあの体にいたが眠っていたからな、それを起こしてくれたのが髙慧だ。ここに至るまでの話と、私の体で動き回ったことを詫びられた。だが奇跡のように幸せだったと感謝を述べていた――あやつを巻き込んだのはこちらなのにな」
「巻き込んだとはいったい? なぜ二人が入れ替わったのでしょうか」
「ふむ。薛昭容には明かしてもよいだろう。あの日、私は――」
大家がそう言いかけたところで、扉が叩かれた。今晩は白李宮にて過ごすと告げている。朝に迎えがくるよう手配していたのかもしれない。
そうしてやってきたのは葛公喩だった。彼も天雷から話を聞いていたのだろう。入るなり長揖し、大家に告げる。
「徐祥雲。迎えにきたよ」
「ああ、そうだったな。お前がくると聞いていた。となれば、話をしにいかねばならないな」
そう言って、大家は嘉音に視線を送る。
「薛昭容も共に――桃蓮宮に行く」
その表情に天雷の面影は微塵も感じられない。彼はもう、消えていた。