後宮悲恋に願う奇跡



 今日は緑涼会があるからと、普段よりも支度に時間がかかった。慈佳や宮女らも、妃嬪ほどでないといえ髪に飾りをつけている。

 刻限が迫ると嘉音らは髙祥殿に向かった。
 中庭は既に準備が終えてあり、花器に活けられた花が飾られている。まるでここが星辰苑になったかのような草花の賑わいだ。また髙祥殿中庭には小さな池もあり、冷涼な気を与えている。
 中央には敷物があり、端には大家や妃嬪らのために設けられた席がある。見晴らしのよいところに四妃の席がつくらえ、凌貴妃はそこにいた。嘉音は昭容の位を与えられているため、九嬪にあたる。四妃ほどではないが、それなりに良い席だ。
 嘉音の隣には同じく九嬪の者たちが座る。(りゅう)充儀(じゅうぎ)の姿を見つけ、嘉音は声をかけた。

「劉充儀。今日は良い天気に恵まれましたね」

 和やかに声をかけたつもりでいた。だが、劉充儀は嘉音と目を合わせるなり、何事もなかったかのように顔を背け、返答はない。

「……劉充儀?」

 その異様な様子に嘉音がもう一度声をかける。それでも劉充儀は引き結んだ唇を開こうとはしなかった。

(無視されている? どうしてかしら)

 劉充儀と最後にあったのは、宮に招かれた日だ。その時は、何事もなく、劉充儀の機嫌を損ねるような発言もしていなかったと記憶している。なぜこのような態度を取るのか、嘉音は見当もつかなかった。

 そこへやってきたのが()才人(さいじん)だった。見知った顔を見つけて安心したらしい。

「ああ、劉充儀。ここにいましたか――」

 呉才人はそう言いかけたが、視界に嘉音を捉えたらしく、そこで息を呑んだ。表情はみるみると青くなる。嘉音がここにいなかったかのように視線を外す。

「呉才人、行きましょう」

 劉充儀にとっては助け船だったのだろう。呉才人に声をかけ、そそくさとその場を離れる。それはまるで嘉音を避けるように。

(……なるほど)

 二人の動きから、この状況を把握する。
 あらためて見渡せば、妃嬪は嘉音と目を合わせようとしていない。近くにいる者も、息を潜めて怯えている。嘉音に声をかけられないようにと願っているのが伝わった。

 そして何より――凌貴妃だ。彼女は振り返り、嘉音の様子を眺めている。扇で口元を隠しているがおそらく嗤っているのだろう。

(一人になった私を眺めて楽しんでいるのね)

 呉才人や劉充儀にも、嘉音と接しないように脅しをかけたのだろう。さらに他の妃嬪にも根回しをし、孤立させるのだ。妃嬪が集う緑涼会は格好の場である。凌貴妃の言に従うか薛昭容に着くか、妃嬪らはこの場でそれを示さなければならない。

 これに慈佳も気づいたのだろう。そっと耳打ちをする。

「薛昭容。誰かが仕組んでいるのかもしれませんね」
「そうね。孤立したところで私は構わないけれど――」

 嘉音はちらりと呉才人と劉充儀を見る。特に呉才人は青ざめていた。時折、凌貴妃の方を見て、反応を伺っているようだ。
 様々な思惑絡む後宮といえ、これでは息苦しいだろう。

「強いられている妃嬪が可哀想だわ……これ以上、何事もなければよいけれど」
「ええ……恙なく終わるよう、願うしかありません」

 緑涼会はこれから始まる。嫌な予感はありながらも、嘉音はそこに居続けるしかなかった。


 緑涼会は妃嬪らがそれぞれの芸を披露する場でもある。それぞれが舞や歌を披露していく。特に良き舞手として知られる呉才人の舞は美しかった。髙祥殿に添えた花ともよく合う。
 本来はここに大家がいて、彼の寵愛を得るべく競い合うところだが、今日は空席となっている。芸事の披露もあっさりとしたものである。

(私はそういったことには向いていないから、呉才人や劉充儀が羨ましいわ)

 呉才人に負けず劣らず、劉充儀の舞も素晴らしいと噂に聞く。おそらく劉充儀も披露するのだろう。無視されていたとしても彼女の舞を見るのを楽しみにしていた。
 その時だった。

「薛昭容は何を披露なさるの?」

 声をあげたのは(たん)昭儀(しょうぎ)だ。彼女は凌貴妃を慕っているので、今回声をあげたのは薛昭容を貶めるためだろう。
 あたりは嘉音の動向を窺うように、しんと静かになっていた。

「いえ、私は――」
「あらあら。薛昭容とあろう方が、このような場で披露できる芸もないと?」

 逃げ道を断つように湛昭儀が続ける。つまりは、この場で嘉音に芸事の披露をさせたいのだろう。嘉音がそういったものに疎いことを知り、恥をかかせるために舞台にあげようとしているのだ。

「湛昭儀。そのような無理強いはよくないですよ……でも、大家の寵を得ている薛昭容がどのような芸を披露なさるのかは私も気になりますね。大家にしかお見せしたくないというのでしたら仕方ないことだとは思いますが」

 これは凌貴妃が言った。表向きは湛昭儀をなだめているものの、その言は嘉音を追い詰めるものである。
 こうなれば引くことはできない。意を決し、舞台にあがるしかないのかと考えていた時だった。

「大家が参られました」

 宦官が告げた。妃嬪らは慌ててその方を向き、長揖する。
 髙祥殿からやってきた大家は妃嬪らを見渡した後、誰にも声をかけず席につく。そのそばに葛公喩が着く。

(天雷……来たのね)

 嘉音としては助かったところだ。大家が来るのが少しでも遅れていれば逃げられず舞台に立たされていただろう。ほっと胸をなで下ろす。

「芸事の披露もよいものだけど、そろそろ涼みたいところだねえ」

 公喩が言った。この場でも物怖じせず大家に話しかけている。
 どうやらここからは花や草、池などを愛でる場になるようだ。公喩の言葉を合図に妃嬪が立ち上がる。大家は腰掛けたまま動かない。天雷であると知られないようにしているのだろう。

 嘉音は少し悩んだものの、池の方へと向かった。嘉音が動くと他の妃嬪は逃げるように去っていく。

(黄金の鯉……風禮国からの贈りものと聞いたわね)

 その小さな池を、黄金に塗られた鯉が悠然と泳ぐ。水の中はさぞ気持ちよいことだろう。
 他のところにも移りたいが、嘉音が行けば妃嬪らは避けるのだろう。彼女らを思うと動かない方が良いように思えた。
 だが――そうして池を眺めていた時である。

 ぴちゃりと、何かが跳ねた音がした。

(水音? 鯉が跳ねたわけでもないのに)

 違和感を抱き、あたりを見渡す。そばには慈佳と、白李宮から連れてきた一人の宮女がいた。他の妃嬪らは草花を眺めている。誰かが池に落とし物をしたわけでもなさそうだ。
 そして池に視線を戻す。しかし、あれほど元気に泳いでいた鯉の動きがゆっくりしたものに変わる。ひれや尾はだんだんと動かなくなり、ついに――

「ひいっ」

 慈佳が声をあげた。鯉がぷかりと水面に浮いてきたのだ。白い腹を見せて浮く、その姿は魚らしさを欠いた不自然なものだった。

「し、死んでいる……?」

 嘉音が呟く。その頃には慈佳の悲鳴を聞きつけ、宦官や衛士が集まってきた。彼らは池を覗き、顔をしかめる。

「なんてことだ。黄金鯉が」
「先帝が大事にされていたというのに」
「不吉の兆しかもしれぬ」

 死した鯉を眺め、それぞれが呟く。突如このようなことが起きたのだ、妃嬪らもざわついている。公喩もやってきたが、彼は何も言わず、真剣な顔をして池を眺めていた。

「このようなことが起きたとなれば祓いが必要かもしれない」
「緑涼会は中止にすべきだ。警備を強化しよう」
「これは――第四皇子の幽鬼(ゆうれい)でしょう」

 凜とした声で告げたのは凌貴妃だった。彼女の言に、ざわついていた中庭は水を打たれ静まり返る。
 凌貴妃は池の方へと歩み寄りながら告げた。

「第四皇子の幽鬼が出ると噂を聞きます。このように華やかな場ですもの、幽鬼が羨むのも当然のこと」

 そう言いながら、彼女の視線がこちらに向けられた。嘉音がどのような反応をするか試しているのだろう。
 だが嘉音より先に動いたのは公喩だった。

「どうしてこれが幽鬼の仕業だと?」
「たびたび目撃されているのですよ。髙祥殿に立ち入る姿や星辰苑に入る姿、第四皇子が最後に住まわれたという兒楽(じらく)(きゅう)のあたりで見ると、よく噂を聞きますね」
「目撃されたからといって、これを幽鬼の仕業と決めつけるのは尚早じゃないかな」

 第四皇子の幽鬼は呉才人や劉充儀も語っていた。凌貴妃の言う通り、よく聞く話なのかもしれなかった。異を唱えるのは公喩だけで、妃嬪や宦官らは驚きもせず、納得した様子でいる。

(兒楽宮……第四皇子が最後に住んでいた場所……)

 その名を覚えておかなければならないと嘉音は考えた。そのことに夢中で、周囲への警戒が薄れていた。彼女の背後に湛昭儀がいることも気づいていない。

(何か……おかしな気がする。凌貴妃がこれを第四皇子の幽鬼だと語ったこと。その直後に私の様子を伺っていたこと……)

 そうして考えこんでいる時だった。

 とん、と体に何かが当たった。さほど強く押されたわけではなかったが、物思いに耽る嘉音はそれを予期せず、体がふらついた。

(あ――)

 体勢を崩し、受け身を取ろうと手を伸ばす。その先には鯉の死体が浮かぶ池があった。水深がそこまで深くないことはわかっている。手をつけばよいだろうと安易なことを考えていた。
 だが、聞こえてきたのは予想と反する者の声だった。

「薛昭容! だめよ、その水に触れては――」

 女人の声。

(凌貴妃? どうして)

 嘉音がそれに驚き、その方を見ると共に、別の者が体を引いた。

 ぐいと引っ張られ、水に触れることはなかった。厚い胸元がすぐ近くにある。嘉音を引き寄せるようにして助けたのだろう。見上げれば葛公喩がそこにいた。

「……危なかったね」

 公喩が安堵の息をつく。

「君は随分と水遊びが好きなようで」
「あ……ありがとうございます」
「気にしなくて良いとも。しかし気をつけた方がいいね、いつまた、誰ぞに落とされるかもわからない――ねえ、湛昭儀?」

 公喩はそう言って、湛昭儀の方を睨めつけた。彼女は視線を泳がせている
が、位置からしても彼女が嘉音にぶつかったのだろう。
 おそらく公喩は目撃している。だから湛昭儀の名前を出したのだろう。他にも衛士が見ていたかもしれない。追及がはじまる前にと、嘉音は告げた。

「いえ。湛昭儀は関係ありません」
「っ……君は、また……」
「私が考えごとをしてふらついてしまっただけです。公喩殿、助けていただきありがとうございました」

 これに葛公喩は動揺の色を隠しきれなかった。彼は飄々とした態度をよくとるが、珍しく苛立ちが現れている。嘉音がどうして湛昭儀を庇うのか理解できないのだろう。

(湛昭儀にも理由があるのかもしれない。この場でことを大きくするのだけは避けたい)

 葛公喩は嘉音の手首を掴んだまま。その力は強くなっていく。ぎりぎりと肌が傷んだ。

「君は……どうして……」

 彼の苛立ちが痛みとなり、ついに耐えきれず嘉音が声をあげようとしたところで――周囲にいた宦官が、一歩後退り頭を垂れた。嘉音、そして公喩もやってきたその人物を見上げる。

「……大家」

 彼は冷ややかに嘉音を見つめていた。公喩も大家がやってきたことに驚き、手首を掴む力を緩めた。

「薛昭容。こちらへ」

 そう告げると同時に、大家が嘉音の手を取る。

「薛昭容を白李宮に連れて行く」

 妃嬪や宮女、宦官らが一斉に拱手する。
 振り返らず歩き始めた大家を引き止められるものはいない。嘉音も大家に手を引かれて連れ出される格好となってしまった。白李宮の宮女らは慌てて後を追ってきたが、それ以外のものは髙祥殿に残されたままだった。


 白李宮に戻ると、大家――天雷はすぐに人払いをした。
 ここまで天雷は一言も語らなかった。ちらりと見上げた表情は強ばっている。そこに怒りが潜んでいるようにも見えた。

「天雷、どうしたの」

 嘉音が問うも天雷は答えない。部屋に入るなりその場から動かず、俯いている。その異質な雰囲気が恐ろしく感じた。

「天雷ってば。ねえ、私の話を――」

 聞いているの、と問いかけたものは飲みこんだ。顔の横を風が通り抜ける。視界は薄暗くなり、圧迫感がある。見れば天雷の腕が視界の端にあった。おそらくは嘉音の後ろにある壁に手をついているのだろう。

「……どう、したの」

 眼前にある天雷が恐ろしく、声が震えた。
 苛立ちと悔しさをこめたようなまなざしが向けられている。それは嘉音を射貫くように、飢えた獣のような荒々しさを秘めていた。
 普段穏やかに微笑む天雷がこのような顔をするなど知らなかった。驚く嘉音の身に、影が落ちる。

「っ――て、んら……」

 急に影が落ち、咄嗟に目を瞑れば、唇に柔らかなものが押しつけられた。それが彼の唇であると気づいたのは、吐息を間近に感じたためだ。
 口づけと呼ぶにはほど遠く、怒りを混ぜ、貪るように唇が重ねられる。呼吸が乱れ、声をあげることすらままならない。重ね合わせた唇に隙間が生じるも、逃げ道を塞ぐように天雷が貪る。

 好いた者がいて、口づけをして――それは幸せなことだろうと嘉音は思う。憧れた時もあった。けれどこれは違う。伝わってくるのは天雷の怒りや悲しみといった負の感情だ。

 なすがままにされていた嘉音だったが、ようやく解放されると腰が抜けた。その場にすとんと座りこみ、体を震わせながら天雷を見上げる。

「……怒って、いるのね?」
「そうだと答えたら……嘉音様はどうされますか?」
「私、天雷がどうして怒っているのかわからないもの」

 天雷はやるせない顔をし、深くため息を吐いた。

「俺は、俺自身に怒っています。嘉音様を守ると誓っておきながら、あなたが転びそうになった時、すぐに駆けつけることができなかった」

 悔しそうに呟く。天雷は、嘉音の手に触れていた。それは先ほど、公喩に手首を掴まれた方の腕だ。手首には赤い跡が残っている。

「公喩が羨ましい。あなたを助け、抱きしめている。あなたを守るため宦官になると誓ったのにこれでは違う。俺は何も守れていない」
「そんなことないわ。私、天雷にたくさん助けられてきたもの」
「俺は何も出来ていません。黙って見守るだけ――だから、嫉妬したんです。あなたを堂々と助けることの出来る公喩を妬ましいと思った。いますぐにあなたを抱きしめ、自分だけのものにしたかった」

 そう言って、天雷が顔をあげた。いまにも泣き出しそうな顔をして、嘉音を見つめている。

「こんな嫉妬をするなど浅ましいですね。申し訳ありません。自制できずあのように触れてしまうのですから、嘉音様もきっと、俺のことを嫌いになったでしょう」

 その表情が切なく、胸に焼き付く。荒々しい口づけは、彼の苛立ちが膨らんだ結果なのだろう。突然のことに驚いたが、理由を知ればそれすら愛おしく思えてしまう。

「嫌いになんて、絶対にならない」

 嘉音は告げた。

「驚いたけれど……でも天雷に触れられて幸せだったの。だから嫌いになんてならない。私が好きなのはあなただけよ」
「……嘉音様」
「だからお願い。こちらを向いて」

 立ち上がり、天雷に向けて手を伸ばす。彼の頬に触れれば温かく、幸福が感じられた。

「先ほどのやりなおしをして。もう一度、口づけをしてくれたら、それでいいから」

 天雷は驚いたような顔をし、しかしすぐにいつもの笑みを浮かべて頷いた。今度は優しく、慈しむように影が落ちる。唇は先ほどと変わらぬ柔らかさで、しかし全身に染み渡るような穏やかな熱を秘めている。

(天雷……ずっとこの時間が続けばいいのに)

 唇が離れて瞳を開けば、そこにいるのは大家の(かんばせ)

(元の体に戻れば嬉しい、けれど、供に居られることができたら……)

 距離が近づき、接すれば接するほど、叶わぬ夢を描いてしまう。
 昔に、母が語っていた言葉を思い出した。

(『恋など存在せず。思慕など成らず。諦めて生きるしかない。この世は悲しいものだから』――でも諦めるなど、私にできるのかしら)

 恋も思慕もここにある。相思相愛の喜びを一度味わってしまったのだ。それが消えた時、諦めて生きることができるだろうか。いまの嘉音には想像もつかなかった。
 緑涼会(りょくりょうかい)から数日後に事件が起きた。

 その日は宮城が慌ただしかった。白李(はくり)(きゅう)にいる(せつ)嘉音(かおん)にさえ、外を行き交う宦官と衛士の騒ぎが聞こえてくるほど。

「何かあったの?」

 嘉音が聞いた。これに答えたのは白李宮付きの女官である慈佳(じけい)だった。彼女は陽がのぼって早い頃に髙祥(こうしょう)殿(でん)へ遣いに出ていた。この騒ぎのことも知っているらしい。

桃蓮(とうれん)(きゅう)にある池の鯉がすべて死んでいたそうです。突然、お腹からぷかりと浮いてきたのだとか」
「……緑涼会でもそのようなことがあったわ」

 緑凉会で、大家(ターチャ)が飼っていた黄金鯉が突然死んでいる。そのことを慈佳も覚えていたらしく、彼女はすぐさま「ええ」と頷いた。

「昨日、桃蓮宮で不審な物音がしていたそうです。ざらざらと異質な音がし、朝になれば鯉がすべて死んでいた――これらのことから、第四皇子の幽鬼(ゆうれい)がでたと騒ぎになっているのですよ」

 緑涼会でも第四皇子の幽鬼によるものだと(りょう)貴妃(きひ)が言っていた。今回もそのように騒いでいるのだろうと想像がつく。

「……幽鬼が、本当に妃嬪を襲うのかしら」

 嘉音はどうも、この話を受け入れがたく思っていた。
 幼くして亡くなった第四皇子によるものなら、なぜ妃嬪を狙うのか。現在帝位についている大家こと(じょ)祥雲(しょううん)は第四皇子の兄にあたる。兄の妃らまで危害を与えずともよいだろう。恨むのならば大家だけを狙えばよい。
 この凌貴妃については気になるところがある。

(緑涼会で、水に触れてはだめと叫んでいた。幽鬼の祟りだと言いながら、どうして水に触れてはいけないと知っていたのだろう)

 だが直接聞いたところで凌貴妃は答えてくれないのだろう。嘉音は特に嫌われているらしい。
 緑涼会でもそうであったように、妃嬪は(せつ)昭容(しょうよう)を遠ざけるようになった。それもおそらく、凌貴妃が根回しをしたと考える。無理に近づけば、相手の立場にも影響を与えるだろう。妃嬪らに問う選択肢も消えていた。

「嘉音様は幽鬼をどう思われますか?」

 慈佳が聞いた。嘉音はしばらく悩み、答えを出す。

「……もちろん恐ろしいけれど、本当に幽鬼がいるのなら哀れだと思う。死してもなお恨まずにいられないなんて可哀想だわ」
「嘉音様はお優しいですね」

 ふっと、慈佳が微笑んだ。
 今日はこの騒がしさであるから、長々と外に出ることはできないだろう。かといって宮にいるのも飽いてしまう。
 そこで思い出したのは()(らく)(きゅう)だ。幽鬼として騒がれている第四皇子が最期の時を送った宮らしい。

「兒楽宮に行ったことはなかったわね」
「あの宮はよくない話があり、近づく者は少ないのです」

 慈佳が答えた。表情は暗い。何度も白李宮を出たが、慈佳が兒楽宮に案内したことは一度もなかった。

「後宮は外れにございます。過去に罪を犯した妃嬪を幽閉していたこともあり、よくない気が流れているといわれていますから……」
「第四皇子は罪を犯したの?」
「いえ。第四皇子は何もしておりませんよ。第四皇子は先帝に可愛がられていましたので宝座に着くのではと一時噂されていました。ですが、彼は体が弱く、病がちでした。兒楽宮にうつったのは彼が患った流行病のため隔離されたのです」

 なるほど、と嘉音が相づちをうつ。しかし慈佳はこういった話に詳しい。嘉音が疎いこともあるが、それにしては見てきたかのようにこの物事を話す。

「慈佳は詳しいのね」
「私も人づてに聞いただけですよ。この頃の話は知る者が多いのです。一部の妃嬪の方は、当時の皇子たちと会っていますよ」
「そうなの?」
「ええ。例えば凌貴妃もその一人ですね。凌家の当主が宮城に招かれたので、幼い凌貴妃を連れてやってきたそうです。年頃も近いため親しくなったのでしょう」

 帝に招かれ宮城に向かう者といえば限られる。貴顕な家柄でなければ厳しいだろう。凌家当主は、先帝の姉にあたる公主(ひめ)を嫁にもらっているので、後宮入りに相応しい家柄と言える。

「凌貴妃は幼少から美しいと評判でしたからね。そこで大家が凌貴妃を見初めたそうですよ」
「大家と凌貴妃は幼馴染なのね」
「ええ。後に寵愛を受けるのも納得のこと。大家は帝位につけば必ず凌貴妃のために宮を建てるとまで誓ったそうですよ」

 それが桃蓮宮なのだろう。大家の深い愛が示されている。

「それで、兒楽宮はどうされます? 私としてはあまり勧めたくないのですが……」
「行ってみたいの。遠くから見るだけでもいいわ」

 嘉音が言うと、慈佳は困ったように息をついた。しかし断れないと考えたのか、拱手をし「かしこまりました」と頭を垂れた。


 どうやら兒楽宮は宮女も近づきたくないらしく、供をする宮女はいつもより少ない。白李宮女官である慈佳も気乗りはしていないようだ。いつもより表情が硬い。
 後宮の奥。北側に位置し日当たりも悪いその場所は、手入れが行き届いていないのか庭も雑草が生い茂っている。他の宮に比べてこじんまりとした薄汚れた宮が兒楽宮だった。

(みなのことも考えて、少し遠くから見るだけにしよう)

 ここで第四皇子がどのような死を迎えたのか。幽鬼騒ぎが増えているいま、彼の最期の場所を見ておきたかった。
 そうして近づいた時である。慈佳がぴたりと足を止め、嘉音に告げた。

「どなたかいますね」
「あれは、凌貴妃? どうしてここにいるのかしら」

 そこには供をわずかに連れた凌貴妃がいた。雰囲気がいつもと異なり、声をかける気になれない。かといってここに残っていれば、凌貴妃に見つかってしまうだろう。
 嘉音も足を止め、凌貴妃の様子を見守る。凌貴妃は、兒楽宮の庭に屈んで何かを見つめていた。

(大きな百合(ゆり)の花が持ってきているけれど、ここに咲いているものではない)

 凌貴妃は宮女から百合の花を受け取ると、それを庭に置いた。深く瞳を閉じ、何かを呟いている。表情から察するに憎しみや恨みはない。伏せられた瞼は悲しげな色を秘めている。
 兒楽宮で花を供える――その行動から思いついたのは第四皇子のことだった。

(凌貴妃が幼い頃の大家と会っているのなら、第四皇子のことだって知っているかもしれない。この花も第四皇子に供えているのかも)

 思えば、第四皇子の幽鬼と言い出したのも凌貴妃である。噂として広まっていると聞いたが、噂は辿れば必ず出所がある。
 それに。幽鬼の仕業といいながら、池の水に触れるなと叫んだのも彼女だ。

(……何かある。きっと)

 凌貴妃の行動は謎にみちている。だがひとつだけ、嘉音にもわかることがあった。

(大家に抱く想いだけは偽りがない……そう思う)

 凌貴妃は瞑想を終え、ゆるりと立ち上がった。宮女らに伝え兒楽宮を出て行く。運よく、彼女らは嘉音がいる場所とは別の方へ歩いて行ったので、見つかることはなかった。

 凌貴妃が去ったところで嘉音は兒楽宮に近寄る。慈佳には伝え、宮女らは少し離れたところで待ってもらうことにした。嘉音も、兒楽宮の庭にしか立ち寄る気がない。その場所なら離れていても嘉音の姿が確認できるはずだと考えた。

 まずは凌貴妃が手向けた百合の花を見る。その近くには墓碑もなく、好き勝手に伸びた雑草があるだけだ。
 さらにあたりを見渡すが、目を引くようなものはない。あまり手入れのされていない印象しか抱かなかった。

「第四皇子は、ここにいたのね」

 宮を見上げて呟く。幼くして亡くなった第四皇子は何を考えていたのだろう。

「……へえ。今日はお客さんが多い」

 男の声がした。誰もいないと思いこんでいた嘉音は驚き、振り返った。
 そこにいたのは(かつ)公喩(こうゆ)だった。彼はへらりと笑みを浮かべている。

「公喩殿もここに?」
「うん。僕は少し頼まれ事をね。大きな用事というわけでもない。花の回収をするだけだ」

 そういって公喩は、凌貴妃が手向けた百合の花を拾った。それは第四皇子に捧げたものだと思いこんでいたので、それを彼が取ったことに驚く。

「いいのですか? それは凌貴妃が第四皇子に贈った花なのでは」
「そうだろうね。だけど、僕が回収するように頼まれているから」

 凌貴妃が花を供えた理由については推測だったが、公喩の口ぶりからすると当たっているらしい。凌貴妃の目的を知っても、公喩は花を元に戻そうとしない。

(公喩殿はいつから華鏡国に来ていたのだろう)

 彼が幼い頃から来ていたのならば、第四皇子とも会ったことがあるのだろうか。拾い上げた花を見つめる瞳に感情はこもっていない。嘉音はそれを公喩にしては珍しい表情だと感じた。
 そうして眺めていることに公喩も気づいたのだろう。彼は嘉音の方へ視線を向けた。

「いつぞやはすまなかったね。君の手を強く掴んでしまった」
「気にしないでください。それよりも助けて頂いてありがとうございました」
「無事で何よりだよ。君があの水に触れていたら、その指が爛れていたかもしれないからね」
「あの水に……何かあるのでしょうか」

 彼の物言いが引っかかり、嘉音は眉根を寄せた。
 凌貴妃もそうだった。彼女も池の水に何かがあると知っているような口ぶりをしていた。いまの公喩もそうである。

「あるとも。そうでなければ、黄金鯉は死ななかった――君はそれが何かわかる?」

 しばし嘉音は逡巡した。池の魚が急に死ぬ。誰も魚には触れていないのに、そのようなことが可能だろうか。嘉音が知る限り、魚に触れず魚を殺めるのは難しい。だが水が汚染されていたらどうだろう。答えが浮かぶ。おそるおそる、それを声に出していた。

「……例えば、毒、でしょうか」

 だが毒だとするのならば、人の手によるもの。第四皇子の幽鬼の仕業とは考えられなくなる。それに気づき、嘉音の声が震えていた。
 公喩はにたりと笑みを浮かべた。

「君は池の近くにいただろう。誰か怪しい動きをしていなかったかな」
「水音は聞こえました。鯉が跳ねたような、でも跳ねていなかった。あの時に誰かが毒を投げ入れたと?」
「そう考えるのが妥当だろうね。だから僕もあれは毒だと思う」
「公喩殿はその場で気づいたのでしょうか?」
「もちろん。池の水がわずかに変色していたからね。独特の紫色。水によく溶け、即効性を持つ毒――育てたことがあるからわかる。あれは()(どく)(よう)から抽出した毒だ」

 その名を聞いたことがある。風禮国から持ち運ばれた植物だと公喩が語っていた。それは星辰苑の隅で育てられているということも。
 嘉音は毒に詳しくないため、あの池に毒が放り込まれていたなど判断できない。だが公喩の語る言は間違いないのだろうとの考えに至っていた。

(水が毒で汚染されていたのなら、凌貴妃が止めた理由もわかる)

 公喩だけでなく凌貴妃も水が汚染されていると気づいていたのなら。緑涼会で嘉音がよろけた際、真っ先に声をあげたのは凌貴妃だ。彼女は『水に触れてはいけない』とはっきり叫んでいる。

「不思議だよねえ。凌貴妃はあれを幽鬼の仕業と主張していたのに」
「黄金鯉の死因が毒によるものならば、幽鬼の仕業ではない……」
「彼女は毒が原因だと知りながら幽鬼だと騙ったのかもしれないね――ここまで聞いて、君は凌貴妃をどう思う? さすがの君でも彼女を恨むだろう?」

 嘉音はうつむいた。
 毒であることを伏せ、死者である第四皇子が犯人だと叫んだのだ。それを許せるかといえば悩ましい。

(どうして幽鬼の仕業だと叫んだのかしら。それに私を嫌っているのなら、水に触れることを止めたりはしないはず)

 凌貴妃が取った行動の理由がわからない。本当に嘉音を疎んじているのなら毒で汚染された水に突き落とせばよい話だ。だが実際は公喩より早く、嘉音の身を案じている。

「……恨むことはありません」

 嘉音が告げた。

「何か理由があるのでしょう。その理由を知りたいです。それがわかれば許せるのかもしれないし、許せないのかもしれない。わからないまま判断したくはありません」

 これに公喩は目を見開いていた。信じられないと対面したかのように動きが止まっている。しばしの間を置いて彼が動き出した時、その声音には苛立ちが混ざっていた。

「君はどうして、周りに優しくなれる。ここは宮城だ。優しさを振りまいたところで返ってくるとは限らない。現に君は、妃嬪らから声をかけられなかっただろう」
「私が孤立しているのは確かです。でも彼女らにも理由がある。この後宮で生きるために従わなければならなかったのかもしれません」
「……君はいつか、殺されるぞ」

 公喩は苛立っている。固く握りしめた拳は怒りに震えている。だがその怒りは嘉音というよりも宮城に向けられている気がした。彼が抱く苛立ちに臆さず、嘉音が問う。

「公喩殿は、宮城がお嫌いなのですね」
「そうだよ」

 あっさりと、公喩が認めた。

「華鏡国でも風禮国でも、宮城や後宮という場が嫌いだ。いつだって閉塞された園に集まった者たちは醜い争いをする。帝位の継承や家柄などとくだらないものを競い合い、人の命が危ぶまれたって厭わない。現に君だって嫌がらせを受けただろう。星辰苑の池に落ちた時だって僕がいなければ死んでいたかもしれない」
「それは……その通りです」
「本来ならば幸福な定めを与えられていただろう人が、くだらない矜持に左右され命を落とす。ここはそんな場所だよ」

 じり、と公喩が一歩詰め寄る。飄々とした普段の態度からは信じられないほど、彼のまなざしは冷えていた。

「君のような人はここに向いていない。いつか殺される」
「……公喩殿は、そのような場面を見てきたのでしょうか」
「そうだよ。何度も、ね」

 手元の百合に視線を落とす。嘉音にとってはただの百合にしか見えないが、公喩にはもっと違う、悲しいものが見えていたのかもしれない。細められた瞳は苛立ちと悲しみに揺れていた。

「僕は何度も殺されかけた。継承権を放棄して華鏡国に来たことで命を繋いだようなものだ。けれど華鏡国だって同じ。くだらないもので競い合い、子を殺そうとする者がいる」

 ぐしゃり、と百合が潰れた。公喩が握りつぶしたのだ。それほど彼の怒りが込められている。

「優しいんだ。誰にでも優しくあろうとする子だった――なのに不幸に落とされた。生まれた順番や生んだ妃嬪に左右され、彼の苦労は報われることがない」

 おそらく第四皇子のことだろう。だから彼は、花を回収しにきたのかもしれない。彼の中で第四皇子はまだ死んでいないのかもしれなかった。

「君は何も知らないだけだよ。その優しさを捨てなければ、最も身近な人に裏切られる」
「公喩殿は裏切りをわかっているような言い方をするのですね」
「そうとも。人はみな、隠し事がある。君が信じている人だって、君に明かせない秘密を持っているかもしれない。だから人に優しくしたところで無駄だ」

 公喩が言い放つ。握りつぶされた百合の花がはらはらと地に落ちていく。荒れた庭に白の花びらは目立つ。風が吹けば花びらは庭中に広がるのかもしれない。
 何をされても許すのではなく、瞳を開き、その理由を探る。許せる可能性を探らずに諦めるなどしたくない――それが嘉音の考える優しさだ。

「私は、それでも優しくありたいです」
「もし、君が信じている天雷に秘密があったとしたら、君は受け入れられる?」
「……天雷に?」

 嘉音の動きがぴたりと止まった。天雷に秘密があるなど想像もしていなかったのだ。意表を突かれ、嘉音の思考が遅れる。その隙に公喩が言った。

「君はその優しさを持って、人の真意を見抜こうとする。追及とは優しさだ。たとえひどいことをされてもその理由を突き止めようとするのだろう――けれどそれを望んでいない者がいたとしたら? 君の優しさが、隠しておきたいことを曝いてしまうとしたら」

 すぐには答えられなかった。天雷の顔が頭に浮かぶ。

(天雷にもそういう隠し事があるのかしら)

 これまで天雷がそのような素振りを見せたことはなかった。嘉音はまったく気づかずにいたのだ。おそらく天雷も、それを知られたくないと考えている。
 宮城にいるうちにそれに触れる日がくるのかもしれない。天雷の隠し事を受け入れられるのか――瞳を閉じ、考える。答えは出ていた。

「私は天雷を信じています。どんな隠し事があったとしても、私の好きな天雷に変わりはありません。それを彼が明かしても明かさなくても、私は受け入れます」
「……頑固だね。降参だよ」

 公喩はため息をついた。表情から険が抜け、いつもの飄々としたものに戻る。

「僕は止めないよ、好きにすればいい。せいぜい殺されないように」
「はい。大丈夫です」
「じゃあ僕は戻るよ。花の回収を頼まれていたのに、だめにしてしまったからね。謝らないと」

 そう言って、公喩が歩き出す。嘉音の隣を通り過ぎていくとき、彼のひとり言がぽつりと落ちた。

「君みたいな人がいたら、風禮国も変わるのかもしれない……」

 悔恨を混ぜた声音が耳につく。しかし問うことはできなかった。振り返って確かめた公喩の背が寂しげだったからだ。

 去っていけば風が吹く。兒楽宮の庭を風が吹き抜け、一箇所に溜まっていた百合の花びらが風に舞う。荒れた庭はあちこちに散らばり、まるで白の花が咲いたかのように。
 瞳を開いてそれを見やる。百合の花びらが点在するその庭を美しく感じた。

***


 数日後の夜のことだ。床についていた嘉音は、妙な物音で目を醒ました。
 ざらざらとこすれるような音が聞こえたのだ。最初は砂利を踏む時の音を連想したが、それにしては長い。じゃりじゃりと何かが流れるような、寄せては引くような、そんな音だ。

(何の音かしら)

 身を起こしてあたりを確かめるが部屋に嘉音以外の人物は見当たらなかった。

(もしかして外から聞こえている?)

 庭を眺めるも音の出処は掴めない。

 そのうちに、じゃりじゃりざらざらと響いていた音は遠のいていく。移動しているのかもしれない。
 こうなれば気になってしまい、再び眠りにつくのは難しそうだった。宮女を呼んで確かめようかと嘉音が動いた時である。

「きゃああああ、誰か、誰かきて」

 白李宮に悲鳴が響き渡った。悲鳴をあげたのは女人の声であるから、おそらく宮女だろう。慈佳ではない。
 嘉音は慌てて部屋を出た。どうやら悲鳴は(くりや)の方からあがったらしい。聞きつけた他の宮女らが駆けていく。嘉音も厨へと向かう。
 厨では、既に駆けつけていたらしい慈佳が、座りこんで泣く宮女をなだめていた。嘉音がやってきたことに気づき、みなが揖礼する。

「薛昭容。夜に騒ぎ立ててしまい申し訳ありません」
「気にしないで。それよりも何かあったの?」

 嘉音が問う。泣いていた宮女は顔をあげ、外の方を指で示した。

「あ、あの……変な音が聞こえて、外を見たら……人の顔が……」
「人の顔?」
「幼子でした。男児の……きっと第四皇子の幽鬼に違いありません」

 厨に集まっていた宮女たちがざわついた。みな、幽鬼の話を知っているのだろう。恐怖で青ざめる者もいた。

「恐ろしくてたまりません……次は白李宮ですよ。ここは呪われているのです」
「大丈夫よ。落ち着きましょう」

 慈佳は泣き竦む宮女の背を撫で、優しくなだめていた。嘉音も身を屈め、宮女に問う。

「厨に他の者はいた? 他にもその幼子の顔を見た人はいる?」
「いえ……私だけでした」
「変な音とは、じゃりじゃりと流れるような音?」

 宮女が頷く。他にも慈佳や、集まった宮女らもひそひそと話していたことから、みなが異音を耳にしていたようだ。

(本当に幽鬼がでたというの?)

 にわかには信じがたい。しかし不思議な音を聞いているため、幽鬼を否定することもできなかった。
 外から人の声がする。話を聞き、駆けつけた衛士が見回っているらしい。彼らは外で何かを話している。そしてまもなく、別の宮女が息を切らして駆けてきた。

「薛昭容。大変でございます」

 外は、衛士が持つ手燭の明かりが灯されている。それがちらちらと、庭で揺れている。その明かりは庭にある池近くに集っていた。衛士らがそこに集まっているのだろう。

「池の魚がすべて死んでおります」

 宮女がそう伝えると、慈佳や他の者らが息を呑んだ。
 異音。人の顔。そして魚の死――呆然と立ち尽くす嘉音の耳に、宮女たちのざわめきが届く。

「ああ……今度は薛昭容が狙われる」
「第四皇子の幽鬼は薛昭容を襲いにきたのね」

 緑涼会、桃蓮宮と立て続けに起こっていたため、容易に想像がついたのだろう。怯えた宮女たちの様子が、より不安を掻き立てる。



 朝を迎えても白李宮は慌ただしかった。次々と起こった事を調べるために宦官や衛士が次々とやってくる。
 その物々しい雰囲気は瞬く間に知れ渡り、後宮にいる者は誰もが噂するようになっていた。
 第四皇子の幽鬼が次に狙うは白李宮――薛昭容、だと。

 銀鐘(午後)になって、嘉音は星辰苑に向かった。白李宮は陰鬱とした気が満ち、宮女も落ち着かない様子だったので、気分転換にと慈佳が提案したのである。

「……あら。見て、薛昭容よ」

 星辰苑の先客たちは、薛昭容が現れるなり眉をひそめた。

「幽鬼に狙われているのでしょう? 幽鬼をみた者がいるとか」
「大家の寵愛を得たから狙われているのでしょうね」

 彼女たちの話し声が聞こえてくる。中にはあえて嘉音に聞かせるべく大きな声で話す者もいた。幽鬼を恐れているだけではなく、寵妃の嘉音に嫉妬し、それが狙われたことを喜んでいるようでもあった。
 嘉音が来たことで、みなが去っていく。その中に呉才人と劉充儀の姿もあった。

「……薛昭容」

 呉才人と劉充儀はこちらに近づき、何を言いたげにしていた。だが呉才人付きの女官が慌てて声をかける。

「呉才人、参りましょう。見つかればどうなるか」
「……ええ」

 小さく息を吐き、諦念の面持ちで呉才人が背を向ける。
 こちらに向けていたまなざしに同情を感じたことから、彼女が嘉音を無視するのは本意ではないようだ。

「ごめんなさい。薛昭容」

 通り過ぎていく劉充儀が、小声で言った。呉才人と同じく、劉充儀も嘉音の孤立を快く思っていないのだろう。

(二人とも……ありがとう)

 嘉音は答えなかった。声をかければ二人の立ち位置が危うくなることも考えられるためだ。だが表には出せない二人の気持ちに触れ、心が温かくなる。

(諦めて生きるしかない。この世は悲しいものだから――そう母は言っていたけれど、私は諦めたくない)

 第四皇子についても、幽鬼がいるのだと諦めてはならない。嘉音は前を向いた。そして慈佳に告げる。

「兒楽宮に行きたいの」
「じ……兒楽宮に? どうしてまた」
「考えたいことがあるから」

 どうしても知りたいことがあった。渋々といった様子の慈佳を説得し、兒楽宮に向かう。

 兒楽宮は相変わらず荒んだ場所だった。陰の気が漂っている。慈佳は険しい顔をし、気乗りはしていないようだった。
 庭に立ち入り、兒楽宮を見上げる。隣に立つ慈佳に聞いた。

「彼はどんな名だったのかしら。聞いたことがある?」
「ええ。確か、(じょ)髙慧(こうけい)と」

 彼の名を胸中で唱える。死してなお彷徨う幼子が哀れに思えた。

「慈佳は、幽鬼を目撃したことがあるの?」
「私はございません。どれも噂を聞いただけですから」
「では誰が見たのかしら」
「さあ……白李宮では目撃した宮女がいますが、それ以外の目撃情報は誰が見たのか、私にもわかりません」

 そこで、引っかかった。

(目撃情報はたくさんあると凌貴妃は語っていたのに、見た者が少ない?)

 そして今回目撃した宮女だ。あの者は若く、第四皇子が死した頃に後宮勤めをしていたとは思いがたい。

「今回の宮女は人の顔を見たのでしょう。なぜ第四皇子とわかったのかしら」

 疑問を口にする。慈佳にぶつけたわけではなかったが、彼女は首を傾げていた。

「そう言われてみると……私も第四皇子がどのような顔をしているかわかりません。第四皇子の容姿について語られることは少ないので。生前の皇子に会ったことのある者は限られていますからね」

 こうなると幽鬼とやらが怪しくなる。宮女は本当に幽鬼を見たのか。生じた疑念を鎮める情報はなく、疑念の炎は続々と燃えるのみだ。

「第四皇子は……いつ、亡くなったの」
「確か七、八歳の頃だと聞いています。死因となった流行病に罹ってはならないからと隔離され、そのまま亡くなったのだとか」
「彼の死体を確かめた人は?」
「先帝や妃でさえ立ち会えなかったと聞いているので、当時の兒楽宮付きの者が弔ったのだと思いますが……」

 つまり、第四皇子の死を見ているのは限られたものだけ。後宮には幽鬼だと広まっているが、誰もその死を目撃せず、生前の第四皇子に会った者もわずかなのだ。

(その年齢の頃、私はどうだったかしら)

 嘉音は自分が七歳だった頃を思い返していた。そして、確証はないもの、ある推測が浮かんだ。

「……慈佳。白李宮に戻りましょう」

 声をかけると、慈佳は戸惑っていた。ここに来たばかりでどうして戻るのかと疑問に思っているのだろう。

「戻り次第、大家に文を出して」
「は、はい。その内容は?」
「今晩白李宮にお渡りを頂きたいとお願いしたいの」

 拱手する慈佳を横目に、嘉音は歩き出す。

(急ぎ白李宮に戻らないと。大家がくる前に、()()を確かめなければ)



 来訪はいつもより早く、陽が暮れてきた頃に輿がついた。暑い盛りの季で陽が顔を出す時間は長く、庭に差し込む夕日もいつもより朱色が濃く見える。
 輿がついてしばらくの後、天雷がやってきた。いつものように人払いをし、部屋に二人きりとなる。

「嘉音様。文を確認しましたが、何かありましたか?」

 開口一番に彼はそう聞いた。榻に腰掛けていた嘉音は顔をあげ、天雷を見上げる。

「突然文を送ってしまってごめんなさい」
「いえ、幽鬼騒ぎがあったと聞いて心配していたので、ちょうどよかったです」

 穏やかに微笑み、天雷が隣に腰掛ける。白李宮の幽鬼騒ぎは髙祥殿まで話が伝わっていたらしい。

「もっと動じているかと思いましたが、落ち着いていらっしゃいますね」
「大丈夫よ。私は、幽鬼など信じていないから。推測ではあるけれど、どれも人の手によるものだとわかったから」
「どういうことですか?」
「きっとね、幽鬼はいないのよ」

 驚きに目を見開く天雷に、嘉音が語る。

「幽鬼を見たと騒いでいるけれど、第四皇子の姿を知る者は少ない。だから本当に第四皇子都は限らない」
「ですが白李宮の者が目撃したと聞きましたよ」
「ええ。でも一人だけ。その子が見たと騙れば真実になる。さらに幽鬼の仕業と思わせるものを仕掛けておけば、信憑性が増す」

 これに気づいたのは、池の魚が死んでいたという話だ。緑涼会で黄金鯉が死に、それを凌貴妃が第四皇子によるものと叫んだ。その印象は強く残り、桃蓮宮や白李宮で同様の事が起きれば第四皇子を連想してしまう。

「天雷が来る前に池の水を確かめたの。公喩殿に聞いた通り、うっすらと紫色に変わっていた。緑涼会と同じように誰かが毒を投げ入れたのでしょう」
「毒……星辰苑にある紫毒葉ですか」

 嘉音は頷く。これは葛公喩から聞いていなければわからないことだった。
 兒楽宮から慌てて戻り、池の水を確かめれば、確かに紫色に変わっている。さらに葉のようなものが浮いているのも見えた。紫毒葉に間違いないだろう。
 となれば、この毒葉を投げ入れた者がいる――それは生者だ。池を確かめた時から、嘉音は幽鬼への疑いを捨てた。

「池は誰かが毒を入れたとしても、異音があったと聞きましたよ」
「ええ、私も聞いたわ。砂利を踏みならすような音で、引きずるように長い音。けれどこの異音も誰かが起こしたもの。厨を調べれば(ざる)が無くなっていた。そこに石や硬豆を入れて転がせば音の再現ができるでしょう」

 異音も魚の死も、人が起こしたもの。そうなれば幽鬼の仕業と思いがたく、人の顔を見たと叫ぶ宮女も疑わしくなる。

「つまり一連の事は、幽鬼が犯人ではないと?」
「ええ。幽鬼が犯人ではない。幽鬼はいないかもしれないわ。もしかしたら、第四皇子だって生きているのかもしれない」

 重い声音に天雷の顔が強ばった。ぴたりと動きを止め、嘉音を見つめている。嘉音がこれから続けるだろう言葉を恐れているのだ。

「私は、天雷のことをよく知っていると自負していたの。でもきっと、私が一番あなたのことを知らなかったのね。近くにいるようで何も知らなかった」
「嘉音様は何を話して――」
「私たちが出会った時、私は七歳で天雷は八歳だった。その後は一緒にいたけれど、出会う前のことは知らない」

 もしかしたら、と考えたのだ。

 嘉音と天雷が出会った時は、第四皇子が死んだと思われる年齢と一致している。姉と名乗る女性が連れてきたが、その姉と天雷は似ていない姉弟だったことを覚えている。そして身分の知れぬ奴婢を厭うだろう(せつ)大建(だいけん)が、天雷たちの住み込みを許した。

(それだけではない。天雷が行方不明になった後も)

 天雷がいなくなった後の大建はひどく狼狽えていた。ただの下男がいなくなったとは思えないほどの取り乱しだ。そして偶然やってきた葛公喩。
 確信はない。けれど結び繋がっている気がしたのだ。

「私は何があったとしても、あなたを嫌いにならない。私が好きなのはあなただけだから」
「……嘉音様」
「あなたが第四皇子の徐髙慧。そうでしょう、天雷」

 天雷は諦めたように息を吐く。静かに、それを認めた。

「伏せておこうと思っていましたが、嘉音様は鋭いですね――そうです。俺が徐髙慧です。大家つまりこの体である徐祥雲は、俺の異母兄にあたります」

 そうなればこの宮城に第四皇子の幽鬼はいないと判明する。そもそもの皇子が死んでいないのだから、幽鬼が存在するわけはない。

「天雷は、死んだことにして、薛家の屋敷にきたのね?」
「はい。幼い頃は宮城にいて、祥雲や公喩、それから凌貴妃とも顔を合わせていました。年齢的にも帝位に就くのは祥雲と考えていましたが、俺が存在していれば帝位を奪われるかもしれないと考えた者がいたようです。毒を盛られ生死の境を彷徨ったことがあり、それを案じた俺の母が、死の偽装を企てました」

 流行り病だと伝え隔離。死んだことにして、天雷を宮城から逃がしたのだろう。彼を連れてきた女性は姉ではなく、兒楽宮付きの女官や宮女かもしれない。

「薛将軍にもこの計画を伝えました。気乗りはしなかったようですが、俺を下男として迎え入れ、保護を約束してくださいました」

 薛家で唯一、彼が第四皇子であることを知っていたのが薛大建だ。だからこそ、天雷が失踪した時に彼が狼狽えたのだと納得する。

「では公喩殿が屋敷にきたのもそれね?」
「はい――彼も俺が死んだものと思っていたようですが、あるときに真実を突き止めたそうです。そうして屋敷に来てみれば俺が出て行った後だったと」

 そうなると気になるのが、生きながらえるため宮城を出た彼が、再び宮城に戻ったことだ。天雷は嘉音のために宦官になっている。つまり、嘉音がいなければ、彼はつらい記憶があるだろう宮城に戻ることもなかった。

「……宮城に戻ったのは、わたしのせいね」
「いえ。嘉音様が気に病むことではありません。遅かれ早かれ、見つかっていました。俺が出て行ってすぐに公喩が迎えにきていましたからね」

 不安げに表情を曇らせる嘉音を見やり、天雷が微笑んだ。優しく頭を撫でてなだめる。

「俺が戻ったことで祥雲は驚いていました。死を認めず探してはいたそうですが、まさか宦官になって戻ってくると思わなかったのでしょう。俺のことをよく可愛がってくれた兄だったので厚遇を頂きました。公喩も混ぜて、三人でよく話したものです」

 徐祥雲と天雷が兄弟である。そうなれば、いつぞや公喩に聞いた風来伝承『魂箱互換』の話も納得がいく。二人の魂と体が入れ替わるといった奇跡は二人が兄弟であったから、起きたのだ。

「だから嘉音様が推測した通り、第四皇子の幽鬼など存在しません」
「やっぱり、そうなのね。幽鬼はいないのだと思うと安心できる」
「ええ。ですが、嘉音様にもこのことを隠していてすみません」

 これに嘉音は頷いた。うつむいた天雷の顔を覗きこむ。

「本当よ。早く教えてくれればよかったのに」
「このような出自と知られたら、嘉音様に嫌われたり、遠ざけられると思っていたんです。俺としては嘉音様の近くにいたいだけなので」
「嫌うなんてありえないわ」

 そう言って、天雷の頬をつまむ。柔らかな頬をつまんで伸ばす。天雷は困ったような顔をしていた。

「何をなさっているんです」
「罰よ。天雷が、私のことを信じてくれなかったから」
「随分と優しい罰ですね」

 くすぐったそうにしながらも、天雷はされるがままであった。
 数度ほど頬に触れて柔らかさを楽しんだ後、嘉音は榻に座り直す。幽鬼がいないとわかったが、気になるものはまだ残っていた。

「凌貴妃はどうして、幽鬼の仕業だと言ったのかしら」
「……それは」
「この騒ぎを人が起こしたものなら、凌貴妃は何かを知っているはず。彼女がこのようなことをした理由を知りたいの」

 そしてこれを辿れば、天雷の体が見つかる気がしていた。
 捜索してもいまだに見つからないとなれば、隠れているのかもしれない。最後に立ち寄ったのが桃蓮宮だと証言は得ている。そこで何かが起きたはずだ。

「これからどうされます? 白李宮の警備を増やしましょうか」
「ううん。警備はいらないの」

 おそらく。嘉音が幽鬼の事実を知らないと考えて襲いかかろうとするだろう。いまならば何が起きても幽鬼の仕業だと主張できるためだ。
 そして宮女も凌貴妃の息がかかっているのだろう。凌貴妃の協力者かもしれない。池に落ちた日に珊瑚の耳飾りがなくなっていた。外に持ち出してないものが失せるとなれば宮にいる者と考えられる。その宮女が密かに奪い、凌貴妃に渡したのかもしれなかった。

「泳がせようと思うの」
「泳がせる、ですか」
「幽鬼の騒ぎはこれだけでは終わらない。数日中に私は襲われるでしょう。その時に――」

 うまくいけば、裏で操っているだろう凌貴妃にも会うことができる。

(凌貴妃が、なぜこのようなことを仕組んだのか知りたい)

 捕らえるのではなく、理由が知りたいのだ。諦めるなどせず、彼女の本意に触れたい。

 そして、数日後の嵐の日。事件が起きた。
「嵐、ですかね」

 不安げに庭を眺めていた慈佳(じけい)が言った。昼頃は風が強いだけだったが、銀六鐘(十八時)を過ぎてからは雨が降り出し、夜が濃くなるのに合わせ雨の勢いが増していった。少し外に出れば、叩きつけるように雨が降っているのだという。髙祥(こうしょう)殿(でん)に行った宮女がずぶ濡れで帰ってきたので相当ひどい天気のようだ。

 (せつ)嘉音(かおん)も外を眺めていた。今日は大家(ターチャ)の渡りがない。この天候であるから、出ようとすれば周囲に止められることだろう。

「この風で、花が散らないといいけれど」
「今日は早めにお休みになられては。これほど強い風ですから、明日には収まりましょう。目を醒ます頃には気持ちよい青空になっているかもしれませんよ」

 嘉音は頷き、その提案に従うことにした。


 雨風は強く、雲が不機嫌な音を鳴らしている。銀鐘から金鐘へと変わる深い夜、嵐というのもあって各宮の篝火は消えている。宮の中にある吊り灯籠の明かりがぼんやりと外に漏れている程度の暗さだ。華やかな宮城も夜になれば墨で塗りつぶしたようになっている。
 その頃に、それは現れた。
 部屋に、誰かが踏み入れている。床についた嘉音の元へ足音を消して忍び寄る。

(やはり……きたのね)

 その者がくることを嘉音は予想していた。
 なぜ幽鬼による様々なことが起こったのか。後宮に幽鬼がいると周りに信じ込ませるのは、この先に起こす出来事を幽鬼の仕業にして隠すためだ。

(桃蓮宮が襲われ、次は白李宮に幽鬼の予兆が出る。そうして私が襲われても、幽鬼の仕業だと周囲は考える。幽鬼騒ぎは私を襲っても犯人を幽鬼にして隠すためのもの)

 侵入者は薛嘉音が寝ていると考えたのだろう。忍び寄り、近づく。手にしているのは匕首(あいくち)だ。
 その者が嘉音の近くで足を止める。匕首を振り上げた瞬間、嘉音は瞳を開いた。

「――待っていましたよ」

 嘉音が声をかけたので侵入者は驚いたのだろう。振り上げた手がぴたりと止まり、数歩ほど後退りをしていた。

 夜に慣れていたといえその者の顔はうっすらとしか見えず、判別は難しい。嘉音が身を起こし、確かめようとした時――一瞬ほど外が明るく光った。その閃光と共に、轟音が響き渡る。雷だ。耳の奥がきんと痛むほどの音量だったので、近いところに落ちたらしい。

 その雷が、その者の顏を照らした。そこにいたのは『人の顔を見た』と厨で泣いていた宮女である。

「異音をおこしたのも、池に毒葉を投げ入れたのも、すべてあなたがやったことね」
「あ……わ、私は……」
「人の顔が見えるといったのも嘘よ。第四皇子の幽鬼がいると騒ぎ立て、その呪いが白李宮に向いていると触れ回り、私を殺そうとした。そうすれば私が殺されても幽鬼の仕業にできるから。そうでしょう?」

 彼女は計画の失敗を悟り、その場に膝をつき、体を震わせていた。手から匕首は落ちている。それを確かめた後、嘉音は宮女の元に寄った。

「話して。どうしてそのようなことをしようと思ったのか、教えてほしいの」
「せ、薛昭容……」
「あなたがしたことはよくないことだけれど、理由があるのなら知りたい。それがわかればあなたを許せるかもしれないから」

 風雨の音が強く、部屋にも響いている。その音に混ざり、ぽたりと、雨のような水滴が宮女の頬から落ちた。

「故郷の……家族が……言う通りにしていれば、母に薬を送ってくれると……」
「そう……大切な家族を人質に取られてしまえば、つらいわね……」
「幽鬼騒ぎだけでなく、薛昭容を呼び出すための契機を作るため、珊瑚の耳飾りを盗んだのも私でございます……申し訳ありません」

 嘉音が星辰苑(せいしんえん)の池に落とされた時は、珊瑚の耳飾りが紛失したと報され向かっている。それもこの宮女が厨子(ずし)から持ち出したのだろう。

 そして白李宮の幽鬼騒ぎ。おそらくは先に、池に毒葉を投げ入れ、次に笊にいれた硬豆や小石を転がし異音をたてる。最後に厨へ行き、わざと泣き叫んだのだろう。駆けつけた人たちに『人の顔を見た。第四皇子の幽鬼だ』と伝えれば、緑涼会での出来事もあるため、幽鬼の印象が強く残る。

 だが一箇所、幽鬼の騒ぎがありながら、彼女が関与していない場所がある。

(彼女が自ら騒ぎを起こせないのは桃蓮宮だけ)

 桃蓮宮もまた、幽鬼が出たと噂が出ている。最初に不審な音が聞こえたと話が出たのもこの場所だ。

(幽鬼は存在しない。第四皇子は身を隠して生きているのだから)

 そうなれば桃蓮宮での出来事も怪しくなる。桃蓮宮で起きたものが、同じように白李宮でも起きているのだから――嘉音はその名を口にした。

「あなたに命じたのは、凌貴妃ね?」

 確信を持って問う。
 宮女の瞳が揺れていた。もはや逃げ道はなく、はらはらと涙が落ちていく。彼女は床に頭をこすりつけ、弱々しい声でそれを認めた。


 夜が深くなり、それぞれの宮も静まり返る。雨は止んだが、風はまだ強い。風の音だけが宵闇を支配しているかのようだ。
 ()(らく)(きゅう)に、宮女の姿があった。彼女は白李宮付きの宮女だが、元は桃蓮宮付きだった。彼女のように元は桃蓮宮にいながら、他の妃嬪の宮に移動した宮女は多い。凌貴妃がそれを好んだのである。今回のような時、内部から情報を得ることができ、内部から騒動を起こすことができる。いわば密偵の役目だ。

「……凌貴妃」

 いつも通りの刻限に、凌貴妃が現れた。
 兒楽宮は忌避されているため他の者が来ない場所である。密談を交わすには最適な場であった。凌貴妃は親しい女官をひとり連れてきていたが、その者も今回の計画をよく知っている。女官の協力を得て、深夜に宮を抜け出してきていたのだ。
 揖礼する宮女を睨めつけ、凌貴妃が問う。

「計画はどうなりました。薛昭容は口を割りましたか」
「……いえ」

 宮女が顔をあげた。それを合図に、潜んでいた嘉音が飛び出した。

「口を割る、とはどういうことでしょうか」

 嘉音が声をかけると凌貴妃と女官が慌てて振り返る。闖入者の登場に、ひどく狼狽えていた。

「な……なぜ……薛昭容がここに」
「幽鬼騒ぎを究明すべく来ております。凌貴妃をお待ちしておりました」

 裏に凌貴妃がいるかもしれないと想定はしていた。

 今回の宮女が起こせない事件は桃蓮宮で起きたことだけ。しかし第四皇子の幽鬼は存在しないため、必ず誰かが起こしている。桃蓮宮での出来事は鮮明に伝えられ、まるで幽鬼が行う騒ぎの見本を示すようでもあった。だが、凌貴妃が存じているかどうかは確信が持てずにいた。それを明かしたのが宮女だ。彼女は凌貴妃に命じられたと明かしている。
 凌貴妃が命じたとなれば、池の毒葉も納得がいく。彼女は星辰苑の管理を任され、葛公喩が作った風禮国の毒葉にも詳しい。紫毒葉を投げ入れると思いつくに至ったのも腑に落ちる。

 しかし見えないのは彼女の真意だ。本当に大家の寵愛がうつったから嘉音を襲ったのか、それとも別の意図があるのか。それを知りたい。
 すると、凌貴妃は高圧的な態度を取り戻し、嘉音の前に寄った。

「ちょうどよかった。私もあなたから聞きたかったのですよ――薛昭容、大家に何を吹き込まれました?」
「吹き込まれる? 見当がつきませんが」
「とぼけないでちょうだい。あなた、どこまで大家から聞いたの」

 強く、風が吹く。それでも臆さず、凌貴妃は嘉音を睨めつけていた。

「あの日の夜、桃蓮宮から逃げ出した大家が白李宮の階で倒れていたと聞いたわ。その後からあなたは寵愛を得ている。何か聞いたのでしょう?」
「……私は何も聞いていません」
「嘘よ。あなたは聞いているはず。私が何をしたのかも知っていて、白を切っているのでしょう」

 入れ替わった日のことを指しているのだろう。だが天雷は頑なに語ろうとしないので、何が起きたのかはわからない。

「大家は何も話していません。けれど、私は何が起きたのか知りたいのです。だからあなたと話すためにここに来ています」

 彼女の真意が知りたい。しかし凌貴妃の冷えた心には届かない。
 何とか伝える術はないものか。嘉音はこれまでの凌貴妃とのやりとりを思い返す。

(大家の寵愛を得ていた凌貴妃……彼女の言動にはいつも大家の名前や、彼に関するものが絡められている。まるで自分は愛されていると示すように)

 ただ唯一、彼女が大家の名を口にしない場面があった。大家に関わらない行動。

(兒楽宮に百合の花……凌貴妃がここにきていたのはどうしてだろう。自ら第四皇子の幽鬼と騒ぎをおこしたくせに、ここに花を供えていた)

 それを思い出し、顔をあげる。嘉音は臆さずに凌貴妃を見据えて、問う。

「凌貴妃は、第四皇子の幽鬼を信じていましたか」
「……」
「ここで第四皇子に百合の花を捧げているのを見ました。けれどあなたは、その名を騙った騒ぎを起こしている」

 この問いに、凌貴妃は答えなかった。高圧的な態度は一瞬にして霧散し、弱った表情に変わる。

「……私だって、髙慧(こうけい)の名を使いたくなかった」

 凌貴妃が言う。泣くように、小さな声で。

「けれどそれしか術がなかったの。そうでなければ、やらなければならないことを忘れ、また愚かなことをしてしまうかもしれない。それに彼の名前を出せば、大家が徐髙慧が死んだ真相を教えてくれるかもしれないと期待したのよ」

 徐髙慧とは第四皇子の名だ。つまり、天雷のことである。
 しかし天雷は彼女に出自を伏せていただろう。嘉音にさえ明かしていないのだから。

(つまり凌貴妃は、徐髙慧が死んだ理由を探りたかった?)

 徐髙慧は死んだ扱いにし、身分を隠して薛家の下男となっていた。だが、それを凌貴妃は知らず、この不思議な死に理由があるはずと独自の考えに至っているのだ。

「でも、私は大家を――」

 そう言いかけたところで、慌ただしい足音が聞こえた。

「薛昭容!」

 慈佳の声がして、振り返る。
 慈佳にはここへ来ることを伝えていた。供をすると申し出てくれたが、人数は少ない方がよいと判断して残してきた。だがその慈佳が、血相を変えてここに来ている。
 何か、いやなことが起きたのだろうか。息を呑む嘉音に、慈佳が告げた。

「遺体が……見つかりました」

 宦官の遺体。その単語に凍りついたかのように動けなくなる。
 違う人であってほしいと願う気持ちも叶わず、無情にその名が告げられた。

「天雷殿が、遺体となって発見されました」

***

 昨晩の嵐が与えた影響は大きかった。暴風雨により都には被害が多く、宮城でも倒れた木の報告があがっている。
 そのひとつに星辰苑もあった。雷が落ちて高木が倒れた先にあったのは、風禮国から持ってきた毒花だ。そこは毒花があると示すように土が盛られている。雨に打たれ水分をたっぷりと含んだ土は脆く、倒れてきた高木によって崩れたのだ。
 その中から出てきたのが宦官、天雷の遺体だった。

 白李宮に戻り、報告を聞いた薛昭容のそばに慈佳がついていた。天雷は、塞ぎ込んでいた嘉音が明るさを取り戻した存在だ。また来ると約束していた場に慈佳も同席している。その約束果たされないまま行方不明となり、こうして遺体で発見されたのだ。

「薛昭容……」

 慈佳が声をかけるも、嘉音は答えられなかった。青ざめ、体を震わせている。

(どうして遺体で……)

 どれほど探しても見つからないのは、彼の体が隠されていたためだ。それも何度も通った星辰苑という馴染みの場所に。
 大家と入れ替わっている。つまり、天雷の体に大家の魂があると思っていたのだ。それがいよいよ崩された。

(では天雷はどうなるの。元に戻れないということ?)

 頭が痛い。考えても先が見えない。
 宦官の遺体は既に運ばれ、嘉音が見ることは叶わない。おそらく大家は確かめているだろう。天雷は今頃、自分の体と対面しているのかもしれなかった。
 思い浮かぶのは、薛家にいた頃だ。高く伸びた背や、荒れた指先。そういったものが失われていく。

(天雷……どうしたらいいの……)

 恐ろしいのは遺体が見つかった時に、天雷の魂も失われていることだ。
 嘉音が知らぬ間に入れ替わっている状態が解消し、天雷が消えていたら――いますぐに大家に会い、中身が天雷のままであるか確かめたいほどだ。

 そう考えていると、宮女がやってきた。拱手した後、慈佳に耳打ちをする。それを聞いた慈佳は困惑し、おそるおそると言った様子で嘉音に訊いた。

「今晩、大家がいらっしゃるそうです。どうされますか? もしおつらいようでしたら、今晩は――」

 慈佳は嘉音の意を汲んでくれたのだろう。だが、嘉音は咄嗟に顔をあげ、遮るように言った。

「本当ね? 大家がいらっしゃるのね?」
「え、ええ……」
「待っているわ。いつでもいいから……お願い、早く大家に会いたいの」

 急変した嘉音の態度に、慈佳は首を傾げていたが、普段通り大家を迎える支度が進められた。


 銀鐘が鳴り響く夜。その者は白李宮にやってきた。
 着くと人払いをし、嘉音と二人きりになる。その顏は大家のものである。嘉音はただじっと、彼の言を待った。どちらの魂が入っているのか見極めるために。

「……嘉音様」

 大家――天雷はそう切り出した。そのような呼び方をするのは天雷だ。嘉音はほっと息をつき、胸をなで下ろす。

「よかった。あなたではなく、徐祥雲殿に戻っていたらどうしようかと思っていたの」
「ということは、嘉音様も俺の遺体が見つかった件を聞いたのですね」

 嘉音は頷く。

「遺体を見てはいないけれど、天雷の遺体だったと聞いたわ」
「俺も確かめてきました。間違いなく、あの死体は俺ですね」
「ではどうなるのかしら。天雷は元の体に戻れないということ? 大家の魂はどこへいったの?」

 疑問ばかりが浮かぶ。天雷が遺体になっているなど想像もしていなかったのだ。体が見つかれば元に戻れると思っていた。
 だが動揺しているのは嘉音だけだった。天雷は変わらず普段通りだ。まるで自分の死体が見つかるとわかっていたかのように。

「嘉音様、お話があります」

 天雷はそう言って、嘉音の前に立つ。慈しむように柔らかく嘉音を見つめたと思いきや、そっと肩に触れる。
 それから――彼は微笑んだ。穏やかに、しかし一滴の悲しさを混ぜたように。

「お別れを言いに来ました」

 彼の言に、嘉音は息を呑む。どうしてお別れなんて、と言葉が頭に浮かぶも、声に発することはできなかった。それさえできなくなるほど、思考は固まり、体がうまく動かせない。

「明日、祥雲に体を返します」
「か、えす……って……どうして……」
「元は祥雲の体でしたから。それに、兄の魂がどこにあるのかも知っていたんです」

 そう言って、天雷は自分の胸を軽く叩いた。

「魂はここにいるのだろうなと、予想はついていました」
「天雷は、自分の体が既に死んでいることを知っていたの?」
「生死の判断はできていません。最後の記憶から、死んでいる可能性が高いとは思っていました。遺体でさえ自分の体が見つかれば、俺は元に戻れる。祥雲の魂も、この体のどこかで俺が出て行くのを待っていることでしょう。だから出て行きます」
「元に戻るって……あなたの体は死んでいるのよ……」
「ええ。魂の行き先である体は死んでいますから、元に戻れば俺の魂も死ぬことでしょう」

 目眩がする。白李宮にきた大家が天雷であったことに喜んだのは一瞬にして崩れ、深い悲しみに落ちてしまったかのように。

 天雷が言うことは正しい。この体の持ち主は徐祥雲つまり大家である。元の持ち主に返すのが一番よいだろう。この不可思議な状況も解決される。
 だが天雷の体は死んでいるのだ。戻っても生き返ることはない。一生、会えなくなるのだ。
 彼はそれを承知している。だから別れを告げにきているのだ。

「徐祥雲はある事情から凌貴妃との対話を望んでいるはずです。この入れ替わりについても彼女に明かした方がよいと判断していますから、嘉音様にも同席してもらえれば。公喩にも話してありますよ。すべての段取りは整えてありますから。あとは公喩に――」
「天雷、待って」

 次々と話を進めていく天雷に対し、嘉音は理解が追いついていない。明日には会えなくなると受け入れられなかった。

「戻らなければ、ならないの?」
「……はい」
「私はいやよ。天雷に会えなくなるなんていや。それならば元に戻らず、このままでいて」

 涙が落ちる。次々に湧いては頬を滑り落ち、拭うことさえできない。

 天雷に会えるのが今宵限りなど信じることができず、彼の体を抱きしめる。縋るように腕を回して、どこにも行けないようにしてしまいたい。

「私、天雷が好きよ。あなたがいなくなるのは耐えられない。妃と大家でなくても、妃と宦官でも、何でもいいの。結ばれなくてもいい。あなたが生きていてくれればいいの」
「……嘉音様」
「消えないで。死なないで。そばにいて。お願いよ」

 天雷が失踪した後の二年間は地獄のようだった。生きたところで何の幸福も得られず、ただ時間に流されていくだけ。彼がどこかで生きていることを願う日々だった。

 それが後宮にて再会できた時は幸せでたまらなかった。あの地獄の二年も無ではなかったのだと喜んだ。妃と偽りの大家という立場になり、想いが通じたのは奇跡だ。このままずっと彼と共にいたいと願うほどに。

 死んでしまえば、二度と会えなくなる。彼の体はとうに死んでいる。

「いなくならないで……消えないで……私のそばにいて」

 すがりつき、泣く。
 この体が徐祥雲のものだとわかっていても、天雷への想いが勝る。ただ彼に、生きていて欲しい。

 その胸元に顔を埋め泣いていると、優しく頭を撫でられた。天雷だ。確かめるように見上げれば、悲しげな微笑みがそこにある。

「俺も、嘉音様をお慕いしています。きっと、あなたが想像する以上に、あなたを愛しています。できることならばこのまま傍にいて、あなたを眺めていたい」
「天雷……」
「あなたを想うたびに、胸の奥が苦しくなるんです。あなたが微笑めば俺まで幸せな気持ちに満ちる。たまにいたずらをしてあなたを困らせてみたくなる。この世にいる誰よりも、嘉音様を愛している自信がありますよ」

 そう告げ、嘉音を抱きしめる。その腕は強く、手放したくないと叫んでいるようでもあった。

「ではこのまま、戻らなければいいのよ。お願いよ、天雷。死なないでほしいの」
「……できません」

 強く抱きしめられ、伝わってくるのは彼の悲しみだ。

「この体は兄のもの。徐祥雲に返します――今夜が最後です。だからお別れの前に、嘉音様を抱きしめたかった。そうすればきっと、あなたを想って死ねるから」

 嘘であってほしいと願っても、現実は迫り来る。立場の異なる二人が混ざり合えた奇跡は、ついに終わりを迎えようとしていた。


 揺れた蝋燭の火に、嘉音は二年前のことを思い出していた。
 後宮入りのことを天雷に明かす時は、このような未来を想像していなかった。あの話をして天雷が失踪することさえ想像していなかった。
 ただあの日、唯一の後悔がある。彼に言えなかった言葉が、ひとつだけ、残っている。

「ねえ、天雷」

 嘉音が言う。

「二年前の日にね、『二人で逃げましょう』って言いたくて、でも言えなかったの」
「どうして言わなかったんですか?」
「天雷が私のことを好いているかわからなかったの。断られたらきっと悲しくなる。あの頃の私は、天雷のことが好きでも、想いを伝える勇気がなかったのね」
「あの頃から、俺は嘉音様のことが好きでしたよ」
「告げていたら、未来は変わっていたのかしら。私たちは逃げ出して、幸せに生きていたのかしら」

 天雷はしばし口を閉ざした。おそらくその未来を想像しているのだろう。その後に苦笑し、嘉音の頭を優しく撫でた。

「俺は、いまの方が幸せですよ」
「どうして」
「奇跡が起きて、嘉音様と結ばれた。それが一時だとしても構いません。これが俺にとって一番の幸せです」

 朝日がのぼれば、奇跡は終わりを迎える。
 ぎゅっと強く抱きしめれば、同じように天雷も抱きしめ返す。その存在が、まもなく消えてしまうなど信じたくなかった。

『恋など存在せず。思慕など成らず。諦めて生きるしかない。この世は悲しいものだから』

 母の言葉がよぎった。

(想いは成らず、成ったとしても消えてしまう……お母様もこんな苦しみを抱いたのかしら)

 深く想うものを諦めることは難しい。半身をもがれるような痛みだ。その痛みを抱えて生き続ける世は、きっと悲しいものだろう。

「……私、諦めたくないの」

 まもなく訪れる別れの悲しみに耐えられず、知らずのうちに、呟いていた。

「祥雲様に戻って欲しいと願う人が多いことはわかっている。きっと凌貴妃だってそう。天雷のままであることを望むのは私だけかもしれない。それでも私はあなたを諦められない」
「……嘉音様」
「天雷が消えてしまっても諦めずにあなたを探す。奇跡が終わってしまっても、私はあなたを想い続ける」

 これは、夢だ。恋い焦がれていたから奇跡が起きて、結ばれる夢を見たのだ。そうわかっていても諦めたくない。術があるのなら朝日がのぼっても夜になっても彼に会いたいと願う。

「……嘉音様と逃げ出すことができたら、きっと幸せだったでしょう」

 天雷がそう言った。嘉音を抱きしめる腕の力が一段と強くなる。逃げ出す道を選べないことは二人ともわかっている。嘉音を包む腕が天雷のものではないからだ。

「俺が消えるその瞬間まで、このままでいさせてください。この幸福の中で消えたいのです」

 どうかこの奇跡が終わらないでほしいと願い、目を瞑る。
 嘉音もそして天雷も、流れゆくこの時を惜しんでいた。

***

 東の空に陽がのぼり、朝を報せる金鐘が鳴る。
 ぱちりと瞳を開いた嘉音は、隣で眠る者の顔を確かめた。嘉音が起きたことで彼も気がついたらしい、瞼がゆっくりと開き、視線が嘉音に向けられる。

「てんら――」

 天雷、と呼びかけたその言は、宙に消えていった。

「……薛昭容だな」

 天雷と異なる呼び方。それは奇跡の終焉を示している。

「髙慧から話は聞いている。迷惑をかけたな」
「あの、天雷は……」
「去っていった」

 その言に、嘉音の表情が凍りつく。覚悟はしていたが、いざ目の前で起きると耐えがたい。視界が滲み、涙がこぼれ落ちそうになる。
 大家もそれに気づいたらしく、嘉音の目元に触れ、落ちかけた涙を拭った。

「……すまなかった。私のせいで髙慧と薛昭容を苦しめてしまったな」
「いえ、感謝しております。そのおかげで、結ばれるはずのない私たちが、一時でも共にいられたのですから」
「そうか……髙慧、いまは天雷だったか。あやつもそう言っていた」
「天雷も、同じことを?」

 嘉音の問いに大家が頷く。

「私はずっとあの体にいたが眠っていたからな、それを起こしてくれたのが髙慧だ。ここに至るまでの話と、私の体で動き回ったことを詫びられた。だが奇跡のように幸せだったと感謝を述べていた――あやつを巻き込んだのはこちらなのにな」
「巻き込んだとはいったい? なぜ二人が入れ替わったのでしょうか」
「ふむ。薛昭容には明かしてもよいだろう。あの日、私は――」

 大家がそう言いかけたところで、扉が叩かれた。今晩は白李宮にて過ごすと告げている。朝に迎えがくるよう手配していたのかもしれない。
 そうしてやってきたのは葛公喩だった。彼も天雷から話を聞いていたのだろう。入るなり長揖し、大家に告げる。

「徐祥雲。迎えにきたよ」
「ああ、そうだったな。お前がくると聞いていた。となれば、話をしにいかねばならないな」

 そう言って、大家は嘉音に視線を送る。

「薛昭容も共に――桃蓮宮に行く」

 その表情に天雷の面影は微塵も感じられない。彼はもう、消えていた。
 桃蓮(とうれん)(きゅう)は突然の来訪に騒いでいた。(かつ)公喩(こうゆ)(せつ)昭容(しょうよう)だけでなく、大家(ターチャ)がきているのである。寵妃であった(りょう)貴妃(きひ)は連日大家を迎えることもあったが、それは過去の話だ。ここしばらく来ていなかった大家の輿が着いたことで宮女らは大騒ぎである。

 そうして部屋に揃う。凌貴妃は険しい顔をし、大家を見つめていた。

「……今さら、何の用です。それに薛昭容を連れてくるなど」

 凌貴妃は(せつ)嘉音(かおん)が同席していることを訝しんでいた。だが大家がすぐさま答える。

「私が同席を命じた」
「なぜです」
「彼女にはこの件で迷惑をかけている。ことの顛末を聞くに相応しいと考えたまでだ」

 大家はにたりと笑みを浮かべ、手をあげる。この合図に葛公喩が動き、薬湯の入った杯を二つ、(つくえ)に置いた。

「あの日、私は凌貴妃に呼ばれて、宦官の天雷(てんらい)と共に桃蓮宮にきた。そこでお前は風禮国(ふうらいこく)の秘薬があると行って薬湯を持ってきたが……芳香(ほうか)、覚えているな?」
「……ええ」

 芳香とは凌貴妃のことだ。彼女の名は(りょう)芳香(ほうか)と言う。
 大家は運ばれてきた薬湯を眺め、苦く笑った。薬湯は()えた匂いを放ち、色も濁っている。

「私はな、この薬湯の正体に気づいた。過去に用いられた毒は必ず調べ、耐性をつけるようにしている。今回の薬湯は魂泉草(こんせんそう)が用いられているとわかった」
「……魂泉草とは星辰苑(せいしんえん)で育てられているものですね。風禮国から持ち込んできた毒草だと」
「うむ。これは以前、弟である(じょ)髙慧(こうけい)に盛られた毒だ。同じ手を私に使ってくることもあるからと、少量ずつ服用して耐性をつけている」

 これは天雷からも聞いたことがある。第四皇子の徐髙慧は、継承権争いに巻き込まれ毒を盛られていた。その毒がこの魂泉草だろう。
 兄にあたる徐祥雲とて、いつ毒を盛られるかわからない立場だ。星辰苑で育てた毒草はそういった毒への耐性や知識をつけるためでもある。つまり魂泉草は祥雲には効かなかった。

「あの時の濃さと同じにしてあるが、お前は量を誤ったのだろう。これほど濃く抽出してしまえば、耐性のない者ならば体が麻痺して動かなくなり、いずれ呼吸が止まる。だが私は魂泉草への耐性をつけている。たとえ濃く抽出した毒といえ、飲んだところで死には至らない。意識を手放したとしてもいずれ目が覚めると考えていた」

 大家は薬湯から視線を外す。次にその視線が向けられたのは几挟んで対面にいる凌貴妃だった。

「お前は言っていたな。『本当に凌貴妃を愛し、他の妃嬪に気が移らないと証明するためにお互いにこれを飲もう』と」
「大家は、これに毒が入っていると、存じ上げていたのですね」
「そうだとも。だがこれしか、証明する術がないと思った。私には耐性があるから飲んだとて大丈夫だろうと、思ったまでだ――だが、誤算があった。その場に宦官の天雷を連れてきていたことだ」

 嘉音は息を飲む。天雷は徐髙慧である。この毒を盛られた経験があるのだ。

「天雷は色々と事情があり、この毒を知っている。だからこれが魂泉草だと気づいたのだろう。私が飲む前に、天雷が薬湯を奪った」
「天雷が……!?」

 咄嗟に声をあげた嘉音に、大家がしっかりと頷く。その場面にいただろう凌貴妃も否定せずにいたことから、天雷が飲んだことに違いはないようだ。

「私が耐性をつけたことを天雷は知らなかったのだ。私の命を守らねばと焦ったのだろうな」
「そんな……ひどすぎる……でも大家はどうして、白李宮の(きざはし)に倒れていたのでしょう。毒を飲んでいたのかと思いました」
「飲んだとも――その理由は、芳香が知っているはずだ」
「……ええ。大家は私の器を奪い、すべて飲み干しました。私が飲むはずであったそれは大家に奪われ、手元に毒湯は残りませんとも」
「私は耐性があるからな。飲んだところで死に至らないと確信していた。だが芳香に飲ませれば命が失われる。だから私がすべて飲み干し、芳香の自害を止めたのだ」

 大家に問われるが、凌貴妃は答えなかった。

 つまり、凌貴妃は大家と心中(しんじゅう)しようと二つの薬湯を用意したのだ。だがこれが毒だと気づいた天雷は大家を守るために、大家の分を飲んで倒れた。大家は凌貴妃の自害を止めるべく、彼女の杯を奪い、毒をあおった。

「さてそこからの話、だな」

 大家は咳払いをひとつする。

「どういうわけかはわからぬが、私は天雷と魂が入れ替わっていた」

 この発言に、凌貴妃が目を見開いた。冗談のような話を、しかし真剣な顔をして話しているのだから信じがたいだろう。

「ど、どういうわけでしょうか……」
「ううむ。これをどう説明すればよいやら。だが本当のことなのだ。今朝までの私は、すべて天雷によるところだ」
「では、あの日以来、大家が白李宮に通うようになったのは……」
「それも天雷だ。彼は薛昭容と親しくしている、彼女ならば頼れると考えたのだろうな」
「そ、そんな……では私が薛昭容にしてきたことは……」

 凌貴妃は愕然とし、項垂れた。そのそばに嘉音が駆け寄り、肩にそっと触れる。

「宮女を脅したことや他の者に恐怖を与えたことは許したくありません。けれど、凌貴妃も事情があったのだと思います。大家と天雷が入れ替わっているなど想像もできなかったでしょう」
「私はあなたにひどいことをしたというのに」
「私のことはいいのです、それよりもあなたに命じられて動いていた宮女たちに謝罪を」

 そしてもうひとつ気になること。
 大家の代わりに毒を飲んだ天雷の、その後だ。

「そして……天雷のことを、教えてくれませんか」

 嘉音が問う。いまさら彼の死は覆せないが、天雷に関するすべてのことは知っておきたかった。
 凌貴妃はじっと嘉音を見つめていたが、やがてその瞳が潤んだ。目端に溜まった涙が頬を伝い落ちても、凌貴妃は拭おうとしない。彼女の唇が動き紡がれた低い声は、贖罪が込められているようだった。

「……私は……私はある目的があって、大家に近づいていたのです」

 凌貴妃が語る。それは大家も初めて聞くことらしく、口を噤んで聞き入っていた。

「私には弟がいました。けれど幼くして病で死んでしまった。失意の頃に父に連れられ宮城でお会いしたのが第四皇子の徐髙慧でした。幼い私にとって弟のようだったあの子が、ひっそりと死んでしまった。誰にも看取られず、孤独の中で消えてしまったのです」
「兒楽宮に通っていたのはそのためですね」
「そうよ。髙慧が死んでしまったなんて信じたくない。本当の死因を曝いてみせる。そう思って、父に頼みこみ、大家の妃嬪となった――はずだった」

 凌貴妃は幼い頃、宮城にきては皇子らと遊んでいたという。そこで祥雲や髙慧と知り合ったのだろう。凌貴妃よりも幼い髙慧を可愛がり、弟のように扱っていたのだろう。それが突然、それも不可解な死を迎えたのだ。実際には宮城を出て薛家に向かっているのだが、凌貴妃はそれを知らない。死因を突き止めようと躍起になったのだろう。

「髙慧の死因を探るつもりで大家と接していたのに、寵妃になり情報を引き出そうと思っていたのに……けれど、私は」

 そこで、両手で顔を覆った。指の隙間から涙が伝い漏れていく。涙混じりの声で凌貴妃が叫んだ。

「私は、大家のことを愛してしまった。髙慧のことを探るなどと言いながら、大家に情を抱き、それは止められなくなってしまった」
「……芳香」

 大家が切なげに呟く。

 大家は幼い頃から凌貴妃に焦がれていたのだろう。皇太子の頃に嫁としてまず選んだのが凌貴妃だった。帝位についても凌貴妃を、四妃で最も位の高い『貴妃』に押し上げている。凌貴妃を守るため、毒と知りながら彼女の分を飲むほどだ。その想いの深さがうかがい知れる。

「いくら接していても髙慧の死因は明かされることがなく、日が過ぎていく。さらに後宮は次々と若く美しい娘が集まる。私は髙慧の死因を知ることのないまま、いずれ大家の寵愛が移るのだと焦りました」

「なるほど。それで、心中を試みたのか」
「せめてどちらかは得たいと思ったのです。ならばせめて、大家から永遠の寵愛を得られるよう、互いに死を迎えようと」
「だが死したのは天雷だったと」
「ええ。毒を飲んだ後、大家と宦官は意識を失いました。宦官はその後に死んでしまったので、私たちは死んでしまった宦官の処理を行いました」

 そうして埋めたのが、星辰苑だろう。毒草が植えられているあたりは人が立ち寄らない。一度掘り返し、天雷の遺体を埋めて、もう一度土を盛ったのだ。

「彼の遺体を埋めた後に戻ってきたら大家の姿はありませんでした。見晴らせていた宮女の目をかいくぐり外へ出たのでしょう」
「その時にはもう、天雷になっていましたね。私のいる白李宮に彼が来ています」

 凌貴妃は知らないが、結果として彼女が命を奪った天雷の正体は、徐髙慧である。彼女はそれに気づかぬまま、死因を探るつもりで、手を下してしまったのだ。
 こうして全容を知れば、天雷が語ろうとしなかった理由がわかる。彼は大家と凌貴妃を守ろうとしたのだ。彼にとって兄にあたる大家と、幼き頃姉のように接してくれた凌貴妃の二人を、悲しいすれ違いから守りたかったのだろう。

「……薛昭容」

 そのことに気づくと涙がこぼれていた。葛公喩に声をかけられるも、涙は止まりそうにない。

 隠され続けていた桃蓮宮の一件はこれで判明した。顔を伏せ泣き崩れる凌貴妃を、大家が切なげに見つめている。葛公喩は嘉音に耳打ちをした。

「少し、二人にさせよう。話はこれで終わりだから」
「……わかりました」

 二人の間に漂う空気を壊さぬよう、そっと席を立つ。


 部屋を出ると、公喩に手招きをされ、別室に移った。事前にこれを予測していたらしく、宮女に命じて茶器など支度が整っていた。
 嘉音は椅子に腰掛け、息を吐く。気持ちを静めようとするも、まだ涙は止まってはくれなかった。

「どう。真相を知った感想は?」
「……天雷がこれを語らなかったのは、二人の愛を守るためだったのですね……」
「うんうん、涙ぐましい。やはりあの男は優しくいい男すぎる」
「でも私は……天雷に会えないことがとても寂しい、です」

 天雷が死んだことをまだ受け入れたくない。いまもどこかで生きていてほしいと願う。それを思うとまた涙がこぼれ落ちた。徐祥雲の想いや凌貴妃の真意を知ったことは大きいが、天雷がここにいない悲しみの方が大きい。

 沈む嘉音を見かね、公喩が茶を入れた。茶器は宮女が用意してくれている。他国とはいえ皇子に茶を淹れてもらうなど、とんでもないことだ。慌てて立ち上がろうとした嘉音に、公喩が微笑む

「いいよ。疲れている時は甘えるといい。それに僕は、こういうのが得意だから」
「では、お言葉に甘えて……」

 入れてもらったお茶は、香りがあまりしない。茶は綺麗なほど透き通っていて、口をつけてみれば清涼感がある。喉や鼻がすうと、通るような味だ。
 この独特の味は初めてだ。これまでの人生で飲んだことのない茶だ。珍しいものもあるものだと驚いていると、公喩が言った。

「それ、不思議だろう? 風禮国の茶なんだ」
「初めて飲みました。喉に沁みて、涼しくなるというか……」
「そう。次は舌が麻痺し、そして顔全体に広がる」

 彼の言う通り、清涼感は次第に広がっていく。だがおかしなことに、その清涼感は違和感へと変わっていく。喉が別物になったかのように、感覚がない。

 不思議だと手で喉を触れてみるが、手の感覚さえわからなくなっていた。手の方は感覚がある。喉は触られている感じがしない。

「……のど……おかし……こえ、が……」

 咳き込み違和感を確かめたいのだが、麻痺は舌から顔全体に広がってきたため、それさえうまくできない。
 痺れるような感覚は全身に広がり、ついには椅子から落ちていた。体勢を崩し、床に落ちかけたところを公喩に担ぎ上げられる。

「……うん、よかった」
「な、にを……こ、れは……」
「これが魂泉草だよ。量を誤ればわかりやすい臭いやよどみを生じる。たとえば凌貴妃が用意したもののように。けれど適量を守れば、命を落とさず、仮死状態で留めることもできる。九泉(めいど)に渡ったようで、けれど戻ってくることから『魂泉草』と名付けられたのさ」

 つまり――毒だ。葛公喩は嘉音に毒を飲ませたのだ。茶器を用意していたのもこのためだろう。あらかじめ計画されていたのだと知るが、既に体は動かず、かろうじて意識を保っているだけの状態である。

「得意だ、と言っただろう。僕は祥雲よりも毒に詳しいからね。こういったのはお手の物だ」
「な……ぜ……わたし、を」
「そうだね、気になるだろうさ」

 公喩はそう言って、嘉音を抱き上げ直す。嘉音の眼前には、公喩の冷えた笑みだけがうつっていた。

「君はひどく優しい。その優しさによって、今回は助かったとしても、いずれ怨恨渦巻く後宮に殺される。でも僕は――君が気になるんだ」
「……」
「僕は君が好きだよ。どれだけひどい仕打ちを受けても優しさの信条を貫く君に惚れ、天雷から奪ってしまいたいと思った。凌貴妃と似たようなものだ、賭けたんだよ。天雷を失った君がここで茶を飲んでくれたら、連れて行こうと決めていた――この博打に、僕は勝った」

 ここは天雷と共に過ごした華鏡国。彼がいなくなったとしてもこの地を離れることはしたくなかった。
 嘉音はわずかに残っていた力を振り絞り、公喩の手を振り払った。

「おっと。強情だね」

 だが、全身を覆う痺れの方が強く、あっけなく公喩に遮られてしまった。抵抗は虚しく終わってしまったのだ。

「君だって、天雷がいないのならば新しい地の方がいいだろう。大丈夫だ、彼のことなんてすぐに忘れるよ」

 忘れるなどしたくない。できるわけがない。
 しかしこれ以上の抵抗はできず、視界はじわじわと黒くなり、意識が薄れていく。

(天雷、助けて)

 声をあげたいけれど喉は動かず、手も動かせず。救いを求めて思い浮かべたその顔も、すでに死んでいる。
 手詰まりだ、と自覚した。この状況を脱する方法が思い浮かばない。

「薛嘉音。僕と共に、風禮国に行こう」

 その言を契機に、意識がぷつりと途切れた。
 まるで絶望の底に落ちていくように、体が重たく落ちていく。

***

 その頃の大家と凌貴妃である。大家こと徐祥雲はあることを決意していた。

「芳香、これから話すことをよく聞いてほしい」

 部屋から嘉音と葛公喩がいなくなったことには気づいている。だから、二人が揃っていては明かせぬ話に触れることができるのだ。

「私は、天雷にこの身を譲ると決めている」
「な、なぜ!? 宦官ではなく、大家が死ぬということでしょう。どうしてそのようなことを……」
「天雷に詫びたいのだ。あやつは、私の弟――徐髙慧だから」

 その名に、凌貴妃は目を見開いた。死んでいると思われていた髙慧が、なぜ天雷なのか、理解ができなかったのだろう。

「髙慧は……死んだのでは……」
「髙慧は命を狙われていた。病だと伝えているが、実際は毒を盛られたためだ」

 そう言って、大家はうつむく。幼い髙慧に魂泉草の毒を盛り、命を狙った者の心当たりが彼にはあった。

「それを仕掛けたのは私の母だ。帝位を継ぐのが髙慧にならぬよう手を回している」
「どうして、そう言い切れるのです?」
「……見たからだ。母が毒を盛るよう命じたところを」

 徐祥雲と徐髙慧は異母兄弟だ。妃嬪にとって子が皇太子として選ばれるのはこの上ない栄誉である。子を帝位につかせるための争いが行われていたのだ。そこで祥雲の母がとった行動が、髙慧を殺めることだった。
 だが当時の祥雲は幼く、それを知っても止めることはできなかったのだろう。実際にこの計画は行われ、髙慧は毒により生死の境を彷徨っている。

「髙慧は一命を取り留めた。だが再び毒を盛られるとも限らない。そこで死んだことにして宮城の外に逃がしたらしい。芳香が不審な死因だと疑ったのは当然のこと、そもそもあれは死んでいないのだから」
「そ……そんな……」
「当時の者らが画策し、髙慧は天雷と名を変え、薛家にいたようだ。下男として過ごしていたらしい。だがある者のために宦官を志し、宮城へやってきた」
「薛家……ああ、それで薛昭容と天雷が知り合っていたのですね」

 大家は頷き、それを認めた。

 この頃の話は、彼が宦官として宮城にきた後に交わしている。祥雲は内侍省にいた天雷が髙慧に似ていると気づいた。葛公喩の言もあり、彼が髙慧だと知るなり、常に彼をそばにおいた。幼い頃も大層可愛がったが、再会した後も彼を厚遇で迎えたのである。

「あれは随分と苦労してきたようだ。毒によって体を壊し、両親と名を捨てて宮城を出て、下男として働き、好いた者のために『性』を捨てて宦官になり……あげればきりがないほど、ひどい話だな」
「……髙慧は、苦労してきたのですね」
「ああ。だが髙慧は感謝していた。私の代わりに死に、体が入れ替わるとひどい目にあったにも関わらず、好いた者と共にいることができたこの期間が、奇跡だと喜んでいた」

 凌貴妃にも話が見えてきた。
 髙慧こと天雷の好いた者とは薛昭容だ。だから彼は白李宮に通ったのだ。そして薛昭容も天雷のことを好いている。天雷の死に涙したあの表情は、凌貴妃のよく知るものだった。

「私は、髙慧にずっと詫びたかった」

 祥雲が呟く。

「才ならば髙慧の方が優れている。生まれた順、生んだ母が異なるだけだ。よほど髙慧の方が相応しい。なのに私の母によって住処を追われ、名を失い、つらい生を歩んだのだ。私はあやつに、光あたる道を返してやりたい」

 不安げなまなざしを送る凌貴妃に、祥雲が微笑んだ。細く美しい指先を優しく握りしめる。

「私はじゅうぶん、幸せだった。芳香という宝物に触れることができたのだから」
「……大家」
「私のことを愛した故の心中だと知った時は嬉しかったとも。それほどまでに芳香に愛されたのだから悔いはない――ならば髙慧に、この体を贈りたいのだ。そうすればあやつは、身を削ってまで見守ろうとした者と添い遂げられることだろう」

 凌貴妃はうつむき、しばらく考えていた。だが顔をあげた時には迷いが晴れたような、すっきりとした様子だ。

「私は止められません。大家のご意向に従います。私も彼にはひどいことをしましたから、それで贖罪になるのであれば」
「まったくだ。我々は髙慧にひどいことばかりしているな」
「ええ……私も、髙慧の死の謎を解き明かそうとし、取り返しのつかないことをしてしまいました」

 互いに笑い合う。微笑んではいるが、互いにその瞳は潤んでいる。既に覚悟を決め、これから起こる別れを迎えようとしていた。
 他者がいないのを良いことに、二人が抱き合う。最後のわずかな時を噛みしめ、切なげに瞳が揺れている。

「私は芳香に出会えて幸福だった」
「大家。私もでございます」
「天雷と薛昭容の道のりが幸せであることを祈ろう。そして芳香のことも」

 背に回した腕に強く力をこめる。この体は明日になれば別のものになる。徐祥雲としていられるのはいまだけだ。

「けして、忘れなど致しません。あなたをお慕いしておりました」
「ありがとう、芳香。君は私の幸福だった。どうか天雷の今後を、助けてやってほしい」

 祥雲が瞳を伏せる。その後、彼の体が力なく落ち、床に伏した。

 祥雲は、最初から天雷に体を譲るつもりでいたのだろう。だがその前に凌貴妃に別れを告げたかったのかもしれない。
 凌貴妃はじっと、彼の体を眺めていた。本当に別人になれるのか、その疑念が晴れる時を待っていたのである。


 そうして――しばしの刻が立った。

 宮女に命じ、寝台に運んでいた大家の体がぴくりと動いた。ずっとそばで見守っていた凌貴妃はその変化に気づきたじろぐ。

「大家……気がつかれましたか」
「……凌貴妃……どうして、俺は……」

 その口調から察するに天雷だろう。彼はなぜ自分が祥雲の体に戻ってきたのかわからず、手を開いたり閉じたりと動かし、確かめている。

 凌貴妃は天雷が髙慧であることを知っていたが、そのことには触れなかった。これまでつらい人生を送ってきただろう天雷に余計な足枷をつけたくない。永遠に、知らぬふりをするつもりでいる。

 彼に気づかれないよう、小さく息を吐いた。
 潔く別れは告げたものの、祥雲が消えてしまったことへの寂寥が残っている。
 実のところ、髙慧への贖罪はあれど、入れ替わりなど起きずに、祥雲が目覚めればよいと願ってしまった気持ちもある。
 しかし目覚めた彼の口調が天雷であったことから、その期待は霧散した。祥雲とはもう会えないのだと覚悟を決める。まなじりが熱く、視界が滲んだが、それを堪えて、彼に告げた。

「……徐祥雲は体を譲ると言い残し、消えました」
「な……どうしてそんなことを!? 消えるのは俺でよかったのに」

 動揺した姿に、凌貴妃はこっそりと微笑む。
 ここにいるのが髙慧であると考えれば、その成長を嬉しく感じる。
 兄のために毒薬を飲み、好いた者のために宮城に戻る。宮城を追われ不遇の生を歩んだだろうに、彼が持つ信念は凜々しく、誇り高い。

「徐祥雲から言伝を預かっております――『その体はやる。だから幸福を得よ』と」
「……っ、祥雲……!」

 天雷にとっては予想外の展開だった。
 兄を守るために命を捧げ、あの場で死ぬのだと覚悟していたのだ。それがまさか、入れ替わりという奇跡で嘉音と共にいられるなど思ってもいなかった。
 凌貴妃から言伝を受けたといえ、この現状が信じがたく、動揺を隠しきれない。

「どうして……俺なんかを……」
「天雷……いえ、大家」

 凌貴妃は柔らかく微笑んだ後、拱手し、頭を下げた。眼前にいる者が大家だと示すように。

「どうぞ、薛昭容を迎えにいってください。あなたはこれより華鏡国の皇帝、徐祥雲です」

 凌貴妃の表情に後悔は感じられない。天雷が知らぬ間に祥雲と語り、彼らなりの結論に至ったのだろう。

 そうなると思い浮かぶのが嘉音だった。彼女は天雷が死んだと考えているだろう。急ぎこのことを伝えなければ――天雷がこの部屋を出ようと振り返った時である。

「こちらに薛昭容はいらっしゃいますか」

 聞き覚えのある声が扉を叩いた。天雷がすぐさま扉を開く。そこにいたのは白李宮の宮女、慈佳(じけい)だった。慈佳はここに大家がいると想定していなかったようで、すぐさま長揖を取る。その慌てようから、天雷は嫌な予感を抱いていた。

「白李宮の女官だったな。急ぐほど何かあったのか」
「そ、それが……薛昭容がまだ戻られないので……」

 これに天雷は眉根を寄せる。その後ろにいる凌貴妃も首を傾げていた。

「薛昭容と公喩は途中で部屋を出て行ったのよ。だから、白李宮に戻ったのだと思っていたけれど」
「いえ、まだ戻られていません」

 凌貴妃が告げるが、すぐさま慈佳が否定した。どちらにもいないとなると、嘉音はどこへ消えたのか。そこへ桃蓮宮の宮女がやってきて告げた。

「薛昭容でしたら随分前に見かけました。具合が悪くなったからと葛公喩殿が運んでおりました。意識なく、ぐったりとしていましたね」
「おかしいですね。それであればとっくに白李宮に戻ってきているはずが……」
「葛公喩が運んだ……戻ってきていない……まさか!」

 慈佳の言に確信を持つ。嘉音は公喩に連れ去られたのかもしれない。
 その結論に至ったのは天雷だけでなく、凌貴妃もだった。表情を険しくさせた凌貴妃が告げる。

「大家……どうか、薛昭容をお助けください」

 彼女はその場に膝をつき、頭を垂れた。

「現在の大家が『奇跡』によってもたらされたものであることを私は知っています。ならばその奇跡の結末を、私に教えていただきたいのです」

 凌貴妃の手は震えている。慈佳は話がわからないといった様子をしていたが、天雷にはじゅうぶん伝わった。
 祥雲が体を譲り、天雷になった。その奇跡がどのような結末に至るのかを知りたいと彼女は語っているのだ。

「私は不変の愛を手に入れようと心中を試み、このような結果となりました。ですから大家――あなたの奇跡が不変の愛に辿り着くところを見せていただきたいのです」
「……凌貴妃」
「必ず、薛昭容を取り戻しください」

 これに天雷はしっかりと頷いた。そして駆け出す。

 ここで彼女に会えなければ、何のためにこの生を得たというのか。
 急ぎ、葛公喩を追わなければならない。彼が都を出てしまえば追いにくくなってしまう。その前にどうしても彼の元に辿り着かなければならなかった。
 昨今は風禮国(ふうらいこく)との取引が増え、宮城や都で風禮国文化が流行しているのもあり、荷を積んだ馬車はよく行き交っている。
 一台の馬車があった。これは(かつ)公喩(こうゆ)のもので、先帝に依頼し、通行許可を得ている。馬車は宮城を出たところで待っていた。公喩は布でくるんだ大きな荷物を抱え、そこに近づいた。

「公喩殿、これは?」

 馭者(ぎょしゃ)は特別な依頼があると公喩から聞いていたが、それが何であるかを知らなかった。大きなもの、それも布で包んだものと予想外なものが登場し、首を傾げる。

「ああ、気にせず。ただし丁重に扱ってほしいね。中身は人だから」
「ひ、人……!? 公喩殿はいったいなにを持ってきたんです。お願いですから騒ぎになるようなものはやめてくださいね」
「ははっ、大丈夫さ。その時は一緒に首を斬られよう」
「勘弁してください!」

 布で包まれ運ばれたのは(せつ)昭容(しょうよう)こと(せつ)嘉音(かおん)だ。魂泉草を飲ませたので仮死状態に陥っている。
 彼女が警戒して一口しか飲まないことを想定していたので、毒は少し濃いめに抽出した。いずれ目が覚めるだろうが、毒を中和させる蘇生薬を飲ませた方が早く仮死状態を脱する。解脱症状も少ない。もちろん、蘇生薬も用意してある。

 彼女のことが欲しいと気づいたのは緑涼会の時だ。以前から彼女が周囲に向ける優しさは目を見張るものがあった。だがそれが、陰謀渦巻く己の国を変えてくれるかもしれないと考えるように至ったのである。

 天雷と嘉音が互いに想い合っていたことは知っている。特に天雷は不遇の生まれを経て、幸せに触れたのだ。公喩は天雷のことも良き友と思っている。だが、嘉音のことを知るにつれ、天秤は大きく傾いてしまった。奪いたいほどに、嘉音に興味を持ってしまった。

「……この国にいるよりも、僕の国で暮らそう。君もいずれ僕を好きになる」

 馭者が支度をしている間に、公喩は嘉音に触れてそう囁いた。頬に触れると恐ろしいほど冷えている。風禮国に着く前に、宮城から離れたところで蘇生薬を飲ませた方がよいだろう。

「公喩殿、すぐ出発されますか」
「そうだね。余計な者が気づく前に出ようか」
「では乗ってください」

 馬車に乗りこむ前に、振り返り、華鏡国の宮城を見上げる。

 今頃は(じょ)祥雲(しょううん)こと大家(ターチャ)が、(りょう)貴妃(きひ)と睦まじくしているだろう。薛昭容がいなくなったことにも興味を向けないはずだ。

 だからこの計画はうまくいく。馬車が動き、宮城を出て都を走る。都を出る門さえくぐれば――あとは失敗する要因が見つからない。そこまで着けば公喩の勝ちだ。

「それでは出発しますよ」

 公喩が乗りこむと馭者が言った。馬に合図を送りいざ動き――というところで、公喩は確かに、その声を聞いた。

「待て!」

 それは馬に乗り、宮城から駆けてきたらしい。馬車から降りた葛公喩はその姿を確かめ、舌打ちをした。

「大家……ううん、でも祥雲なのか天雷なのかはわからないねえ」

 困った、とばかりに額をぽりぽりとかいて呟く。そう言いながらも公喩の頭で答えは出ていた。
 大家は公喩の前まで来ると、馬を下りた。怒りに目は血走り、息巻いている。

「公喩! なぜこんなことをしたんです!」
「なるほど。これは予想外だね、天雷がここにくるとは――となればあれか。祥雲が体を譲ったのだろう。天雷と薛昭容が幸せになるよう粋なことをしたわけだ」

 すぐさま状況を判断し、公喩が呟く。それは当たっていたのだが、天雷は答えなかった。
 天雷の視線は馬車に向けられる。馭者がひとり、そして中には布で包まれた大きな荷。それが嘉音かもしれないと察した。

「あの荷を検めます」
「おやおや、それは拒否したいところだ。大事な荷物だからね、君に渡すわけにはいかない」

 ぎらりと、天雷が睨みつける。その手は腰に佩いた剣に伸びていた。

「……嘉音様をどこへ連れて行く」

 嘉音を連れていったのが公喩だと確信を持っている。となればあの荷は、薛嘉音に違いない。ねじ伏せるような殺気を纏い、公喩に問う。

 公喩は珍しく、その表情を険しくさせていた。飄々とし、笑顔を絶やさないような彼が、鋭く瞳を細めて大家を睨み返している。その眼力にこめられた威圧感はさすが風禮国の皇子と言わんばかりだ。

「どこへって、聞かずともわかるだろうさ。風禮国だよ。彼女が愛した天雷は死んだのだから、僕が連れて行ってもいいだろう」
「それは嘉音様も承知してのことか?」
「どうだろ。あとで聞いてみるよ」

 嘉音が連れ去られたことは、天雷も既にわかっている。あの後、桃蓮宮の宮女が公喩に命じられて茶器を用意したと明かしていた。残っていた茶器を調べれば、独特のにおいがあった。嫌なほど覚えている、魂泉草のにおいだ。つまり嘉音は、公喩に毒を盛られたのだ。

「それで、君は何をしにきたの? 僕の見送り?」
「ふざけるな! 俺は嘉音様を連れ戻しにきた」
「やめなよ。せっかく天雷は死んだと思いこんでいるんだから、再会なんてしてもらったら僕が困る」

 茶化したように公喩が言うので、余計に苛立った。話し合ったところで平行線だ。天雷は華鏡剣を引き抜き、構える。

「……それでも連れて行くというのなら、斬っても構わない」
「風禮国の皇子を手に掛けたら大問題になるよ。いいの?」
「祥雲にこの国と体を託された。いまは俺が大家だ。だから――愛した人を守り抜く力がある」

 地面を蹴り、公喩の元へと駆け寄る。天雷が動いたので、公喩も剣を引き抜き構えた。

 互いの剣がかみ合い、きん、と耳障りな音が響く。天雷は渾身の力を込めて剣を振り下ろしたが、公喩はそれを剣で受け止めてしまった。力の押し合いとなっても埒が明かないので、天雷は一歩後ろにさがり、剣を構え直す。

「天雷! 君はこの国に、薛嘉音を置いて良いと思うのか?」

 公喩も剣を構え直し、そう聞いた。それに答える前に天雷が飛びこんでくる。

「この華鏡国やこの後宮は悲しみが満ちている。それは君が一番知っているはずだろう。そこに薛嘉音を置いて守れるのか」
「守れるとも。俺はその力を託された。だから守ってみせる」

 剣を打ち合いながら、言葉を交わす。
 切っ先が掠め、頬に血が流れた。それでも天雷は拭わず、剣を握りしめたまま。

「僕も薛嘉音を好きだと言ったら、どうする」
「――っ、それは、」

 そこで一瞬、天雷の気迫が緩んだ。おそらく、公喩が嘉音を好いていると想定していなかったのだろう。驚きに、瞳が揺れていた。

 だが我を取り戻し、一歩踏みこむ。剣をなぎ払うと、公喩の裳を割いた。

「……それでも渡しません」
「へえ?」
「嘉音様は俺のものです。相手が公喩だろうと、絶対に譲れません。俺が一番、嘉音様を愛している。この世の誰にも負けない」

 再び天雷が剣を振るう。公喩もその動きを見極めていた。剣の刃でそれを受ける――が、受け流すことはできず、天雷の力に押され負けた。

 公喩の手から離れた剣が地面に落ちる。視線だけを動かして、それを確かめた後、公喩は両手をあげた。

「まいったよ」

 これ以上は敵わない、という意味を込めて手をあげる。

「昔は、君に剣技で負けたことはなかったのにね」
「……俺も、勝てると思っていませんでした。頭を使うことは得意でも、こういったことはあまり好きではないので」

 にたりと笑みを浮かべ、天雷が馬車に向かう。公喩はすっかり戦意喪失し、諦めていた。地面に落ちた剣を拾い上げるが、それを向ける気はない。

「これが祥雲のままだったなら、僕は薛昭容を連れ去ることができたのだろうね」
「どうでしょう。公喩が思っているよりも嘉音様は強いお方です。きっと風禮国から逃げ出していたことでしょうね」
「だろうなあ。華鏡国よりも風禮国の方がひどいから」

 けたけたと笑い、公喩は懐から包みを取り出した。それを天雷に向けて放り投げる。

「蘇生薬だよ。早く飲ませてあげた方がいい」

 それを受け取り、天雷は公喩を見る。まだ彼は公喩を睨みつけていた。

「俺は嘉音様ほど優しくない。だから公喩を許すことはありません。ですが――」

 剣を受けた時にわかったことがあった。

 公喩は賭けていたのだろう。祥雲がその体のままであれば、本気で風禮国に連れて行くつもりだった。けれど祥雲が天雷に体を譲ったのなら、天雷に返すつもりでいたのだろう。

 幼い頃の記憶だが、公喩は剣技に秀でている。薬学の知識だけでなく、風禮国の伝統である剣舞を心得ていたからだ。本気の公喩ならばおそらく敵わなかっただろう。

「……天雷。今度はその奇跡を、手放さないようにね」

 公喩は切なげに微笑み、そう言った。天雷は深く頷いた後、馬車に乗りこむ。布をとるとやはり眠った薛嘉音がいた。安堵の息をつき、その頬に触れる。死人のように冷えてはいるが、ゆっくりだが脈がある。蘇生薬を飲ませれば目を醒ますだろう。

「嘉音様……迎えにきましたよ」

 本当は、消える直前にひどく悔やんだ。
 これで最後だと何度も告げていたくせ、嘉音と共にいればいるほど離れがたくなる。得てしまった幸福の味を、いまさら手放すことができなかった。

 もう一度、嘉音に会いたくてたまらなかった。
 もう一度、奇跡が起きてほしいと願ってしまった。

 天雷は嘉音を抱え、馬に乗る。急ぎ、白李宮へと向かった。

***

 あの日の、薛家の庭だ。眼前にあるは空と、黄櫨(こうろ)の木。
 後宮から出ていないのだから薛家にいるわけがない。そして季も違う。肌を刺す空気は冬の季が来る前の、葉が色づく美しい頃だ。
 薛嘉音が一歩踏み出す。だが足音はしない。屋敷はあるが人の声がしない。そこは不思議な空間だった。
 空を見上げれば黄櫨の木が映り込む。久しぶりの動作に懐かしさを感じていると、屋敷の方から人がやってきた。その姿を視界に捉え、嘉音は息を呑む。

(あれは……私?)

 そこにいるのはもう一人の嘉音だった。だが二年前の嘉音である。屋敷から駆けてきた過去の嘉音は泣きそうな顔をしていた。黄櫨の木に手をかけ、荒い呼吸を整えている。
 過去の嘉音は、現在の嘉音に気づいていない。すぐ近くにいるというのに、こちらを気にしている様子がなかった。

(これは私の夢、なのかしら。昔の、私たちの関係が動き出す前の……)

 夢だと思えば納得する。この景色、この日をよく覚えているからだ。薛家の娘を後宮に送るという計画を知ってしまった日。この後に天雷がやってきて、そのことを話すのだ。
 翌日には天雷がいなくなってしまうため、この日が二人にとって最後の平穏だった。翌日から離ればなれになり、二年後に再会するも悲痛な別れが待っている。

 それを知っている嘉音は唇を噛みしめた。幸福という池のふちに立たされているような心地だ。まもなく足を滑らせ、悲しい定めに身を投じていくのだから。
 じいと過去の嘉音を眺めていると、彼女は黄櫨の木に額をかけ、呟いた。

「……どうしたら、結ばれるのかしら」

 そのひとりごとは、天雷と結ばれる術を探してのことだろう。だが見つからない。逃げ出す提案さえ、この時の嘉音には出来なかったのだから。

「奇跡でも起きない限り、きっと結ばれないのよ」

 過去の嘉音が、深くため息をついた。涙を隠すように、目元をこする。弱々しく震えた声がもう一度、呟く。

「恋など存在せず。思慕など成らず。諦めて生きるしかない。この世は悲しいものだから」

 それは母が残した言葉だ。今の嘉音も、時折思い返す。
 つらい生涯であった母が、何度もそれを語り、黄櫨(こうろ)を見上げていた。好いた人がいたとしてもきっと叶わなかったのだろう。諦めるしかなかったのかもしれない。

(……この日の、黄櫨は赤く美しかった)

 燃えるように赤い黄櫨の葉。終わりを迎える前の赤はひときわ美しく、心に残る。まもなく枯れてしまうから覚えていてもらうために美しい色を纏うのだろう。
 恋も似ている。美しく燃えても、終わりがくる。
 母がこの場所を好む理由がよくわかる。

(でも私は……諦めたくない)

 けれど、諦念に空を見上げるだけで終わりになどしたくない。それならば空を見上げず、ずっと彼の姿を探し続ける。
 そう誓って、視線を戻す。遠くの方から足音が聞こえてきた。おそらく天雷だ。嘉音を探してここにやってくるのだろう。

 若き頃の天雷の姿を確かめようと振り返り――しかしそれはできなかった。地に足がついているはずが、水の中にいるように揺れている。体が上手く動かせない。
 もやがかかるように、視界が白んでいく。

(天雷……)

 夢の中でさえ、彼の姿を見ることは叶わなかった。

***

「……様」

 声が聞こえた。その声に引きずられるように、意識が少しずつ解けていく。
 それが天雷の声であるような気がした。けれど天雷は死んでいる。期待したところでもう、遅いのだ。

「嘉音様……どうか、目を醒ましてください」

 もう一度、鼓膜を揺らす。声は大家のものだが、その口調は馴染みのあるもの。

 ついに確かめたい気持ちになり、重たいまぶたをこじ開ける。瞳を開けば部屋の眩しさに目が眩み、そしてこちらを覗きこむ大家がいた。

「あれ、私は……」

 意識が戻ると、少し遅れて記憶が鮮明になっていく。意識を失う直前、公喩と共にいたはずだ。彼が不穏な言を残していた。共に風禮国に行こうと話していたはずである。

 だがこの部屋は見覚えがある、白李宮のものだ。大家がいて、その奥には慈佳や白李宮の宮女も揃っている。

「これは……どういうこと」

 嘉音が問うと、目を醒ましたことに宮女らが喜んでいた。慈佳もこちらに駆け寄り、嘉音の目覚めを確かめている。

「ああ、よかった……薛昭容が目を醒ましました」
「私、桃蓮宮にいたはずよね。どうして白李宮に戻ってきたのかしら」
「薛昭容がなかなか戻られないので探しにでたのですよ。すると桃蓮宮にいた大家が話を聞きつけ、薛昭容を連れて戻ってきてくださったのです」

 それに嘉音は首を傾げた。おそらく公喩がいたはずだ。だがその名前はついに出てくることがなく、慈佳は喜びに顔を綻ばせている。

「さあ、他の者にも伝えてまいります! 私たちはこれで失礼しますね」

 慈佳が言うと他の宮女らも部屋を出て行く。扉が閉まっても歓喜の声が廊下から聞こえていた。
 その声が鎮まってようやく、大家が口を開く。この部屋には大家と嘉音の二人しか残っていなかった。

「大家、その……助けていただき……」

 相手は大家、徐祥雲だ。助けていただいたことを礼を伝えるため、身を起こし、拱手する。

 だがそれは遮られた。拱手するつもりが、うまくできない。飛びこんでくるように、大家に抱きしめられたからだ。

「嘉音様、目覚められて本当によかった」

 大家は確かに、そう言った。その口調は祥雲ではない。となれば思い当たる人物はひとり――その名前を思い浮かべると、同時に唱えていた。

「天雷。あなた、天雷なの?」
「はい。祥雲の体ではありますが、俺は天雷です」
「ど、どうして……だってあなたの魂は消えて、祥雲殿の魂に戻ったのでは……」
「兄に託されました。この国と体、ふたつのものを託し、消えていったのです」

 わずかな時間ではあったが、嘉音は祥雲とも接することができた。その際、天雷に戻るなどは言っていなかった。予想外の出来事である。

「祥雲様が消えてしまったのなら……凌貴妃はきっと……」

 嘉音は呆然としていた。この再会は嬉しいが、それによって傷つく者もいる。
 ここは後宮であり、帝にはたくさんの妃嬪がいる。寵愛が永遠に続くとは限らない。そんな大家を深く愛してしまったが故に、凌貴妃は心中を企てたのだろう。
 祥雲が天雷に体を譲ったとなれば、凌貴妃の悲しみはいかほどだろう。嘉音は天雷が消えた後の苦しみを知っている。あれと同じものを、いま噛みしめているのだと思えば、哀れに思えてしまった。

「私ね、天雷が隠していた日の話を聞いたの。祥雲様と共に桃蓮宮へ行って、入れ替わりが起きた日に何があったのかを知ったわ」

 天雷はうつむき、嘉音の言を聞き入っている。

「天雷が明かしてくれなかった理由、わかる気がしたの。あなたは二人を守ろうとしたのね」
「……はい。俺が喋ってしまえば凌貴妃の立場が危うくなる。そうなればこの体が祥雲に戻った時、祥雲が悲しむと思いました」

 もしも天雷がその日に何があったのかを語っていれば、凌貴妃は大家を陥れたとして捕らえられていただろう。大家に毒を飲ませるなど大罪だ。処刑されていたっておかしくはない。そうなれば祥雲がこの体に戻った時、愛する者が死んでいることに絶望しただろう。

「母は違えど、俺にとっての祥雲は良くしてくれた大事な兄です。宦官になって戻ってきたというのに昔と変わらず可愛がってくれるぐらいに」
「……だから、大家をかばって毒を飲んだのね」
「はい。それに凌貴妃にも恩がありました。あの方も、宮城にいた頃の俺を、弟のように可愛がってくださったので」

 天雷にとって、祥雲と凌貴妃は二人とも大切な存在だったのだ。咄嗟に庇った理由がわかる。そして、この件について嘉音に明かせなかったことも。

「……凌貴妃はどうしているかしら」

 嘉音はそれが心配だった。凶行にでることはもうないだろうが、彼女にとって大切な存在である祥雲を欠いたのである。
 沈痛な面持ちの嘉音に対し、天雷は暗い表情をしていなかった。

「凌貴妃の胸中はわかりません。ですが、俺は彼女に託されました」
「何を託されたの?」
「奇跡が不変の愛に至る所を見せてほしい、と」

 凌貴妃が手に入れようとした不変の愛。変わらないもの。
 それを凌貴妃は得ることができなかったが、その代わり天雷に託したのだろう。天雷と嘉音が、不変なる愛に至ってほしいと。

「でも驚きましたよ」

 天雷がため息をつく。

「この体で目覚めても、嘉音様はいなくなっていたのですよ。公喩に連れ去られるところだったんです」
「あ……そういえば、私は毒を飲まされたはず……でもいまは体が動くわ」
「魂泉草の対となる蘇生薬を飲ませました。だから毒は中和されています」
「では天雷が私を助けてくれたのね。本当にありがとう」

 天雷が来てくれなければ今頃風禮国に連れて行かれたのだろう。もしも天雷が来なかったらと想像し、身震いがした。

 葛公喩を嫌っているわけではない。良い人だと思っている。しかし風禮国へ連れて行かれることはいやだった。この華鏡国は嘉音にとって大切な場所だ。天雷と出会い、想いを通じた場所である。捨てるなどできるわけがない。

 天雷は意地悪く微笑み、嘉音の頬を撫でた。

「いくら公喩といえ男ですからね、このようなことになっては困るので、隙を見せてはいけません」
「ごめんなさい……まさか毒を盛るなんて思っていなかったの」
「そうでしょうね。ですから今後は警戒してください。嘉音様のように美しい方ならば、いつ攫われてもおかしくありません」
「それは言い過ぎよ」
「とにかく。嘉音様をお助けするのは大変でしたよ。剣まで握って公喩と競い合ったんです――この意味が、わかりますか」

 問われるも、その意味するところがわからず、嘉音は首を傾げた。その反応を見やり、天雷の細い指先が嘉音の唇を撫でる。

「そのように可愛い仕草をしてもだめですよ。ご褒美をください」
「ご、ご褒美って……再会したばかりなのに」
「再び会えたからですよ。生きて戻ってきたのだと、嘉音様に教えていただかなくてはなりませんから」

 つまり口づけをしろと強請っているのだ。その意味に気づくと、嘉音の顔がみるみる朱に染まる。視線を合わせていられず、嘉音はうつむいた。

「……では、目を瞑ってちょうだい」
「ええ。わかりました」

 天雷が瞳を伏せたのを確かめてから、顔を寄せる。唇を重ねる瞬間、嘉音も瞳を伏せた。
 柔らかな唇。祥雲の体であっても、ここにいるのが天雷だと思うだけで心が歓喜に震える。すれ違う立場を乗り越えられた奇跡だ。どのような体であったとしても天雷がいるだけでいいと思うほど、この男を好いてしまった。離れたくないと願うほど、愛してしまった。

 重ねた唇が離れていく。おそるおそる瞳を開けば、にっこりと微笑む天雷と目が合った。

「目を瞑ってと言ったのに」
「直前までは瞑っていましたよ。嘉音様があまりにも可愛らしいので確かめてしまいたくなりました」
「天雷は意地悪ね」

 けれど唇に残る熱は、互いが生きていることを示している。奇跡が、叶っている。
 天雷はもう一度、嘉音を強く抱きしめた。嘉音もそれに答え、彼の胸に顔を埋める。

「これからはどうするの? 天雷が大家になるの?」
「そうですね。二度目の奇跡を得たがために、この国を背負うことになりそうです。これは大変ですね」
「なら堂々と会えるのね。やはり薛昭容が寵妃だと噂されてしまうわ」
「良いと思います」

 天雷がくすりと笑った。

「嘉音様を寵妃にできるなんて最上の幸福です。あなたに不変の愛を捧げましょう」

 言葉を交わし、もう一度見つめ合う。次の口づけはどちらともなく行われ、瞳を伏せることはもう、なかった。

 窓の外からは、苑にある高木の葉がちらちらと見えている。風に揺らされたその葉は色あせず生き生きと輝く緑色をした黄櫨だ。
 その葉が朱に染まっても、二人の胸に抱く恋が色あせることはない。二度目の奇跡は一瞬で消えず、長く続くことを示している。



 その後。華鏡国の帝である徐祥雲は、雷帝と名を改め広く知られるようになる。彼は民や人を思う善良な帝であり、望まずに妃嬪になった娘や若き頃を宮城に捧げる宮女らを多く解放した。そのため彼の後宮は過去に比べれば規模が小さかったものの、どの妃嬪らも幸福を噛みしめていたという。

 雷帝は一途に、一人の妃を想い続け、どんな時も隣に置いた。
 寵妃の名は――薛嘉音。
 二人の間に、二度の奇跡が起きていたことはわずかな人しか知らない。

<了>

作品を評価しよう!

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:128

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

偽りの男装少女が、凍龍国の聖夜を作る

総文字数/5,674

後宮ファンタジー1ページ

本棚に入れる
表紙を見る
どうしようもなく惹かれていた

総文字数/9,989

青春・恋愛1ページ

本棚に入れる
表紙を見る
学校で繋がる 9つの恋短編集

総文字数/120,789

青春・恋愛9ページ

本棚に入れる
表紙を見る

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア