1990年2月頭、フランス首都、パリ。
日付が変わった頃に男がアパルトマン(アパート)を出た。

中肉中背、フランスの成人男性に比べると
やや小柄に見えるシルエット。
黒色のパーカーのフードを深く被り、
その上には革ジャケットを羽織る。
両手を突っ込み、やや猫背で周囲を見回して歩く。

この男がイタリアから越してきて1ヶ月が経った。

地中海性気候のイタリアに比べると当然寒いが、
夏場は短く涼しく、なにより不快な湿気がないのが
パリの特長だ、と男は周囲の仲間に述べていた。

パリには男の仲間が多い。
半島に比べ、異邦(いほう)人でも商売がしやすい。
マフィア(ウォップ)どもに売り上げを奪われる心配もない。
イタリアはヨーロッパの虫垂(ちゅうすい)だ。

男はイタリアを発つ前に、
ハワイで商売をしないかと誘われたが、
半島よりも暑すぎる気候の関係で断っている。

なによりパリには不法移民が多い。

フランスでは近年アフリカ移民が増加し、
黒色人種の姿が目立つようになった。
排他(はいた)的な国民性は相変わらずだ。

男は遠く東の果ての島国から来た東洋人だった。

10年ほど前まではこのパリに住んでいたので、
土地勘もあり欧州の言語や文化にも精通している。
近年はとみに東洋人の観光も増えて景気がよい。

パリは歪な円形の都市になっている。
その東西には(こぶ)のように取り付いた森がある。
セーヌ川が街全体を横切るかたちで流れ、
街の中央にはノートルダム大聖堂のあるシテ島。
それとマリー・アントワネットを収容した、
コンシェルジュリー監獄(かんごく)がある。

ちなみに百年戦争時代、
イングランド領だった1390年、
記録上パリ議会で最初の魔女を裁いたのは
グラン・シャトレと呼ばれる要塞の裁判所で、
コンシェルジュリー監獄の右岸にあり
いまはシャトレ広場という噴水公園になっている。

1429年、イングランドからオルレアンを
解放したことで知られるジャンヌ・ダルクは、
パリから西に離れたセーヌ川の川下、ルーアンで
前述の魔女同様に生きたまま火炙りにされた。

こうしたムダ知識は観光客の知識欲を満たし、
相手の警戒心を解くのに役立つ。

パリの街の中心からほど近い西側の8区は
特に国外からの観光客が多い。

世界中で有名なブランド店が立ち並び、
3つの通りに囲まれた三角地帯は
トリアングル・ドール(ゴールデン・トライアングル)とも呼ばれる。

通りのひとつ、街の中心から西へと伸びる
シャンゼリゼ大通りにはエトワール凱旋(がいせん)門がある。

あのナポレオン・ボナパルトが建造させ、
あのシャルル・ド・ゴールが凱旋(がいせん)パレードを開いた
あの凱旋(がいせん)門がいまでは国のシンボルになっている。

それらを目当てにする観光客は、
近くのお高いホテルに泊まる。
近くのついでにエッフェル塔にも登れる。

ホテルの宿泊費は5,000フラン|(約12.5万円)を
超えるが近辺では珍しくはない。
これでも安い方だ。

(ふところ)(つつ)ましいバックパッカーたちは
決まって離れた街の北側、18区に泊まる。

それでも1泊400フラン|(約1万円)ほど。
男の住むアパルトマン(アパート)も北の18区に位置する。

18区に目ぼしいものがない、というわけでもない。

18区の南側、標高130メートルにもなる
モンマルトルと呼ばれる丘には寺院があり、
パリ市内を一望する景色が楽しめ
常に観光客で賑わっている。

(ふもと)には有名なキャバレー
『ムーラン・ルージュ』があり、
歓楽街が多く夜も賑やかである。

ただしこれは18区の南側での話だ。

この北側はというと、目ぼしいものはなにもない。

強いて述べるとすれば、モンマルトルの丘から
北へと伸びる長い長い坂道と、
狭い狭い一方通行道路に敷き詰められた
路上駐車の列とドミノ列になるスクーター。

それから有色人種の移民たちと、
落書きに近いグラフィティが目立つ。

去年、ベルリンの壁崩壊が
世界中のテレビに取り上げられると、
その壁に描かれたグラフィティをマネて、
白色の建物があちこちキャンパスにされた。

18区は至るところにグラフィティが盛んに行われ、
黒人がレイシズム(人種主義)に対しメッセージを残した。
『白色』の景観は『黒色』で台無しになった。

それとは別に道路標識にも落書きされ
機能しないでは困るので、
侵食する有色人種たちに脅かされた
パリの街の治安も問題視されている。

それでも世界では冷戦がようやく終結し、
アパルトヘイト撤廃の流れが起きはじめ、
色分けされない時代が訪れようとしていた。

とはいえ有色人種である東洋人の男は、
10年前からここでの生活に不便を感じてはいない。
むしろ便利になったとさえ感じている。

フランスでは電話回線を情報端末に繋ぐ
ビデオテックス(VTX)のミニテルが普及した。

ホテルやチケットの予約がミニテルで容易に行え、
通信料金と共に街のキオスクで手軽に支払える。

その裏では出会い系、アダルトサイトでも
利用され、新しい犯罪の隠れ(みの)になった。

犯罪率が高いほど、
男にとって仕事はしやすい。
パリは絶好の土地だった。

口内に溜まった唾液(だえき)を飲み込む。
男の身体が、(のど)(かわ)きを訴えている。

街角に立つ客引きの娼婦が手招きをするが、
同業のシノギが多く足がつきやすい。

線路を越えた東側の19区や20区には
労働者系移民が多く暮らしている。

東端の20区では今年から治安維持が強化され、
移民狩りも行われているとウワサ話を耳にする。

しかし男の狙いは常にバックパッカーであり、
高いリスクを犯してまで足を運ぶ気にもならない。

公園のベンチに腰掛けて、
渇きを誤魔化そうと男は貧乏ゆすりを繰り返した。

飢渇(きかつ)(ともな)苛立(いらだ)ちがピークを迎えたころ、
異様な赤が視界に入った。

酔っぱらってフラフラと歩く黒髪の、
美味そうな女の後ろ姿だった。

その頃には理性が吹っ飛んでいたのか、
背後から忍び寄って首筋を噛み付いた。

長く伸びた犬歯が牙となり皮膚を穿(うが)ち、
(くちびる)(したた)る血を一気に吸い上げる。

男の特殊な唾液(だえき)が女の痛覚を麻痺させ、
また過剰(かじょう)な出血を抑える効果があった。

わずかな血でも身体が満たされるのを感じる。

こうして他人から血を吸う度に、
自分がヴァンパイア(吸血鬼)であることを自覚する。

それから男は女の身体を見下ろした。

ムームーと呼ばれる南国の民族衣装、
赤色のワンピースを着た有色人種の女。

寒い冬のパリに、こんな寒々しい格好をした女が
深夜に出歩くはずもない。

鼻を突く粘りついた異臭に気づいて、
舌にまとわりつく血の違和感に男は牙を抜いた。

血のあまりの不快さにえずくよりも先に、
突然まばゆい照明が男に浴びせられた。

真っ白な防護服に身を包んだ集団が銃口向けると、
男は驚き硬直し、無抵抗のまま暴動制圧用の
固いシールドで勢いよく地面に押し倒された。

防護服の集団は、無言で男の両手両足を
背中側に回して結束バンドを使って縛る。

牙を剥いた口には鉄の棒をねじ込み、
すぐ外せないよう顎と頭に革ベルトで固定する。

それから男に麻袋を被せて視界を奪い、
乱雑に車へ投げ込んだ。

暗闇のなかで少しでも声を漏らしたり
身動きひとつ取ろうものなら固い棒で殴られ、
男を乗せた車は長時間移動を続けた。

男は考える。

警察か、対立するグループによるものか、
美人局(つつもたせ)による単なる拉致(らち)とも考えられた。

しかしあまりにも手際がよく、
異様な状況にどれも納得いく仮説にはならない。
そしてあのハワイ女はなんだったのか。

車はひたすら左回りに移動していて、
移動時間も現在地もまったく検討がつかない。

長時間の拘束(こうそく)我慢(がまん)ならずに車内で粗相(そそう)したが、
無言のまま棒で殴られるだけで済んだ。

着いた先では鉄のイスに両手足を縛り付けられ、
腕に針が差し込まれたので男は(うめ)いたが、
針が抜かれるとまた警棒で頭を殴られた。

やがて麻袋と猿ぐつわを解かれ、
なにもない大部屋に男ひとりが取り残された。

天井近くには横長に狭いガラス窓があるが、
カーテンがされていて様子は分からない。
出入口は分厚い鉄扉(てっぴ)のひとつだけ。

待たされる間に2度目の排尿(はいにょう)をした。
冷めきって凍結寸前だったジーンズが
一瞬だけ溶けて暖かくなった。
尿の臭いが鼻を刺激する。

あのハワイ女が脳裏(のうり)をよぎるが、
彼女は別のもっと不快な臭いだった。