菜野花畑星乃の美術手帖

「……小鳥遊と赤坂は、俺の秘密を誰にも話さないと約束して、事実、それを守ってくれていた。そのまま何事もなく時が過ぎるはずだった。だが、小鳥遊は持病が悪化して、そのうち学校を休みがちになった。彼が完全に姿を見せなくなってから暫くして、俺は彼が病気で亡くなった事や、肖像画の顔が黒く塗り潰されていた事を知った。彼はそうまでして約束を守ったんだ……だが、それよりも俺は彼に生きていて欲しかった。最期まで俺のくだらない自尊心なんかに縛られた彼が可哀想だ」

 足元に目を落としながら話す先生は、どこか苦しそうに見えた。星乃は思わずといった様子で声を上げる。

「たとえ絵だとしても、自分の顔を塗り潰すなんて、すごく勇気のいる行為だと思います。私だったらできないかも……でも、小鳥遊先輩はそれをしました。先生のために。先生が小鳥遊先輩を弟同様に思っていたように、小鳥遊先輩もまた、先生の事を兄のように思っていたんじゃないでしょうか」

 病に侵されながらも、大切な人のために力を振り絞って、肖像画から自分の顔だけを塗り潰す少年。その姿を想像すると胸が痛い。

「だとしても、結局それも無駄になってしまった。小鳥遊がそうまでして隠してくれようとした事に、君達は簡単に気づいてしまった……そろそろ潮時かもしれないな」

 その言葉に引っ掛かりを覚え、俺は口を挟む。

「潮時って、どういう意味ですか……?」

「……もう、絵を描く事をやめようと思う。美術教師という職も。ただ、俺の相貌失認については黙っていてもらえないか? 小鳥遊のためにも」

 その言葉を聞いた赤坂は目を見開く。

 星乃も慌てたように手を振る。

「ど、どうしてやめるなんて……この件なら、私達、誰にも話しません。絶対秘密にします。だから――」

 俺もまた反射的にその言葉に頷く。